長袖が好きだった。
自分が自分以外の何かと触れることをそれだけは許してくれているようで、安心した。だからずっと昔からどんなに暑くても長袖を着ていた。だからだろうか、それを認めてくれる冬が好きだった。
夏が嫌いだった。
特にここ数年の夏は大嫌いだった。そんな好みからの衣振る舞いすら許さないようで。童話に出てくる不運な旅人になってしまったかのような気持ちになる。
太陽が嫌いだった。
いつも私を焼き付かせようとするよう。
いつも私の居振る舞いを否定するよう。
いつもいつも、眩しすぎて、目が眩むよう。
だから私はいつしか意地になっていた。
太陽が齎すその暑さに、自分を曲げてなるものか。暑さごときに屈してなるものか、なんてくだらない意地。
くだらない意地の対価は大っぴらに言うほどは大きくなく。かといって、何事もなかった、と言うにはあまりにも厳しい。
その日は、記録的な酷暑だった。ふらふらと、半分熱射病じみて校舎を歩いていた。そんな様子だったから気が付かなかったのだ。
私がその時に、致命的なミスを犯したことにも。
「弥栄さん、だったよね。隣のクラスの」
人通りの殆どいない放課後の廊下、そこに通りがかり、すれ違ったのはたった一人の男子生徒だった。声をかけられたままに振り返り、そして青褪めた。その差し出された手の中にあるものを確認して。
「血液パック落としたよ」
どくり。心臓が杭に打ち付けられたようだった。
見られた。血、血を持つ自分のこと。言い振りから落としたところまで見られた。言い逃れは不可能。なら口止めを?口封じを?
はぁ、と漏れ出る息が乾いていた。熱と、緊張に。
半死半生、思考もまともに動かないままにそれを受け取り、何かを言われる前にその場を去ろうとした瞬間に。
「あ、そうだ」
そう呼び止められた時の、肝の冷え方と言ったら。
暑さなどあっという間に忘れてしまった程。
「落とし物には気をつけた方がいいよ。特に血液パックなんて、不衛生な床に落としたら大事だ」
だのに彼はそう言った。目の前で渡した物の違和についてでもなく、何故それを持っていたかという疑問でもなく、私を問いただすでもなく、無感情に。空気が冷え込んだ。表情一つも変えずに言い切ったのだ。
「それじゃあ俺はこれで。
ついでだけど、顔色が悪い。一休みした方がいいよ」
そうやって、勝手に会話を切り上げてその場から歩き去ろうとするその男を、私はどうしたのだったか。
その時のことを、鮮明には覚えていない。
ただ、一言言ったのは覚えている。
確か、こんなことをもの凄く、大きな声で。
「そこじゃないでしょう!?」
…
……
(夏は、やっぱり嫌い)
袖の先が、すぐに汗だくになり濡れる。代謝なんて問題じゃない、ただただ、生き物が耐えられない空間をどうやって好きになれというのだ。
そんな意味もない事を思案しながら少女は歩く。
染め上げたような黒い制服は、彼女らが通う高校のもっと昔の旧式の制服。ただ校則の違反ではないという理由でそれを纏うことを禁止されない。そしてまた、流麗で文句を付けようという気は少なくとも残らない。
綺麗に切り揃えた前髪と、そのままさらりと流す黒い長髪はそれよりもずっと黒くしなやかで。そしてその目はその髪よりさらに黒かった。
黒く、儚く、そして近寄り難い。
彼女がただ道を見下すように渡っていくその理由を、ただその装いの暑さからばてているだけという事実も誰一人として知らない。
彼女が足早に向かうその故も、先も。
(ああ、はやくはやく)
早歩きに、かつかつと歩いた先にあるのは旧校舎。そこは今や授業には用いられないが、文化部などあまり広い場を使わない部活の利用スペースとして有効活用されている。
一つ、二つ、三つほど部屋を通り過ぎ。角を二つほど曲がった先にそのお目当ての表札は書いてある。
『文芸部』。古ぼけた戸だ。そこをがらりとこじあけた。
そして開口一番、挨拶よりも先に。
「ああ涼しい。はあ、また倒れるところだったわ」
そう、周りに言い散らかした。
「弥栄さん、またそんな格好で無理をしてるのか。俺だって、いつもここに居れるわけじゃないんだから、本当に倒れても知らないよ」
「いつも言っているでしょう。名前で呼んで」
そう言われて、バツが悪そうに顎を掻いたきり、何も言わなくなってしまったのは既にその部屋の中にいた男。ワイシャツのボタンを上二つほど空け、袖を捲り上げる姿はこの気候においてはごく普通だろう。その他の身体的特徴もどれも普通。平凡と言った方が、より的確だ。
「トウくん。そんなことを言っても私は知っているのよ。あなたのいちばんの弱みのことを。倒れても知らないよ、なんて言っていてもそれが出来ない事を私が一番知っている」
「握られるような弱みは無いはずだ、多分」
「私が言いたいのはそういうことじゃあなくもっと根本的なこと。あなたは優しいから、そんな事を言っても本当に倒れかけた私を無視なんてできないでしょう」
トウと呼ばれたその平凡な男児はそれを言われて一瞬考え込んでから、考えすぎだと自らを嗤った。
「なんだか俺のことを買い被りすぎだよ弥栄さん。俺はそんな優しい人間でもなきゃ偉くもない」
「名前」
「……カミラさん」
「まあ、その実トウくんが実際どうなのかなんてことはどうでもいい。私にとって大切なのは、私が貴方に秘密を共有してる事。そして貴方はそれを裏切らないこと」
下の名前に呼び直させて、そう微笑む神楽の顔は、無表情がベースでありながら、外での印象とは異なるようなもの。その多弁も、皆は知らない。
そうして少女は彼に顔を近づける。
そっと、それでいて秘密の履行を求める。
「ああ、うん。準備は出来ているよ」
そう言ってトウ青年は首筋をそっと手に持った布巾で払って、少しでも清潔になるようにと綺麗に仕上げた。そうしてからそっと目を瞑り、首を片側に傾ける。
黒色の目、黒色の髪、黒色の全てが彼に重なった。
影が一つになるかのように。
「ああ、そうだ弥栄さん」
「ん、なはに」
「食事中にごめん。忘れないうちに借りた本返しておく。面白かったよ、古典だけれど読んでないものって食わず嫌いするもんじゃないね」
「んふ、ふ…」
気がつけば、その重なった影が離れていく。
そうして首の筋の部分に、神楽が当てたハンカチが当てられる。じわりと液体が染みていく感覚があるが、両名ともにそれに言及はしない。
しばらく距離が近しいまま、じっと、首筋にハンカチを当てられる距離のままで二人は顔を見据えあっていた。
「毎回毎回、結構痛みがあると思うのだけれど、平然とした顔をしてそんな事を聞いてくるんだもの。
本当に、あなたの血って何色で出来ているの?」
「その口の中にある色を見ればわかると思うけど、普通の色だよ」
「嫌よ。カンニングは面白くないでしょう」
ごくり。大仰な音を立てて彼女は口の中の液体を飲み込んだ。彼女の手には血が染みた黒いハンカチと、つい先に返却された古典とも言える本が握られている。
その本の題は、名前だけでも皆が知ってるもの。
『吸血鬼ドラキュラ』。
「で、どう思ったのかしら」
「どうって?」
「この本を読んでの、感想」
「?面白かったよ。かなり」
「………貴方、本当に文芸部らしくないわ」
…
……
これは、大した話ではない。
一夏によくある、男女同士の恋愛の話。
本当にどこにでもよくある話だ。
そこに、ただ少しずつだけ。
ほんの少し、人ならざるものがいるだけの話。
短中編くらい予定です。
大体こんな感じの話です