マイソウル   作:わっさーふぉー

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第七話 雑誌一冊

「明十。ちょっと来て」

 

その呼び方をされた時点で、九割は面倒事だった。残りの一割は、もっと面倒な事だ。

 

日曜の午前十時。こたつに足を突っ込んで漫画を読んでいた明十は、聞こえなかったふりをして次のページをめくる。

 

「明十」

 

「聞こえてない」

 

「返事してるじゃない」

 

姉が居間の入口に立っている。制服ではなく部屋着で、髪も結んでいない。休日の真波は外面を使う相手がいないぶん、遠慮というものが消える。

 

「駅前の本屋に行って、これ買ってきて」

 

差し出されたのは、破って畳んだ広告の切れ端だった。雑誌の名前と、発売日が丸で囲んである。

 

「自分で行けよ」

 

「寒い」

 

「俺も寒い」

 

「あんた身体強化できるでしょ」

 

「そういう用途じゃねぇんだよ」

 

真波が明十の頭の上に手を置いて、そのまま体重をかけてきた。首が沈む。

 

「いだだだだ」

 

「行く?」

 

「行きます」

 

「よろしい」

 

こたつから引きずり出される。理不尽だが、抵抗した場合の消耗の方が大きいことを、十一年の経験が教えていた。

 

      ◇

 

上着を羽織って玄関へ向かう途中、居間のテレビの前で足が止まった。

 

母と亜美が並んで座っている。二人とも画面に釘付けだった。

 

「あら明十くん。おでかけ?」

 

「姉貴のパシリ」

 

「あらあら。気をつけてね」

 

母は一切こちらを見ずに言った。視線はテレビに固定されている。

 

画面に映っているのはパリコレの中継だった。会場の規模が、テレビ越しでも異常だと分かる。両脇を埋めた客席の全部にカメラがあり、フラッシュが途切れない。

 

その中央を、白いドレスの女性が歩いている。

 

長い金髪。背が高い。歩き方が、なんというか、普通の人間の歩き方ではない。一歩ごとにフラッシュの密度が変わる。会場全体の視線が、この一人に紐で繋がれているように動いていた。

 

「天ノ川ステラよ」

 

「知ってる。母さんが好きなやつでしょ」

 

「好きなやつ、じゃなくて。憧れの人」

 

「同じじゃね?」

 

「全然違います」

 

母がようやくこちらを向いた。真顔だった。母がこの顔をするのは、料理を否定された時と、この人の話をする時だけだ。

 

「パリ、ミラノ、ニューヨーク。どこに出ても名前が通るの。日本人でそこまで行った人は、そんなにいないのよ」

 

「長いことやってんの?」

 

「ずっとよ。この世界は毎年新しい子が出てくるのに、あの人はずっとあの場所にいるの」

 

そこまで言われると、さすがに手が止まった。

 

明十の世界にも、名前が出た時点で場の組み方が変わる人間はいる。多くはない。数えるほどだ。

 

りょーさんが立会人だと知った時の練次の顔を、なんとなく思い出した。

 

母の声が、少しだけ低くなった。

 

「お母さんがまだ若い頃に、雑誌で初めてこの人を見たの。日本人があの真ん中を歩いてるのを見た、最初の年」

 

「へえ」

 

「その時に思ったのよ。ああ、世界って行けるんだって」

 

「行ったの?」

 

「行かなかったわ」

 

あっさりしたものだった。

 

「行かなかったけど、行けるって思えたのが良かったの。あれで随分いろんなことが怖くなくなったから」

 

「へえ、じゃなくて」

 

「たぶんすごいんだろうね」

 

「たぶん、じゃなくて」

 

亜美が振り向いて、明十のズボンの裾を引っ張った。

 

「おにーちゃん、この人きれい」

 

「そうだな」

 

「亜美も大きくなったらああなる」

 

「なれるといいな」

 

「なる」

 

断言だった。この子は昔から自分の未来を疑わない。

 

母がリモコンを握りしめている。画面の中で、金髪の女性がターンして、また歩き出す。照明の下で布が揺れる。確かに綺麗だとは思うが、明十にとっては遠い世界の話だった。

 

自分が普段見ているものとは、あまりに違う。

 

「じゃ行ってくる」

 

「はぁい。転ばないようにね」

 

母は既にテレビに戻っていた。

 

      ◇

 

外は寒かった。

 

先日の雪が日陰にだけ残っている。溶けて凍って、また溶けて、灰色になった塊が塀の際に貼りついていた。息が白い。訓練所の地下より、外の空気の方がよほど冷たい。

 

駅前の本屋まで徒歩十五分。

 

着いて、雑誌の棚を端から端まで見て、二周した。

 

ない。

 

店員に聞くと、それは今朝入荷して開店一時間で消えたと言われた。うちみたいな小さい店だと配本が少ないんですよ、と申し訳なさそうに付け加えられる。

 

「そんな売れる雑誌なんすか」

 

「今日はこれ目当てのお客さんが朝から並んでましたから。天ノ川ステラの特集号だそうで」

 

並ぶ。雑誌に。

 

なるほど、と思った。母がテレビの前から動かないわけだ。

 

そして同時に、嫌な予感がした。

 

——姉貴、これ自分で読むために頼んだか?

 

明十は広告の切れ端をもう一度見た。丸で囲まれた発売日。その下に、小さく折り目がついている。誰かが一度畳んで、また開いた跡だった。

 

      ◇

 

二軒目は商店街の外れにある古い店だった。店主が老眼鏡を上げて棚を指差し、そこにあるだけ、と言う。ない。

 

三軒目はコンビニ。そもそも取り扱いがない。レジの店員に「そういうのは本屋さんですね」と当たり前のことを言われて出てくる。

 

四軒目まで歩く途中で、靴の中に水が入った。

 

歩道の端に残った雪を踏んだせいだ。溶けかけの雪は、上から見ると乾いた地面と区別がつかない。足首から下がじわりと冷たくなる。身体強化を薄く流せば感覚は殺せるが、それは魂の無駄遣いだと指導員に散々言われてきた。

 

四軒目。棚の前で店員が首を横に振る。

 

そのかわり、隣町の大型書店なら在庫があるかもしれないと教えてくれた。電車で二駅。

 

明十は駅の券売機の前で財布の中身を確認した。往復の運賃と雑誌代を足すと、姉から渡された金では足りない。

 

自宅は歩いて十五分。取りに帰ればいい。

 

考えるより先に、指が切符のボタンを押していた。

 

      ◇

 

隣町の書店は、確かに大きかった。

 

雑誌のコーナーだけで棚が十列ある。目当ての一冊は、平積みの山の中程に残っていた。表紙は、テレビで見たのと同じ女性。こちらは白いドレスではなく、黒いコートを着て振り返っている。

 

一冊手に取る。

 

パラパラとめくってみた。写真ばかりだ。仕事が年代順に並んでいる。年代が飛んでも、載っている場所の格が一度も落ちていない。

 

若い頃の顔と今の顔が同じ見開きにあって、その間にそれなりの年月があるはずなのに、目つきだけが全く変わっていない。

 

——化け物だな。

 

素直にそう思った。この人が何を積み上げてきたのかは知らない。ただ、ずっとこの位置に居続けられる人間が普通でないことは分かる。落ちる理由なら、きっと何度もあったはずだ。

 

少し考えて、もう一冊取った。

 

会計を済ませて外に出ると、日が傾き始めていた。

 

「開けゴマ」

 

空間が裂ける。雑誌を二冊とも放り込む。折れないように、丁寧に。

 

帰りの電車の中は、日曜の夕方にしては空いていた。

 

明十は座席に沈み込んで、窓に映った自分の顔を見る。

 

雑誌を買いに行くのに電車に乗って、四軒回って、自腹を切っている。ゼロの一人がやることではない。壇の上で「呼ばれたら行きます」と言ったのは、たぶんこういう話ではなかった。

 

まあ、呼ばれたことには違いない。

 

靴下はまだ濡れている。足の指が冷たい。明十は靴の中で指を握り、開き、また握る。

 

窓の外を、冬の街が流れていった。

 

      ◇

 

玄関を開けると、廊下まで出汁の匂いがしていた。

 

「ただいま」

 

「おかえりー。遅かったわね」

 

「まあいろいろ」

 

居間へ入る。姉がこたつに入って、さっき明十が読んでいた漫画を勝手に読んでいた。

 

「遅い」

 

「四軒回ったんだけど」

 

「四軒?」

 

「売り切れてたの。隣町まで行った」

 

姉の手から漫画が落ちた。

 

「電車?」

 

「二駅」

 

「……お金は」

 

「足りなかったから出した」

 

明十は右手を振った。

 

「開けゴマ」

 

裂け目に手を突っ込んで、雑誌を一冊引っ張り出す。折れも曲がりもしていない。それをこたつの天板に置く。

 

姉が雑誌を見る。明十を見る。また雑誌に目を落とす。

 

「へー、電車乗ったんだ」

 

それだけだった。ねぎらいも驚きもない。当然の結果を受け取っただけという顔で、雑誌を引ったくるように取って、立ち上がる。

 

「あ、そうだ」

 

「なに」

 

「来週も何か頼むかもしれないから、暇にしといて」

 

「は?」

 

「暇にしといてって言ったの」

 

台所へ歩いていく。

 

「母さん」

 

母が振り向く。

 

「はい買ってきた」

 

雑誌が差し出される。母の目が、皿を洗う手を止めたまま、ゆっくり見開いていった。

 

「え。え、これどうしたの」

 

「買ってきたって言ってるでしょ」

 

「今朝の新聞広告見て、いいなあって言っただけなのに」

 

「言ったから買ってきたの」

 

母が手を拭いて、両手で雑誌を受け取った。表紙を見る。裏を見る。また表紙を見る。それから急に顔を上げて、姉を抱きしめた。

 

「わ、ちょっと」

 

「ありがとう波ちゃん! お母さん嬉しい!」

 

「濡れてる濡れてる、手が濡れてる」

 

明十はこたつから、その様子を眺めていた。

 

亜美がとことこ寄ってきて、隣にすとんと座る。

 

「おねえちゃんえらいね」

 

「そうだな」

 

「おにーちゃんは?」

 

「俺は漫画読んでた」

 

「ふーん」

 

亜美はそれで納得したらしく、こたつに潜り込んでいった。

 

台所では、母が雑誌を開いたまま姉に何か喋り続けている。姉は「うん」「へえ」「そうなんだ」を順番に返している。外面用の相槌だが、逃げようとはしていない。

 

明十はこたつの天板に頬をつけて、その光景を横から眺めた。

 

もう一冊は、収納の中に入れたままにしてある。母がこれを一日で読み終えるのは目に見えていて、そうなったら二冊目を出すつもりだった。

 

出すタイミングは、まだ決めていない。

 

      ◇

 

夕食の後、皿を運んでいると、母が明十の足元を見た。

 

「明十くん、靴下」

 

「え」

 

「濡れてるでしょう。さっきから足跡がついてるのよ」

 

言われて初めて気づいた。溶けかけの雪を何度も踏んだせいで、靴の中まで染みていたらしい。廊下に薄い足跡が点々と続いている。

 

「あー、うん。ちょっと歩いたから」

 

「ちょっと?」

 

母がじっとこちらを見た。おっとりした人だが、鈍い人ではない。この人は料理と洗濯物と家族の靴下から、大抵のことを推測する。

 

「……お風呂、先に入りなさい」

 

それだけ言って、母は台所へ戻っていく。

 

追及はされなかった。

 

      ◇

 

風呂から上がると、こたつの上にプリンが置いてあった。

 

二つ。

 

隣で姉が雑誌を読んでいる。母が読み終わって回ってきたらしい。ページをめくりながら、顔は上げない。

 

「食べていいの」

 

「置いてあるでしょ」

 

「二つとも?」

 

「一つはわたしの」

 

「じゃあなんで二つ出てんの」

 

「うるさい」

 

明十はスプーンを取って、片方の蓋を開けた。

 

姉は雑誌をめくり続けている。ステラのインタビューのページで手が止まったのが、横目で見えた。

 

「……この人、何年トップにいんのよ」

 

「頭おかしいだろその年数」

 

「言い方」

 

「褒めてる」

 

「わかってる」

 

そのまま、しばらく無言でページをめくる音だけがした。

 

明十はプリンを食べ終え、空の容器を天板に置く。もう一つには手をつけない。

 

「明十」

 

「んー」

 

「電車賃、いくら」

 

「二駅分と、雑誌代の残り」

 

「ふうん」

 

姉は雑誌に視線を戻した。それ以上、何も言わない。

 

「……で?」

 

「なにが」

 

「返さないの、それ」

 

「なんで返す必要あるの。あんたが勝手に電車乗っただけでしょ」

 

「頼んだのお前だろ」

 

「本屋で買ってきてって頼んだの。電車乗れとは言ってない。それはあんたの判断」

 

理屈になっていなかった。なっていなかったが、反論する気力の方が先に尽きた。

 

「はいはい」

 

「はい、は一回」

 

こたつの上で、もう一つのプリンが手つかずのまま残っている。

 

姉はそれを、自分の分として最後まで食べきった。

 

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