マイソウル   作:わっさーふぉー

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第八話 聞こえない詞

「……あの。明十くん」

 

「なんすか」

 

「……本当に、来る必要、あった……?」

 

車の後部座席で、霊前詠時が身を縮めている。長い前髪の奥から、こちらを窺うような視線が一瞬だけ来て、すぐ膝の上へ落ちた。

 

明十は隣で足を組んでいる。

 

「あるっしょ。勉強っす」

 

「……勉強」

 

「詠時さんの詠唱を間近で見たいんすよ。何回やっても真似できねぇから」

 

「……真似する……ようなものじゃ……ないんだけど……」

 

「出た。すぐそれ」

 

助手席の隠蔽班の職員が、書類を後ろへ回してくる。明十が受け取って、目を通した。

 

反応数、四十七。うち一つの数値だけが、他と桁が違う。

 

レベルファースト。

 

書類の欄外に、担当者の手書きで一行だけ書き足されていた。前回発生は昨年九月、と。

 

「四ヶ月ぶりっすね」

 

「……うん」

 

「珍しいっしょ、ファースト」

 

「……珍しい、よ」

 

詠時さんが大杖を抱え直す。両手で抱えて、膝の間に立てて、その天辺を見上げている。会話が終わったのか、単に続ける気力が尽きたのか、判別がつかない。

 

窓の外を、雪の残った山道が流れていく。

 

      ◇

 

現場は、廃校になった小学校だった。

 

山を二つ越えた先の集落。人が住まなくなって十数年、校舎だけが残されている。窓ガラスは大半が割れ、体育館の屋根は片側が落ちていた。

 

人が消えた土地には、負の感情が澱む。閉じた学校、閉じた病院、取り壊し前の団地。KCSの出動記録を眺めると、行き先の傾向はいつも似たようなものだった。

 

誰も来なくなった場所ほど、悪魂は育つ。

 

車を降りると、空気がぬるい。

 

「……あー、これ結構溜まってんな」

 

明十は上着の襟を緩めた。一月の山中で、汗が浮きそうなくらいの温度差がある。悪魂の密度が高い場所ほど、魂が擦れて熱を持つ。

 

グラウンドに、それはいた。

 

四十六体。

 

不定形の塊が、雪の残るグラウンドを埋めている。這うもの、垂れるもの、崩れながら移動するもの。フォースとサードの混成。個々は取るに足らないが、四十六という数字は現場の人間からすれば充分に面倒な数だった。

 

その中心。

 

校舎の側、鉄棒の並びの向こうに、それは寝そべっていた。

 

大型の獣。

 

体長は車一台分を超えている。姿は虎に近い。黒い毛並みが、光を吸って輪郭を曖昧にしている。太い前肢。長い尾。伏せているだけで、周囲の雑魚が半径十歩以内に近寄れずにいる。

 

レベルファースト。

 

セカンドから上は姿が整い、強度が上がるほど美しくなる。この個体は、その法則の中でもかなり上の方にいた。伏せた姿勢のまま、白い目だけがこちらを見ている。

 

明十の指が、無意識に十刀の柄へ伸びた。

 

伸びて、止まる。

 

隣で、詠時さんが一歩前へ出ていた。

 

      ◇

 

大杖の石突が、雪を踏む。

 

それだけの動作で、この人の輪郭が変わる。背中が伸びたわけではない。声が大きくなったわけでもない。ただ、周囲の空気の重心が、この痩せた男の方へ寄っていく。

 

口が動き始めた。

 

聞こえない。

 

いつも通り、何を言っているのか一音も拾えない。ボソボソと、独り言のような速度で唇だけが動いている。傍から見れば、寒さに震えて何か呟いているようにしか見えない。

 

明十は目を凝らす。

 

——速い。

 

魂の練り上げが、詞の進行に完全に追随している。練りながら唱えるのではない。練ることと唱えることが、最初から一つの動作になっている。

 

明十が一年かけて真似しようとして、一度も届かなかった領域。

 

詞が閉じた。

 

【ジ・インフェルノ】

 

地面が、割れた。

 

正確には割れる前に燃えている。グラウンドの土が内側から赤熱し、亀裂が走り、その亀裂という亀裂から炎が噴き上がる。

 

一箇所ではない。

 

四十六体それぞれの真下から、同時に。

 

火柱の高さは校舎の三階を超えた。噴き上がった炎が上空で傘のように広がり、傘同士が重なって一枚の天井になる。グラウンド全域が、下から蓋をされた火の器に変わる。

 

熱波が来る。

 

明十は反射的に半歩下がった。二十歩以上離れた場所で頬の皮膚が痛い。眉が焦げる感触がある。身体強化を薄く回して、ようやく立っていられる。

 

——範囲、絞ってないのかこの人。

 

いや、絞っている。

 

炎の縁がグラウンドの白線のところで綺麗に止まっている。校舎に一片の火の粉も飛んでいない。この規模の火力を出しながら、燃やす場所と燃やさない場所を線一本で分けている。

 

火柱が消えた。

 

一秒。

 

四十六体は、どこにもいない。塵さえ残っていない。焼け跡だけが黒く円を描いてグラウンドに残されている。

 

明十は口を開けたまま、それを見ていた。手にした十刀は、まだ鞘から一寸も出ていない。

 

自分が同じことをやろうとしたら、と考える。

 

雷神で潰せる。潰せるが、四十六体を同時には無理だ。分けて撃つ。走る。斬る。撃つ。たぶん一分では効かない。

 

一発。

 

こっちは一発だ。

 

      ◇

 

焼け跡の中心で、黒い影が起き上がる。

 

虎が、立っていた。

 

全身から煙が上がっている。毛並みの半分が炭化し、輪郭がところどころ削げている。それでも立っている。四十六体を跡形もなく消した炎の直上にいて、まだ息をしている。

 

——耐えたのかよ。

 

さすがにファーストは違う、と明十は思う。思いながら、体が半歩だけ前へ出ていた。

 

出た足が、途中で止まる。

 

詠時さんの唇が、まだ動いている。

 

止まっていない。ジ・インフェルノの詞が閉じたあの瞬間から、この人は一度も口を閉じていない。

 

虎が跳んだ。

 

炭化した脚が焼け土を蹴る。二十歩を一息で潰す跳躍。前肢の爪が詠時さんの頭上から降ってくる。この人の身体強化はカスだ。掠っただけで終わる。

 

詞が閉じた。

 

【ラスト・グレイシア】

 

地面から、氷が生えた。

 

伸びるのではない。生えた瞬間にはもう天井近くまで届いている。焼けて乾いた土に残った水分を根こそぎ吸い上げ、一本の巨大な槍として突き上がる。

 

貫いた。

 

宙にいた虎の腹から背へ、氷の穂先が抜けている。串刺しになった巨体が地上五メートルの高さで止まる。

 

音がしない。

 

悲鳴も、骨の砕ける音も、落下音もない。あまりに速すぎて、獣は自分が死んだことに気づく時間すら与えられていない。

 

黒い体が氷槍に刺さったまま塵になっていく。上から順に崩れ、風に流れ、消えていく。

 

残ったのは、焼け跡の真ん中に一本だけ立つ氷の柱。

 

それが冬の日射しを受けて白く光っている。

 

明十は、まだ十刀を抜いていない。

 

      ◇

 

「……えっと」

 

詠時さんが振り返った。前髪から水が滴っている。

 

「……終わった……けど……」

 

「一回に見えた」

 

「……え」

 

「今の。二発撃ったっしょ。俺、一発にしか見えなかったんすけど」

 

詠時さんが目を伏せた。

 

「……二発、です……」

 

「知ってる。頭では分かってる。分かってるけど、火が消えた時にはもう氷が生えてたんだよ。間がねぇの」

 

「……間は、ある、と思う……」

 

「ねぇんだって」

 

明十は指を二本立てて、それをくっつけた。

 

「五秒」

 

「……え」

 

明十は自分の腕時計を見せた。詠時さんが覗き込んで、それから困ったように視線を落とす。

 

「……そんなに、かかりました……?」

 

「かかったって言った? 今」

 

「……いや……あの……そういう意味じゃ……」

 

「かかったって言ったよな」

 

明十は詠時さんの顔を指差した。

 

「四十七体だぞ。ファースト混みで。それを五秒で終わらせといて、かかったって」

 

「……インフェルノで、仕留めきれなかったので……あれは、失敗です……」

 

「失敗じゃねぇよ! ファースト級が耐えただけだろ!」

 

「……耐えられる前提で、組むべきでした……」

 

本気で言っている。

 

明十は口を閉じた。この人は謙遜しているのではない。五秒を長いと本気で思っていて、その上で自分の手際を反省している。

 

戦っている間、この人は一度も表情を変えていない。声も張らなかった。最初から最後までボソボソと呟いていただけで、それで四十七体が消えた。

 

——化け物だな。

 

心の中で呟いて、そのまま飲み込む。

 

      ◇

 

隠蔽班の車が入ってくるまで、少し時間があった。

 

明十は校舎の壁に背を預けて、口の中で詞を転がしてみる。雷神の詠唱。自分のもので一番短いやつ。

 

「燃ゆる雷鳴の——」

 

早く。もっと早く。

 

「もゆるらいめのてんをさくせんこう」

 

舌が縺れた。

 

魂の練り上げが詞に追いつかない。速く唱えれば練りが薄くなり、しっかり練れば口が遅れる。二つが分離する。

 

詠時さんのそれは、分離していなかった。

 

「……あの」

 

隣に立たれていたことに、今気づいた。

 

「……それ……口を速くしても……たぶん意味なくて……」

 

「え」

 

「……僕は口が速いんじゃなくて……その……なんて言うか……」

 

詠時さんが言葉を探している。前髪を掻き上げて、また下ろして、大杖の柄を握り直す。

 

「……先に全部……決めてるんです」

 

「決めてる」

 

「……詞を唱え始める前に……どこに何を出すか全部。だから唱えてる間は口を動かすだけで……考えることが何もない……から……」

 

明十は壁から背を離した。

 

「それ、詠唱始める前に組み立て終わってるってことっすか」

 

「……うん」

 

「四十七体分を?」

 

「……いや……それは……歩きながら……」

 

車から降りてグラウンドを見て、一歩前へ出るまで。

 

あの数秒で、四十六体の立ち位置と、火柱を出す場所と、校舎を燃やさない境界線と、その後に氷を生やす一点を、全部決め終えていた。

 

だから二発目に迷いがない。虎が耐えることも、跳ぶ距離も、想定の内側だ。

 

「……あの。明十くん」

 

「なんすか」

 

「……インフェルノ……範囲を絞ってました。気づきました……?」

 

「白線んとこで止まってたやつ?」

 

詠時さんが顔を上げる。前髪の隙間から、目が丸くなっているのが見えた。

 

「……気づいて、たんですね……」

 

「あんだけ派手なのに校舎が無傷だったら気づくって」

 

「……あれが、一番、難しいところで……」

 

「でしょうね」

 

威力を出すより、出した威力を線一本で止める方が難しい。それは剣でも同じだった。振り抜くより、途中で止める方がずっと難しい。

 

明十はグラウンドの方を見た。焼け跡の真ん中に、氷の柱がまだ立っている。

 

火で焼いた土の上に、氷が刺さっている。普通なら片方が片方を殺す。同じ人間が五秒の間に両方出したから、こんな景色になる。

 

「詠時さん」

 

「……はい」

 

「あの氷、溶けるまでどんくらいかかります?」

 

「……夕方には……」

 

「置いてってくれません?」

 

「……え?」

 

「隠蔽班に説明させんの、ちょっと面白そうだから」

 

「……やめて、ください……」

 

明十は笑って、空を見上げた。雲が薄くなって、山の稜線が見え始めている。

 

「……無理じゃね?」

 

「……無理じゃない……と思う」

 

小さい声だった。いつもの通り、聞き取りにくい声。

 

それでも、今回ははっきり聞こえた。

 

「……明十くんは剣を振りながら……身体強化して……魂も練って……詞も唱えて……四つ同時にやってる。僕は動きながら唱えるので精一杯だから……」

 

前髪の奥で、目が一度だけこちらを向いた。

 

「……土俵が違うんです。僕より難しいことを……してる」

 

「……」

 

「……だから……いつかできるようになると思う。たぶん」

 

そこまで言って、詠時さんは急に口を閉じた。

 

顔が赤くなっている。

 

「……あ、いや……すみません。喋りすぎました……」

 

「いや」

 

「……忘れてください……」

 

「忘れねぇよ」

 

詠時さんが固まった。

 

明十は十刀を担ぎ直して、グラウンドの方へ歩き出す。泥と氷の混ざった地面が、靴の下でぐしゃりと鳴った。

 

「詠時さん」

 

「……はい」

 

「今度、詠唱の組み立て方教えてください」

 

返事はなかった。

 

振り返ると、詠時さんは大杖を抱えたまま、口を半分開けて立っている。それから、こくこくと二回頷く。

 

聞こえないくらいの声で、何か言った。

 

今回も、聞き取れなかった。

 

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