松下千秋の余裕 作:中森藤之
昼休みが終わる数分前に戦いは終わった。
Cクラスの2人は訴えを取り下げ、オレ達はそれを受け入れた。
最初、坂上先生は戸惑っていたが、頑なになった石崎と小宮を見て何かを察したらしい。物言いたげな顔でオレや堀北に視線を送ってきたが、しつこく食い下がってくることはなかった。
茶柱先生は「及第点だ」と一言。
後ろを向いていたから顔は見えなかったが、これで少しはクラスへの評価を改めて貰えるとありがたい。
あの先生はオレ達を酷評することが多い。
尻を叩くことはたしかに大事な事だが、それだけでは皆やる気が無くなってしまうからな。
「兄さん」
「鈴音か。経緯については、橘や先生達から報告を受けた」
外せない予定があったらしく、生徒会長がやって来たのは話がついた後だった。
「綾小路、ご苦労だったな」
「いえ、オレは大したことはしていませんよ。今回のMVPは堀北だと思います」
オレは生徒会長からのお褒めの言葉に対し、嘘偽りのない考えを述べた。ところどころ危ないところ、詰めの甘い箇所は見られたものの、こいつは一番大切なことはできていた。
それは、責任を背負った上で結果を出したということだ。付け加えると、狙って完全勝利を取りに行った。安易な道に逃げることもしなかった。それで、結果を出すことができたんだから、ひとまず褒めてやってもいいんじゃないだろうか。
「──俺はそうは思わん。なぜなら」
「ええ、兄さんの言うとおりよ綾小路君」
堀北兄は何か指摘しようとしていた──恐らくひねくれたアドバイス的なものを与えようとしていた──ように見えたが、堀北妹はそれを遮った。
その時、オレは嫌な予感がした。
入学したばかりの頃なら、間違いなく傷ついていたはずだ。堀北は優秀すぎる兄の背中を追いかけているが、全く認められていない。それどころか能力がないからさっさと退学しろとまで言われ、苦しそうな表情を浮かべていたことがあった。
しかし、7月になった今、堀北は成長を遂げた。
5月に入る前の時点で早瀬が、『あいつは何とかしないとダメだ。あんな劇物を放置したら後々に響く。なまじ優秀だからタチが悪い』とか言い出して、なぜかオレを巻き込み調教──いや教育を施したからだ。
「どういうことだ堀北。オレにはなんでお前が笑ってるのか意味不明なんだが」
「なぜこんなこともわからないの? 兄さんの言う通りじゃない。私はMVPなんかじゃない。だってMVPはみんなだもの。オンリーワンが各々の力を最大限発揮できるクラス、それが最強だと私は思うわ」
「……」
「綾小路、あなた、世界に一つだけの花を聞いたことがないの?」
堀北はかつてよく見せていた侮蔑の表情で、なんかよくわからんことをほざいた。
オレが抱いていた嫌な予感は的中した。
堀北は上に立つ人とはなんぞや、みたいな教育を施された結果、上手くいかず迷走を極め、現在は色んなリーダー像を参考にして引き続き迷走している。色々試しているうちに
オレは知っている。
コイツのカバンの中に、名言集と書かれた分厚い本が入っているのを。
「綾小路、お前は鈴音になにをしたんだ……どうしてこんなポンコ……いや、論理的思考はできているようだが……何があった?」
「その、孤高と孤独を履き違えた毒舌がやばかったんで、早瀬とオレで……」
「兄さん、私は必ずAクラスに上がってみせる。その時は対等な立場で、私と話をして欲しいの。ええ、きっとやり遂げるわ」
「……鈴音、それなら今ここでひとつ質問をしよう。お前にとって綾小路とは、クラスとはなんだ」
「言うまでもなく、パートナーよ」
「…………そうか。なら、この学校において、担任の先生とはどういう存在だと思う」
堀北兄は妹のことを少し認めた……というよりも不気味がっているように思えた。オレもこわい。やっぱりあれだろうか。空き教室でのロジハラ。それが終わって逃げようとする堀北を挑発して、早瀬の部屋で色々やったのもまずかったんだろうか。
「担任の先生も……パートナーよ。もちろん、理事長もパートナー。全ての人間は良きパートナーであるべきだし、この学校の設備全般は億千万のパートナーだと思うわ」
「……綾小路、俺はもう行く。今回はご苦労だった。失礼する」
とち狂ったようにパートナーという単語を連発する妹から、堀北兄は厳しい顔で去っていった。しかし額には脂汗が浮かんでいたから、内心ではかなり動揺していたのではないか。
やったな堀北。入学直後はゴミ……路傍の石のような扱いをされていたことを思えば、これは大きな進歩と言っていいだろう。
だが、根本的な問題として堀北はうちのクラスの
「兄さん……私は必ず……!」
「……」
一方でオレは、そんな堀北に巻き込まれてAクラスを目指すことになってしまった、哀れな一般男子生徒である。早瀬よ。お前は堀北を改造するだけ改造してほとんど放置しているが、主に被害を被っているのはオレなんだぞ何とかしろ。
松下とイチャイチャしてるであろう時間を、もうちょっとだけ堀北に回せ。回してくれ。途中で『あとは自分で考えてね』、とか中途半端なことをした結果、おかしなことになってるから。
「私は、必ず……!」
「帰るぞ堀北。授業始まってるから」
「もちろん聞こえているわ。チャイムは既に鳴り響いた……賽は……投げられた」
「お前、保健室行って寝てこい。いつもより様子がおかしいと思ったら、さては昨日寝れなかっただろ。顔色がやばいぞ。目はグルグルし始めてるし」
「ふっ……愚問ね」
「意味がわからん。もう永遠に眠ってくれよ……」
そんなこんなで時は流れていき、放課後。
オレはある人物に呼び出された。
どうしているかと気にしていたのもあって、オレは早足で指定のファミレスに向かい、そこで一之瀬帆波と合流を果たす。
「メールは見たが、また急展開だな」
「うん。正直モヤモヤするけど、過程はどうあれ1番大切なところが解決したから……多くを望むのはやめとく。少なくとも現段階では」
一之瀬は疲れ切った表情で、それでも安堵の吐息を漏らした。恐らく、昨晩はほとんど眠れていないはずだ。しかし、その原因はこの時点では
「昨日、学校を出発してすぐ、近藤の意識が戻って……打ち明けたのは病院って話だったよな」
「うん。自分は勝手に転げ落ちただけで、神崎君はむしろ助けようとしてくれていた。
学校側は近藤の主張を全面的に信用し、神崎の停学を即日解除。ただし、近藤は自らの意思で退学することを選び、今はもうこの学校の生徒ではない。
負傷箇所が負傷箇所なだけに救急車で搬送はされたが、奇跡的にそこまで酷くはなかったようだ。既に動けるようになっているらしく、本日早朝に私物を引き上げ高校を去った。
「主張が事実だったとして、あんなに私達を毛嫌いしていた人だよ? 仮に勝手に転落しただけだとしても、罪をかぶせに来ると思うんだけど……しかも、いきなり退学なんてさ……」
「そうだな。一之瀬じゃなくても、誰だってそう考えると思う」
「何より、神崎君は何を隠しているのかって話なんだよ……突き落としてないなら、なんで罪を認めたりしたのか。聞いても『気が動転していて』としか言わないし……」
明らかにおかしいことばかりだ。
だが、Cクラス側に事情を聞くにも、近藤は既に退学した。小宮、石崎を探るという手は残されてはいるが、それでまた新たな問題が発生しないとも限らない。というか間違いなく何かしらトラブルが起こるだろう。
その前に確認すべて相手、仲間であるはずの神崎からも不自然な答えしか返ってこない。一之瀬としては、これで素直に喜べって方が無理な話だ。
「……あはは、神崎君が無罪になって喜ぶべきなのに、とてもそんな気分にはなれないや。自分の知らないところで、なにか大きな力がはたらいてて、私は無力。なにもできない。そういう感覚」
一之瀬は自嘲する。
一方でオレは、自分に連絡が来た理由について、やっぱりそうかと納得していた。
「今の気持ちは、クラスメイトには話せなかったか」
「そりゃ話せないよ……それに私がこんな顔してたら、みんな不安になっちゃうし」
クラスの誰にも話せないが、自分で抱え込むのは苦しい。そこまではわかったが、どうしてオレだったのだろうか。オレはそれを確認したかった。
「なんでオレなんだ? 言っちゃなんだが、あんまり交流ないだろ。今回のことがあるまで、喋ったのは1回だけだったはずだ」
「すれ違った時に挨拶はしてたけどね。なんでって質問に対する答えは、頼りたくなったら頼っていいって言われたからだよ。あとは直感」
「直感?」
「うん。信頼できそうだなって思ったし、話しやすいっていう個人的な好感もあったからね。予想通り、スラスラと気持ちが出てきて少し楽になったよ。ありがとう、綾小路君」
そう言って笑う一之瀬に目を合わせ、オレは「どういたしまして」と言った。続けて、「本当にただ聞いているだけで申し訳ないが」とも。
だがな一之瀬、お前の直感はきっと正しくない。
オレ自身が1番良く知ってるんだ。オレという人間がいかに愚かで、恐ろしくて、オレですら信用出来ないようなヤツだってことを。
「今回は全く協力できなかったけど、何かあったらこれからも連絡を取っていこう。私達はライバルだけど、足を引っ張り合うような競走じゃなくてさ……もっとお互いを高める方向に持っていきたい。私はそう思ってるの」
「一之瀬は凄いな。さすがは清廉潔白とか言われるだけのことはある」
「もう、からかわらないでよ……そんな大層な人間じゃないし」
ひとまず、正義を貫けたことにおめでとう。君達は凄いよ。一之瀬帆波はそう続けて、オレは少し傾いてきた太陽を見上げた。
お互いが高め合えるような健全な競走を目指す。
お前みたいなヤツばかりなら、社会はもっと綺麗に出来上がっていただろうさ。
「あー、でも正義っていうには微妙か。だって最後は嘘で嘘を倒したわけだし。どっちが考えたの」
「決まってるだろ。
一之瀬がニヤニヤと笑いながら、ティーカップを口元に運ぶ。オレを肩をすくめた。一之瀬が言っているのは監視カメラの件だ。
ここで結論を言うと、監視カメラの映像を確認することになっていた場合、詰んでいたのはこちらだった。なぜなら、廊下にあった監視カメラはオレたちが購入し、取り付けたものだったからだ。
「お金、かなりかかったんじゃない?」
「そこは平田と櫛田のおかげだな。足りない分をピッタリかき集めてもらった。まあ、思ってたよりはかからなかったけど」
目的は言わずもがな、心理的に追い詰めて墓穴を掘らせるため。確実に上手くいくという保証はなかったが、暑さによる思考低下、かつ時間がなく逼迫した状態。さらには効果的なタイミングで放たれた、堀北が堀北たる証明とも言える煽り文句(褒め言葉)。
あいつらが自滅する可能性は極めて高いものだったし、事実を確かめる時間も与えなかった。どこかに電話しようとしたのを堀北が認めかけた時は焦ったが、早瀬が素早く阻止してくれた。
そして、その早瀬が奥の手を用意していたから、堀北のプレッシャーはマシになっていたはずだ。不良品のオレ達にしては、上手く連携できた方だろう。
「しかし朝比奈先輩を抱き込むとはねー。あの人はたしかに優しい感じだけど、その一方でシビアなところもあると思うんだ」
「連れてきたのはオレじゃないけどな。しかし、そうか……単に同情で動く人じゃないってことか」
オレはあの時が朝比奈先輩と初対面だった。いい人だと噂くらいは聞いたことがあるが、実際どんな人物なのかは知らなかった。今も知らない。
「同情で助けないっていうか、助けることが本当にためになるかって話みたい。私達は以前にCクラスと揉めたことがあって、朝比奈先輩に相談したことがあるんだけど、その時に言われたの」
一之瀬帆波は人脈が広いことでも有名だ。噂では生徒会に誘われいるらしいが、本人はあんまり乗り気じゃないみたいだな。
「何を言われたんだ?」
「アドバイスするのはいいけど、これからやってく自信がないなら意味ないよって。それと、この学校では無理そうだなって判断したら、アドバイスどころか早期退学を勧めるってまで言われた。結構ズバズバ言うなあって感心しちゃったよ」
なるほどな。ということはやはり、これから先は厳しくなる一方ってことか。
まだ開示されていない情報も多くありそうだ。
たとえば、定期テストや生活態度以外の他クラスとの競走方法について、とかな。
「これは私の勝手なイメージだけど、基本友好的だけど
「連れてきたのは早瀬だからな……どんなやり取りがあったのかはオレは知らない」
「早瀬君ねー。私は彼のことこそよく知らないけど、たまに松下さんと買い物してるらしいね。スーパーで夕飯のお買い物。本当に付き合ってないの? 実は許嫁だった……とか」
いきなり会話が脱線した。
一之瀬は興味津々といった様子だが、本人達が恋人関係ではないと言っているからなぁ。残念ながら、一之瀬が期待しているような新情報はない。
「たしかに恋人じゃなくて許嫁ですって言えば、まあ筋は通るよな。どう考えても屁理屈だけど」
「だよね。や、ごめんごめん。すごい脱線しちゃった。プライベートを暴いてやろうとか、そういう悪趣味な狙いはないからね」
「大丈夫だ。一之瀬は倫理観はちゃんとしてると思うし、そこは疑ってない」
別にそういう噂話もいいと思うけどな。
本人達が本気で隠してるならともかく、新婚みたいな雰囲気で夕飯の買い出しとかしてるんだ。それで何もありません気にしないでください、と主張するのは無理がある。
「それはありがとう。それでね、綾小路君も早瀬君も今後はキーパーソンになっていきそうだって、私の勘が言ってるの。クラス間で仲良くしていくにあたって聞いておきたいんだけど、早瀬君ってどんな人なの?」
オレはキーパーソンとやらになるつもりはないが、早瀬には頑張って貰いたいところだ。そのうち堀北へのツッコミ役を変わって欲しい。
「一之瀬、それはちょうどいい質問だぞ。早瀬について、直近でわかったことがあるんだ」
「えっなになに?」
ちょうど早瀬からメッセージが届いた。内容にそっと目を通した後、オレは口を動かした。
「あいつ、平和主義者な雰囲気を心がけてるらしいんだが、少し荒っぽいと思う。いや、少しじゃないかもしれない」
────────◇────────
『1日支給分のポイントは無事に支給されます。須藤君の潔白も証明されました。はいハッピーエンド。って、ダメだろ。そんな
とは早瀬の談である。
事件にカタがつくまで止められていた、10700プライベートポイントの支給。無罪だったから今から支給しますと言われても、こちらとしては本日含めて7日も待たされている。
しかも、学校側はハナから須藤を信用しておらず、こちらが何も出来なければ完全有罪になっていた。
そうなればクラス全体に損害が発生してたというか、既に発生している。ポイント支給が1週間も遅れるのは損害である。
早瀬は言っていた。
何事も無かったかのように流され、また同じようなことがあっても困ると。だから、早瀬は
「──お話はわかりました。君の主張ももっともです。ですが、本来の支給額の
人の良さそうな男性、
早瀬はなんと、倍額よこせと言ったのだ。
須藤が受けた精神的苦痛なども考慮すると、それが妥当だと。シレッとした顔で民事での相場はウンタラとかも言っていたが、それについては言ってみただけだ。とりあえずふっかけると言っていたから、本当に取れるとは思っていないだろう。
「ここにいる軽井沢さんなんて、お金がなくて素麺ばっかり食べてたんですよ。どう責任を取るんですか」
「そ、そうですよっ、私、なんとなく買った素麺しか冷蔵庫に残っていなくて……」
早瀬に話を振られた軽井沢は、見え見えの嘘泣きを始めた。お前、平田にも早瀬にも昼飯奢ってもらってだろ。松下もおやつあげてたはずだぞ。
「無料の山菜定食があるはずですが、それは食べなかったのですか?」
「軽井沢さんは大食いなんです」
「そうなんです!」
おい、早瀬お前もしかして遊んでるのか。軽井沢の胃袋のデカさを主張してどうする。しかもそんな大食いのイメージもないんだが、主張の内容も適当なんじゃないのか。
理事長室にいるのは、オレ、軽井沢、平田、須藤、堀北、そして早瀬だ。堀北が変なことを言い出さないかどうか、オレはそれが心配だ。
「まあ、冗談はさておき……ちょっと引っかかるんですよ。いくらなんでも傲慢すぎません?」
早瀬が鋭い視線で理事長を射抜く。いきなり声が低くなったので、軽井沢がビクッと飛び跳ねた。
「と、いいますと?」
「学校側のスタンスですよ。そもそも入学の時点からおかしいでしょう。世界に通用する人材の育成をする。それはわかりますし、非常識な厳しさに関しても仕方のない話なんでしょうね。でもね、それならそれでリスクくらいは事前に伝えるべきでしょう?」
「リスクを伝えるとは、具体的には?」
「赤点即退学くらいは伝えておいても良かったはずです。進学希望の生徒だけ集めてるならいいですけど、どう見ても違うでしょう。別の才能を評価されてる生徒も沢山いるはずだ」
須藤がピクリと肩を震わせた。早瀬ではなく、理事長のことを食い入るような目で見つめる。堀北は表情を変えていないが、名言とか考えていないことをマジで祈る。
「そのくせ、赤点即退学の情報が明かされたのは5月に入ってから。中間試験直前ですよ。いくらなんでもそりゃないでしょう。まさか、厳しさを実感させるためには早期退学者も織り込み済み、とか言いませんよね? どうせモノになるのはひと握りなんだから、あとは使い潰してもかまわない、なんてこと考えてませんよね?」
「おい、早瀬。それが本当だったら、俺はここで暴れ出す自信があるぞ」
「やめなさい須藤君。暴力に訴えかけてはいけない。私達は考えることのできる生き物よ。かつてヘレン・ケラーはこう言った」
「堀北やめろ。今はそういう感じじゃない」
堀北の奇行はともかく、早瀬の言ったことは勘のいいやつなら気付いているだろう。
早期退学者はある程度は織り込み済み。そうじゃないと説明がつかないんだよ。中間テストの範囲が変わったのがオレ達だけ遅れて通達されたこともあったし、アレもごめんなさいだけで補償はなかった。しかも、茶柱先生はとても謝罪しているような態度ではなかったしな。
「……学校側は皆さんの価値を評価し、期待して迎え入れていますよ、早瀬君」
「まるで説得力がありません。まあ、何事にも建前と本音ってのがありますからね。この特殊すぎる学校に関わらず、全て本音で語るなんて土台無理なことなのはわかってます。でも、それでもこれだけは伝えさせてください」
「……」
「人の人生なんだと思ってんですか。厳しく鍛えるのは大いに結構ですけど、入学1ヶ月やそこらで退学させる可能性があります。情報は試験直前に伝えます。ダメなら後は知りませんって、それはない。そんなことするなら、ハナから受け入れなきゃいいでしょう」
理事長は顔に右手を添えて、眼鏡の位置をそっと直した。その間も視線は早瀬と合ったままだ。表情は不自然なほど穏やかで、怒りや失望といった感情は微塵も見受けられない。
もしかしたら──親が子供を見守るような眼差しというのは、ああいう感じなのかもしれない。
「……仮に退学になってしまったとしても、それで人生を棒に振るようなことにはなりません。我々とて、そこまで無責任なことはしませんよ」
「そうですか。わかりました。ですが、須藤君への対応は納得できませんよ。綾小路君、茶柱先生は早々に情状酌量を求めるべきだって言ったんでしょ?」
「ああ、言ってたな。堀北達も聞いてたはずだ」
「そうね。たしかに言っていたわ」
理事長の表情は変わらない。静かに、悠然とした様子で、オレたちのことを眺めている。
「さっさと罪を認めて許しを請えってことですよね。それまでの心象が悪かったのは事実ですけど、イメージ頼みで判断されても困るんですよ。これも学校側が与えてる試練だって言われればそれまでですけど、俺たちからすればそれはおかしなことなんです」
オレは早くも、この学校はそういうものだと思い始めている。怒ったふりをしている早瀬もそれは同じだ。オレ達だけじゃない。ここに来ている面々とは事前に話をしたし、みんな同じように
それでも、ここらでハッキリ言っておくべきだ、というのが早瀬の意見で、それもそうだなとなった。
たしかに、謙虚は大切なことだ。しかし、それだけでは舐められる、軽んじられるというのもまた真理。
理事長からの心象が悪くなるというリスクはあるが、みんな乗り気だったし、それなら言っても構わないとオレは思う。
「何より頭にきたのは、須藤君に謝罪が一言もなかったんですよね。茶柱先生は及第点だって言ってましたけど、その前に言うべきことがあるでしょう。ハナから決めつけてかかるのは良くないって、小学生でも知ってますよ。ちゃんとできているかはともかく」
ここで、須藤が軽く息を吐く。今度は少し怒りが顔に出ている。たしかに、茶柱先生はコイツに謝罪ひとつなかったからな。
「そこのところ、どうお考えなのでしょうか。坂柳理事長。厳しく指導するのとこれは別問題。建前でもいいからちゃんとしてくださいよ。この学校は社会の縮図だって聞いたことがありますけど、だとしたらなおのこと建前くらいはちゃんとしてください。それすらなくなったら、おしまいでしょ」
早瀬は終始、普段とは全く違うピリピリとした雰囲気だった。声のトーンもずっと低くて、なんだか別人を見てるみたいだったな。
坂柳理事長は二度、首を縦に動かした。
少しだけ困ったような顔で、肯定した。
「そうですね。そして、今言ったようなことをきちんと主張できる。それはとても大切なことです。何も言わなければ肯定と捉えられ、時に搾取される。それが社会ですから」
窓の外から差し込んでいる夕焼けの光が、理事長の顔に大きな影を作る。
この後、オレ達はクラス全員3000ポイントの上乗せを勝ち取り、理事長室を出ることになった。そして後日、クラスポイントが10上乗せされていることが判明し、クラス順位には全く影響しなかった。
────────◇────────
「珍しく怒ってたな。何か嫌なことでもあったのか?」
そういえば今日は七夕か。
そんなことを考えながら、オレは早瀬に軽口を叩いた。今は中庭のベンチに2人で座っている。
七夕なぁ……彼女でもいれば夜はデートしたりあるんだろうが、生憎とオレはまだ独り身だ。一度くらいは普通の恋愛をしてみたいもんだが、いつになるかはわからないな。
「嫌なことだらけだろ。須藤の件にはじまり、一之瀬さんはビッチ呼ばわりされるわ、人は死にかけるわ、めちゃくちゃだよ。めちゃくちゃ」
「たしかにな。めちゃくちゃなことばかりだ」
「だろ? 後はちょっと、昔のことを思い出したんだよ……決めつけられて謝罪しろって言われる。そういうことが前にあってさ、ああ、あの時は暴れたなって思い出してたらイライラしてきたんだよ」
「暴れたのか? 学校で?」
「よくないよねー。でも許せなかったから暴れたよ。まあ、今ならもっと別の方法を考えるけど、当時の俺は色々と初体験のことばかりで、何も上手くやれなかったから」
初体験か。そういえば初体験はもう済ませたのだろうか。だとしたら相手は松下か。
「そうか。それはそうと、今日は七夕だぞ。やっぱり松下と過ごすのか?」
「いきなり話題飛んだな……いや、一緒にはすごさないんじゃないかな? 俺は予定あるし、松下さんも友達と遊んだりするんじゃない?」
「知らないのか?」
「逆になんでよ。友達の予定を完全把握とかしてないって」
する必要もないと早瀬は続けた。
視線はオレ同じで空に向けられているが、どこか心ここに在らずといった様子だ。
少し疲れたのかもしれない。こいつはかなりタフな方だとは思うが、今回は濃密な数日間だったしな。
理事長への殴り込みで疲弊したのは勿論。須藤の件では初対面の上級生との絡みが多かったようだし、精神をすり減らしたのは想像に難しくない。対人関係というのは、体力があったとしても疲れるものだ。朝比奈先輩とは腹の探り合いもあっただろうし。
「早瀬、疲れたか? まあ、疲れたよな。オレンジジュースとかでよければ買ってくるが」
「いや、いい……大丈夫。疲れたってよりはスッキリしないなって感じかな。神崎君と近藤君のこととかね」
オレは中庭のベンチから立ち上がり、こちらを見上げてくる早瀬と目を合わせた。上空は焼けるような夕焼けだ。一日を締めにかかっている
「ここでも証言の食い違いか……まあ、近藤は退学してしまったし、神崎は気が動転していたと言っている。これじゃどうすることもできないな」
「そうだね。まあ、気になる人は他にもいるけど、それは俺達が首を突っ込む話じゃない」
「そうだな」
それは小宮のことか、石崎のことか。あるいは──いや、そもそも考える必要はないだろう。オレは名探偵になりたいわけでも、今以上にスリリングな学校生活を送りたいわけでもないのだから。
Aクラス争いに熱くなるつもりもない。そういうのが嫌だから、オレはこの学校を選んだんだ。オレはあくまで事なかれ主義で、平凡でいい。そうじゃなきゃ──いけない。
「早瀬は今回はかなり張り切ってたが、本格的にAクラスを目指すことにするのか?」
「ぶっちゃけそこまで拘りない。俺も松下さんもよく話してるんだ。叶えたいことがあるなら、自分の力でできるようにしようねって。そうすれば何があっても大丈夫だから」
「早瀬達は大人だな」
「そうでもないよ。こんな風に考えられるようになったのは……いつだっけ。中2くらいかな? たしか」
俺はAクラスで卒業できようができなかろうが、
だから、上を本気で目指すのは堀北達であって俺じゃない。
あれもこれもはできないし、やらない方がいいと思うし、あまり分散させたくもない。
俺は欠陥品として完成している。そのことは自分が1番よくわかっているから、あれもこれもと欲張るようなことはしない──してはいけない。
────────◇────────
「頭とかぜんぶ空っぽにしよ。うん、それがいいよ。なんか疲れてるみたいだし、とりあえず空っぽになっとこう? ね?」
私はエアコンのリモコンを手に取り、温度ダウンのボタンを連打した。他意はないよ。お風呂上がりだから暑いだけ。
予定通りなら今頃はカラオケにいたはずだけど、気乗りしなかったから帰ってきちゃった。別にいいよね。私はそんな重要なポジションの人間じゃないし。
「あれ? 朝比奈先輩から連絡来てるよ。ほら」
「あーほんとだ。なになに? 花火上がるらしいから見に行こうって」
「ほーん。そうなんだ。何時から」
「あと30分くらい」
私はベッドにダイブした。やっぱりちょっと大きくなってるな……どこがとは言わないけど。Tシャツがキツいとかはない。でも、自分でわかる程度の変化ではある。原因はひとつしかない。
「まな君。花火は私も見たいけど、その前に休憩。膝枕して?」
「いいけど──うわっ」
特に疲れてはないけど、私は彼の腰の辺にしがみついた。ベッドの真ん中に引っ張りこんで、えいっと膝枕を開始させる。うーん、もう少し脂肪をつけて欲しいなぁ。ちょっと硬い。
「私、これを枕にして少し寝るね。寝てるんだから起こさないでね。電気は消さなくていいよ」
「千秋ちゃん、松下さーん? どうしたのいきなり」
「あ……ふふっ。それちょっといいかも。思ったんだけど、初対面の頃みたいに苗字で呼んでみてよ。少しの間だけでいいから」
「聞いてる? なんでいきなり自分の世界に入ってるんだ……なんかあった?」
彼は心配そうに顔を覗き込んで来た。えー、何もないし私は何も知らなーい。
目を閉じて視線も合わせてあげません。何のダメージも生まれないことはわかっている。
「じゃあ時間来たら起こすから、電気消す?」
「ダメ。消さないで。待ってる間ヒマでしょ? 見てていいよ。クラスメイトの女子の無防備な姿」
あくまで見るだけ。変な気を起こして触ったりしちゃダメ。寝てるんだからそっとしといて。
そうやって念押しして、体から完全に力を抜く。
はじめの数分はまったりして、あったかくて、本当に眠気が襲ってきたよ。はじめの数分はね。
5分くらい経ったら酸欠になってた。なんで髪の毛つかむの? ぞくぞくして泣いちゃったじゃん。ひどいよ。