「暑…」
休日の日。準備も終え、一緒に行くつれあいがまだ少し時間がかかりそうだからと先に外に出て、外の様子を見がてら深呼吸でもしようとする。今日も清々しすぎて、体調を崩しそうなほどの晴天だ。
昨日よりは涼しいかもしれない、という日を続けていくものだから、身体が慣れてしまってるだけなのか、本当に涼しくなってるかはわからない。
あの人は流石に半袖だろうか。
そんな意味のない思考は、ポケットに入れていたケータイのバイブレーションで遮られる。通知が言うにはじゅんびできた、との事。
急いで、家の中に戻る。
「まゆ。入るぞ」
部屋の前でノックをする。するとたどたどしく、ゆっくり扉が開く。ふうわりと無機質な匂い。
十はその中に居る女性に、膝を曲げて視線を合わせる。
そこにあるのは真っ白な髪色、まつ毛や眉毛まで白く、肌すらも白い。瞳だけは黒く、今日身につけている儚げなワンピースの色までもが白色。雪の結晶のように脆そうなその見目姿は、車椅子の上にちょこんと座っている。
不自然なまでに未成熟な身体は、頼りなく、小さい。
『にあってる?』
「うん。すごく可愛いぞ」
それだけを確認すると、まゆは、ぱあと輝くように笑い、その手元のボードを両腕で抱きしめて肩を震わせた。身体の全体で喜びをなんとか表すように。しばらく、それを微笑ましく眺めた。
「よし。そしたら忘れ物はないか?」
こくり、と喜びの顔のまま頷く少女。
準備は万端と、小さな帽子を頭に被る。
再びそれに微笑んでから、青年は車椅子後ろに回る。そうして取手の部分を手に取ってゆっくりと押し進め始めた。
尾白まゆは、歩けない。
這いずるくらいは出来るが、その程度だ。
尾白まゆは、話せない。
口は形としてあるが、それだけだ。
尾白まゆは、とても身体が弱い。
外に出られるのも久しぶりだ。
それでも、共に外に出ることを選んでくれた。
それは彼にとっても嬉しい事で、静養していたほうがよいのではないか、と言うことも忘れて彼女のために予定を開けた。
二人はそうしてゆっくり、家を出た。
…
……
彼らが着いたのは、近所にある大きな公園。
自然が多く、一周するだけでも少しくたびれるような良い場所。なにがいいか、というと極端に人が多いということがない。
人混みは消耗する上に、そもそもの車椅子の通りが難しい。ユニバーサルデザインが叫ばれそれが適用されてきている世の中とはいえ、その物理的なスペースの如何はどうしようもしがたい。
「暑くないか?気分悪くもないか」
前に座る白いうなじに語りかけると、緩慢に振り返ってこくり、と頷く。ただ笑顔であることに変わりはないが、その顔の奥底に浮かんでいるのは健気な強がり。どちらかというと、迷惑をかけたくないという過剰な気遣いかもしれないが。
「そっか。でも、俺が暑いから少し涼ませてくれ」
そう、十が言うとまゆがそっと安心したように息を吐く。そしてその様子に気付かれて、否、そう言われたことがまずということに気がついて、少女はその儚げな背中を申し訳なさげに丸めた。
自らのせいで気を遣わせた、と。
ゆっくりと車椅子のストッパーをかけ、その横に腰をかけた直後に、青年の前にホワイトボードが差し出される。
『ごめんなさい』。
伏し目と共に、それだけが書かれている。
そのボードを無理矢理ぐいっと引き寄せて、書いてある文字を服で拭い取ってしまう。袖の汚れなど知ったことではないと。
「俺のことよりもまゆのこと。ごめんなさい、も必要ない。だからゆっくりやりたいことをやればいい」
そう言われると少女はびくつくように身体を震わせてから、そっと返してもらったホワイトボードにある青年の手に手を重ねた。そしてその薬指を、その手で精一杯強く握った。
顔を背け、びくびくと振り払われないかと恐ろしげに顔を覗き込むまゆを、青年はじっと見つめ返していた。
ただ何も言わず、少しだけ縦に頷いた。
それを感じ取って少女はまた身体を震わせる。ぷるぷると、今度は喜色を身体全身に滲ませて。
そして次の瞬間、十青年は握られていた薬指にちょっとした痛みを感じた。痛みというほどではない。ただ、すこし鋭利なものを弱く押し当てられたようなそういう感覚。
(糸?)
薬指に巻き付いているそれを少女の指の隙間から見る。先まではこんなものはなかったし、彼女の手の中にもなにも持たれてはないようだった。だがしかし、今その感覚は、白い一本の糸がちゃんとあることを教えてくる。
その怪訝を感じ取って。まゆは、びくりと手を離した。
「……ぅ、…ぁ…」
「…驚いた、まゆは紐や糸結びが得意なんだな。いつ結ばれたのかもわからなかったよ。すごいな」
そう答えると、少女はほっとしたように息を吐く。そうしてから、またホワイトボードに一言を慌てて書く。
『いやじゃ ない?』
「何も。いいか、さっきも言ったけどお前は遠慮なんてしなくていいんだ。それに俺には、今指を握ってくれたのは嬉しかった」
そうだ。昔、昔の触ることすらできなかった時を思って、感慨深くなる。今やこちらを、おずおずとでも触れに来てくれるというのは嬉しいことだった。そして、そう言われたことは少女にとってとても良かったらしい。否、むしろ良くなかったかもしれない。効き過ぎる薬は、毒とも言われるものだ。
少女はその言葉に、雪のような肌をぼっと赤くして。
がしりと再び十の手を掴んだ。今度は薬指のみではなく、その手首を。
ふっ、ふっ、と息が荒い。その小さい体躯の全てを使って息をしているようで、青年はとっさに心配が勝った。
だから、手を握り、あざがつくほどに強く握られていることにも気づかずにこう一言言ったのだ。
「楽しい、か?」
そう言われて、ようやくはっ、と正気づいたようだった。今度は急激に持っていた手を離して、代わりにホワイトボードに書こうとした。
しかし、動揺からくる震えで文字がどうしてもよれてしまうことに気づいてから、ただただこくこくと何度も何度も小さく頷いた。
「それはよかった。そろそろ休憩終わりにしようか、まゆもひとまず元気そうだし」
そう言って青年は再び車椅子の後ろにつく。ストッパーをがちんと外して動くようにしてから、前方と周囲の確認。
そうして始めて、先の薬指の紐糸にかかる小さな力を感じる。
それは、前の方から引っ張られるような力。
何かに引かれている感覚。
「……♪」
よく見れば、その白い紐糸はただ巻き付いているだけではなく、端がさらに別の場所に繋がっている。
その先は、まゆの、左手の薬指に繋がっていた。そして少女はそれを、紅潮したままうっとりと眺めている。
「!……ッ…」
十青年は、とっさに指を、まゆに絶対に見えないようにと身体の陰に隠した。
この紐が強く引かれたことにより、薬指の表皮が軽く裂けたことを彼女が知ったら、また彼女は青ざめて謝ってしまうだろうから。
小さな痛みを隠しながら、車椅子を押す。
人知れず血の色を吸い、薬指にかかった紐糸はじわじわと別の色に染まっていく。
赤い、赤い色に。
…
……
部屋の中。
久しぶりの外出で疲労困憊の中、仰向けに見た自らの左手に巻き付いた紐糸を眺めて、少女は動きにくい身体を無理矢理動かすようにのたうった。
「…!…!、!!」
今日の思い出を、彼女は必ず忘れないだろう。
そう、するように努めるからだ。
尾白まゆは、兄がすきだ。
唯一自らに触れていい人間を彼だけと定義している。
尾白まゆは、身体が弱い。
彼女の身体はまだ未成熟で、幼体であるからだ。
尾白まゆは、兄がすきだ。
血の繋がっていない、種族も性別も年齢も何もかも違う彼のことを、だから故に恋焦がれている。
尾白まゆは、人間ではない。
故にこそ、人間に恋焦がれている。