「弥栄さん、だったよね」
彼女と出会った経緯は、よく覚えている。
彼女が落としたものを、拾って手渡して呼び止める。俺たちの出会いは、そんな古典的なガールハントの手段。
「血液パック落としたよ」
「…ありがとう、ございます」
…を、少しひねくれさせて、逆張りを入れたような。そんな出会いだった。
弥栄神楽。別学年別クラス、接点など存在しない間柄だったがその話題だけは小耳に挟んだことがあった。話題や風評とは無責任なものであり、興味がなくても流れてはくる。そしてその内容は荒唐無稽なもの。
「ああ、そうだ」
「なにかしら。用がないなら、もう行きたいのだけど」
曰く、常に冷静沈着で死体を見ても動じないだの、話しかけたら血も凍るような目付きをされただの、告白してきた男たちを精神的ダメージで休学させただの、その美貌に草花が道を譲っただの、どんな時でも長袖を着ているだの。
最後だけ、随分スケールが下がったと思っていたがなるほど、これだけは事実だったのか、なんて思ったり。
「落とし物には気をつけた方がいいよ。特に血液パックなんて不衛生な床に落としたら大事だ」
どれもどうでもいいこと。ひとまずはこれだけは伝えられたから良いか、と納得し。ついでに、こちらを見てくる姿の顔色が良くないことにも気づいて、休んだ方がいいとも声をかけた。
さて、用がないならもう行きたいとも言っていたし、俺も早く帰ろう。そんな風に思っていた。これもよく覚えている。その日はまゆの誕生日で、できるだけ早く帰ろうと思っていたから。
初めて、様子のおかしさに気がついた。ぷるぷる、と震えていた。この暑さの中、寒さでの震え?それも、厚着をした状態で?おかしい、まさか重篤な症状ではないだろうか、と心配の声をかけた時だった。
「……じゃないでしょう」
「え」
「突っ込むところ、そこじゃないでしょう!?」
ああ。これも、よく覚えている。
その時に、鼓膜がちょっと傷ついていたらしいから。
…
……
「それで、行ったのが公園?牧歌的というかなんというか。ま、貴方たち当人が楽しんでいたのならいいとは思うけれど」
「外出先を無理やり聞き出しておいて、その態度はないんじゃないか弥栄さん…じゃなくカミラさん」
「ん。いえ、ケチをつけるつもりは無いのよ、本当に。妹さんの体質とかも考えてのものだとは思うし。ただ、その、なにかしら」
そうね、と時間をおく。それはなんと言うべきかというより、どこまで言ったらいいかという悩みのよう。
「…その、十くんはアウトドアが好き?」
「?まあ嫌いではないけど」
「…そう…はーあ、じゃあ私も頑張らないと…
私はインドア派だから、運動不足」
「…」
いまいちよくわからない話を、まあいつものことかと切り上げてしまう。彼女の事前に知っていた噂などことごとく的外れではあったが、ただ二つ、常に長袖しか着ていないということと、変わり者であるということだけは事実だった。
「妹がそこまで外が好きってわけではないから、俺もそんなに外出を多くしないよ。だからまあ、何故か着いてくる気満々なのは置いておいてもそんなに張り切る必要はないと思う」
「そう?なら良いけれど」
「うん、あと妹はたぶんヒトじゃないから。
そういうのも含めてあまり他の目に晒したくない」
そう青年が口にした瞬間に、弥栄はおっと、と言いにくそうに口をつぐんだ。その内容自体は、既に彼から聞いていて知っている。だから今そこで口をつぐんだのは反応の困りによる。
「…前も言った気がするけど、そういうこと私に言っていいの?それとも思ってるよりも秘密にしてなかったりするのかしら。そういうの。私が秘密主義すぎるだけで、意外と今の世の中は寛容?」
「いいや、トップシークレットだよ。弥栄さん以外に聞かれたら聞いた人を殺してから自分も首を括るくらいに。今の世はむしろはみ出しものには厳しいよ」
「それはそれで貴方の思想が偏ってる気もするけれど」
「…でも、弥栄さんが俺に一つの秘密を明けてくれたんだから、俺だってそれに釣り合う秘密を教えなければ釣り合わないと思うんだ」
「なるほど、秘密の共有ね。なに、文芸部らしくないなんて言ったけれど訂正しないといけないわね。随分とロマンチシズムにかぶれてるじゃない、貴方」
嫌な気分でもないけど、と微笑んで言ったカミラを、しかし青年はそういうわけではない、とばっさり言い断る。
「もし俺が裏切って言いふらそうとしたり逃げようとしたらその情報でこっちを脅せばいい。片方だけそれができる関係だと弥栄さんも落ち着かないだろうし」
「………訂正。ロマンチシズムのカケラもないわ神之手十。貴方、少しはこの小さな空間で私のような美人と二人きりでいる感慨にふけたりはしない訳?」
「無いとは言わないけど」
「はあ、言うと思っ…あ、えっ、無くはないの?」
「そりゃ男の子だし、少しは」
その反応に、驚きのけぞったのはそれを言い出した女性の方。急激に顔を上げたせいで、ある行動のために首筋に口を近づけていた二人はあわや顔面をぶつけあうところだった。
「へー…へぇ、そうなの。へぇ…いやびっくりしたわ。私てっきり貴方のこと品種改良されて種無しになった西瓜くらいに思っていたものだから」
「あまりにもひどい言われようだ」
「褒め言葉のつもりよ?食べやすくって、瑞々しくて、美味しくって。とってもいい食べ物だって」
「種無しスイカじゃあなくってがっかりさせちゃったかな」
「いいえ?風流じゃない、ちゃんとした西瓜も」
そう言ってから、彼女は赤い果実に齧り付いた。みずみずしく滴る、その液体までもを嚥下しながら。
「……っ」
「…ふう、ごちそうさま。毎度ごめんなさい、そこまで痛くはしてないと思うのだけど」
そうしてそっと首筋に手をかける。
その瞬間にふと思い出して、十青年はカバンの中をごそごそと漁り出して、二つのものを取り出した。一つは毎回毎回ハンカチを汚してしまうのも申し訳ないなと買ってきた大きめの絆創膏。
そして、もう一つは。
「きゃっ!」
びくり、と後ろに飛び退く様はどちらかというと動物に近いよう。というよりも驚いたネコのようだった。こんなことを言ったら絶対に怒られそうだから口にはしないようにしよう。そう、思いながら神之手は彼女を見つめる。
「……なんでそんな嫌なもの持ってるのよ」
「前大丈夫だとは言ってたけど本当かなと思って。家にあるやつを無断で借用してきた」
「………」
「…その、ごめん。嫌がることをやるなって話ではあったんだけど、本人が良いっていうなら大丈夫かなって」
「そう言われちゃうと…それは大丈夫だと言い張った私が悪くなるじゃない。…じゃあ正確に言うと、あれは少し見栄を張ったわ」
ようやく、ほっと息をついて落ち着かせて椅子に座ったカミラはそうしてううんと自らの眉間をつねった。こんな所まで言う必要があるのだろうかという疑問と少し戦いつつ、ぽつぽつと語り出す。
「結論から言うと、十字架そのものに触ったら近づけられて動けなくなるとか、ダメージを負うとかそういうのではない。それは本当よ」
「よかった。もしそうだったらなんて申し訳を立てようかと思った」
「だけれど昔からそれを持った生き物は、自らを正義と思っている確率が非常に高かった。だから、教訓が私たちのDNAのレベルに刻み込まれたの。『これを持ってる奴は酷い事をしてくるぞ』『だから近づくな』って風に。進化…いや、それよりももっと、それこそ品種改良とかに近いかもしれないわね」
「それが害を及ぼすもの、それを持つものが危害を及ぼすものであると種族単位で学んだ結果本能的な忌避感を抱くようになった。
つまりは身体が反射で退くようになったわけ」
「…俺でもわかるように端的に言うと?」
「十字架はちょっと効く」
「なるほど、わかりやすい」
そこまで聞くと青年は十字架を大事に丁寧に鞄の中に入れて片付けた。壊れものでもしまうようにゆっくりと。
「なんでそんな大事そうに仕舞うのよ」
「家から無断で持ってきたものだから、壊したら困る。それにもし急にカミラさんがついうっかり飲み干しそうになった時とかに今の情報は有益になりそうだなって」
「む。それは、また冗談のつもり?それなら面白くないのだけれど」
「……」
「…冗談のつもりじゃないなら、なおのこと!」
過去一番に強いつねりの感覚を頬に感じながら、青年は惰性のように痛い痛いと声を出す。そう、じゃれあってた時のこと。
「しかし、品種改良か…」
「ん、なにか引っ掛かったの」
「いや、ふと蚕の事を思い出して。元々はああいう生態じゃなかったらしいじゃないか」
「蚕?何故急に…まあそうね。元々は出す糸の強靭さも量も今のそれよりずっと貧弱で、幼虫だった時の姿もずっと小さかったわ」
急な話題の転換にカミラは困惑したようだったが、それでもそれに付き合うように自らの知識をそう、見てきたように語る。
流石博識だ、と十は特にそれ以上は探らない。
「うん。で、大人になってからは口すら無くなってしまう。身体が大きくなったことで羽根で飛ぶことすら出来ない。人の手を借りなければ生き残ることすらできない家畜化の品種改良がそれだって」
「…詳しいのね?やたらと」
「少し好奇心や興味から調べる機会があって。
あまり、意味はなかったけど」
ふうん、とそう会話を止めてしまった青年の全身を、じろりと品定めをするように眺める。彼女のそれはまるで、料理の乗る皿がきちんと清潔なままであるかをチェックするようだった。
「…ちょっと失礼。その指、どうしたの?」
「ん、ああ。少し怪我しただけだよ。すぐ治る」
「ふーん……左手の薬指が、ねえ。
随分とピンポイントに怪我をするのね」
随分と、丸くて細い傷。
何か刃物で切り裂いたようなものじゃない。
もっと紙や草、それこそ糸で裂いたような。
そんな風に、カミラは思う。
口にはしない。する必要も、ないと思った。
代わりに彼女は目を楽しそうに歪めて、鼻を鳴らした。
「……どうか、した?」
「いいえ?ただちょっとだけ。
面白い、甘い匂いがするな。なんて思って」
ふとカミラは、神之手十がよく語る彼の妹について思いを馳せた。この人がそうまで親身に付き添う者はどんなだろう。
その子の血の色はどんな色をしているのだろう。
そんなことが、改めて気になった。