「……あの。明十くん」
「なんすか」
「……本当に、来る必要、あった……?」
車の後部座席で、霊前詠時が身を縮めている。長い前髪の奥から、こちらを窺うような視線が一瞬だけ来て、すぐ膝の上へ落ちた。
明十は隣で足を組んでいる。
「あるっしょ。勉強っす」
「……勉強」
「詠時さんの詠唱を間近で見たいんすよ。何回やっても真似できねぇから」
「……真似する……ようなものじゃ……ないんだけど……」
「出た。すぐそれ」
助手席の隠蔽班の職員が、書類を後ろへ回してくる。明十が受け取って、目を通した。
反応数、四十七。うち一つの数値だけが、他と桁が違う。
レベルファースト。
書類の欄外に、担当者の手書きで一行だけ書き足されていた。前回発生は昨年九月、と。
「四ヶ月ぶりっすね」
「……うん」
「珍しいっしょ、ファースト」
「……珍しい、よ」
詠時さんが大杖を抱え直す。両手で抱えて、膝の間に立てて、その天辺を見上げている。会話が終わったのか、単に続ける気力が尽きたのか、判別がつかない。
窓の外を、雪の残った山道が流れていく。
◇
現場は、廃校になった小学校だった。
山を二つ越えた先の集落。人が住まなくなって十数年、校舎だけが残されている。窓ガラスは大半が割れ、体育館の屋根は片側が落ちていた。
人が消えた土地には、負の感情が澱む。閉じた学校、閉じた病院、取り壊し前の団地。KCSの出動記録を眺めると、行き先の傾向はいつも似たようなものだった。
誰も来なくなった場所ほど、悪魂は育つ。
車を降りると、空気がぬるい。
「……あー、これ結構溜まってんな」
明十は上着の襟を緩めた。一月の山中で、汗が浮きそうなくらいの温度差がある。悪魂の密度が高い場所ほど、魂が擦れて熱を持つ。
グラウンドに、それはいた。
四十六体。
不定形の塊が、雪の残るグラウンドを埋めている。這うもの、垂れるもの、崩れながら移動するもの。フォースとサードの混成。個々は取るに足らないが、四十六という数字は現場の人間からすれば充分に面倒な数だった。
その中心。
校舎の側、鉄棒の並びの向こうに、それは寝そべっていた。
大型の獣。
体長は車一台分を超えている。姿は虎に近い。黒い毛並みが、光を吸って輪郭を曖昧にしている。太い前肢。長い尾。伏せているだけで、周囲の雑魚が半径十歩以内に近寄れずにいる。
レベルファースト。
セカンドから上は姿が整い、強度が上がるほど美しくなる。この個体は、その法則の中でもかなり上の方にいた。伏せた姿勢のまま、白い目だけがこちらを見ている。
明十の指が、無意識に十刀の柄へ伸びた。
伸びて、止まる。
隣で、詠時さんが一歩前へ出ていた。
◇
大杖の石突が、雪を踏む。
それだけの動作で、この人の輪郭が変わる。背中が伸びたわけではない。声が大きくなったわけでもない。ただ、周囲の空気の重心が、この痩せた男の方へ寄っていく。
口が動き始めた。
聞こえない。
いつも通り、何を言っているのか一音も拾えない。ボソボソと、独り言のような速度で唇だけが動いている。傍から見れば、寒さに震えて何か呟いているようにしか見えない。
明十は目を凝らす。
——速い。
魂の練り上げが、詞の進行に完全に追随している。練りながら唱えるのではない。練ることと唱えることが、最初から一つの動作になっている。
明十が一年かけて真似しようとして、一度も届かなかった領域。
詞が閉じた。
【ジ・インフェルノ】
地面が、割れた。
正確には割れる前に燃えている。グラウンドの土が内側から赤熱し、亀裂が走り、その亀裂という亀裂から炎が噴き上がる。
一箇所ではない。
四十六体それぞれの真下から、同時に。
火柱の高さは校舎の三階を超えた。噴き上がった炎が上空で傘のように広がり、傘同士が重なって一枚の天井になる。グラウンド全域が、下から蓋をされた火の器に変わる。
熱波が来る。
明十は反射的に半歩下がった。二十歩以上離れた場所で頬の皮膚が痛い。眉が焦げる感触がある。身体強化を薄く回して、ようやく立っていられる。
——範囲、絞ってないのかこの人。
いや、絞っている。
炎の縁がグラウンドの白線のところで綺麗に止まっている。校舎に一片の火の粉も飛んでいない。この規模の火力を出しながら、燃やす場所と燃やさない場所を線一本で分けている。
火柱が消えた。
一秒。
四十六体は、どこにもいない。塵さえ残っていない。焼け跡だけが黒く円を描いてグラウンドに残されている。
明十は口を開けたまま、それを見ていた。手にした十刀は、まだ鞘から一寸も出ていない。
自分が同じことをやろうとしたら、と考える。
雷神で潰せる。潰せるが、四十六体を同時には無理だ。分けて撃つ。走る。斬る。撃つ。たぶん一分では効かない。
一発。
こっちは一発だ。
◇
焼け跡の中心で、黒い影が起き上がる。
虎が、立っていた。
全身から煙が上がっている。毛並みの半分が炭化し、輪郭がところどころ削げている。それでも立っている。四十六体を跡形もなく消した炎の直上にいて、まだ息をしている。
——耐えたのかよ。
さすがにファーストは違う、と明十は思う。思いながら、体が半歩だけ前へ出ていた。
出た足が、途中で止まる。
詠時さんの唇が、まだ動いている。
止まっていない。ジ・インフェルノの詞が閉じたあの瞬間から、この人は一度も口を閉じていない。
虎が跳んだ。
炭化した脚が焼け土を蹴る。二十歩を一息で潰す跳躍。前肢の爪が詠時さんの頭上から降ってくる。この人の身体強化はカスだ。掠っただけで終わる。
詞が閉じた。
【ラスト・グレイシア】
地面から、氷が生えた。
伸びるのではない。生えた瞬間にはもう天井近くまで届いている。焼けて乾いた土に残った水分を根こそぎ吸い上げ、一本の巨大な槍として突き上がる。
貫いた。
宙にいた虎の腹から背へ、氷の穂先が抜けている。串刺しになった巨体が地上五メートルの高さで止まる。
音がしない。
悲鳴も、骨の砕ける音も、落下音もない。あまりに速すぎて、獣は自分が死んだことに気づく時間すら与えられていない。
黒い体が氷槍に刺さったまま塵になっていく。上から順に崩れ、風に流れ、消えていく。
残ったのは、焼け跡の真ん中に一本だけ立つ氷の柱。
それが冬の日射しを受けて白く光っている。
明十は、まだ十刀を抜いていない。
◇
「……えっと」
詠時さんが振り返った。前髪から水が滴っている。
「……終わった……けど……」
「一回に見えた」
「……え」
「今の。二発撃ったっしょ。俺、一発にしか見えなかったんすけど」
詠時さんが目を伏せた。
「……二発、です……」
「知ってる。頭では分かってる。分かってるけど、火が消えた時にはもう氷が生えてたんだよ。間がねぇの」
「……間は、ある、と思う……」
「ねぇんだって」
明十は指を二本立てて、それをくっつけた。
「五秒」
「……え」
明十は自分の腕時計を見せた。詠時さんが覗き込んで、それから困ったように視線を落とす。
「……そんなに、かかりました……?」
「かかったって言った? 今」
「……いや……あの……そういう意味じゃ……」
「かかったって言ったよな」
明十は詠時さんの顔を指差した。
「四十七体だぞ。ファースト混みで。それを五秒で終わらせといて、かかったって」
「……インフェルノで、仕留めきれなかったので……あれは、失敗です……」
「失敗じゃねぇよ! ファースト級が耐えただけだろ!」
「……耐えられる前提で、組むべきでした……」
本気で言っている。
明十は口を閉じた。この人は謙遜しているのではない。五秒を長いと本気で思っていて、その上で自分の手際を反省している。
戦っている間、この人は一度も表情を変えていない。声も張らなかった。最初から最後までボソボソと呟いていただけで、それで四十七体が消えた。
——化け物だな。
心の中で呟いて、そのまま飲み込む。
◇
隠蔽班の車が入ってくるまで、少し時間があった。
明十は校舎の壁に背を預けて、口の中で詞を転がしてみる。雷神の詠唱。自分のもので一番短いやつ。
「燃ゆる雷鳴の——」
早く。もっと早く。
「もゆるらいめのてんをさくせんこう」
舌が縺れた。
魂の練り上げが詞に追いつかない。速く唱えれば練りが薄くなり、しっかり練れば口が遅れる。二つが分離する。
詠時さんのそれは、分離していなかった。
「……あの」
隣に立たれていたことに、今気づいた。
「……それ……口を速くしても……たぶん意味なくて……」
「え」
「……僕は口が速いんじゃなくて……その……なんて言うか……」
詠時さんが言葉を探している。前髪を掻き上げて、また下ろして、大杖の柄を握り直す。
「……先に全部……決めてるんです」
「決めてる」
「……詞を唱え始める前に……どこに何を出すか全部。だから唱えてる間は口を動かすだけで……考えることが何もない……から……」
明十は壁から背を離した。
「それ、詠唱始める前に組み立て終わってるってことっすか」
「……うん」
「四十七体分を?」
「……いや……それは……歩きながら……」
車から降りてグラウンドを見て、一歩前へ出るまで。
あの数秒で、四十六体の立ち位置と、火柱を出す場所と、校舎を燃やさない境界線と、その後に氷を生やす一点を、全部決め終えていた。
だから二発目に迷いがない。虎が耐えることも、跳ぶ距離も、想定の内側だ。
「……あの。明十くん」
「なんすか」
「……インフェルノ……範囲を絞ってました。気づきました……?」
「白線んとこで止まってたやつ?」
詠時さんが顔を上げる。前髪の隙間から、目が丸くなっているのが見えた。
「……気づいて、たんですね……」
「あんだけ派手なのに校舎が無傷だったら気づくって」
「……あれが、一番、難しいところで……」
「でしょうね」
威力を出すより、出した威力を線一本で止める方が難しい。それは剣でも同じだった。振り抜くより、途中で止める方がずっと難しい。
明十はグラウンドの方を見た。焼け跡の真ん中に、氷の柱がまだ立っている。
火で焼いた土の上に、氷が刺さっている。普通なら片方が片方を殺す。同じ人間が五秒の間に両方出したから、こんな景色になる。
「詠時さん」
「……はい」
「あの氷、溶けるまでどんくらいかかります?」
「……夕方には……」
「置いてってくれません?」
「……え?」
「隠蔽班に説明させんの、ちょっと面白そうだから」
「……やめて、ください……」
明十は笑って、空を見上げた。雲が薄くなって、山の稜線が見え始めている。
「……無理じゃね?」
「……無理じゃない……と思う」
小さい声だった。いつもの通り、聞き取りにくい声。
それでも、今回ははっきり聞こえた。
「……明十くんは剣を振りながら……身体強化して……魂も練って……詞も唱えて……四つ同時にやってる。僕は動きながら唱えるので精一杯だから……」
前髪の奥で、目が一度だけこちらを向いた。
「……土俵が違うんです。僕より難しいことを……してる」
「……」
「……だから……いつかできるようになると思う。たぶん」
そこまで言って、詠時さんは急に口を閉じた。
顔が赤くなっている。
「……あ、いや……すみません。喋りすぎました……」
「いや」
「……忘れてください……」
「忘れねぇよ」
詠時さんが固まった。
明十は十刀を担ぎ直して、グラウンドの方へ歩き出す。泥と氷の混ざった地面が、靴の下でぐしゃりと鳴った。
「詠時さん」
「……はい」
「今度、詠唱の組み立て方教えてください」
返事はなかった。
振り返ると、詠時さんは大杖を抱えたまま、口を半分開けて立っている。それから、こくこくと二回頷く。
聞こえないくらいの声で、何か言った。
今回も、聞き取れなかった。