…最初にそれを見た時に、息が荒くなったことを覚えている。車椅子に乗せられて運ばれてきたその小さすぎる体躯。その手足は未発達で、四肢ともに千切れているかのようだった。
真っ白な瞳には視力もまともに無いようで、喋ることもできない。息はしているようだが、それをただするだけの器官。震えて座っているだけの、それ。
初めて会った俺の妹は、そんな姿だった。それを見て、荒くなる呼吸を必死に抑えた。幼い自分にはそれは衝撃的すぎる光景で、感情と表情を表に出さないようにするだけで精一杯だった。そうだ。そしてそれに必死で。
だから君に向かって動こうとする足を、止められなかった。そして、差し出される手も。
…
……
「ただいま帰りました」
「あ、とーくんおかえりなさあい!ごめんね、こんなだらしないかっこで」
だらしない格好。そう言いながら慌てたように身を取り繕う姿は、それだけなら服装や髪型が他所様に見せられるような状態ではないというだけに聞こえる。
「ええ、まあ。…いつものことですし」
人間の形をした下半身から、4本の人間のものでない触手を出して、皿の洗いやそれぞれの家事をやっているその姿に、目を逸らせば。
十青年は、軽くため息を吐く。神楽が正体を暴露した時に、なんで驚かないの、と少し怒られたこともついでに思い出す。だが仕方がないではないか、このような常軌を逸した光景を幼少期から見ているのだからある程度耐性は付くというものだ。
彼の義母、凧谷はこうした衝撃的光景をトリックなしに行える類いの生き物だ。
「いつも言っていることではありますが、それ間違っても外でやらないでくださいねタコヤさん」
「やらないわよ〜?たまに出そうになっちゃうけど」
「…本当にやめてくださいね」
日頃の行いというのは癖になるものだし、癖はふとした時に出るものなのだから、こうした人ではないことを見せびらかすような行いはやめてくれ、と何度か頼んだことがある。しかしその度にやんわりと受け流され、しまいには言われてしまうのだ。
「だって便利なんだもの」
と、今言われたことと、全く同じことを。まあ元から期待していなかったと思いながら、自らの部屋に向かおうとする。
「あ、そうだ」
つんつん、とその人間の形ではない手、もしくは足に肩を叩かれてその足を止める。少しだけ濡れているのは皿洗いの水か、もしくはもっと別の液体なのか。
「まゆちゃんたら最近また少し調子悪いみたい。
様子を見てあげられるかな?」
「言われずともですが…そっか。少し前は良さそうだったんだけど」
「うふ、きっとはしゃぎすぎちゃったのかも。だいすきなお兄ちゃんと一緒に出かけられたんですものね」
そう言われると、自分のせいなのではないかと思ってしまう気持ちともう一つ、そうまで自分との外出を楽しんでくれたのだという、満更でもない感情になり、なんとも言えずむず痒くなった。
「ひとまず話してきます。
ホワイトボードは部屋の中にあるかな」
「あ、そうそう!それなんだけれどね、まゆちゃんにケータイあげてみたの!本当に、連絡とかの最低限の機能だけれど、そうしたら話も楽になるんじゃないかしら!」
「いいですね。慣れるまでは大変かもしれないけど、今のうちにそういう入力に慣れていくのも大切ですし」
そうした会話をし終えてから彼女の部屋に向かう。
さて、そうなると先に携帯で連絡をしたほうがいいだろうか。と思ってから、ああ、そうだまだ電話番号もなにも知らないやと携帯をしまう。
結局、呼ぶ方法は一番アナログで確実な方法になる。
こん、こん、こんとノック。
「まゆ」
返事がない。中側からのノックなども無い時間がしばらくあって、仕方がないかと勝手に扉を開ける。その先にある空間はどうしても手狭で、彼女の小さな手の届く所にのみ恣意性と共に飾られ、置かれたものがある部屋。
いつも通りの彼女の部屋だった。
「?入るぞ」
そう言って入ってから、十は少し笑いながらため息をついた。その行動のわけは、彼の視線の先。もごもごと布団の中で蠢きながら、いつ出ようか、いつ出ようか、と悩むその小さな背姿からだった。
ピコン、と携帯にEメールの通知が来る。はて、義母くらいにしかまともに連絡先も教えていないというのに、と画面を覗くと、そこには、どこか小さく、遠慮がちに書かれたようにも見える文字が一言。
『どーこだ』
その文面に思わず笑ってから、しばらく周囲を色々と探すふりをする。何処だ、などと白々しい言葉まで独り言のように呼びかけて。
そうしてから。
「…わっ!」
ばっ、と布団を勢いよく捲る。その勢いに驚いたように、きゅっと身体を縮こませる小さな体躯。その顔は、満面の笑みだ。
尾白まゆは、そうして両腕を広げた兄に緩慢に飛び付いた。それが、彼女のできる一番の親愛の表現というように。
「見つけた。…しかし、いつのまに俺の連絡先を知ってたんだ?」
ぴくり、と固まってからわたわたとタブレット端末に触り、不慣れに打ちにくそうにタイピングを行う妹の様子を見て、十はそっと優しくホワイトボードを差し出す。無理する事はないんだぞ、と。
おずおずと、それを受け取ってから心中を書き出した。
『前、とおくんのけいたいの画面を見て』
『それでアドレスを覚えてたの』
『勝手なことしてごめんなさい』
なるほど?と少しだけ首を傾げる。確かに見られた機会はあったかもしれない。だが当然画面を見せびらかしたりなどしていないので、本当にちらりと見たその一瞬で覚えた、ということだ。
「なるほど…」
『きらってない?』
「嫌うどころか、感心したよ。
まゆは記憶力がいいんだな」
そう言ってそっと頭を撫でつける。
兄妹間でのそのコミュニケーションを、二人とも互いに、兄妹であるがために受け入れていた。
「やっぱりホワイトボードの方が書きやすいか?」
そう聞くと、こくこく、と小さい体躯ながらに大きく頷いてきゅっと小さなそのボードを抱きしめた。
「だけどまあ、それでも今から慣れておくといいからこっちも少しずつ使っておいてね。いざって時の連絡も出来るし」
『がんばる!』
「うん、その意気だ。しばらくは俺の連絡先をメッセージの練習台にしようか。そうだな、一日に三回くらいは俺にメッセージ送ってくれ」
「!!??」
ただのメールというのもいいが、まずはショートメッセージに慣れておくべきだろう。こちらとしても、日に日にちゃんと過ごしているかを教えてもらえたらとても安心するというものだ。
と、いうそれだけの気持ちからの提案。それに対する反応に、ぎょっとしたのも青年だった。
あまり、活動的とは言い難い少女。生来の身体どうこうというよりかは元々の性格がインドア気質なのだろう。基本的には外出より中で絵など描いていることが多く、大人しい。
だから、がたぁんと座っていたベッドがひっくり返りそうな勢いで身を乗り出したのも、長年連れそっての初めて見るくらいで。
『いいの!?』
「え?あ、ああ。いいのもなにも、別にめんどくさかったらサボってもいいくらいではあるんだけど』
『やる!やる、ぜったいやるね!
3回いじょうおくったらだめかな!?』
「多いに越したことはない、と思うけど…
そんなに無理にやる必要はな」
がくん、がくん、と身体が揺れる。
先程飛び込んできて、受け止めたままの少女の手が肩を掴んでがくがくと揺らす。
そうしてしばらく、落ち着いてから再び筆談。
『絶対、いっぱいやる!そしたらとーくんも返事してくれる?』
「あ、ああ、うん。勿論。
…あまり携帯に触らないから返事は遅れてしまうかもしれないけど、その時はごめん」
『ううん、だいじょうぶ。
とおくんがお話ししてくれるだけで嬉しい』
可愛いことを言ってくれるな、と笑ってその頬をつまむ。くい、と引っ張るそれに一瞬ぴくりと身体を震わせたが、それを嬉しそうに受け入れていた。
それじゃあ、アカウントの共有をして会話をできるようにしようとした、その瞬間のことだった。
ぽこん。画面の上部、バナーとして出てくるメッセージの通知。十青年には珍しい、メッセージの音。
『十くん、明日暇だったりする?』
『暇だったら一緒に出かけましょ』
おお、珍しい誘いもあったものだ。と内心驚きながらも先まで続けていた、友だちとなる機能でまゆとのメッセージを行うことが出来るようにした。
そうしてから。神之手十は、やけにその妹の様子が静かなことに気がついた。
「まゆ?」
どうしたのだろうと、目を向ける。
そこには、先までの喜んだ様子がどこにやら。嫌に、表情のない顔があった。
静かに、静かに、ホワイトボードに書く。
『今の人、だれ?』
「ん、ああ。学校の友達だよ。…友達かな?俺はそう思っているけど、あの人もそう思ってくれてたら嬉しいな」
『そうなんだ』
ふぅ。溜め息が小さな小さな口から漏れ出る。そうしてひしりと十の手を取った。
どうしたんだ、と聞く前に手に走ったちくりとした痛みに顔を顰めた。
薬指に貼っていた絆創膏が、剥がれている。
くる、くるる。傷跡に、小指を巻く。
言葉の代わりに、喉を軽く鳴らしながら。
にこり、笑う。小指が解かれた時には、傷の上に白い糸が再び結ばれていた。
十青年の、薬指。その傷の上に覆い被さるように。
『ともだち出来たんだね。よかったね』
『そっか、最近のにおいはその人のか』
「匂い…?そんな変な香りしてたかな」
筆談を、微笑みながら続けるまゆに対して。その内容を怪訝に思いながらも、そういうのもこれから慣れるためにメッセージでやってみよう、と声をかけた。
少女は元気いっぱいに頷きながら、きり、唇を軽く噛んだ。心配させないように、噛み切らない程度に。
ああ。
私の領域に邪魔をしにきたのはこいつか。
イヤサカカミラ。
名前は、覚えた。
…
……
わたしは覚えている。
ずっとずっと覚えている。
寒い。感覚がない、なにもない。光もない。身体に、運ばれている振動だけはある。音は聞こえていたけど、音の意味はわからない。
寒い。寒い、寒い。身体中がさむくてたまらない。
私はいつうまれてきた。
だれのおかげで生きているんだろう。
育ててくれた人がいたのは、今となってはわかる。
でもあの頃は、それすらもわからなかった。
果てしない暗闇の中、一人でがたがたと震えていた。
自分がどうとかもわからなかった。
ただ、ただからだがつめたかった。
覚えている。ただ抱きしめてくれた体温のことを。頬に触れた液体の温かさも、私になかったぬくもりを。
『…俺が』
『俺がこの子を守ります。理由も、なにもない。俺がぜったいに…』
ことばの意味はわからなかった。
それでも覚えている。覚えているから、今、思い出せて、温かい気持ちになる。そうなれる。
わたしはこの時はじめて、あなたの温かさを知った。
震えを止めてくれた抱きしめを、覚えている。
それを、ずっと覚えている。
ずっとずっと、覚えている。
ずっと、覚えている。