「明十。ちょっと来て」
その呼び方をされた時点で、九割は面倒事だった。残りの一割は、もっと面倒な事だ。
日曜の午前十時。こたつに足を突っ込んで漫画を読んでいた明十は、聞こえなかったふりをして次のページをめくる。
「明十」
「聞こえてない」
「返事してるじゃない」
姉が居間の入口に立っている。制服ではなく部屋着で、髪も結んでいない。休日の真波は外面を使う相手がいないぶん、遠慮というものが消える。
「駅前の本屋に行って、これ買ってきて」
差し出されたのは、破って畳んだ広告の切れ端だった。雑誌の名前と、発売日が丸で囲んである。
「自分で行けよ」
「寒い」
「俺も寒い」
「あんた身体強化できるでしょ」
「そういう用途じゃねぇんだよ」
真波が明十の頭の上に手を置いて、そのまま体重をかけてきた。首が沈む。
「いだだだだ」
「行く?」
「行きます」
「よろしい」
こたつから引きずり出される。理不尽だが、抵抗した場合の消耗の方が大きいことを、十一年の経験が教えていた。
◇
上着を羽織って玄関へ向かう途中、居間のテレビの前で足が止まった。
母と亜美が並んで座っている。二人とも画面に釘付けだった。
「あら明十くん。おでかけ?」
「姉貴のパシリ」
「あらあら。気をつけてね」
母は一切こちらを見ずに言った。視線はテレビに固定されている。
画面に映っているのはパリコレの中継だった。会場の規模が、テレビ越しでも異常だと分かる。両脇を埋めた客席の全部にカメラがあり、フラッシュが途切れない。
その中央を、白いドレスの女性が歩いている。
長い金髪。背が高い。歩き方が、なんというか、普通の人間の歩き方ではない。一歩ごとにフラッシュの密度が変わる。会場全体の視線が、この一人に紐で繋がれているように動いていた。
「天ノ川ステラよ」
「知ってる。母さんが好きなやつでしょ」
「好きなやつ、じゃなくて。憧れの人」
「同じじゃね?」
「全然違います」
母がようやくこちらを向いた。真顔だった。母がこの顔をするのは、料理を否定された時と、この人の話をする時だけだ。
「パリ、ミラノ、ニューヨーク。どこに出ても名前が通るの。日本人でそこまで行った人は、そんなにいないのよ」
「長いことやってんの?」
「ずっとよ。この世界は毎年新しい子が出てくるのに、あの人はずっとあの場所にいるの」
そこまで言われると、さすがに手が止まった。
明十の世界にも、名前が出た時点で場の組み方が変わる人間はいる。多くはない。数えるほどだ。
りょーさんが立会人だと知った時の練次の顔を、なんとなく思い出した。
母の声が、少しだけ低くなった。
「お母さんがまだ若い頃に、雑誌で初めてこの人を見たの。日本人があの真ん中を歩いてるのを見た、最初の年」
「へえ」
「その時に思ったのよ。ああ、世界って行けるんだって」
「行ったの?」
「行かなかったわ」
あっさりしたものだった。
「行かなかったけど、行けるって思えたのが良かったの。あれで随分いろんなことが怖くなくなったから」
「へえ、じゃなくて」
「たぶんすごいんだろうね」
「たぶん、じゃなくて」
亜美が振り向いて、明十のズボンの裾を引っ張った。
「おにーちゃん、この人きれい」
「そうだな」
「亜美も大きくなったらああなる」
「なれるといいな」
「なる」
断言だった。この子は昔から自分の未来を疑わない。
母がリモコンを握りしめている。画面の中で、金髪の女性がターンして、また歩き出す。照明の下で布が揺れる。確かに綺麗だとは思うが、明十にとっては遠い世界の話だった。
自分が普段見ているものとは、あまりに違う。
「じゃ行ってくる」
「はぁい。転ばないようにね」
母は既にテレビに戻っていた。
◇
外は寒かった。
先日の雪が日陰にだけ残っている。溶けて凍って、また溶けて、灰色になった塊が塀の際に貼りついていた。息が白い。訓練所の地下より、外の空気の方がよほど冷たい。
駅前の本屋まで徒歩十五分。
着いて、雑誌の棚を端から端まで見て、二周した。
ない。
店員に聞くと、それは今朝入荷して開店一時間で消えたと言われた。うちみたいな小さい店だと配本が少ないんですよ、と申し訳なさそうに付け加えられる。
「そんな売れる雑誌なんすか」
「今日はこれ目当てのお客さんが朝から並んでましたから。天ノ川ステラの特集号だそうで」
並ぶ。雑誌に。
なるほど、と思った。母がテレビの前から動かないわけだ。
そして同時に、嫌な予感がした。
——姉貴、これ自分で読むために頼んだか?
明十は広告の切れ端をもう一度見た。丸で囲まれた発売日。その下に、小さく折り目がついている。誰かが一度畳んで、また開いた跡だった。
◇
二軒目は商店街の外れにある古い店だった。店主が老眼鏡を上げて棚を指差し、そこにあるだけ、と言う。ない。
三軒目はコンビニ。そもそも取り扱いがない。レジの店員に「そういうのは本屋さんですね」と当たり前のことを言われて出てくる。
四軒目まで歩く途中で、靴の中に水が入った。
歩道の端に残った雪を踏んだせいだ。溶けかけの雪は、上から見ると乾いた地面と区別がつかない。足首から下がじわりと冷たくなる。身体強化を薄く流せば感覚は殺せるが、それは魂の無駄遣いだと指導員に散々言われてきた。
四軒目。棚の前で店員が首を横に振る。
そのかわり、隣町の大型書店なら在庫があるかもしれないと教えてくれた。電車で二駅。
明十は駅の券売機の前で財布の中身を確認した。往復の運賃と雑誌代を足すと、姉から渡された金では足りない。
自宅は歩いて十五分。取りに帰ればいい。
考えるより先に、指が切符のボタンを押していた。
◇
隣町の書店は、確かに大きかった。
雑誌のコーナーだけで棚が十列ある。目当ての一冊は、平積みの山の中程に残っていた。表紙は、テレビで見たのと同じ女性。こちらは白いドレスではなく、黒いコートを着て振り返っている。
一冊手に取る。
パラパラとめくってみた。写真ばかりだ。仕事が年代順に並んでいる。年代が飛んでも、載っている場所の格が一度も落ちていない。
若い頃の顔と今の顔が同じ見開きにあって、その間にそれなりの年月があるはずなのに、目つきだけが全く変わっていない。
——化け物だな。
素直にそう思った。この人が何を積み上げてきたのかは知らない。ただ、ずっとこの位置に居続けられる人間が普通でないことは分かる。落ちる理由なら、きっと何度もあったはずだ。
少し考えて、もう一冊取った。
会計を済ませて外に出ると、日が傾き始めていた。
「開けゴマ」
空間が裂ける。雑誌を二冊とも放り込む。折れないように、丁寧に。
帰りの電車の中は、日曜の夕方にしては空いていた。
明十は座席に沈み込んで、窓に映った自分の顔を見る。
雑誌を買いに行くのに電車に乗って、四軒回って、自腹を切っている。ゼロの一人がやることではない。壇の上で「呼ばれたら行きます」と言ったのは、たぶんこういう話ではなかった。
まあ、呼ばれたことには違いない。
靴下はまだ濡れている。足の指が冷たい。明十は靴の中で指を握り、開き、また握る。
窓の外を、冬の街が流れていった。
◇
玄関を開けると、廊下まで出汁の匂いがしていた。
「ただいま」
「おかえりー。遅かったわね」
「まあいろいろ」
居間へ入る。姉がこたつに入って、さっき明十が読んでいた漫画を勝手に読んでいた。
「遅い」
「四軒回ったんだけど」
「四軒?」
「売り切れてたの。隣町まで行った」
姉の手から漫画が落ちた。
「電車?」
「二駅」
「……お金は」
「足りなかったから出した」
明十は右手を振った。
「開けゴマ」
裂け目に手を突っ込んで、雑誌を一冊引っ張り出す。折れも曲がりもしていない。それをこたつの天板に置く。
姉が雑誌を見る。明十を見る。また雑誌に目を落とす。
「へー、電車乗ったんだ」
それだけだった。ねぎらいも驚きもない。当然の結果を受け取っただけという顔で、雑誌を引ったくるように取って、立ち上がる。
「あ、そうだ」
「なに」
「来週も何か頼むかもしれないから、暇にしといて」
「は?」
「暇にしといてって言ったの」
台所へ歩いていく。
「母さん」
母が振り向く。
「はい買ってきた」
雑誌が差し出される。母の目が、皿を洗う手を止めたまま、ゆっくり見開いていった。
「え。え、これどうしたの」
「買ってきたって言ってるでしょ」
「今朝の新聞広告見て、いいなあって言っただけなのに」
「言ったから買ってきたの」
母が手を拭いて、両手で雑誌を受け取った。表紙を見る。裏を見る。また表紙を見る。それから急に顔を上げて、姉を抱きしめた。
「わ、ちょっと」
「ありがとう波ちゃん! お母さん嬉しい!」
「濡れてる濡れてる、手が濡れてる」
明十はこたつから、その様子を眺めていた。
亜美がとことこ寄ってきて、隣にすとんと座る。
「おねえちゃんえらいね」
「そうだな」
「おにーちゃんは?」
「俺は漫画読んでた」
「ふーん」
亜美はそれで納得したらしく、こたつに潜り込んでいった。
台所では、母が雑誌を開いたまま姉に何か喋り続けている。姉は「うん」「へえ」「そうなんだ」を順番に返している。外面用の相槌だが、逃げようとはしていない。
明十はこたつの天板に頬をつけて、その光景を横から眺めた。
もう一冊は、収納の中に入れたままにしてある。母がこれを一日で読み終えるのは目に見えていて、そうなったら二冊目を出すつもりだった。
出すタイミングは、まだ決めていない。
◇
夕食の後、皿を運んでいると、母が明十の足元を見た。
「明十くん、靴下」
「え」
「濡れてるでしょう。さっきから足跡がついてるのよ」
言われて初めて気づいた。溶けかけの雪を何度も踏んだせいで、靴の中まで染みていたらしい。廊下に薄い足跡が点々と続いている。
「あー、うん。ちょっと歩いたから」
「ちょっと?」
母がじっとこちらを見た。おっとりした人だが、鈍い人ではない。この人は料理と洗濯物と家族の靴下から、大抵のことを推測する。
「……お風呂、先に入りなさい」
それだけ言って、母は台所へ戻っていく。
追及はされなかった。
◇
風呂から上がると、こたつの上にプリンが置いてあった。
二つ。
隣で姉が雑誌を読んでいる。母が読み終わって回ってきたらしい。ページをめくりながら、顔は上げない。
「食べていいの」
「置いてあるでしょ」
「二つとも?」
「一つはわたしの」
「じゃあなんで二つ出てんの」
「うるさい」
明十はスプーンを取って、片方の蓋を開けた。
姉は雑誌をめくり続けている。ステラのインタビューのページで手が止まったのが、横目で見えた。
「……この人、何年トップにいんのよ」
「頭おかしいだろその年数」
「言い方」
「褒めてる」
「わかってる」
そのまま、しばらく無言でページをめくる音だけがした。
明十はプリンを食べ終え、空の容器を天板に置く。もう一つには手をつけない。
「明十」
「んー」
「電車賃、いくら」
「二駅分と、雑誌代の残り」
「ふうん」
姉は雑誌に視線を戻した。それ以上、何も言わない。
「……で?」
「なにが」
「返さないの、それ」
「なんで返す必要あるの。あんたが勝手に電車乗っただけでしょ」
「頼んだのお前だろ」
「本屋で買ってきてって頼んだの。電車乗れとは言ってない。それはあんたの判断」
理屈になっていなかった。なっていなかったが、反論する気力の方が先に尽きた。
「はいはい」
「はい、は一回」
こたつの上で、もう一つのプリンが手つかずのまま残っている。
姉はそれを、自分の分として最後まで食べきった。