黒刃と寄る辺なき花   作:アサナシケイ

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はじめまして、アサナシケイです。
『黒刃と寄る辺なき花』を読んでいただきありがとうございます。

本作は『マンダロリアン』を題材にした二次創作(オリ主)小説です。
原作キャラクターも登場予定ですが、物語の中心はオリジナルキャラクター二人の関係性です。

記憶を失った男と、廃基地でひっそり暮らす少女。
その奇妙な共同生活の先に何があるのか、見届けていただけたら嬉しいです。
ご期待に添えるか分かりませんが、少々長いですが今回だけ一話を丸ごと全て掲載します。

更新は不定期です。気長にお付き合いいただけると幸いです。


第一話 氷の星の孤児

 

 泣き声が意識を揺さぶった。

 

 悲痛で聞いているだけで胸を掻きむしられる声。

 

 ——しないで。

 

 何を伝えたいんだろう。よく聞き取れない。

 

 ——お願い。

 

 何がそこまで悲しませるのか。俺にできることは……。

 

 ——どうか。

 

 夢現の中で。

 声のする方へ。

 手を伸ばそうと、せめて意識だけでも。

 だが、泣き声は聞こえなくなったようだ。

 はたまた、聞こえないほどまた意識が沈んだのか。

 

       *

 

 意識が再び、深い底からゆっくりと浮上してくる。

まぶたを開いた瞬間、世界は燐光めいた緑の輝きに満たされていた。

 光が液体の中でゆらぎ、視界の端で泡が立ち上る。

 

 男は息を吸おうとして——

 喉奥に異物感を覚えた。

 

 口には呼吸用のパイプが差し込まれている。

 冷たい管が舌を押さえつけ、呼吸のたびに微かに震えた。

 

 胸が一気に強張る。

 周囲を見渡そうとするが、視界は歪んだ緑の光に包まれ、輪郭が曖昧だ。

 腕を動かそうとすると、重い。

 液体がまとわりつき、筋肉の動きを鈍らせる。

 

 男はようやく理解する。

 ——自分は、筒の中にいる。

 

 円筒状の透明な壁が、指先に触れた。

 冷たい。

 硬い。

 自分がすっぽり収まるほどのサイズの、縦長の容器。

 

 閉じ込められている。

 

 その事実が、脳の奥で警鐘を鳴らす。記憶が霧のように散り、何も掴めない。

 液体はゆらりと揺れ、燐光の緑が男の肌を照らす。

 その光は美しくもあり、同時に不気味だった。

 

 何かを治しているのか、侵しているのか——男には分からない。

 胸の奥で、理由のない恐怖が膨れ上がる。

 逃げられない。

 息もできない。

 理解もできない。

 

 ただ——覚醒してしまった。

 

       *

 

 部屋の静寂を破るように、扉が低い駆動音を立てて開いた。

 

 滑らかな白い外装を持つ医療ドロイドが、無機質な足音を響かせながら入室する。

 男はまだ円筒の中で、燐光めいた緑の薬液に沈んだまま混乱していた。

 

 ドロイドは男の視線など気にも留めず、筒の側面に取り付けられた操作盤へ歩み寄る。金属指がパネルに触れた瞬間、内部に微かな振動が走った。

 

 次の瞬間——筒が、男ごと傾き始めた。

 ゆっくりと、しかし容赦なく。

 

 縦に立っていた円筒が、油圧の唸りとともに横倒しへと姿勢を変える。

 男は体勢を保てず、薬液の中で無力に揺さぶられた。

 燐光の緑が波打ち、視界がぐらりと回転する。

 そして、筒の底部から低い排出音が響いた。

 

 薬液が流れ出す。

 勢いよく、容赦なく。

 男の身体の周囲から、燐光の液体が一気に引いていく。

 肌にまとわりついていた重さが剥がれ落ち、冷たい空気が代わりに触れた。

 

 男は呼吸用パイプ越しに荒い息を吐き、混乱のまま横倒しになった筒の内壁を掴む。

 

 何が起きているのか分からない。

 

 薬剤がほとんど排出され、男の身体が筒の内側にむき出しになる。

 冷たい空気が肌を刺し、男は反射的に身を縮めた。

 呼吸用パイプが喉奥で軋み、荒い息が管の中を震わせる。

 喉奥の異物が軋む。

 胸が苦しい。

 

 だが——このままここにいたくない、と本能が叫んでいた。

 

 男は壁に手を伸ばした。

 冷たい。

 硬い。

 指先が震えながらも、筒の縁を探る。

 身体は重い。

 筋肉が薬剤にまだ支配されている。

 

 それでも、男は必死に腕を引き寄せ、筒の外へ這い出ようとした。

 肩が縁にかかる。

 次に胸。

 喉奥のパイプが苦しく引きつり、男は呻き声を漏らした。

 

 それでも前へ進もうとする。

 片足が外へ滑り落ちた。

 床の冷たさが足裏に触れた瞬間、男の心臓が跳ねる。

 

 ——出られる。

 

 その一瞬の希望にすがり、男はさらに身体を押し出そうとした。

 

 だが。

 

「ぴ——ッ」

 

 背後から機械的な音が響いた。

 医療ドロイドが、いつの間にか筒の側面に立っていた。

 

 男が振り返る間もなく、金属の腕が彼の胸元を押し戻した。

 力は強いが、正確で、骨を折らないぎりぎりの圧力。ドロイドは男の反応を一切気に留めず、胸元へ金属の指を伸ばした。

 触れた瞬間、冷たさ男の身体がびくりと跳ねる。人間の体温とはまるで違う、無機質な冷たさ。

 

 ドロイドは胸骨の位置を正確に押さえ、内部センサーを起動する。

 指先が淡い光を放ち、男の皮膚の下をなぞるように走る。

 その光は、検査用の走査線だ。

 

 男は意味が分からないまま、ただ恐怖に固まる。ピッピッ、と規則的な電子音のみが部屋に響く。

 

 ドロイドは次に男の顔へ手を伸ばす。

 頬骨、こめかみ、額。

 冷たい指が順番に触れ、内部の状態を読み取っていく。

 

 男は逃げようとするが、身体が思うように動かない。

 薬剤の影響か、筋肉がまだ重い。

 

 ドロイドに取り付けられたランプが、緑から赤の明滅と変わる。男の混乱も、恐怖も、抵抗も、すべて無視される。

「……ピ、ピピッ……」

 電子音が短く鳴る。

 それが“検査結果”なのか“次の工程”なのか、男には分からない。

 

 そして、ドロイドの指が喉元へ移動した。

 呼吸用パイプの根元を固定する。

 

 ——おい、待て。

 

 目的を理解した男の心臓が跳ねる。

 喉奥の異物が、機械の指に触れた。

 

 逃げたくとも、叫びたくとも、身体は重く声も出ない。

 ドロイドは角度を調整し、ためらいなく動作に移った。

 

「ピ——」

 

 合図のような電子音が鳴った瞬間——パイプが、一気に引き抜かれた。

 

「——!!!」

 

 喉の奥が焼けるように痛む。

 空気が、初めて直接肺へ流れ込む。

 冷たく、鋭く、そして。

 生の匂いがする。

 

 男は咳き込んだ。身体が勝手に跳ねる。筒の外壁に肩をぶつけ、息を求めて口を開く。

 空気が肺を満たすたび、胸が痛む。

 それでも吸わずにはいられない。

 喉がひりつき、涙が滲む。

 

 呼吸ができる——それだけで、世界が一瞬だけ鮮明になる。

 

 だが、ドロイドは男の苦しげな呼吸を一切気に留めず、次の処置へ移るために位置を変えた。

 

 ——こいつ……!

 

 その動作に合わせて、また電子音が鳴る。

 

 ——絶対、後でスクラップにしてやる。

 

 恐怖はいつしか怒りに置き換わっていた。

 荒い呼吸を繰り返しながら、ようやく自力で空気を吸えるようになった。

 

 だが、その安堵はほんの一瞬だった。

 胸の奥で、何かがずれるような感覚が走る。

 次の瞬間、男は気付いた。

 

 ——自分が誰なのか、分からない。

 

 名前も、年齢も、過去も。

 何ひとつ掴めない。

 

 空気を吸うたび、胸の奥で再び恐怖が膨れ上がる。

 頭の内側で、何かが軋む。

 痛みが、波のように押し寄せた。

 

 最初は鈍い痛み。

 次に、鋭い痛み。

 そして、脳を直接掴まれるような激しい痛み。

 

 男は床に手を伸ばし、爪を立てる。

 だが、痛みの波が来るたび、意識が浮かんでは沈む。

 世界が遠ざかり、また戻り、また遠ざかる。

 

 その朦朧とした意識の中で——機械の電子音が聞こえた。

 医療ドロイドのものだ。

 冷たく、規則的で、感情の欠片もない音。

 

 だが、その電子音に重なるように、別の感触があった。

 背中をさする手。

 人の温度を持った、柔らかい手。

 焦りと気遣いが込められた、震えるような触れ方。

 

 そして、耳元で声がした。

 優しくて、必死で——どこかで聞いた声。

 

 何かを呼びかけている。男の名前かもしれない。

 だが、聞き取れない。

 

 痛みがさらに強くなる。

 頭の奥で、何かが破れたような感覚が走る。

 

 ぢくり、と刺す小さな痛み。

 腕か、首か、どこかに針が触れた。

 

 続いて、冷たい薬液が体内へ流れ込む感覚が広がる。

 その冷たさが、痛みの波と混ざり合い、意識を深い方へ引きずっていく。

 

 声が遠ざかる。

 

 手の温もりが遠ざかる。

 

 電子音が水の底へ沈むように薄れていく。

 

 男の意識は、暗い暗い記憶の海へ沈んでいった。

 

       *

 

 次に目が覚めると何処かの寝台に寝かされていた。服を着せられ毛布もかけられているが、剥き出しの顔に当たる空気は冷たい。

 

「ん……あ…………」

 僅かに出してみた声は本当に自分の声だろうか。

 

 駄目だ、完全に、

 

 ——何も思い出せない。

 

 ——自分が誰なのかさえ。

 

 先ほど打たれたであろう鎮静剤がまだ効いているのか、今度はすんなり受け入れられた。

 

 寝たまま身体を軽くまさぐってみる。ゆったりとした清潔そうな衣類は、石鹸と少しばかり消毒液の匂い。

 

 指先が手首に嵌められた金属に触れる。拘束具か爆弾かと身構えたが、左手だけに嵌められたその機械の、規則的に点滅するグリーンのランプを見るに生体反応(バイタル)を測る装置のようだ。

 

 腹筋に軽く力を入れて身を起こす。幸い、特に痛みはない。薬剤も抜けたのか、身体の重さも消えている。

 

 殺風景な部屋だ。寝台(ベッド)の他には机と椅子が一脚ずつ。他には何もない。顔に当たるぬるい風が煩わしい。暖房のようだがそれにしたって部屋は寒い。

 

 ベッドから降りようとした時、足音が聞こえた気がした。

 

 素早く布団に潜り直す。気のせいではなかった、こちらに真っ直ぐ向かってくる。何か金属質の物がぶつかり合う音もする。

 

 武器の類はない。相手が一人とは限らない。

 殺すつもりなら治療はしないだろう。抵抗を警戒するなら拘束するだろう。敵対していない可能性は高い。

 

 だが自分が持っている——記憶は無いのだが——情報目当てなら生かすだろう。確認できなかった施錠をもって拘束のつもりだったら。

 

 迷っているうちに部屋の前まで来てしまった。ひとまず寝たふりをすることにした。

 

 コツコツ。

 

 扉を叩く音がする。

 

「——————?——————!」

 

 何だ? 甲高い鳴き声のような音だが、何かの言語とも取れる声がした。

 

 ドアが開かれ入ってくる。それは少し室内で立ち止まると、机の上に持っていた何かを置いた。金属がぶつかる音がした。

 

 背中を向けている今なら先手が取れるかもしれない。横目で確認した背丈はヒューマンよりずっと小さい。大柄なジャワ族ぐらいしかない。

 着込んでいて体型は分かりにくいが戦闘が得意な種族にも見えない。

 

 ゆっくりと、しかし音を立てないように身体を起こした。

 相手は気付かない。

 背中を向けたまま、手に持った何かを操作している。

 

 男は一気に距離を詰めた。

 ベッドの軋みを殺し、床の音を消し、影のように相手へ迫る。

 

 相手が振り返るより早く、男の腕がそれの首元へ回った。

 細い肩がびくりと跳ねる。

 男の右手は謎の人物の後頭部へ伸びる。右手の人差し指と中指だけを揃えて後頭部に押し付けた。

 ——熱線銃(ブラスター)だと上手く騙されてくれれば良いが。

 

 ひっ、と息を呑む音を立てて、体を強張らせる感触がする。

 

「動くな」

 手に持っていたタブレットを取り落としたようだ。

 机の上のコップにぶつかり、ガシャンと言う音と共に中に入っていた液体が溢れて床に垂れ落ちる。

 

 そいつは顔面全てを覆うガスマスクをしていて——扉越しには気付かなかったが——そこに備え付けられた機械で変声しているようだ。

 

「ここは何処だ? 俺はどうしてここにいる?」

 腕の中の生き物は言葉が伝わっていないのか何も喋らない。

「ハッティーズ語なら分かるか? Chuba je uyari?(俺の言うことわかるか?)」

 

 驚くことに俺はハッティーズ語が使えるらしい。

 

 だがこいつは、はっ、はっ、と短い呼吸音を立てながらブルブルと震えている。

 何を考えているかはわからない。

 

 そいつはより一層身体を強張らせると、

「び、病院!病院です!元!」

 変声されてざらつく聞き取りづらいが、銀河共通語(ベーシック)で叫んだ。

「あなたは墜落して来たんです!それで、治療を……」

 

 墜落? 俺が? 治療を? こいつが?

 ふと机に視線を落とすと、倒れたコップの他に椀が一つ。簡素な料理が湯気を立てていた。倒れたコップの中身はスープのようだ。

 

「あの、っ、ごめんなさい、暴れないから、っ、……離して……ください」

 変声機越しでも分かる泣き声。男はそれを聞いた瞬間——全身が冷えた。

 

 自分がやったことが、理解できた。

 こいつはただ食事を運んできただけ。

 それなのに、俺は——。

 

 男は自分の腕の中で震える小さな体温を感じた瞬間、胸の奥がぐしゃりと潰れたようになった。

 何をしているんだ、自分は。

 どうしてこんなことを。

 

 思考が一気に崩れ、羞恥と罪悪感が混ざり合って頭の中をぐちゃぐちゃにかき乱す。

 

 男は慌てて腕をほどいた。

 首から腕を離し、後頭部に押しつけていた指もすぐに引っ込める。

 そして、両手をゆっくりと、はっきり見えるように頭の横へ挙げた。

 

 武器は持っていない。

 敵意はない。

 それを必死に示すために。

 

「……っ……すまない……」

 喉がまだ痛むせいで声はかすれ、言葉にならないほど弱々しかった。

 

 それでも、謝罪だけはどうしても伝えたかった。

 マスクの人物は解放された瞬間、膝がわずかに震えた。

 その震えが止まる前に、それはしゃくりあげるように泣き出した。

 

 最初は小さな呼吸の乱れだった。

 だが、安堵が一気に押し寄せたのか、涙が止まらなくなった。

 

「ひ……っ……う、うぅ……っ……」

 背中を向けたまま、肩を震わせて泣く。

 声を抑えようとしているのが分かる。

 それでも、涙は止まらない。

 

 男はその背中を見つめた。

 横倒しになったコップから、こぼれた液体が広がり、自分の靴の先を濡らしている。

 

 男の胸が締め付けられる。

 羞恥が熱となって顔を焼き、罪悪感が胃の奥を冷たく刺した。

 

「……本当に……すまない……」

 今度は少しだけ声が出た。

 震えていたが、確かに言葉になった。

 

 マスクの人物は泣きながら、かすかに首を振った。

 許すわけでも、責めるわけでもなく、ただ涙が止まらないまま、呼吸を整えようとしている。

 

 やがて、マスク氏は震える手で男の左手を指さした。そこには、バイタル測定用の腕輪が嵌められている。

「……その……バイタル……測らせて……」

 声はマスク越しでくぐもっているが、必死に落ち着こうとしているのが伝わる。

 

 男は両手を挙げたまま、ゆっくりと頷いた。

 自分がやらかしたことの重さを理解しながら、ただ従うしかなかった。深く息を吐き、マスク氏の申し出に従ってゆっくりとベッドに腰を下ろす。

 

 まだ身体の芯が揺れているような感覚が残っているが、抵抗する理由はどこにもなかった。

 自分がやらかしたことを思えば、むしろ従う以外の選択肢はない。

 

 マスク氏も男の隣に腰を下ろした。

 ガスマスク越しに表情は見えないが、肩の動きや呼吸の速さから、まだ緊張が抜けていないことが分かる。

 手には小型のタブレットが握られており、画面にはバイタル測定用のインターフェースが表示されていた。

 

 男の左手に嵌められた腕輪が、タブレットの接続を感知して微かに光る。マスク氏は震えの残る指で画面を操作し、測定を開始した。

「……今、見ます……」

 声はくぐもっているが、慎重さと緊張が滲んでいた。

 

 数秒後、タブレットに数値が並ぶ。心拍、呼吸、血圧、酸素濃度。どれも正常範囲内だった。

 

 マスク氏は肩を大きく落とした。

 安堵が、はっきりと伝わった。

 ガスマスク越しでも分かるほど、全身から力が抜けていく。

 

「……よかった……本当に……」

 その声は震えていたが、心からの安堵がこもっていた。

 

 男はその様子を見て、胸の奥がまた締め付けられた。自分の行動がどれほど相手を怯えさせたか、今さらながら痛いほど理解する。

「……迷惑を、かけてしまって……」

 短い言葉しか出ないが、それでも謝罪の気持ちは強かった。

 

 マスク氏は首を横に振った。責めるでも許すでもなく、ただ男の無事を確認できたことに安堵しているようだった。タブレットの画面には、安定したバイタルが静かに表示され続けている。

 

 その数値がどれも正常だと分かり、マスク氏は深く息を吐いた。ガスマスク越しでも安堵が伝わるほど、肩の力が抜けていく。タブレットを胸の前で軽く抱え直すと、男の顔へゆっくりと向き直った。

 

「……顔、見せてもらえますか」

 くぐもった声はまだ震えていたが、落ち着こうとする意思が感じられた。

 

 男は少し戸惑いながらも顔を向ける。

 マスク氏はベッドの上で体勢を寄せ、男の左側へ視線を落とした。

 

 左目の周囲から首筋へかけて、皮膚の色がわずかに違う。薄く盛り上がった線が、光の角度で浮かび上がる。

 

「……火傷跡が、残ってしまっています」

 その言葉は慎重で、痛みを与えないように選ばれていた。

 

 マスク氏はゆっくりと手を伸ばし、男の左目の下あたりへ指先を近づけた。触れる前に一度ためらい、許可を求めるように男を見る。

 男が小さく頷くと、指先がそっと皮膚に触れた。

 

 その触れ方は、医療者の慎重さそのものだった。

 軽く、ゆっくり、跡の形を確かめるように。

 男はわずかに肩を強張らせたが、痛みはない。ただ、敏感な場所に触れられたせいで、皮膚がひやりと反応した。

 

 指先は左目の下から頬へ、そして首筋へと滑るように移動する。

「治療そのものは完了しています。もう痛むことはないはずです」

 マスク越しの声は静かで、落ち着いていた。

 

 指先が離れると、マスク氏はタブレットを見下ろしながら続けた。

「跡は……これから少しずつ薄くはなります。でも、完全には消えないと思います」

 

 男はその言葉を黙って受け止めた。

 自分の顔に刻まれたものの実感が湧かない。

 

 マスク氏は男の表情を読み取ろうとするように、しばらく黙って見つめていた。ガスマスク越しでも、その視線が真剣であることだけは分かった。

 

「その……」「それで」

 ほぼ同時に言葉がぶつかったので、ジェスチャーで先を譲った。

 マスク越しに小さく咳払いをして、彼(彼女?)は少し声のトーンを落とした。

 

「目覚めた時のことは覚えてますか?」

「?……少し?」

「あの時、おっしゃってた事、とか」

「いや、すまない、朦朧としていたから」

「……それじゃあ、運ばれてくる前のことは」

 

 ああ。何を聞きたいのか分かった。そういえば、口走っていた気がする。

 

 ——俺は、誰だ。と。

 

「覚えていない。俺は」

 深呼吸を一回挟んだ。

「自分が誰なのかも分からない」

 

 マスク越しに小さな声が聞こえた。その下の表情が、何故か知りたいと思ってしまった。

 

 マスク氏は手元のタブレットを少し操作すると、画面をこちらに向けて差し出した。

 

 そこには見慣れない若い男が映っていた。

 違う、内側のカメラで映しだされた映像だ。

 

 赤味を帯びたブラウンヘアは、ところどころ不揃いに短く切り揃えられていた。必要に迫られて切っただけのような雑さが残り、毛先が跳ねている部分もある。

 整えられた印象はなく、ただ「生き延びるために切った」という実用の痕跡だけがあった。

 

 瞳は光の角度によって緑にも茶にも見える色で、どこか柔らかい印象を与える。焦点の合わなさが、まだ完全に覚醒していないことを示していた。

 

 確かに言われた通り、左目から首まで火傷の跡が微かにある。盛り上がった線が光を受けてわずかに浮かび上がり、皮膚の色も周囲より少し濃い。

 少し触れたところで感触の違いもない。

 

 だが、困惑を浮かべた表情には違和感しか感じなかった。知らない顔が自分の首に乗っているのは何だか奇妙な気分だ。

 

 無言で首を横に振ってモニターを返す。

 マスク越しに聞こえたため息は、何故だろう、落胆というより……。

 ——安堵?

「ん?」

「いえ、分かりました」

 思わず違和感が溢れるが、流されてしまった。

 

 マスク氏はタブレットの画面を一度確認すると、そそくさと電源を落としてポケットにしまった。立ち上がりながら、部屋の隅に置かれた机へちらりと視線を向ける。

「……口に合うか分かりませんが」

 

 その言葉に、男は即座に反応した。

「いや食べる、食べるよ。ありがとう」

 声はまだかすれているが、必死に気持ちを伝えようとする。

 

 マスク氏は小さく頷き、机の上のトレイとこぼれたスープを見て肩を落とした。だがすぐに姿勢を正し、男へ向き直る。

 

「詳しい話とかは、食事の後で。すいません、調べ物があるので席を外しますね」

 淡々とした言い方だが、どこか気遣いが滲んでいた。

 

 男は思わず声を漏らした。

「あ……」

 マスク氏が振り返る。

「?」

 

 男は立ち上がり、深く頭を下げた。背中が折れそうなほど深く。

「本当に申し訳無かった」

 その姿勢のまま、視界の端にこぼれたスープが映る。床に広がった薄い色の水溜まりが、男の胸をさらに締め付けた。

 

「命の恩人にとんでもないことをしてしまった。俺に出来ることがあるなら何でもさせてほしい」

 心を込めて謝罪する。真剣に、誠実に。

 自分がやらかしたことの重さを、ようやく正面から受け止めたように。

 

 男が深く頭を下げたまま言葉を絞り出すと、マスク氏はしばらく黙ってその姿を見つめていた。ガスマスク越しでも、視線が柔らかく揺れているのが分かる。

 怒りも恐怖もなく、ただ静かに受け止めようとする気配だった。

 

 やがて、マスク氏はゆっくりと首を横に振った。

「……助かって良かったんです。ほんとうに」

 くぐもった声なのに、不思議と温度があった。心からの安堵がそのまま言葉になっているようだった。

 

 男は顔を上げる。マスク氏は少しだけ肩をすくめ、軽く冗談めかした調子で続けた。

 

「これ以上謝られたら、あなたのこと『すまないさん』って呼びますからね?」

 ガスマスクのせいで表情は見えないのに、なぜか笑っている気配が伝わる。

 

 男は一瞬、言葉を失った。

 自分があれほど取り乱し、相手を怯えさせたというのに——この人は、こんなふうに返してくれる。

 

 圧倒的、人間性の敗北。

 

 扉が開いて閉まっても、しばらく頭は下げたまま、いや上げられなかった。

 

 はあ。

 

 流石に、床に這いつくばって舐めたらそれはそれで怒られるだろうな。

 

       *

 

 空の食器を片手に扉を開けた瞬間、

「うわ、寒!!」

 

 思わず口を付いて出るほどの寒気が廊下いっぱいに満ちていた。とてもじゃないが病院施設とは思えない気温だ。

 

 それに思ったより入り組んでいて、ここは病院というより、そう

「基地……?」

 

 困惑と意外な結論が口をついて出る。

 何かの作戦基地、それも急拵えの。更に補修こそされてるが、攻撃を受けた跡も見てとれた。だがどれもこれも時間が経っているようだ。

 

 何て観察してたら凍えてしまう。探すか戻るか、さて。

 

 Beep!! Beep!!

 

 警戒するような電子音に身構えたが、曲がり角から現れたのは見覚えのある医療ドロイドだった。手には分厚い防寒具だ。

 なかなか気が効くドロイドじゃないか。

 

 バサッ!

 力一杯投げつけられる防寒具。そして毟り取られる食器の盆。

 前言撤回。俺は患者じゃないのか、ポンコツ?

 

 袖を通すと古びているが暖かい。これなら耐えられそうだ。

「ついでにお前のご主人まで案内して貰えるか?」

 

 着いてこい、と言わんばかりに一鳴きするとドロイドはゆっくりと走り出した。

 

       *

 

 ドロイドの後ろを早歩きしながら、周囲を眺める。ブラスターの焦げ跡、千切れ飛んだ配線、山積みの瓦礫、どれも放置されて久く見える。

 通り道など必要なところだけ直してはいるみたいだが、必要最低限といったところか。

 

 瓦礫の隙間に転がっている物を拾い上げる。帝国トルーパーのヘルメットだった。薄らと積もった埃を払い除けると、バイザーに知らない顔が映る。

 

 不思議な懐かしさを感じていると、ズボンの裾を強く引っ張られた。ドロイドがこちらを見上げている。

「分かってるよ。すぐ行く」

 放り投げたヘルメットの空虚な音が廊下にこだました。

 

           *

 

 徐々に綺麗になっていく廊下を進み続けると、一つの部屋の前でドロイドは止まった。扉をノックすると少し間を空けて「どうぞ」と返事がくる。

 

「入るぞ」

 

 廊下と比べたら暖かいが、ここもやはり室温は低い。自分が寝かされた部屋と同じかそれ以下か。

 それでも、そこかしこに置かれた生活用品のおかげか、不思議と温もりを感じられた。

 

 部屋の中央に置かれたデスクには、先程の助手が腰掛けていた。顔を覆うように腕をついていたが、こちらの入室に応じてゆっくり振り返る。

 

「食事は、足りましたか?」

 

 少し足りなかったが、「美味しかったよ、ありがとう」とだけ答えた。

「それは良かった」

 

 向かいに掛けて、と椅子を指す仕草には、どこか気怠さが滲んでいた。

 向かい合わせに座ると、男は改めて訊ねた。

 

「ここは、どこなんだ」

 

 マスク氏は頷き、手元のタブレットを操作する。

 

「順を追って説明しますね」

 

 差し出されたモニターには、星図が映っていた。操作に合わせて銀河の外縁部、その下部がズームアップされていく。

 

「ここはホス星系の惑星ホス。アノート宙域の外れで——今は航路もなく、通りがかる船もありません。星図に載せる船自体、少ないでしょう」

 

「そんな辺境に、俺が……」

 

 不時着を? どうにも、ピンとこない。

 

「この建物は、かつて新共和国の基地だったそうです」

 

「どおりで」

 瓦礫や、焦げ跡の理由に、男は納得する。

 

「帝国の侵攻を受けて放棄され、その後、帝国も一時期駐留していたようですが」

 

「帝国はもう、無いんだったな」

 

「ええ」

 マスク氏は、小首を傾げる。

「……記憶、もしかして戻ってきてます?」

 

「いいや、まだ何も。自分に関することはさっぱりなんだが、こういう常識のようなものは、無事らしい」

 男は貸してもらった防寒具に軽く触れる。

「これも、着方を教わらなくて済んだしな」

 

「それは、良かったです」

 マスク氏は、静かにそう答えた。

 

「それで、この空っぽの基地を病院に?」

「元、ですけどね。それに、ここは正式な病院じゃないんです」

「というと」

 

「闇医者の拠点だったんです」

 

 この惑星ホスは資源的魅力もなく、基地が遺棄された後は航路からも外され、望んで立ち寄る者もいなかった。そこに目を付けたある医者が、宙域の偽装貨物船で細々と行っていた闇医者稼業の拠点を、ここに移した。

 

 どんな生き方をしていても、怪我や病は関係ない。後ろ暗い生活をする者たちの間でひっそりと伝えられたこの座標に、表の医療を受けられない者たちが、一時期溢れるほど訪れたという。

 

 だが、医者もまた人だった。自身も患い、死期を悟った医者は、患者を徐々に断るようになり、やがて客足は途絶え、今に至る。

 

「それじゃあ、今目の前にいるのは」

「助手です」

「患者も、居ないのに?」

「いますけど」

 少し、ムッとした声だった。

 

「そうだけど……その、違うだろ」

 この部屋に来る途中、生き物の気配はまるでなかった。衣擦れも、息遣いも。

「すまない、聞かれて困るなら答えなくていい。ここに今いるのは、俺と、あなただけか?」

 

 沈黙が落ちる。長い間の後、観念したように、助手は頷いた。

 

「五年ぶりの、患者さんです。あなたは」

「五……」

 予想外の答えに、言葉が詰まる。

 

 五年も、ずっと、一人で。

 

「他の星に、行こうとは」

 嫌な予感がした。

「——宇宙船は、無いのか?」

 

「ありますよ」

「あるのか」

「壊れてますが」

「壊れてる……」

 

 少しの間、言葉が出なかった。

 

「それで、あの、折り入ってお願いが」

「待ってくれ。今の俺に、修理できるかどうかも分からない」

「いえ、修理は私でも出来るんですが、問題があって……見てもらった方が早いかもしれません」

 

 案内しますね、と助手が立ち上がろうとして、ぴたりと動きを止めた。

 

 棒立ちのまま、横向きに倒れようとする。

 

 男は椅子を蹴り飛ばしながら飛び出し、床と彼女の間に身体を滑り込ませた。

 抱き止めた瞬間、細い骨格と、この重さで確信した。

 

 この子は——女性だ。

 

「おい! どこか痛むか!?」

 

「え……? あれ?」

 

 意識は、すぐに戻ったようだった。

 

「マスク取るからな。……ドロイド、手伝ってくれ」

 

 ビープ音を立てながら、医療ドロイドが部屋に入ってくる。しっかりと巻き付けられたベルトに苦戦しながら、マスクを外した。

 

 現れたのは、年端もいかない少女だった。

 

 血の気の引いた白い肌に、紫がかった唇。淡い栗色がかった髪が、肩から胸のあたりまで流れ、乱れて頬に幾筋か張り付いている。

 

 閉じかけた瞼の隙間から覗く瞳は、灰色がかった青——まるで、この星の凍えた空をそのまま映したような色をしていた。

 

 頬骨の輪郭が服の上からでも分かるほど痩せていて、閉じた瞼の下の目元には、深い隈が落ちていた。

 一瞬、死体かと思うほどだったが、ひび割れた唇が、微かに震えている。

 

「あ……ごめんなさい、よくある……ので」

「よくある、って」

 ふと、自分の左手に目が止まる。使えるかもしれない、とドロイドへ差し出すと、即座に計測機が彼女の手首へ付け替えられた。

 

 自分には医療の知識がないらしい。今は、このドロイドに頼るしかなかった。

「どうだ、何か分かったか」

 ドロイドは、机上のモニターを取り出し、こちらへ差し出してくる。そこには、一言だけ表示されていた。

 

 【低血糖発作】

 

「……よくある、って、これがか」

「本当に、よくあるので……」

 モニターには、続けて文字が流れる。

 

 【貧血】【栄養失調】【発育不良】

 

 手首の計測器を持ち上げようとして、血の気が引いた。

 ——腕が、あまりに細い。

 背丈は自分の腰ほどしかなく、子供の成長には詳しくないが、十歳前後だろうか。それにしては、顔立ちはもう少し上に見えた。

 

 この娘の姿には、見覚えがある気がした。切なげにこちらを見上げる、その瞳。

 

「——っ」

 

 頭の奥で、鈍い痛みが締まる。

「だ、大丈夫ですか!?」

「俺は、いいから……」

 この期に及んで、人の心配か。

 

 男は細心の注意を払って、少女を抱き上げた。力を入れれば、そのまま砕けてしまいそうな軽さだった。

 ドロイドが、彼女のベッドを示すように手招きする。下ろしてもなお、実感の持てない軽さだった。

 

「あの……」

 心配そうに見上げて何か言いたげにする少女を、頭を軽く撫でて遮る。

「何とかするから、眠っていてくれ。大丈夫だ」

「はい……」

 

       *

 

「さて、ドロイド」

 

 ビッ、と短い返事。構えられたモニターには『何なりと』と表示される。

 

「この子は今まで、ろくに食事も摂れていなかったんじゃないか。何か、あるものはないか」

 

『バイオプラントがあります』

 

「案内してくれ」

 

 そう答えながら、男は自分に苛立った。もっと早く気付くべきだった。あの細すぎる腕。骨の感触。

 事がそう単純なら、彼女はもう少し肉付きが良かったはずだ。それに思い至らなかった自分の鈍さが、今になって重くのしかかる。

 

 案内されたバイオプラントは、極寒の冷気に晒されていた。

 作物はすべて凍りつき、駄目になっている。ほとんどが育成途中で、実どころか花を付ける手前だった。

 最近切り取られたような跡を見れば、先程のスープに浮かんでいた葉に似ている。

 

 ——ここから。彼女は、これだけの物を、削って、集めていたのか。

 

「……備蓄は」

 

 モニターを見る気も失せた。あるわけがない。

 

「何で、ヒーターが動いてないんだ。故障か?」

 

『電力不足』

 

「は?」

 

『バクタ・タンク及び医療設備稼働により、マスターの指示のもと、バイオプラントの電力供給をカットしました』

 

 男は、その一文を三回は読み直した。それでも、理解を拒もうとする自分がいた。

 

 あと少しで実を付けそうだった苗。使いかけの化学肥料。

 無駄にした時間の分だけ、あの子の身体は削られていた。

 

 ——俺は、何日、寝ていたんだろう。

 

 自分の治療のために、彼女の食料が絶たれていた。それを、あの子は一言も口にしなかった。

 

 バン、と両手で自ら顔を張る。

 

 しっかりしろ。感傷も後悔も、後回しだ。今、目の前で見殺しにするようなことがあれば、それこそ償いようがない。

 

「周囲の生態系は。食用に適してるやつは、いるか」

 ダメ元の質問だったが、モニターには何かの草食性らしい生物が映し出された。

「いるのか。生息域は分かるか……よし、行けない距離じゃないな。スピーダーは? できれば、ソリの類も」

 

 良い。何とかなりそうだ。

 

「武器がいる。何かあるか。ブラスターでもいい。搬入口で落ち合おう」

 

       *

 

「武器は……おい、えらい量だな」

 どうやら、抱えられるだけ持ってきたらしい。

「流石に、全部は積めないな。どれどれ」

 

 目についたブラスターピストルを手に取る。ずいぶんと使い込まれているが、整備は行き届いていた。試しに構えてみる。

 

 驚くほど、手に馴染んだ。

 

 持ち方、重心の位置、引き金にかける指の力加減——何ひとつ、迷わなかった。まるで、この手が覚えているかのように。

 

 ——なんで、こんなに詳しいんだ、俺は。

 

 名前も、過去も、何ひとつ思い出せないくせに、身体は、これが何のためにどう使うものかを、正確に知っている。

 

 その違和感を、深く考えるのはやめておく。今は、頭痛と一緒に泣き喚いていられない。

 

「ディスラプター・ライフル?」

 ずいぶん物騒な代物が出てきた。

「アンバンフェーズ社製か。こんなの当てたら蒸発するだけ……パルス機能? ああ、それなら使える」

 

 口をついて出た評は、まるで見慣れた道具を確かめるようだった。何度か構えてから、これも所持品に加える。弾数は心もとないが、狩りの用途なら十分だろう。

 

 他にも色々とあるようだったが、詳しく見ている時間は惜しい。それに、見れば見るほど、知っているはずのない知識が次々と溢れ出てきて、興味と頭痛が同時に強くなっていく。

 

 とても闇医者風情のコレクションとは思えない品揃えだったが、それも今は考えないことにした。

 

 腰のブラスターと、背負ったライフル。その重みを確かめる。不思議と、安心感が湧いてくる。

 

 防風マスクとゴーグルをしっかりと再装着し、スピーダーのグリップを握りしめた。

 整備があまり行き届いていないのか、ヴゥ、と怪しげな音が響く。少しヒヤリとしたが、やがて軽快なエンジン音に切り替わった。

 

「行ってくる。お前は、あの娘を頼んだぞ……」

 ぐっ、とペダルを踏み込む。

「頼んだからな!」

 

 スピーダーはすぐに貨物ソリを後ろに携えながら、軽快に滑り出した。

 

 幸い、天候は晴れている。早めに済ませて、早めに帰ろう。

 

       *

 

 果てしない雪原を一台のスピーダーが駆けていく。空の青と雪の白のコントラストが眩しい。

 巻き上がる地吹雪がゴーグルに纏わりつくのを何度も雑に拭いながら、スピーダーの速度を上げた。

 

 遠くの岩山越しに何か眩い火が駆け抜ける様が見えた気がした。少し経って低く長い衝突音が彼方から響いてくる。

「ッ——!」

 ハンドルを切りブレーキを踏み込む。

 車体は横滑りしながら盛大に雪を巻き上げて止まった。

 

 砲撃かと警戒して辺りを見渡すと、また遠くに二筋の火球が立て続けに落ちていくのが見えた。次いでくぐもった衝突音が二回。

 

 隕石、か?

 

 さすがに基地のある場所ぐらいはシールドで防いではいるだろうが、とても人が住めた星ではないのは確かだ。呼吸が可能な事ぐらいが救いか。

「これが終わったら、星を出る方法も探さないとだな……」

 

 エンジンを再点火しようとして手を止める。

 風で巻き上げられた雪の動きにしては流れ方がおかしい。

 

 ——前方に何かいる。

 

 スピーダーの音で気付かれそうな距離であったが、隕石の音が幸いしたようだ。

 ゆっくりとスピーダーから降りて、付近の岩壁に身を預けてライフルを構える。

 

 スコープを覗き込むと首を持ち上げしきりに辺りを嗅いでいる生き物が見えた。

 体毛が雪と同じ白色をしていて、曲がった角が頭の両脇に二本。

 

 出発前にホロで見た姿と同じ。恐らくあれがトーントーンだ。

 

 風向きは、しめた、こちらが風下だ。

 

 ライフルの制御スイッチをパルスモードに切り替える。ゆっくりと息を吸って吐いて整える。風に乗ってきた獣臭に包まれながら、引き金をじりじりと引き絞る。

 

 鼻にこびりつくような皮脂の匂い。埃じみた雪の匂い。

 ——乾いた血の匂い。

 

「!?」

 

 全身の毛が逆立つような感覚。ライフルごと振り返るのと、こちらに何かが爪を振り下ろす姿はほぼ同時だった。

 

 反射的に引き金が引かれ、高出力の電磁パルスが至近距離で炸裂する。

 並の生物なら即座に昏倒するはずだが、トーントーンではないその獣は数瞬動きを止めただけで、その爪は振り下ろされ、ライフルを弾き飛ばす。

 

 もう片腕が男を仕留めようと振りかぶったその時には既にそこに男の姿は無かった。

 

 ライフルを弾かれた瞬間、自然と身体が横へ跳んでいた。

 

 岩壁を駆け上がり、目指すは獣の背後、頭上へ。太ももに固定した鞘からダガーを抜き出し、頸動脈があるだろう場所目掛けて叩きつける。

 

 浅い。

 

 皮が硬い。

 

 そのまま相手にしがみつくような体勢から、両足で背中を強く蹴り飛ばし、反動で飛びのいた。

 

 つま先を、獣爪が掠めるのを、感じながら、ブラスターを抜き、構え、狙う。

 

 地面に落下するまで、0.8秒。

 

 振り回される爪越しに、こちらを睨む憎悪の眼。

 

 ブラスターから放たれた熱線は、狙い違わずそれを射抜いた。

 

 ぐおおおおおおお!!

 

 恐ろしげな叫び声。

 

 着弾とほぼ同時に背中から地面に滑るように着地し、勢いを殺さず体を一回転させて低姿勢で構え直した。

 

 獣が激痛と怒りで身悶えしている。これでも即死しないのか。

 

 頭部に、二発。胸部に、二発。

 淡々と撃ち込んでようやくその巨体は雪原に沈んだ。

 

 雪をまとったまま、倒れ伏した怪物に拳銃を向け、一切の隙なく照準を固定する。

 

 静かな呼吸を保ったまま、狩人の目が冷たく獲物を捉える。

 

 怪物が微かな痙攣を起こすたび、指がトリガーに微かな力を込めた。

 

 雪原に静寂が落ち、血の匂いだけが風に乗って漂う中——

 絶命が完全に確認されるまで、彼は微動だにせず、獲物を見据え続けていた。

 

 いくばくの時間が流れただろう。指先が冷えていくのを感じ始め、男は、はっ、と短く息を吐いてから銃を降ろした。

 

 俺が、やったんだな。

 

 慣れた手つきでホルスターに収める。

 

 不思議と疑問は感じない。瞬きや呼吸をするかのように身体が自然と動くのが分かった。未だに恐怖より高揚感が勝る。

 

 トーントーンはもう逃げてしまっただろう、流石に見ずとも分かる。

 

「食えるのか、これ……」

 ソリには乗りそうだが。

 

       *

 

 吹雪に遭って立ち往生だけは避けたかったので、結局トーントーンは諦め、正体のよく分からない——恐らく肉食性の——獣を成果物として持ち帰ることにした。

 

 搬入口でスピーダーからソリを外していると、前方から少女がドロイドと共に駆けてくるのが見えた。

 

「お兄さん!」

 

 ——お兄さん?

 

 該当する人物は自分しかいないと分かっていながら、一瞬、振り返りかけてしまう。

 

「走ったりして、また倒れたらどうするんだ」

 

「ご、ごめんなさい」

 目の前で立ち止まり、肩で息をする少女。

「あの、狩りに、出たって聞いて。怪我は、ありま……ひっ」

 

 男の背後、ソリに乗せられた怪物は、断末魔の表情のまま、ここまで運ぶ間に凍りついてしまっていた。覗き込んだ少女が息を呑むのを見て、刺激が強すぎたかと男は反省する。

 

「……これ、ワンパですか」

 

「ワンパ、というのか。狙っていたトーントーンには逃げられて、こいつしか獲れなかった。すまない」

 

「そう、ですか……」

 

 少女は、それ以上何も言わなかった。ただ、乾いてひび割れた頬が僅かに強張り、睫毛が小刻みに揺れている。

 

「食用には向かないのか?」

 

「いえ……癖は強いですけど、美味しいと聞いたことはあります」

 

 言葉を選ぶような、探るような口調だった。少女の視線が、一度だけ怪物へ、そしてまた男へと戻る。

 

「お兄さんが、これを……」

 

「正直、自分でも驚いている」

 

 嘘だった。今も、これができて当然だという妙な自覚がある。だが、それを口にする気にはなれなかった。

 

「解体できる場所は、あるか。水道さえ使えれば、あとは何とかする」

 

「それでしたら、ドクちゃんに」

 

 ピ、と短い電子音とともに、医療ドロイドが外れたソリごと怪物を運び去っていく。

 

「あの子は、解体から調理まで、こなせるんです」

「医療ドロイドが、か。ずいぶん多才だな」

「そうなんです」

 

 少女は、小さく頷いた。先程までの強張りは、いつの間にか和らいでいる。

 

「それなら任せて、少し休ませてもらってもいいか」

 拠点に戻ってから、一気に襲ってきた疲労で身体が重い。

 

「はい。食事ができたら、お呼びしますね」

 

「ああ」

 

 少女は、静かな足音を立てながら、歩き去っていった。

 

       *

 

 夢を、見ていた。

 

 星が、星の光が、彼方から飛び込んで。

 

 ——だめだ、あれをみつづけるな

 

 星、おれのからだ、とおりぬけ。

 

 ——めをとじろ!

 

 飛び去って、星、俺は、おれ。

 

 ——きこえているか!?

 

 全部、全部、飛んでいく。

 

 ——見るんじゃない!意識を保て!

 

 ——しっかりするんだ、◯◯!!

 

       *

 

 男は鋭い息を吸う音と共に、悪夢から飛び起きた。

 

 自分に向かって無数の星々が飛び込んでは貫いていく実感がくっきりと残っている。

 ——首を傾けて叩けば、耳から星屑の残りが出てくるんじゃないかと錯覚するほどに。

 

 首筋を撫でる手を滲んだ汗が湿らせる。

 仄暗い照明の下、彼はベッドの端に腰を下ろしたまま、長い間身じろぎしなかった。

 気分は底冷えするように重いのに、瞳の奥底では不穏な炎が静かに燃えていた。

 

       *

 

「あれ?おはようございます」

 少女の部屋の扉を開けた瞬間、芳しい空気が流れ出た。

 

 何かを抱えた少女が、ぱちりと振り返る。

 その瞳と視線がぶつかったとき、ノックを忘れていたことに気付いた。

 

「ちょうど出来上がったので今から呼びに行こうかと」

 少女は男の無作法を気にも留めず柔らかく笑いかけてきたが、男の顔を見ると息を呑むように顔を強張らせた。

「……どうしましたか?気分が優れませんか?」

 

「え、あ、いや、大丈夫だ」

 そんなに顔色が悪かったのだろうか。

 答えを濁すように彷徨わせた視線は、机上の料理に止まる。

 

「ああ、美味そうだな」

 咄嗟に飛び出た言葉だが、見れば本当に美味そうだった。

 

 机の上には、先ほど男が狩った肉とかき集めたであろう無事だった野菜を使った料理が湯気を立てていた。

 

 深い鍋では肉と野菜がほろりと崩れるほど煮込まれ、野菜の甘みと混ざり合った香りが湯気に乗って漂う。

 

 焼き物は皮目がぱりりと音を立てそうなほど香ばしく、肉汁が皿に小さな湖のように広がっていた。

 

 横には淹れたての茶が湯気を揺らし、温かい香りが静かに立ちのぼる。

 

 苦労して仕留めた肉が、こうして温かな料理になった姿は悪くない——そう思うと、空腹が一気に形を持って迫ってきた。腹がぎゅうっと鳴るのを感じて唾を飲む。

 

 その様子を見ていた少女がくすくすと笑う。

「食べましょうか」

「ああ」

 

 少女と男は向かい合って腰を下ろした。少女は短い祈りを唱え、その声が湯気の中に溶けていく。

 

 祈りが終わると、男は焼き物にそっと手を伸ばした。少女も同じように匙を取る。二人はほぼ同時に料理を口へ運び、

「「——————!!」」

 声にならない歓喜が静かな食卓に広がった。

 

 脂の滋味と少し野生的な香りが返って食欲をそそる。男は夢中になって肉に齧り付いた。

 

 しばらくの間、二人は無言で料理を口に運び続ける。湯気がゆるやかに立ちのぼり、温かい空気が食卓の上に薄く満ちていく。

 

 その沈黙を破ったのは、少女の小さな声だった。

 

「……美味しい」

 

 ぽつりと落ちたその一言は、湯気よりもかすかで、震えていた。

 

 少女は匙を握ったまま、もう一度言う。

「美味しい……美味しい、です……」

 

 声が嗚咽に混じり、言葉の形が崩れる。

 涙がぽろぽろと頬を伝い、落ちた滴が皿の縁を濡らした。その涙は、料理の湯気と同じ温度で、しかし胸の奥を締め付けるほど切実だった。

 

 男は思わず口を開きかけたが、声にならない。喉の奥で言葉がほどけてしまい、何を言えばいいのか分からなかった。

 

 少女の肩が小さく震える。

 

 男は視線を落としたまま、しばらく迷う。

 

 慰めるべきか、問いかけるべきか、それともただ寄り添うべきなのか——どれも正しいようで、どれも違うように思えた。

 

 少女が先に口を開いた。涙で濡れた声は、かすかに震えている。

 

「……誰かと食事をするの、どれくらいぶりか……もう思い出せないくらい久しぶりで……」

 言葉を紡ぐたびに、少女の肩が小さく揺れる。それでも、必死に続けようとする姿は痛ましく見えた。

 

「一緒に食べるご飯って……こんなに美味しいものだったんだって……思い出したら……止まらなくなってしまって……」

 少女は慌てて袖で目元を拭い、男に向かって頭を下げた。

「ごめんなさい……泣いてしまって……」

 

 その謝罪は、泣き声よりもずっと弱く、ずっと真っ直ぐだった。

 

「食べましょうか、冷めちゃう前に」

「……そうだな」

 

       *

 

 少女の食は細く、男が二杯目の煮込みを平らげるころになって、ようやく一皿を片付け終えた。

 

 少女はそっと匙を置き、胸の前で小さく息を整える。

 

 男は、その様子をしばらく黙って見ていた。

 

 言うべきかどうか、迷っていた。だが、言わなければ、また同じことが起きる。そんな確信があった。

 

「……一つ、聞きたいんだが」

 男が口を開くと、少女は少し不思議そうに顔を上げた。

「最後にまともに食事をしたのは、いつだ」

 

 少女の表情が、僅かに強張る。

「……えっと……最近は、その」

「正直に言ってくれ」

 少女は視線を泳がせ、それから、観念したように俯いた。

 

「……三日、くらい前、かも……しれません」

「三日」

 

 男は、その数字を静かに繰り返した。

 

 バイオプラントは電力を絶たれ、食料は乏しく、そんな中で自分の治療のために資源を割かれ続けていた。あの子は、それを一言も口にせず、笑って食事を運んできていた。

 

 ——馬鹿な話だ。

 

 自分が寝ている間、目の前の子供は、自分のために食事を削っていた。それに気付きもせず、狩りだ何だと呑気に動き回っていたのは、他でもない自分だ。

 

 苛立ちが、腹の底から込み上げる。

 

 その矛先の大半は、少女にではなかった。

 

 自分の鈍さに。判断の遅さに。目の前で倒れるまで、何一つ気付けなかった自分の不甲斐なさに、向いていた。

 

「……なんで、言わなかった」

 声が、思ったよりも低くなった。

 少女は、びくりと肩を震わせる。

 

「言わなくても、大丈夫だと思ったので……お兄さんの方が、ずっと大変そうでしたし」

 

「大変じゃない。俺は、寝てただけだ」

 男は、努めて声を抑えた。だが、抑えきれない苛立ちが、言葉の端々に滲む。

「あんたが倒れたのを見た時、俺がどれだけ肝を冷やしたか、分かるか」

 

 少女は、答えられなかった。

 

「もう一度、言う」

 男は、少女の目を、まっすぐに見た。

「二度と、こういうことはするな」

 

 その声には、有無を言わせない重みがあった。

 

「食べる物がないなら、俺に言え。狩りでも、何でもする。我慢して、隠して、倒れられる方が、よっぽど困る」

 少女は、俯いたまま、小さく震えていた。

 

「……はい」

 消え入りそうな声だった。

 

 男は、そこでようやく、詰めていた息を吐いた。

 

 少女を責めたいわけではなかった。ただ、あの細すぎる腕を思い出すたび、腹の底が冷える。

 二度と、同じことを繰り返させたくなかった。

 

「……悪い、言い過ぎた」

「いえ」

 少女は、首を横に振った。

「私が、悪いので」

 

「そうじゃない」

 男は、短く否定した。

「あんたが気を遣ったのは、分かってる。それでも——駄目なものは、駄目だ」

 

 少女は、しばらく黙ったまま、皿の縁を指でなぞっていた。

 

 やがて、小さく頷く。

 

「……分かりました」

 

 その声には、先程よりも幾分か、素直さが滲んでいた。

 

       *

 

 男はカップを手に取り、三杯目の茶をゆっくり啜った。

 温かさが喉を通り、食後の満足感が胸の奥で静かに落ち着いていく。

 

 ドロイドが食器を軽くまとめながら、まだ席の端で控えめに動いている。

 その穏やかな時間の中で、男の意識はふと別の方向へ沈んだ。

 

 先ほどの悪夢が、唐突に脳裏へ浮かんだのだ。

 

 ほとんど形を成していない、よく分からない景色ばかりだった。

 色も輪郭も曖昧で、何が起きていたのか説明しようにも言葉が見つからない。

 

 それなのに……ただの夢ではないという実感だけが妙に強く残っている。

 

 まるで、確かに“体験した”記憶の断片を見せられたような感覚。

 

 茶の温かさとは違う、微かなざわつきが背筋を撫でた。

 男はカップを置き、ゆっくりと口を開いた。

 

「もしかしたら……もしかしたらなんだが、記憶の内容を、夢に見たかもしれない」

 

 ぽつりぽつりと拙い言葉で、少女に夢の内容を説明する。

 身体を通り抜ける星の光、懐かしい誰かの聞いたこともないような切羽詰まる声。

 

 同じデザインのカップを両手で抱えながら、少女は言葉を挟むことなく、だけども真剣に耳を傾けてくれた。

 

 一通り語り終えると、ふう、と一息吐いてカップの中身を口にする。すっかり冷めてしまっている。

 少女はしばらく考えこむと、片付けを終えたドロイドを手招きしてタブレットを受け取る。トントン、と操作をする目線を上げずに聞きなれない単語を口にした。

 

「ハイパー・ラプチャーってご存知ですか?」

 

 その言葉は、食後の静けさにまるで異質な色を落とした。

 

 聞き慣れない単語。

 

 男は肩を軽くすくめて知らないと示す。

 胸の奥に残っていた悪夢のざわつきが、少女の言葉に反応するように微かに揺れた。

 

 少女がタブレットを男の前へそっと傾ける。

 画面には、光が放射状に走る奇妙な景色——中心から外へ向かって、まるで脈打つように広がる光の筋が幾重にも伸びていた。

 

 男はそれを見た瞬間、息をわずかに止めた。

 顔がこわばる。血の気が引いて、耳鳴りがする。

 

 理由は分からない。

 

 カップを持つ手が、ほんの少し震えた。

 少女は男の反応を確認すると、どこか確信めいた顔で頷く。光の放射は、見るほどに不穏で、どこか既視感を伴っていた。

 

「っ……すまない、画面を、見続けたくない……」

「あ!ごめんなさい!」

 淡々と操作をしていた少女は慌ててタブレットを伏せる。

 

 男の背筋を、悪夢の残滓がひやりと撫でる。

 曖昧な景色、説明できない体験、そして“確かに見た”という妙な実感——

 それらが、少女の見せた光の景色とどこかで重なるような気がした。

 

「これはハイパースペースの空間風景を模したものなんですが、イメージ映像でもダメでしたね。迂闊でした」

「いや、大丈夫だ、問題ない……」

 男は軽く手を振ってみせる。

「ハイパースペースは分かるんだが、ハイパー・ラプチャー、とは?」

 

 超空間(ハイパースペース)。宇宙を、星々を行き来するために必要不可避の空間。現実空間(リアルスペース)の歪みで、この中を行き来することで何光年もの距離を超短時間で移動することができる。

 

 無論、危険が無いわけではなく、無数の犠牲と歩みの果てに開拓された航路と、緻密な座標計算をもって利用可能な代物だが……。

 

「ハイパースペースの空間を見つめ続けると狂う、って聞いたことありませんか?」

「んー……どうだったかな……」

「実際、稀にいらっしゃるんです。空間を直視し続けて錯乱する方が。それが」

 

「ハイパー・ラプチャー?」

 こくり、と少女は頷く。

 

「ここに搬送されたとき、あなたの頭部には強い打撃による負傷が見られました。その衝撃で、脳の一部が一時的にうまく働けなくなっていた可能性があります。そこでハイパースペースを長時間直視し続けたことで脳に負荷がかかったかと」

「記憶が無いのもそのせい、なのか……?」

「恐らく。頭部の外傷と視覚情報、加えて精神的ストレスが重なった結果、記憶の整理が難しくなっている状態じゃないかな、と、思うんですけど」

 

 そこまで一息に説明してみせたあと、少女の声がトーンダウンした。

「ごめんなさい、お父さんなら、もっと色々……」

「お父さん……?」

 

 少女の指が一瞬止まる。

 

「え?」

 短い問い返しのあと、空気がわずかに固まった。

 

 互いに何を言ったのか、何を聞いたのかを確認するような、妙な間が落ちる。

 

 そして——少女がふっと吹き出した。

 肩を揺らしながら、堪えきれないように笑い出す。

 

「そうそう、もう誤魔化す必要ないんでしたね……すいません」

 笑いながら言うその声には、どこか解放されたような軽さがあった。

 

 少女は笑いを収めると、タブレットを胸の前で軽く抱え直した。

 男の戸惑った視線を受け止めながら、少しだけ表情を和らげる。

 

「えっと……その、ちゃんと話しますね」

 男は言葉を探せず、ただ黙って少女を見る。少女は視線を落とし、ゆっくりと続けた。

「私……亡くなった医師の娘なんです。ちゃんと医療を習った訳じゃなくて、その、本とか手伝いとかで」

 

 男の眉がわずかに動く。

 

 少女はその反応を確認しながら、さらに言葉を重ねる。

 

「助手として働いていた時は、トラブルを避けるために“異種属(アグノート)”のフリをしていました。

 ほら、この病院って、いろいろと面倒な人が来ることもあるでしょう?」

 淡々とした口調なのに、どこか苦笑が混じる。

 

 ああそういえば、と思い出した。最初に出会った(?)時、部屋に入る前にあげていたキィキィ声。あれはアグノート語か。

 ——馴染みのない言語だったから咄嗟に分からなかった。

 

「だから、誤魔化してたんです。あなたに対しても……すぐバレちゃいましたけど」

 少女は小さく息を吐き、バツが悪そうに軽く微笑んで首を傾げてみせた。

 

「ピロロロロロ」

 気の抜ける電子音でドロイドが割って入って来た。タブレットに『宇宙船』と表示される。

 

「すいません、話が外れちゃってました」

 少女はドロイドの頭を軽く撫でる。

 

「そう言えば宇宙船があるんだったな」

 男はふっと苦笑いする。

「壊れてるけど」

 

「ええ、壊れてますけど」

 同じく少女も苦笑いを返す。

 

 カップの中身を一息に煽ると、男は席を立った。少し体が重い。調子に乗って食べ過ぎてしまったか。

 

「現物を見せてくれないか」

「直せますか!?」

 少女の顔がぱぁっと明るくなる。

「まあやるだけやってみるさ」

 

       *

 

 装置格納エリアの奥で、男は最後のケーブルを確認した。ツギハギに繋ぎ合わされた配線を一本一本、異常が無いか確認する。最後に配線の先に空いた不自然な空間を一瞥するとため息をこぼす。

 男は狭い空間から這い出し、工具を腰で鳴らしながら身を起こした。少女はすぐそばで待っていた。

 

 「……どうですか?」

 少女の声には期待よりも、結果を予想していたような静けさがあった。

 

 男は短く息を吐き、工具を置いた。

 「悪い、どうにもできない」

 

 少女は一瞬だけ目を瞬かせ、すぐに肩を落とした。

 「……そっか。やっぱりかあ」

 落胆というより、予想していた答えに軽くため息をつくような諦観があった。

 

      *

 

 2時間程前。

 二人は揃って宇宙船を見上げていた。

「HWK-290型か」

 思ったよりメジャーな機体で助かった、と男は船体に手を這わせる。

 

 船体は細く、刃のように前方へ伸びていた。角度のある機首は、空気よりも真空を切り裂くために形づくられたようで、見る者に無駄のない機能美を感じさせる。

 後方には左右へ張り出すように小さな翼があり、推進器には使われた痕跡が見当たらない。

 

 HWK-290は、もともと裕福な役人や企業家向けに造られた軽貨物船だ。豪奢さとは無縁だが、必要なものはすべて揃っている。

 軽装甲で、武装も標準ではほとんど積まれていない。だが、その代わりに驚くほど速い。船体の軽さとエンジンの応答性が、他の貨物船とは一線を画していた。

 

 内部は狭いが、操縦席は一人でも扱えるように設計されている。

 補助席がひとつ、乗客用の簡易スペースがふたつ。貨物船としては小ぶりだが、価値の高い荷物を運ぶには十分だった。

 航法コンピュータは古い型だが信頼性が高く、短距離用のセンサーは必要最低限ながら正確だ。

 

 製造はとうの昔に終わっている。それでも銀河のあちこちで、まだこの船は飛んでいた。人気機種ではなかったが、所有者は決まって口を揃える

 ——「使い勝手がいい」と。

 

 男が見上げたその船は、まさにその言葉どおりの姿をしていた。

 

 派手さはない。威圧感もない。

 だが、どこか頼りになる雰囲気がある。

 長い年月を愛され続けてきた機体だけが持つ、静かな自信をたたえていた。

 

 「この船、もともとは父が持ってたんです。昔、治療費の代わりにって、ある人から譲られたものらしくて」

 言いながら、少女は船体の側面を軽く叩いた。古い金属が鈍い音を返す。

 

 「ずっとガレージの奥に仕舞われてて、私、存在すら知らなかったんですよ。埃かぶってて、誰も触らなくて」

 その言い方は淡々としているが、どこか懐かしさが混じっていた。

 

 「父が亡くなる前に教えてくれたんです。『あれはお前の好きに使え』って。……まあ、好きに使うって言われても、壊れてて飛ばないんですけどね」

 少女は肩をすくめた。悲しみではなく、状況をそのまま受け入れているような軽い仕草だった。

 

 「それで、修理を始めたんです。残ってたマニュアルと、古い教本が少し。ほんと、それだけが頼りで」

 男は少女の横顔を見る。彼女は笑っているわけではないが、暗さもない。ただ事実を語っているだけだ。

 

 「五年かかりました。いや、まだ終わってないんですけどね。毎日ちょっとずつ。配線を直して、腐食を削って、部品を探して……」

 

 少女は船体の上を指でなぞる。そこには彼女が磨いた跡が残っていた。

 「飛べるようになるかどうかは分からないけど……まあ、やれるだけやってみようかなって」

 その声には、悲壮感ではなく、長い時間をかけて育った静かな覚悟があった。

 

     *

 

 男は船体の内部を改めて見回した。

 

 配線の取り回しは素人らしく遠回りで、補強材の選び方も独特だ。だが、どれも丁寧に手が入っている。

 継ぎ目の溶接は不器用ながら確実で、腐食したパーツは可能な限り交換されていた。素人の試行錯誤の跡が多いが、結果として大方の修理は完了している。

 

 その工程と年月を思うと、男は自然と少女へ視線を向けた。

 

 五年。

 

 長い月日を、しゃべれないドロイドと二人(?)だけで、この宇宙船と向き合ってきたのだろう。

 その静かな孤独と根気を思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 

 男は深く息を吐き、少女の努力を尊重するように慎重に言葉を選んだ。

 「……どうにもならない理由を言うよ」

 少女が顔を上げる。

 

 男は船体の奥を指さした。

「ハイパードライブ装置が丸々抜かれてる。影も形もない」

 その言葉は重く、しかし事実を淡々と述べるだけだった。

 

「ハイパードライブは複雑な装置だ。一から作れるものじゃない。俺にも無理だ。取り付けくらいならできるが……作り出すのは、難しいだろうな」

 男は少女の表情を確認する。

 

 「それは君も同じだろう。五年かけても、ここだけはどうにもならなかったはずだ」

 少女は静かに頷いた。

 

「……うん。そこだけは、どうにもならなかった」

 船内には、修理を続けた五年間の痕跡と、どうにもならない現実だけが静かに残っていた。

 

 男がハイパードライブの欠落を説明し終えたとき、少女は少しだけ視線を泳がせた。だがすぐに表情を整え、工具を置きながら言った。

 

「……一つだけ、可能性はあります」

 その声は妙に自信があった。

 

 男は眉を寄せる。

「可能性?」

 

 少女は男の方へ振り返った。

「あなたが乗って来た船です。あれを使えば、どうにかなるかもしれません」

 

 男は一瞬、言葉を失った。

 

「……俺の船って、墜落したんじゃないのか?」

 

 その疑問は自然なものだった。少女自身がそう説明したのだから。

 

  少女は慌てて言葉を探し始める。

「え、あ、その……墜落っていうか……“落ちてきた”って意味で……」

 

 声が少し上ずり、視線が泳ぐ。

 工具箱の影や床の汚れに逃げ場を求めるように、目があちこちへ動いた。

 

 男は少女を見つめながら、胸の奥が揺れた。

 

 命の恩人への感謝がある。

 

 自分を助け、看病し、——正直、止めてほしいが——自己犠牲すら厭わなかったのだ。

 その善意は疑いようがない。

 

 だが——隠し事をしている。それも、些細な嘘ではない。

 自分の“墜落”という重大な出来事に関わる嘘だ。

 

 少女はどうにか言葉をつなげた。

「とにかく、船はきっと無事なんです。使える部分はあります。だから……可能性はあります」

 最後の言葉だけは強く言い切った。

 

 嘘を吐き慣れていないのだろう。捲し立てるような口調で、手振り身振りも大袈裟だ。

 その姿にが逆に胸の中に重しを沈めていく。

 

 男は少女を見つめたまま、心の中で揺れていた。

 感謝と、不信。

 助けられた事実と、隠されている真実。

 どちらも重く、どちらも簡単には捨てられない。

 

 少女は視線を合わせないまま、工具をいじるふりをして誤魔化した。

 その仕草は不自然だが、必死さだけは本物だった。

 

      *

 

 雪原を切り裂くように、スピーダーが白い大地を疾走していた。吹きつける風は容赦なく体温を奪い、防寒装備の上からでも刺すような冷たさが伝わってくる。

 

 少女は後ろから男の腰にしっかりと手を回し、身体を密着させてしがみついていた。寒さを避けるためでもあり、荒れた雪面で跳ねる車体に振り落とされないためでもある。

 

 時折、少女は男の肩越しに前方を指しながら説明を続けていたが、その言葉には「多分」「恐らく」がやけに多かった。

 男はその曖昧さに、胸の奥でじわじわと不安が膨らみ、苛立ちが混じるのを抑えきれなかった。

 

 少女の腕が自分の腰に回っている温度だけが、かろうじて気持ちを落ち着かせていた。

 

「本当にこの方向で合ってるのか?」

 男が声を張ると、少女は振り返りもせずに答えた。

「合ってるはずです。多分……いや、恐らく」

 またか。

 その“はず”が、男の神経をじわじわと削った。

 

 雪原はどこまでも続き、目印らしいものは何ひとつない。二人はかなり長い距離を走った。スピーダーのエンジンが低く唸り、雪煙が後方へ長く尾を引く。

 

 そして——突然、地面が途切れた。

 

「ダンク・ファリック!」

 男が叫ぶより早く、巨大なクレバスが視界いっぱいに広がった。

 

 男は反射的に急ブレーキをかける。スピーダーは雪を削りながら横滑りし、縁のぎりぎりで止まった。

 ほんの少しでも遅れていたら、二人とも底の見えない裂け目へ落ちていた。

 

 少女は息を呑み、震える声で言った。

「こんなの……見覚えがありません」

 

 男はスピーダーから降り、深く息を吐いた。疲労が肩にのしかかる。

「方向が違うんじゃないのか」

 少女は首を振る。

「そんなはずでは……」

 

 その混乱した声に、男はさらに違和感を覚えた。

 少女の案内は最初からどこか不自然だった。

 曖昧な言葉、辻褄の合わない説明。

 命の恩人への感謝と、隠し事への不信感が胸の奥でせめぎ合う。

 

 男はその感情を押し込め、辺りを歩いて調べ始めた。雪の縁を慎重に覗き込み、視線を走らせる。

 

 そして——見つけた。

 

「……疑って悪かったな。あれじゃないのか」

 男は少女を呼び、クレバスの奥を指さした。

 

 そこには、裂け目に落ちて挟まるように引っかかっている船体があった。

 

 雪と氷に半ば埋もれながらも、確かに“宇宙船”の形をしていた。

 

 少女は息を止めた。

 その表情には、驚きと——言い訳の余地がなくなる焦りが、ほんの一瞬だけ浮かんだ。

 

 クレバスの縁に身を乗り出し、男も雪と氷の奥を覗き込む。

 そこにあったのは、落下の衝撃で外殻が一部潰れているものの、概ね原形を保った宇宙船。

 船体の白と灰の塗装、鋭い機首、帝国式の識別ライン——見間違えるはずがない。

 

「……帝国のシャトルだ」

 男は呟いた。声が自分のものではないように聞こえた。

 自分が帝国のシャトルに乗って来た——その事実が、どうしても胸に落ちてこない。

 

 記憶の空白が疼く。

 何かが繋がらない。

 何かが欠けている。

 

 その“何か”が、男の思考を濁らせていく。

 

 少女は男の横でクレバスを覗き込み、息を呑んだ。

 

「……これ、あなたの……?」

 声が震えている。驚きだけではない。別の感情が混じっている。

 

 男は混乱を押し込め、状況を優先した。

 

「とにかく、このままじゃどうにもできない」

 男は少女に向き直る。これが現実だ。崖を降りるには装備がいる。あのシャトルそのものを修理するにせよ、目当ての装置を取り外すにせよ、手持ちの簡易工具でどうこうできるとは思えない。

「これじゃあどうにもできないな」

 

 少女は唇を噛んだ。

「……でも、せっかく見つけたのに」

 

 俯く少女に「それに……」と男は続けかけて、口をつぐむ。

 

 雪原の静けさが、逆に不気味だった。

 以前襲われた獣の影が脳裏にちらつく。

 

 あの牙、あの速度。

 

 今ある武器だけでは、自分はともかく——少女を守り切れるかどうかは怪しい。

 

 男は少女を見た。

 少女は不安を隠そうとしていたが、肩がわずかに強張っている。

 

 その姿に、男は決断を急がされた。

 

 懇願するような少女の視線に、男は首を横に振って答える。

「ダメだ。降りられない。ロープも、滑落防止の装備もない。あの深さじゃ、足場も作れない」

 

 雪原の風が二人の間を抜けていく。

 

「それに、天候が悪くなったら帰れなくなる。ここは風向きが変わると一気に視界がなくなる場所だ」

 

 少女は男の言葉に反論できず、視線を落とした。

 男はその肩の強張りを見て、静かに続けた。

 

「船は逃げない。場所は分かった。準備して、装備を整えてからまた来ればいい」

 少女は小さく息を吐き、ゆっくり頷いた。

「……分かりました」

 

 男はスピーダーへ戻りながら、もう一度クレバスを振り返った。

 

 帝国のシャトルが氷の底で沈黙している。

 その姿は、男の記憶の空白をさらに濁らせるようだった。

 

       *

 

 帰り道、スピーダーは雪原を静かに走り続けた。二人とも何も言わない。少女は男の腰にしがみついたまま、ただ風を受けている。

 

 しばらくして、少女が小さくこぼした。

 

「……ごめんなさい」

 

 男は聞こえていた。

 けれど、聞かなかったふりをして前だけを見た。

 

      *

 

 激しさを増し続ける吹雪は視界を奪い、風が横殴りに二人の身体を叩き続けた。スピーダーのエンジン音も雪の唸りに呑まれ、ただ白い世界の中を手探りで進むしかなかった。

 少女は男の腰にしがみつき、男は前方のわずかな影を頼りに操縦桿を握りしめる。

 

 基地の外壁が見えたとき、二人はほぼ同時に息を吐いた。スピーダーを格納庫に滑り込ませる。

 格納庫の扉が閉まり、外の轟音が少し遠ざかった瞬間、男はようやく息を吐いた。

 二人とも防寒装備の表面が氷で白く覆われ、息をするだけで胸が痛むほどだった。

 

 男はスピーダーから降りると、肩に積もった雪を乱暴に払い、外套の留め具を引きちぎるような勢いで外した。氷の粒が床に散らばり、濡れた布が重い音を立てて落ちる。

 少女はその横で、ただ俯いて動かなかった。外套は雪に覆われ、肩も腕も震えているのに、脱ぐ気配がない。落胆が身体ごと固めてしまったようだった。

 

 男は短く息を吐き、少女の前にしゃがんだ。

「……ほら、脱いで。濡れたままじゃ冷えるから」

 

 少女は反応しない。

 

 男はためらいがちに手を伸ばし、少女の外套の留め具を外した。指先が冷たい布に触れると、少女の肩がわずかに揺れた。

 男はゆっくりと外套を引き剥がし、雪の重みでずしりと沈むそれを脇へ置いた。

 

「部屋に戻って、温まった方がいい」

 男はそれだけ言った。

 少女は小さく頷き、まだ沈んだままの足取りで歩き出した。

 

     *

 

 吹雪の唸りが基地の壁を震わせる中、男は少女を部屋へ送り届けた。

 少女は落胆で力が抜けたように歩き、扉の前で一度だけ振り返ったが、言葉はなかった。男は軽く頷き、扉が閉まるのを見届けた。

 

 自分の体も冷え切っているし、疲労もある。だがそれ以上に、胸の奥で理解の追いつかない事実がざわついていた。

 帝国のシャトル。記憶の空白。少女の曖昧な説明。

 

 隠し事。

 

 そのざわつきを静めるためにも、歩きたい。考えたい。

 男は格納庫の壁に手をつき、深く息を吐いてから歩き出した。

 

「ここが元軍事拠点なら……管理室はどこかにあるはずなんだが」

 少女から場所を聞いていない。だが、軍事施設の構造はある程度共通している。男はその経験を頼りに、廊下を進んだ。

 

 男は以前、少女を探して基地内を歩き回ったことがある。だがそのときは、手当たり次第に開く扉を確認しただけで——すぐにドロイドが迎えに来たのもあって——基地の奥までは踏み込んでいなかった。

 今回は、管理室を探すためにさらに深い区画へ進む。

 

 廊下は薄暗く、古い照明が時折ちらつく。

 男は通路を曲がりながら、扉を一つずつ確認していった。どの扉も古びているが、押せば開く。

 

 だが——その区画の奥で、男は足を止めた。

 

 そこだけ、扉が閉ざされていた。

 

 取っ手を引くと、ガチリと固い音が返ってくる。

 

 鍵がかかっている。

 

 男は眉を寄せた。しばらく扉に触れたまま、静かに息を吐いた。

 

「……ここだけ、閉まってるのか」

 このエリアに来るのは今回が初めてだ。

 

 だからこそ、廃れた基地の中で“ひとつだけ施錠された扉がある”という事実が、妙に胸に引っかかった。

 

 理由は分からない。

 

 ただ、他の扉とは違う“温度”がそこにあるような気がした。

 

「……なんでここだけ施錠されてるんだ」

 

 誰が、何のために。

 吹雪の唸りが、男の疑念をさらに深くするように響いた。

 

     *

 

 管理室は、鍵のかかった部屋から少し進んだ先にあった。扉は古びているものの、丁寧に補修された跡が残っていた。

 男はそっと押し開け、中へ足を踏み入れた。

 

 そこは他の区画とは明らかに空気が違った。

 壁の焦げ跡や衝撃痕こそ残っているが、その上から慎重にパネルが貼り直され、配線は束ねられ、固定具も新しい。乱暴に直したのではない。

 

 専門の技術者が、時間をかけて修理した痕跡があった。

 

「親父さんが生きてるうちに、直していたらしいな……」

 機材の配置も整っている。壊れた端末は脇へ寄せられ、使えるものだけが選別されている。工具はきちんと並べられ、作業台には細かなメモの跡が残っていた。

 

 この基地が放棄されたあとも、誰かがここを使い続けたのだろう。

 そんな気配が漂っていた。

 

 男は中央のコンソールに近づき、電源を試す。

 ほとんどの端末は沈黙したままだったが、幸いにも天候予想のコンピュータが低く唸りながら起動した。

 

 画面がゆっくりと明るくなり、乱れた線が走ったあと、予報が表示される。

 

「……最低でも、一週間は動けないか」

 吹雪の予測が途切れなく並び、風速の数値は危険域を越えたまま固定されている。

 

 基地の壁を叩く轟音が、まるで予報を裏付けるように響いた。

 男は画面を見つめたまま、静かに息を吐いた。

 

     *

 

 少女は自室のベッドに腰掛け、膝の上でクッションをぎゅっと抱きしめていた。吹雪の低い唸りが壁越しに響き、部屋の空気をじわりと震わせている。

 落ち着かないのか、身体を前後に小さく揺らし続けていた。

 

 部屋の中では、医療ドロイド——少女が「ドクちゃん」と呼ぶ唯一の同居人が動いていた。

 

 白い筐体は古く、関節の動きもぎこちない。それでも、少女が修理を重ねてきたおかげで、最低限の家事はこなせる。

 

 今は、棚に並んだ薬品の瓶を点検しているらしく、金属の指先が瓶を持ち上げるたびに、短い電子音が鳴った。

 少女はクッションに頬を押しつけたまま、揺れる身体を止められない。

 

 やがて、ぽつりと声が漏れた。

 

「……もし、思い出したら……どうしよう」

 

 ドクちゃんがピッ、と反応する。発話機能は壊れているのに、少女の言葉に合わせていつも反応を返してくれるのだ。

 

 少女はその音に肩を震わせ、片手を見下ろした。

 そこには、細い金属製のキースティックが握られていた。

 

 指の間で転がし、押し込むように握り、また離す。それは男が先程発見した、施錠された部屋のものだ。

 その小さな感触が、胸のざわつきを逆に強めた。

 

「あれを……見られたら、絶対に思い出すよね……」

 少女は唇を噛んだ。

 

 あの部屋は、男の記憶の核心に触れる物が入っている。

 

 扉を開けられたら、すべてが戻る。

 その確信があった。

 

 キースティックを握る手が強くなる。

 ——以前、これが動かされていたとき、少女は絶望した。

 

 “見られた”と思った。

 “終わった”と思った。

 でも、違った。

 

 あれはドクちゃんが、多分、点検か何かのために持ち出しただけだった。

 

 狩りから戻ったあの人を見て、後ほどその事実を知ったとき、膝が抜けるほど安堵した。

 

「……でも、もう隠しきれないと思う……」

 身体の揺れは止まらない。

 

 あの人はとても頭が良くって、判断力も行動力もある。私一人だったらどうしようもなかったことも、どんどん解決してしまう。

 

 それに……。

 

 私の嘘もとっくに気付いている。

 ——それでも触れずにいてくれるのだ。

 

 クッションを抱きしめる腕だけが、ぎゅっと強くなった。

 

 コートを脱がせてくれた時の優しい手つきが、まだ肩に残って熱を帯びている。こちらを気遣う優しい声を、何度も頭の中で反芻する。

 

 それがより強い罪悪感を伴って、胸の奥まで突き刺さる。

 

「私、嘘つきだ……。ほんとは言わなきゃいけなかったのに……」

「怒るよね……嫌われるかな……」

「どうしたらいいのか……ほんとに分かんないよ、ドクちゃん……」

 

 ドクちゃんがそっと近づき、ピッ……と短い音を鳴らす。

 少女はその音に縋るように目を閉じた。

 

     *

 

 男は自室の寝台に仰向けになり、冷えた天井をじっと見つめていた。

 身体は疲れているはずなのに、眠気はどこにもなかった。

 頭の中だけが、やけに冴えていた。

 

 立て続けに明らかになった記憶の手掛かりが、整理されないまま頭の中に押し込まれている。

 それをひとつずつ並べていくしか、落ち着く方法がなかった。

 

 まず——自分は帝国のシャトルに乗ってこの星に来た、らしい。いやもしかしたら他の船があった可能性も……と考えて振り払う。

 シャトルの様子を思い出す。あれはあそこに放置されてそれほど日が経ったようにも見えなかった。一旦、あれに乗って来たと仮定した方がいい。

 

 そして、頭の怪我とハイパーラプチャーとやらの影響で、意識はほとんど無かった。

 少女の説明と、自分の記憶の空白が一致する。

 

 次に、シャトルの着地点。

 あのクレバスは、着地後にできたものだ。

 つまり——シャトルは地割れに飲み込まれた。

 「全くとんでもない星だ」と、男は天井に向かって小さく吐き捨てた。

 

 だが、そこでひとつ引っかかる。

 

 シャトルが基地まで横移動したとは考え難い。地形の変化で滑るにしても限度があるだろう。

 スピーダーで駆け抜けたあの距離、少女を乗せていたので速度を出せなかったとはいえ、あの距離を歩くとしたら半日はかかる。

 自分はそんな行動を取れる状態ではなかった。

 

 そして——少女。

 彼女はスピーダーの運転ができないと言っていた。そもそも担ごうにも運ぼうにも、体力も膂力もまるで足りない。

 

 つまり。

 

 男はゆっくりと息を吐き、天井を見つめたまま目を細めた。

 

「……俺をここに運んだのは、彼女じゃない」

 

 その言葉は、思考の流れの最後に自然と落ちてきた。

 

 少女以外の誰か。

 この基地に来て、自分を運び込み、治療し、少女に託した第三者。

 男は寝台の上で指を組み、静かに結論を口にした。

 

「……俺をここに運んだ奴がいる」

 

 吹雪の唸りが壁越しに響き、部屋の空気を震わせた。

 その音が、男の胸のざわつきをさらに深く沈めていく。

 

 そんな奴がいるとして、だ。

 

 どうしてこの星に来た? 俺は何故負傷した? そもそも今はどこにいるんだ、そいつは?

 

 駄目だ、疑問がむしろ増えた。

 

 男は額に腕を乗せ、目を閉じた。天井の模様が消えても、疑問が消えて無くなるわけじゃない。

「……分からないことを口に出すもんじゃないか」

 割り切るように体勢を変えようとした、その瞬間だった。

 

 ——しっかりしろ、◯◯!

 

 声が、突然、脳裏に蘇った。

 夢の中で聞いたことがある。

 酷く懐かしい。

 胸の奥を強く揺さぶるほどに、懐かしい。

 

 なのに——誰の声なのか、思い出せない。

 

 男は目を見開き、寝台の上で固まった。

 その声は、少女のものではない。

 自分自身の記憶の奥底にある、別の誰かの声だ。

 

 そして、その誰かは——

 

 自分をここに運んだ“第三者”と同じ存在だ。

 確信が、静かに胸の底へ沈んでいく。

 

 男は胸のざわつきを振り払うように、勢いよく身を起こした。

 寝台の縁が軋み、冷えた空気が肌に触れる。

 焦燥感が、腹の底からせり上がってくる。

 

 視線が、部屋の隅に立てかけられた パルス=ライフル に吸い寄せられた。

 獣に振り払われたときに銃身が歪んだかもしれないと気になり、後で整備しようと置いておいたものだ。

 

 そういえば——

 獣に向けて撃ったとき、やけに出力が低かった。

 あの時は本気で危なかった。

 

 男はライフルを手に取り、膝の上でじっくりと調べた。

 外装は問題ない。

 だが、内部を覗き込むと、パルスの共振装置が焼けて歪んでいた。

 

 パッと見では分からない箇所だ。だが、これは致命的だ。

 よく暴発しなかったものだ、と背筋が冷える。

「……こんな状態で使ってたのか、俺は」

 呆れと焦りが混じった声が漏れ、男はライフルを持ち直した。

 そのときだった。

 

 ——武器の手入れは怠るな。

 

 男は息を呑み、しばらく動けなかった。

 心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。

 

 夢の声と同じ人物。

 諭すような、落ち着いた口調。

 自分の武器の扱いを知っている者。

 

 そして——自分をここへ運んだ“第三者”。

 

 男は床に落ちたライフルを見つめながら、確信を胸の底に沈めた。

 

     *

 

 男は少女の部屋の前に立ち、軽くノックした。

 中から返ってきたのは、不機嫌を混ぜたような電子音だった。

 

 扉が少し開き、ドロイドがセンサー部を覗かせる。

 胸部のタブレットが点灯し、慇懃無礼な調子で文字が表示された。

 《ご用件は何でしょうか。主人は現在睡眠中ですので、手短に》

 

 男は部屋に入らず、廊下で腕を組んだままドロイドを見下ろした。

「お前に用がある。ライフルの件だ」

 

 ドロイドの画面が一瞬暗くなり、再び文字が浮かぶ。

 《わたしは医療ドロイドでして、武器の扱いは専門外ですが》

 

 ——こいつ、すっとぼけてるつもりか?

 

 男は手に持ったパルス=ライフルを軽く持ち上げて見せた。

 共振装置が焼けて歪んでいる、あの危険な状態のままだ。

 

「これをどこから持ってきたか、聞きたいだけだ」

 

《お答えする義務は本来ありません》

 

 ドロイドはわずかに後ずさる。

 その態度は、まるで“触れられたくない話題”を避けるようだった。

 

 男はため息をつき、声を低くした。

 「不良品を掴まされて、こっちは死ぬかと思ったんだぞ」

 

 その言葉に、ドロイドの動きがぴたりと止まる。

 タブレットが震えるように点滅し、しばらくして渋々と文字が浮かんだ。

 

《では、ご案内いたします。まったく、理不尽なご要求ですが》

「お前のプログラムはちょっと見直すべきじゃないのか?」

 ビー!とドロイドから聞こえる。一丁前に抗議のつもりか。

 男はため息をつくと、ドロイドの後ろを歩き始めた。

 

       *

 

 ドロイドは廊下を進む。

 その足取りはどこかぎこちなく、まるで“行きたくない場所へ向かっている”ようだった。

 男は黙ってついていく。

 胸の奥で、嫌な予感がじわりと広がる。

 

 そして——

 

 ドロイドが立ち止まったのは、基地内で唯一施錠されていた部屋の前だった。

 

 男は無言で扉を見つめる。

 

 ドロイドはタブレットをゆっくりと点灯させた。

 《こちらでございます》

 

 男の胸に、冷たいものが落ちた。

 

 やはり、この部屋か。

 

       *

 

 少女はゆっくりと目を開けた。

 

 視界にまず入ったのは、抱きしめていたクッション。次に、自分の肩にふわりとかけられた毛布だった。

 

 ドクちゃんがかけてくれたのだと、すぐに分かった。

 ドロイドはいつだって少女に寄り添ってくれていた。

 

 しかし、胸の奥にざわりとした不安が広がる。

 

「……キースティック」

 

 少女はハッとして、ベッドの周囲を探した。

 毛布を払い、クッションをどけ、シーツをめくる。

 

 見つからない。

 

 焦りが喉を締めつける。

 

 もしかして、ドクちゃん——?

 

 ベッドの端に膝をつき、下を覗き込むと、床に転がっている細い金属片が目に入った。

 

 「……あった」

 少女は胸を押さえ、深く息を吐いた。

 安堵で膝が少し震える。

 

 キースティックを拾い上げ、ぎゅっと握りしめる。

 それだけで心臓の鼓動が少し落ち着いた。

 

 ふと、周囲を見渡す。

 

 ドクちゃんがいない。

 

 いつもなら、部屋の隅でタブレットを点灯させているはずなのに。

 少女が眠っている間にどこかへ行ったのだろうか。

 

 だが——胸騒ぎがする。

 

 理由は分からない。

 ただ、嫌な予感だけが強くなる。

 

 少女は毛布をベッドに置き、キースティックを握ったまま部屋を飛び出した。

 

 行く当てもないはずなのに、足は自然と廊下を進み、施錠されたあの部屋へ向かっていた。

 

 自分でも理由が分からない。

 ただ、そこへ行かなければならない気がした。

 

       *

 

 扉の前に立ち、男はドロイドを見下ろした。

 

 施錠された扉には触れもしないまま、低く言い放つ。

「鍵が……掛かってるだろ」

 

 ドロイドは胸部のタブレットを点灯させる代わりに、

 ピポ、ピポピポ……

 と慇懃無礼な電子音だけを返した。

 

 まるで

 “その話題には触れたくありませんが?”

 と言いたげな、露骨なはぐらかし方だった。

 

 男は眉をひそめる。

 

 「開けろ」

 ドロイド:ピッ(開けません)

 「開けろ」

 ドロイド:ピポ(断固拒否します)

 「開けろ」

 ドロイド:ピピッ(無理なものは無理です)

 

 しばらくの間、開けろ/開けません、の押し問答が続いた。

 

 男は苛立ちを隠さず、ゆっくりと腰へ手を伸ばした。そこには、ブラスター・ピストルが収まっている。

 

 このブラスターは、ドロイドから受け取って以来——腰から下げていないと落ち着かない代物だった。

 

 寝る時でさえ外さず、常に身につけていた。

 理由は分からない。

 ただ、手元にないと不安になるのだ。

 

 男はホルスターからブラスターを抜き取る。

 銃口はまだ向けない。

 ただ、手に持っただけで空気が変わる。

 

 ドロイドはセンサー部わずかに揺らしただけで動かない。

 

 男は無言のまま、ブラスターを軽く持ち直す。扉のパネルを撃ち抜くには十分な距離だ。

 そのままゆっくりとパネルに照準を合わせて、ドロイドに頷いてみせた。撃てば開くぞ、と言わんばかりに。

 

 ドロイドは一瞬だけ沈黙し——

 

 次の瞬間、胸を張るように姿勢を正し、

 

 ピポピッ(どうぞ、ご自由に)

 

 と、まるで勝ち誇ったような電子音を鳴らした。

 “やってみろ”と言わんばかりの煽りだった。

 

 男は深く息を吐き、ブラスターを握ったまま、扉とドロイドを交互に見つめた。

「良い度胸だな、ドロイド」若干、面白くなって来た。

 

 が、この硬直状態をどうしたものか——。

 

 と、その時。

 

 廊下の奥から、かすかな足音が近づいてくる気配がした。

 

 背後から、張り裂けそうな声が飛んできた。

 

 「何を……してるんですかっ!!」

 

 少女だった。

 焦りと恐怖で上擦った声。

 

 廊下に響くその叫びに、男は反射的に肩を跳ねさせた。

 

 即座にブラスターをホルスターへ戻す。

 まるで火傷したかのような速さで。

 

 「違う違う違う、誤解だ!」

 男は両手を軽く上げ、必死に否定する。

 

 少女の顔は青ざめ、目は大きく見開かれていた。

 その視線は男ではなく——

 男の背後に立つドロイドへ向けられている。

 

 少女は、男がドロイドを撃とうとしているように見えたのだろう。

「撃つつもりなんてない! 本当にない! ただ——」

 

 言いながら、男はドロイドをちらりと見る。

 

 ドロイドは胸部のタブレットを点灯させ、慇懃無礼な文字を表示した。

 《わたくしは無傷ですのでご安心を。撃たれるなら撃たれるで対処しますが》

 

 こいつ……!

 

 少女はさらに怯えた顔になった。

「やめてくださいっ……! ドロイドを撃つなんて……!」

 男は慌てて手を振る。

「だから違うって! 撃つ気はなかった! ただ鍵が——」

 

 少女の視線が男の背後の扉へ向く。

 その瞬間、少女の表情がさらに強張った。

 

 男は気づかない。

 少女が焦っている理由は、男が施錠された“あの部屋”の前に立っていることだと。

 

 少女は震える声で言った。

「……どうして、この部屋の前に……?」

 

 男はその問いの意味を理解できず、ただ誤解を解こうと必死だった。

「いや、ドロイドがこの中にライフルがあったって言うから——」

 

 少女の顔から血の気が引いた。

 

 ドロイドは電子音を鳴らし、タブレットに慇懃無礼な文字を表示した。

 《わたくしは何も言っておりませんが?》

 男は思わず振り返る。

 

「おい、言っただろうが!」

 ドロイド:ピポピッ(記憶違いでは?)

 

 少女は震える声で男に向き直った。

「……お願いです。ここから離れてください……」

 

 男は戸惑いながらも、少女の異様な怯え方に気づき始める。

 

 この部屋。

 少女の反応。

 ドロイドの態度。

 

「悪かった……」

 両手を上げたまま、扉から距離を取る素振りを見せる。少女は納得したのかしないのか、分からないような微妙な表情で立ち去った。

 

      *

 

 食卓の空気は、張りつめた薄氷のようだった。

 

 男と少女は向かい合って座っている。

 

 テーブルの上には、湯気の立たないスープと、ほとんど減っていないパン。

 どちらも手をつける気になれないまま、時間だけが過ぎていく。

 

 少女は硬い表情のまま、最低限の返事だけを返す。

 笑顔は一つもない。

 視線も合わせない。

 まるで、男の存在そのものが怖いかのように。

 

 男は気まずさを抱えながらも、黙って食事を進めた。パンをちぎり、スープを口に運ぶ。

 味はする。

 落ち着かないが、それでも食べる。

 食べていないと、余計に気まずさが増す気がした。

 

 男はスプーンを持ったまま、どうにもならない沈黙に耐えかねて口を開いた。

「……天候なんだが」

 

 少女はぴくりと肩を揺らし、それでも顔を上げずに返す。

「はい」

 

「あと一週間以上は吹雪のままらしい」

「はい」

 

 会話になっていない。

 返事はしているが、内容はまるで届いていない。

 少女の声は硬く、短く、冷たい。

 

 きまずい。

 とてつもなく、きまずい。

 

 男はパンを噛みながら、少女の態度の変化をどう受け止めるべきか分からず、ただ食べることで自分を落ち着かせようとしていた。

 少女はスープを見つめたまま、まるで飲む気配がない。

 二人の間の空気は、吹雪よりも冷たかった。

 

 気まずい食卓の空気をどうにか変えようと、男はパンを噛みながら視線をそらし、

 ふと思いついたようにドロイドへ話題を振った。

「……あー、その。食料の備蓄は、どんな感じなんだ?」

 

 少女はスープを見つめたまま微動だにしない。

 

 返事もない。

 空気は変わらない。

 

 代わりに、ドロイドが胸部のタブレットを点灯させた。

 慇懃無礼な無表情のまま、淡々と数値を表示する。

 

 《現在の備蓄量:残り 0.12%》

 

 男はパンを噛む手を止めた。

 

 ……絶望的だ。

 

 完全に話題を間違えたと悟る。

 

 少女の肩がわずかに震えた気がしたが、顔は上げない。

 そして追い打ちをかけるように、ドロイドが余計な一言を追加した。

 

《食料の消費量が増えましたからね》

 

 男のパンをちぎる手がぴたりと止まる。

 少女はスープを見つめたまま固まり、男はパンを持ったまま固まり、ドロイドだけが無邪気に(慇懃無礼に)事実を述べる。

 

 おい……。

 余計気まずくなっただろ、お前……!

 

 男は内心で叫びながらも、どうにか話題を変えようと必死だった。

 

 この空気をどうにかしたい。

 少女の硬い態度を少しでも和らげたい。

 そこで、苦し紛れに別の質問を投げた。

 

「……じゃあ、バイオプラントの稼働率は?」

 ドロイドは即座にタブレットへ数値を表示する。

 

 《稼働率:0%》

 

 男はパンを落としそうになった。

「ゼロ!? いや、それだよ、それ! 対応策を——」

 

 言いかけて、脳が情報を処理し直す。

 

 ……ゼロって、ゼロか?

 

「ゼロって……ゼロなのか?」

 我ながら情けない声が出た。少女がきょとんとこちらを見ている気配がする。

 

 男はドロイドへ向き直る。

「電力供給はどうした? 止まったままなのか?」

 

 ドロイドは慇懃無礼な文字を表示した。

 《許可なく再供給できませんので》

 

 男は額を押さえた。

 このドロイドは本当に余計なところで律儀だ。

 

 だが——

 

 逆にありがたかった。

 

「よし、ちょっと見てくる。すぐ戻る」

 男は椅子を引き、嬉々として席を立った。この気まずい空気から抜け出せる口実ができたのだ。

 

 少女は口を奇妙な形で真一文字に結んで、何も言わない。

 ただ、男の背中を見送るだけだった。

 

     *

 

 男はバイオプラントの制御盤の前に立ち、ドロイドが「許可なく再供給できませんので」と言い張ったことを思い出しながら、深いため息をついた。

 

「レバー一個入れるのにいちいち許可取るなよ……」

 

 ぼやきながら、電力供給レバーを掴む。

 

 古びた金属は冷たく、少しだけ油の匂いがした。

 男がレバーを倒すと、バイオプラント全体がゆっくりと震え始めた。

 内部の循環ポンプが唸り、古い培養槽が重たげに起動する。

 

 やがて、

 稼働率 1% → 3% → 7%

 と、ゆっくり数字が上がっていく。

 

「……よし、動いたな」

 古臭い設備だ。

 播種と成長促進と、最低限の栄養液循環しかない。

 だが——人間二人くらいなら、なんとか食わせていける。

 

 問題は、設備の古さだった。

 

 男は培養槽の側面に手を置き、振動の具合を確かめる。

 金属の疲労が指先に伝わる。

 配管の継ぎ目は錆び、循環ポンプはいつ止まってもおかしくない。

「メンテ続けても、そろそろ寿命だろうな……」

 

 今回のように電力供給が断たれる事態がなくても、このプラントは長く持たない。どこかで必ず限界が来る。

 男は培養槽のゆっくりとした脈動を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。

 

 「ジリ貧だなあ……」

 

 その声は、機械の唸りに吸い込まれていった。

 

       *

 

 男がボンヤリとプラントを眺めていたところへ、ドロイドが静かにやってきた。愛すべきポンコツ様の御視察であらせられますか。

 

 男は振り返り、無言のドロイドに向かって、ほらやってやったぞ、と言わんばかりに顎をしゃくった。

 

 レバーは倒され、プラントはゆっくり稼働を始めている。

 循環ポンプの低い唸りが、古びた設備の限界を物語っていた。

 

 男はぼんやりと培養槽の脈動を眺めながら、ふとドロイドに声をかけた。

 

「なあ」

 

 ドロイドは胸部のタブレットを点灯させ、いつもの慇懃無礼な姿勢で待機する。

 

 男は半ば投げやりに言った。

「あの子と仲直りしたいんだが」

 

 大した答えは期待していない。

 ドロイドに相談しても、どうせ的外れな返答が返ってくるだけだ。

 

 そう思っていた。

 

 しかし——

 

 ドロイドはタブレットに文字を表示した。

 《入浴施設が稼働停止してだいぶ経っていますので》

 

 男は思わず振り返った。

 「……へえ?」

 予想外に“期待値の高い返答”だった。

 まさか、仲直りのヒントをくれるとは思わなかった。

 

 ドロイドは続ける。

 《主人は入浴を好みます。設備が使えれば、機嫌が改善する可能性があります》

 

 男は腕を組み、プラントの唸りを聞きながら考え込んだ。

「なるほどな……風呂か」

 

 古臭い設備の中で、入浴施設は完全停止したままだ。

 電力を回せば動くかもしれないが、修理が必要だろう。

 それでも——

 

「俺も良い加減さっぱりしたかったところだ。案内してくれ」

 少女の硬い態度を少しでも和らげられるなら——

 やってみる価値はある。

 

       *

 

 男は老朽化した入浴施設の中央で工具箱を開き、ドロイドのタブレットが照らす薄暗い空間の中、まずは循環系の配管を確認し始めた。

 

『俺も良い加減さっぱりしたかったところだ』

 そう言ったときの自分の台詞を思い出し、男は少しだけ笑った。

 

 少女の機嫌を取るため——も当然だが、自分自身もこの閉塞した空気をどうにかしたかった。

 

 その途中——

 

 男の視線が、壁際のやたらと固いバルブに止まった。

「……これか……?」

 

 それだと言わんとするばかりに、ドロイドの、ピッという電子音がこだまする。

 

 触れてみると、まるで岩のように動かない。

 錆びついて固着しているのか、びくともしない。

 男は息を吐き、両手でバルブを掴み直した。

 

「よし……いくぞ」

 渾身の力で回す。

 

 腕の筋が浮き、肩に力が入り、古びた金属がぎしぎしと悲鳴を上げる。

 

 それでも回らない。

 

 男は歯を食いしばり、さらに力を込めた。

「……っ、ぉおおお……!」

 

 ぎぎぎぎぎ——

 

 ようやく、ほんのわずかに動いた。

 男はそのまま全身の力で押し込み、最後の締めに、足で押し込む。

 

 ガンッ。

 

 その瞬間、給湯機械が低く唸り、内部の循環ポンプが重たげに起動した。

 

 古びた設備が、まるで「まだ動けるぞ」と言わんばかりに震え始める。

 

 ドロイドがタブレットに文字を表示した。

 《給湯機械、稼働開始。温水生成まで 12 分》

 

 男は額の汗を拭いながら、満足げに浴槽を見渡した。

「よし……これで風呂は使えるな」

 循環音が徐々に安定し、施設全体がゆっくりと息を吹き返していく。

 

 男が工具箱を閉じ、ほっと息を吐いたそのときだった。

 

 ——遠くから、少女の声がした。

 

「だいじょうぶですか……? 何があったんですか……?」

 その声音は、不安と、こちらを気遣うような柔らかさが混じっていた。

 

 食堂での硬い態度とはまるで違う。

 

 男は思わず肩の力が抜ける。

「ああ……」

 返事は自然と漏れた。

 

 少女が心配してくれている——

 それだけで、胸の奥が少し軽くなる。

 

 そういえば、と思い返す。

 バイオプラントを稼働させ、給湯機械を起動し、固いバルブを渾身の力で回して蹴りまで入れた。

 そのたびに、施設中に重たい唸り音や振動が走ったはずだ。

 

 そりゃあ——心配もする。

 

 男は苦笑しながら、少女の声のする方へ顔を向けた。

「悪い、ちょっと騒がしくしたな」

 

 少女は廊下の影から姿を見せる。

 胸に手を当て、息を整えながらこちらを見ていた。

 

 その表情は、さっきの食堂の硬さとは違い、純粋に「心配して駆けつけた人」の顔だった。

 男はその変化に、ほんの少し救われた気がした。

 

     *

 

「お風呂!? お風呂に入れるんですか!」

 

 その嬉しそうな声に、男もつられて口元が緩む。

「まあ、なんとか動いたぞ」

 

 そこへ、空気を読まないドロイドが胸部のタブレットを点灯させて割り込んだ。

 

 《入浴施設は稼働停止から 214 日が経過しています》

 

 男は「それはそれは」と苦笑する。

 

 だが——少女は固まった。

 

 そして、みるみる顔が真っ赤になっていく。

 

「えっ……あ、あの……その……!」

 少女は慌てて両手をぶんぶん振りながら早口になる。

 

「違うんです! ちゃんと毎日拭いていて……!そりゃお湯は節約しなくちゃならなかったから、シャワーも浴びれなかったけど……ドライシャンプーとかありましたから、髪だって……!」

 

 男はぽかんと少女を見る。

 少女はさらに涙目になり、声が小さくなる。

 

「……あの、もしかして……匂いましたか……?」

 

 その言葉に、男は思わず遠い目をした。

 

 そういえば——

 

 何度か密着した場面もあったな、と。

 抱きかかえたり、肩を貸したり、吹雪の中で体を寄せ合ったり。

 

「そんな、に……?」

 全く気にはならなかったのだが、男の返答はトドメの一撃だったらしい。

 

 言いかけたところで、少女はさらに真っ赤になり、耳まで染めて——しかし次の瞬間には勢いを取り戻していた。

 

「お、お先に! もらいますね!!」

 そう叫ぶやいなや、男の胸を両手でぐいっと押し、入浴施設の外へ追い出した。

 

 バタンッ!!

 

 扉が勢いよく閉められ、男は廊下に取り残される。

 

 しばし呆然。

 

「……俺、失敗したか?」

 と漏らした男の疑問に、背後で控えていたドロイドが反応した。

 

《……──……──……》

 やたらと複雑で、どこか呆れたような電子音。

 

 男は眉をひそめて振り返る。

「おい、今のは悪口だろ。絶対悪口だろ。流石に俺でも分かるぞ。おい!」

 ドロイドは無表情のまま、胸部のタブレットに淡々と文字を表示する。

 《悪口ではありません。事実です》

「それが悪口なんだよ!」

 

 廊下に男の声が響き、入浴施設の扉の向こうでは、少女が嬉しさと恥ずかしさでバタバタしている気配がした。

 

     *

 

「……いや、ここで立ってたら……駄目だろ」

 (見た目が)幼いとはいえ、女性の入浴を廊下で待ち構えていたら、流石に二度と口を聞いて貰えないだろう。

 男はそう判断し、肩をすくめて自室へ戻ることにした。

 

 部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。

 工具箱の匂いがまだ手に残っている。

 ふと気づく。

 

 ——頭の中のもやもやが、だいぶスッキリしている。

 

 完全に晴れたわけではない。

 疑問が消えたわけでは無い。

 少女との気まずさも、まだ少し残っている。

 

 けれど、胸の奥に沈んでいた重たい塊が、今はだいぶ軽くなっている。

 

 「……今夜はぐっすり眠れそうだ」

 男はベッドに横になり、目を閉じた。

 

 遠くで、何かの機械の低い唸りが聞こえる。少女が嬉しそうに風呂を使っているだろうと思うと、その音さえ心地よく感じられた。

 静かな部屋で、男はゆっくりと眠りに落ちていった。

 

     *

 

 薄暗い。

 湿った空気が肺に張りつく。

 足音が水を叩くたび、反響が狭い通路に跳ね返る。

 

 俺は走っていた。

 前を行くヘルメットの背中を追いかけて。

 慣れ親しんだはずの下水道の道が、今は知らない場所の様に映る。

 

 その背中は、俺にとって戦友にも等しい人だった。

 いや——それ以上だ。

 胸の奥が熱くなるほど、大切な存在。

 

 「急ぐぞ」

 「あいつらを出来る限り引きつけるんだ」

 

 前を走る人物が短く言う。

 その声は、俺の心臓の奥に直接響くような、強くて、頼れる声だった。

 

 「親父……」

 俺はどうしても拭えない疑問を投げかける。

 「何で急に奴らは——」

 

 言い終わる前に、親父と呼ばれた男は手振りで俺の声を遮った。

 前方を鋭く警戒しながら、壁に身を寄せて隠れる。

 俺も同じように身を隠す。

 

 水の流れる音。

 遠くで金属が擦れる音。

 息を潜めると、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。

 

 前方の影から、兵士が現れた。

 その装備を見た瞬間、親父が低く呟く。

 

 「……マズいぞ」

 

 次の瞬間、親父は俺に覆いかぶさるようにして庇った。

 その動きは迷いがなく、反射のように速かった。

 

 爆発音が響く。

 世界が白く弾ける。

 

 頭に衝撃が走り、

 焼けるような激痛が、視界を真っ赤に染めた。

 

 息が詰まり、

 音が遠ざかり、

 父さんの重みだけが、最後に残った。

 

 そこで——俺の意識は途切れ。

 

       *

 

「あああああああ——————!!」

 

 男は、誰かの叫び声で目を覚ました。

 

 反射的に上半身を起こし、荒い息を吐く。

 

 耳の奥でまだ叫び声が反響している。

 

 だが数秒後、その声が——自分のものだったと気づく。

 

 全身が汗まみれだった。

 シャツは背中に張り付き、胸は激しく上下し、心臓は暴れるように脈打っている。

 頭がガンガン痛む。

 脳の奥を誰かが殴っているような、そんな鈍い痛み。

 

 男はベッドの端を掴み、よろめくように立ち上がった。

 視界が揺れる。

 呼吸がうまく整わない。

 

 そして——

 ぽつりと、一言こぼれた。

 

 「……親父……?」

 

 その言葉は、夢の残滓なのか、記憶の断片なのか、自分でも分からなかった。

 ただ、胸の奥に冷たいものがひとつ落ちた気がした。

 

      *

 

 男は額の汗を拭いながら、自室のドアノブに手をかけた。

 まだ胸の奥がざわついている。

 夢で見た光景が、脳裏をまだ駆け巡っている。

 

 ドアを開けると、一枚のメモが、ドアの下に落ちていた。

 

 白い紙に、几帳面な字。

 小さく、丁寧に、まっすぐ書かれている。

 

『お風呂空きました。ありがとうございます』

 

 署名はない。

 けれど、誰が書いたかは一目で分かった。

 

 男は紙を拾い上げ、しばらく見つめた。

 そして丁寧に畳むと、ポケットに仕舞う。

 

 さっきまでの悪夢の名残りが、紙の一枚で薄れていくようだった。

 

「……ありがとな」

 誰に向けた言葉かは、自分でもよく分からない。ポケットが少し熱を持った様に感じた。

 

      *

 

 男はシャワー室の壁にもたれ、頭に残った映像をすべて押し流すつもりで、熱い湯を勢いよく浴び続けていた。

 

 肩に当たる水圧が痛いほど強い。

 それでも止める気にはならなかった。

 

 胸の奥に残ったざわつきが、湯に溶けて消えていくような気がした。

 

 やがて、息を整えながらシャワーを止める。

 タオルを掴み、雑に頭と体を拭く。

 水滴が床に落ちる音だけが響く。

 

 ふと、傍らの棚に手を伸ばした。

 

 ——空を切った。

 

「……?」

 

 男は手を止める。

 棚には何も置いていない。

 そもそも、何を取ろうとしたのか自分でも分からない。

 

 ただ、

 “そこに何かがあるはずだ”

 という感覚だけが、指先に残っていた。

 

 男はしばらく棚を見つめる。

 胸の奥に、また小さなざわつきが戻ってくる。

 

「……なんだ、今の」

 自分でも説明できない違和感。

 夢の残滓なのか、記憶の断片なのか、それとも——

 

 男はタオルを肩にかけ、深く息を吐いた。

 乱暴にタオルで顔をこすって、視線を上げる。

 

 そこには鏡がある。

 

 湯気に曇った鏡面に映るのは、眠りが浅かったせいか少しやつれた、見慣れない自分の顔だった。

 顔をそっと撫でる。鏡の向こうも同じ様に動く。

 

 瞬き——ほんの一瞬。

 

 映像が切り替わったように、鏡の中に全く違うものが映った。

 

 黒いヘルメット。

 無機質で、感情のない、ただこちらを見返すような黒い面。

 

 男の背筋が凍る。

 

 反射的に、鏡へ拳を叩きつけた。

 

 ガシャァンッ!!

 

 鏡が砕け散り、破片が床に飛び散る。拳に鋭い痛みが走り、血が滴り落ちた。

 

 男は荒い息を吐きながら、割れた破片を見下ろす。

 もうヘルメットは映っていない。

 ただ、自分の顔だけが、いくつもの破片に歪んで映っていた。

 

「何なんだよ……」

 男はしばらく動けなかった。

 

 胸の奥で、頭の奥で、何かがもがいている。思い出せ、お前が何者か。

 滴る血の赤だけが、真実を知っているかのようにきらめいていた。

 

       *

 

 それから数日間は穏やかな日々が続いた。外は相変わらずの猛吹雪ではあったが。

 

 結局、シャワー室での一件は少女に話していない。手の傷を見て悲鳴を上げられたのには参ったが、滑って転んだ、と誤魔化した。ドロイドには、割れた鏡ぐらい片付けろと怒られた。

 

 吹雪が止んだらまたあのクレバスに向かうつもりだ。

 男と少女は、それぞれの役割をこなしながら準備を進めていた。

 

       *

 

 男は朝から格納庫にこもり、HWK-290 の外装を叩き、配線を確認し、燃料ラインを見直す。

 少女は工具を手渡したり、時折「そこ、昨日も見てましたよ」と呆れたように言う。そんなやり取りをしながら、船体の隅々まで点検していく。

 エンジンの冷却系、姿勢制御スラスター、通信モジュールの再起動。どれも問題なし。

 ハイパージャンプの機構さえ直せれば飛ばせそうだ。

 

       *

 

 基地内の設備も、あちこちガタが来ていた。

 男は循環ポンプの音を聞き、少女は端末でログを確認する。

「これ、また止まりそうですね」

「止まる前に直すんだよ」

 少女はくすっと笑い、男は肩をすくめる。

 以前の気まずさは、もうほとんど残っていなかった。

 

       *

 

 夜になると、二人は一つの机で向かい合う。

 温かいスープと、プラントで育てた野菜の簡単な料理。

 少女はフォークを器用に動かしながら、嬉しそうに食べ進める。男はその様子を見ながら、どこか安心したようにスープをすする。

「次の調査、怖くないですか?」

「いや?」少し考えて男は口を開く。「そっちこそ大丈夫か? 怖いなら残ってても……」

 少女は小さく首を振った。

 その表情は、吹雪の中で見せた不安とは違い、どこか強さを帯びていた。

「なら、体力付けないとな」

 男は笑って、少女の空になったカップにお茶のおかわりを注いであげた。

 

      *

 

 いよいよ明日は天候が回復し、クレバスの再調査に向かえる——その晩。

 

 男は自室の机に向かい、真剣な表情でブラスター・ピストルを整備していた。

 分解し、内部のカーボン汚れを丁寧に拭い、エネルギーパックの接触端子を磨き、スライド部の摩耗を指で確かめる。

 

 このブラスターは、誰が使っていたのか分からない。

 

 だが、内部の調整は驚くほど丁寧で、整備の癖も一定している。

 

 ——そして、使い込まれている。

 

 そう思わせるほど、細部まで気を配った痕跡があった。

 

 しかし。

 

 男はため息をつき、組み上げたブラスターを手の中で重さを確かめる。

「……明日の武器としては、心許ないな」

 

 クレバスの奥で何が待っているか分からない。

 危険な獣がまた出ないとも限らない。

 

 男は机に肘をつき、しばらく無言でブラスターを見つめた。

 

 少女は明日、自分と一緒に行く。

 守らなければならない。

 そのための武器としては、この小さなブラスターだけではあまりにも頼りない。

 

 やはりどうしても追加の武器が欲しい——。

 

 男はブラスターピストルをホルスターに収めながら、深く息を吐いた。

 

 パルスライフルは、結局何も調整できないまま、部屋の壁に立てかけられた“飾り”になっている。

 見た目は立派だが、内部は完全に死んでいた。

 エネルギーパックも反応せず、トリガーも空を切るだけ。

 

「……せめてもう一本は必要か」

 男は立ち上がり、部屋の照明を落とした。

 

 静かな廊下に出ると、基地の空気はひんやりしている。

 少女はもう自室に戻っているはずだ。

 明日のために休んでいるだろう。

 

 男は歩きながら、頭の中で基地の構造を思い返す。

 ——武器は、おそらく“あそこ”にしかない。

 

 今までの日々で基地を散々歩き回った。

 倉庫、整備室、旧司令室、居住区画。何ならバイオプラントに入浴施設も。

 どこを探しても、エネルギーパックひとつ見つからなかった。

 

 つまり、残された可能性はひとつ。

 

 施錠された部屋。

 

 基地の奥、ほとんど使われていない区画にある、重たい金属扉。

 一つだけ鍵の掛けられた部屋。

 

 男はその前に立ち止まる。

 

 扉は静かだ。

 まるで中に何もないかのように。

 

 だが——

 男は直感していた。

 

 武器があるとしたら、ここしかない。

 

      *

 

 ブラスターを使って開閉制御パネルを撃ち抜く——その案は、男の頭の中で一瞬だけ浮かんだ。だがすぐに消える。

 

 音で少女に気付かれる。それは絶対に避けたい。

 

 あの子を不安にさせるような真似はしたくなかった。

 

「……開閉用の、基盤を外してしまえば、いけるか?」

 男は扉脇のパネルを見つめ、内部構造を思い描きながら逡巡する。

 

 そのとき——

 静かな廊下に、軽い駆動音が響いた。

 ドロイドだった。

 

 男はうんざりしたように眉をひそめる。

「また止めに来たのか」

 

 ドロイドは男の前で立ち止まり、

 胸部のタブレットを点灯させる。

 

《開けたいですか?》

 

 男は一瞬、言葉を失う。

 

《開けたいのでしたら、(キースティック)を渡します》

 

 どういう風の吹き回しだろう。

 今まで散々止めてきたくせに、急に協力的だ。

 

 男の抱いた疑問を無視して、ドロイドは続けた。

 

《代わりに約束していただけますか?》

《主人を、あの子を、ちゃんと守ってくれますか》

 

 その言葉は、機械の声なのに、どこか人間の祈りのように聞こえた。

 

 男は思わず笑った。

「そのために来たんだよ」

 

 ドロイドは静かに頷き、キースティックを差し出した。

 

 男は差し出された鍵に手を伸ばす。その動作は自然で、ためらいもなかった。

 

「それが俺たちの——教義だからな」

 

 口が勝手に動いた。

 言葉が、思考より先に出た。

 

 カツン。

 

 乾いた音が床に響く。

 鍵が落ちた音だった。

 

 男は一瞬、何が起きたのか理解できず、次の瞬間、自分の発言を反芻する。

 

 ——教義。

 

 その言葉は、まるで誰かの記憶をなぞるように、自然と口からこぼれた。

 自分の背筋を冷たい何かが走り、貫くのを感じる。

 ずっと探していた、確かな寄る辺。

 俺たちの、————の道。

 

 男はゆっくりと視線を落とし、床に転がった鍵を見つめた。

「何、を……俺たち……?」

 胸の奥がざわつく。

 悪夢の残滓とは違う、もっと深い場所を刺激するざわつき。

 

 ドロイドは静かに男を見つめている。

 表情はないはずなのに、どこか“確認している”ような気配があった。

 

 混乱する頭を振り払って、男は床に落ちた鍵を拾い上げた。

 冷たい金属が掌に触れた瞬間、動悸が一気に激しくなる。

 

 扉の向こうにあるものが——急に、怖くなった。

 

 何一つ変わっていないはずなのに。

 ただ鍵を拾っただけなのに。

 胸の奥がざわつき、背筋に冷たいものが走る。

 「……なんだ、これ」

 男は自分の鼓動を抑えようと深呼吸するが、逆に息が浅くなる。

 

 スティックを制御パネルに差し込もうとする。

 だが、手が震えてなかなか刺さらない。

 

 カチ、カチ……

 

 金属がパネルの縁をかすめる音だけが虚しく響く。

 

「ここに……何があるってんだ」

 男の声はかすれていた。

 

 問いはドロイドにも向けられたものだったが、ドロイドは何も答えない。

 ただ、無反応のまま男を見つめている。

 

 その沈黙が、逆に不気味だった。

 

 男は震える手を押さえつけるようにして、ゆっくりと鍵をパネルへ差し込んだ。

 扉が、開いた。

 

     *

 

 ——もし、もしですけど、このまま記憶が戻らなかったら、どうしますか?

 

 ——それはちょっと困る……ん、いや、困らない、か?

 

 ——困らないんですか?

 

 ——知識はあるし、技術もあるし、やることは変わらないだろ

 

 ——変わらない、んですか?

 

 ——ああ、変わらないと思うよ

 

     *

 

 男が無言で扉のパネルに触れると、冷えた空気が一気に流れ出した。

 

 鉄錆と、微かに腐肉のような刺す匂い。

 

 暖房は入っておらず、廊下と同じ冷たさが肌に張り付く。

 部屋の造りは他の空室と変わらない。

 

 ただ、床に置かれたコンテナだけが異質だった。

 

 蓋は半ば開き、見覚えのある見覚えのない様々な物が無造作に突っ込まれている。

 

 熱で歪んだブラスター・ピストル。刃こぼれしたナイフ。巻かれたままのロープ。赤黒いものがこびり付いたジェットパック。煤に塗れたグラップリングチャージ。

 

 どれも手入れされていない。

 ただ、そこに“戻ってきた”だけのように置かれていた。

 

 震えて泳ぐ視線が、一点で止まる。

 

 ベッドの上。

 

 黒く塗られたヘルメットと鎧が、丁寧に並べられている。

 

 ——夢の中で、見た。

 

 他のものとは違い、それらだけは手をかけて磨かれていた。汚れひとつない。

 

 男はゆっくりと歩み寄り、ヘルメットを手に取った。

 丁字のバイザーの向こう、空洞のはずの中から、慣れ親しんだ声が今でも聞こえてきそうだ。

 

 ——鼻を刺す匂いは、そこから漏れていた。

 

 血肉の匂い。

 どれだけ磨いても消えない、戦場の残り香。

 男はヘルメットを見つめたまま、動かなかった。

 

 世界がひっくり返ったように“何か”が脳の奥で弾けた。

 

     *

 

 コン、コン。

 

 控えめなノックの音で少女は目を覚ました。

 

 薄暗い部屋で身を起こし、壁の時計を見る。

 ——まだ深夜だった。

 

 こんな時間に誰が?

 

 困惑しながら、少女は布団を押しのけて立ち上がる。

 「……はい、どなた——」

 扉に手をかけ、開けようとしたその瞬間。

 

 「——開けるな」

 

 低く、重く、暗い声が扉越しに響いた。

 

 男の声だった。

 

 知っている声なのに、今まで聞いたことのない響きだった。

 静かで、暗くて、その底に——押し殺された怒りが沈殿している。

 

 少女はビクッと肩を震わせ、扉から手を離した。

 

 心臓が跳ねる。

 息が詰まる。

 

 男の声なのに、男じゃないような気配がした。

 少女は扉の前で固まり、暗い廊下の向こうにいる“何か”を想像してしまう。

 

 扉の向こうから、再び男の声がした。

 

 「俺の、ヘルメットを、返してくれないか」

 

 言葉そのものは丁寧だった。いっそ穏やかにも聞こえた。

 だがその声は、あまりにも冷たい。

 

 ——ああ。

 

 空を切る指先が震える。唇から顔面へと血の温もりが引いていく。

 喉がひゅっと縮まり、返事をしようとしても声が出ない。視界が狭まり、暗く濁っていく。

 世界が、崩れ落ちる。

 

「聞こえなかったか? もう一度言うぞ」

 扉越しに響く声は、静かにゆっくりと、死刑宣告を繰り返す。

 

「ヘルメットを、返せ」

 今度は隠さない怒気をはらんだ声に、少女の背筋が凍る。

 

 膝が震え、扉から一歩後ずさる。

 ようやく、絞り出すように声が漏れた。

 

「……あの、記憶」

「戻った」

 短く、冷たく、感情の温度がまるでない声。

 その一言だけで、少女の背筋はさらに強張った。

 

 それでも何か言わなければと思い、少女は勇気を振り絞って口を開く。

「な、何か……手伝い——」

「いらない」

 食い気味に、鋭く、少女の言葉を切り捨てるように否定した。

 

 少女は息を呑み、扉からさらに一歩離れた。

 

 扉の向こうには、自分の知っているあの人だろうか。

 今まで一緒に過ごした日々が、走馬灯のように脳裏を流れる。

 

 倒れた自分のために駆け回ってくれたこと。

 HWK-290を二人で点検したこと。

 食堂で笑いながら食事をしたこと。

 夜、廊下で気まずそうに立っていた姿。

 直った、と嬉しそうに告げる顔。

 修理の時の真剣な顔。

 

 優しい声。

 

 温かい掌。

 

 どれも、少女の知っている“男”だった。

 

 けれど、扉の向こうから聞こえる声は、そのどれとも重ならない。

 こんな冷たさも、怒りも、あの人は私に向けたことは無かった。

 

 私のせいだ。私がちゃんと伝えなかったから。隠したから。騙したから。私が、私が——

 

「わた、私の、私が、悪かったんです!」

 

 上擦りながらも精一杯搾り出した。けど、それが何の弁解になるのだろう。

 

 扉の向こうで、小さく、カリ——、と引っ掻く様な音がした。

 

 永遠にも思えるほど、長い時間が流れた気がする。もしかしたら一瞬にも等しい短い時間かもしれない。

 

「……俺の、俺たちのことは、どこまで知ってる」

 沈んだ声が聞こえた。

 

 カリ、とまた引っ掻く様な音。この扉のすぐ向こうに居るんだろうか。

 

 少女は大きく息を吸って、

「………………マンダロリアン……」

 恐らく一番伝わると確信している言葉を口にした。

 

 マンダロリアン——戦いを生きがいとし、強靭なベスカーの鎧に身を包んだ戦士の一族。彼らは故郷マンダロアの誇りを胸に、信条を絶対の掟として生きる。

 

 そして最も厳かな戒めのひとつに、こうある。

 

 ——生きているものの前で、決してヘルメットを脱いではならない。

 顔を見せることは、己の魂を晒すに等しいのだと。

 

 すると。

 

 ダンッ!

 

 扉を強く叩く音に、伸ばしかけた手を引っ込める。ひっ、と漏れ掛けた悲鳴を、どうにか飲み込む。

 

「……知ってるだろ」

 ダンッ!

 

 再び扉が叩かれる。

 

「俺たちの、教義! 知ってるんだろ! 有名だもんなあ!」

 

 ダンッ!ダンッ!

 

 何度も、何度も、規則性もない荒い衝撃。

 拳か、掌か、定かではない何かを叩きつける音が、男の声に被さる。

 煽るような響きが混ざり、そしてどこか、自分自身を嘲るような自虐が滲んでいた。

 

 扉を叩く音が、止んだ。

 軽く衣擦れの音がした。

 微かな摩擦音の後に、床に重たい何かが落ちる音。

 

「……何で生かした…………」

 先程より低い場所から、微かに漏れてきた声。絶望と諦観の入り混じった、今にも泣き出しそうな声。

「……死なせてくれれば良かったんだ……」

「戦士として……親父の後を、追わせて欲しかった……」

 

 その言葉を聞いた瞬間、少女の中で何かが弾けた。

 

 違う。

 それは違う。

 それだけは、その言葉だけは、違うでしょう。

 

 冷え切ったはずの心に火が灯る。恐怖で震えていた手を握りしめる。後悔で固まっていた体を前に出す。

 

 何が自分を突き動かしたのは分からない。

 怒りじゃない。

 嘆きじゃない。

 

 あの時、何度も繰り返した切望が、この人の言葉を否定しろと、胸を焼き焦がす。

 

「私がっ!」

 喉の震えを振り払うように、声を張り上げた。

 扉に向かって、まっすぐに。

 

「生かしたかったから!」

 滲んだ涙を、乱暴に手の甲で拭う。

 その動きだけで、胸の奥の熱がさらに強くなる。

 

 男の絶望に満ちた言葉を否定するために、少女はただ声を出した。

 

「叔父様に、頼まれたからだけじゃ、ない! 私が、生きてて、欲しかったんです! 死んで、ほしく、なかったんです!」

 溢れた感情ごと、扉に両手を叩きつける。

「ヘルメットは、タンクのあった、部屋にあります。扉は、開けません。もう、顔も——見ません。でも、だから、私は……ッ」

 

 生きてるだけで嬉しかった。

 

 最後は言葉になっただろうか。

 抑えきれなかった嗚咽に押し流されて、伝わったかわからない。

 

 扉の向こうの人物は、何も答えない。

 しばらくして、立ち上がる様な衣擦れの音、少し引きずる足跡が遠ざかっていった。

 少女はその場で幼子のように泣きじゃくることしかできなかった。

 

       *

 

BBY×年××月××日

 おとうさんがのーとをくれました、これてにっきをかくといいそうです、なにかく?

 

BBY×年××月××日

 お父さんからマスクをもらった。これをかぶって、アグノートのふりをしなさいって言われた。アグノート語の勉強もがんばります。

 

BBY×年××月××日

 お父さんのお友達のおじさんといっぱいお話しした!すっごく楽しかった!おじさまはマンダロリアンで、色んなお話しが面白かったけど、ヘルメット外しちゃったらどうするのかは怖かった。

 顔を見た奴はみんな殺しちゃうんだって!

 

ABY×年××月××日

 父の具合が中々良くならない様に見える。自分でも色々調べてみよう。

 

ABY×年××月××日

 病院を閉めるそうだ。患者はまだ来るかもしれないけど、断るそうだ。

 ドロイドがまた一体壊れた。替えのパーツとして——にしまっておく。パーツばっかり増えていく。

 

ABY×年××月××日

 ドクちゃんが喋らなくなった。修理を頑張ってみたが、私にはどうにも出来なさそうだ。タブレットを代わりに同期しておく。これからはこれがドクちゃんの声だ。

 

ABY×年××月13日

 バイオ・プラント区画の重度汚染発生。

 

ABY×年××月19日

 ダメだった。第一区画だけ残して、第二と第三は更地にする。資源回収を優先する。 

 

ABY×年××月××日

 久しぶりのお客さんだ。マンダロリアンの叔父様がまたいらした。私ももっと話したかったのに、父さんと二人で話したいって。声のトーンが怖かった。

 帰りに叔父様がまた来るって約束してくれた。息子さんがいるそうだ。会わせてくれるって、嬉しい。

 

ABY4年××月××日

 父さんが死んだ

 

ABY4年××月××日

 [ページは引きちぎられている]

 

ABY4年××月××日

 [前のページの筆跡の跡でぐちゃぐちゃになっている]

 

ABY5年××月××日

 やるべきこと

 ・バイオプラントの修理

 ・宇宙船のマニュアル探し

  →書斎を~探す~整理する

 ・医療備蓄の見直し

 

ABY6年××月××日

 半日格闘してみたけどやっぱり止まったポカちゃんは直せない。もうドクちゃんしか残っていない。

 

ABY8年××月××日

 ハッピーバースデー、私。ケーキ食べたい!!!!

 プレゼントは友達がいいです。ダメなら、カーボンチューブ。

 

ABY9年××月××日

 ブリザードが凄い。何日前からだっけ? ソーラーが稼働してないから電力足りな

 

 ずどおおおおん。

 重く激しい衝突音と共に部屋が揺れる。

 

「ひええ……」

 取り落としたペンが転がって机の下へ。少女は拾おうと屈んだところで、ふと、不安が頭をよぎる。

「隕石シールドシステム、止まってないよね?」

 

 父さんが死んで五年。少女は独り言がすっかり癖になってしまっていた。

 

「ドクちゃん? ドクちゃーん!」

 たった一人の家族を呼びながら廊下に出る。乾いた冷気が肌にまとわりついて、少女の体がぶるっと震える。

 

「コート、コート……寒くて無理だよこれ」

 部屋に戻りかけたその時。

 

 ビビーッ! ビビーッ!

 

 施設中に響き渡る聞きなれない警告音。のっぴきならない異常事態の時、とかだった気がする。

 

 少女は外套に袖を通しながら、館内を全力で駆ける。

 

「もおおお! 今度は何なのー!」

 不安を誤魔化すつもりで大声を上げながら、管制室の扉を開けると、既に医療ドロイドがコンソールを操作していた。

 

「ドクちゃん! この警告何だっけ!?」

 少女の声に医療ドロイドは振り返ると、モニターを見るように、と促す。

 そこには少女も未だ意味を知らない数字が無数に並んでるが、幸いにも異常値を叩き出した値は見覚えある。

 

「クロノー放射……?」

 それは宇宙船がハイパースペースを抜けた時に観測されるもので、かつてこの施設を訪れる"患者"はあえて惑星近くにジャンプすることで来訪を知らせる習わしがあった。

 

「誰か、来るって、こと……?」

 まだ事態が上手く飲み込めない。

 誰か?

 誰かって誰?

 来るって、ここに?

 

「うそっ……! どうしよう……!部屋散らかってるし、髪ぼさぼさだし、今日に限って朝ごはんこぼした服着てるし……!」

 

 医療ドロイドが呆れた様な電子音を鳴らす。

《患者の可能性を考慮されては?》

 

 胸に装着されたタブレットの文字を見て、少女の血の気が引く。

 

 この病院に、医者は、もういない。

 

「っ〜〜〜!!」

 短い葛藤の後、

「行こう、ドクちゃん!」少女はドロイドに手招きする。「ほっとくわけにもいかないでしょ!」

 

      *

 

 恐らく来訪者が来るとしたら搬入口だろう。

 今までもそうだったし、多分、きっと。

「違ったら、どうしよう……」

 

 搬入口のシャッターは閉じたまま、その向こう側で風が激しく叩きつける音が響いていた。

 

 ガンッ、ガラララッ、バサァァァッ——

 金属板が揺れるたび、外がどれほどのブリザードになっているかが音だけで分かる。

 少女は思わず身をすくめた。

 冷気は入ってこないはずなのに、音だけで寒さが伝わってくる。

 

 医療ドロイドは横で静かに待機していた。フロート担架を展開し、センサーランプを淡く点滅させながら「ピッ」と短い電子音を鳴らす。

 準備は万端だという合図。

 

 しかし——誰も来ない。

 

 シャッターを叩く風の音だけが、

 搬入口に響き続けていた。

 

 少女は胸の奥がざわつくのを感じる。

 不安。

 心配。

 そして、場違いな期待。

 

 (本当に誰か来るのかな……

  もし来るなら、どんな人だろう……

  怪我してたら……私、ちゃんと助けられるかな……

  でも……誰かに会えるのかもしれない……)

 

 風がシャッターを強く叩き、金属がビリッと震えた。

 

 少女は小さく息を吸い、ドロイドに向かって言う。

「……もう少し待ってみよう、ドクちゃん」

 

 ドロイドは静かに「ピッ」と応え、担架をわずかに前へ滑らせた。

 

 吹雪の音だけが響く搬入口で、少女はじっとシャッターを見つめ続けた。

 

     *

 

 誰も来ない。

 

 風がシャッターを叩く音だけが響き続ける。

 勘違いだったろうか。センサーが故障したのかも。

 少女は少しだけ肩の力を抜き、帰ろうか、と口を開きかけたその時——

 

 ガンッ!!

 

 シャッターが大きく揺れた。

 

 少女は跳ね上がるように振り返る。

 

 ガンッ……ガンッ……!

 

 叩く音。

 風ではない。

 規則的で、弱々しくて、それでも必死に力を込めている音。

 

 医療ドロイドのセンサーランプが赤に変わり、「ピピッ!」と警告音を鳴らす。

 

 少女は息を呑んだ。

(来た……! 本当に来たんだ……!)

 不安と緊張と、そして少しの期待が一気に胸に広がる。

 

 シャッターの向こうで、弱い拳がもう一度、金属を叩いた。

 

 ガン……

 

 少女は担架の横に立ち、ドロイドとともにその音を待ち受けた。

 

 震える指で、搬入口横のシャッター開閉ボタンに指を伸ばす。一呼吸分、躊躇を振り払って、おへそに力を込める。

 

 「……いくよ、ドクちゃん」

 医療ドロイドはフロート担架を構えたまま、センサーランプを青に点灯させる。「ピッ」行動可能の合図。

 少女は息を呑み、ボタンを押した。

 

 重いモーター音が響き、シャッターがゆっくりと上昇していく。

 

 その向こうには——激しいブリザード。

 

 雪が横殴りに吹き荒れ、白い壁のように視界を奪う。風が少女の頬を刺し、冷気が一気に流れ込んだ。

 

 そして、その白の中に——

 二つの影。

 

 一人は立っていた。

 全身を煤にまみれた兵装で覆い、顔はヘルメットで完全に隠れている。

 肩で荒く息をし、足元はふらついていた。

 

 もう一人は、その傍らに仰向けに倒れたまま動かない。同じ兵装姿だが、焼け焦げた何かがヘルメットに張り付き、雪に赤が滲んでいる。

 

 立っている男が、ブリザードにかき消されそうな声で必死に言葉を絞り出した。

 「……せ……ん……せ……は……い……ない……のか……」

 息も絶え絶え。

 声は震え、途切れ、それでも必死に少女へ向けられていた。

 

 男の姿は、まるで戦場そのものが歩いてきたかのようだった。

 

 煤が全身にこびりつき、肩や腕には焦げた跡がまだ黒く残っている。雪に濡れた布地は破れ、インナーの繊維がところどころ露出していた。

 ヘルメットの表面は無傷なのに、その下の男の呼吸は荒く、胸が上下するたびに苦痛が滲む。

 鎧の継ぎ目からは砂と雪が入り込み、膝のあたりには泥が固まってこびりついている。

 

 戦闘の熱と、吹雪の冷気が混ざり合い、男の体からは湯気のような白い息が立ち上っていた。

 

 その壮絶な姿を前に、少女は息を呑んで動けなかったが、

「…………叔父様…………?」

 ようやく見覚えがある姿だと思い出した。

 マンダロリアンの叔父様。父さんの友達。

 

 叔父様は、少女の声に反応したのか、ヘルメットの奥でわずかに肩を震わせた。

 吹雪の轟音の中、彼はゆっくりと息を吐いた。

 それは、何かを察したような深い落胆のため息。

 医者がもういないことを、少女が言う前に悟ったような呼吸だった。

 

 それでも、次にこぼれた声は、ほんの少しだけ再会の喜びを滲ませていた。

 「……お嬢ちゃんか……懐かしいな……大きくなった……」

 その声は、かすれて途切れ、今にも消えそうなほど弱々しい。瀕死の体で、立っているのが奇跡のようだった。

 

 彼は、ふらつく足で倒れた男の方へ視線を向け、手を伸ばそうとして——

 そのまま少女の方へ向き直った。

 

 「……誰でも……いい……

 息子を……助けて……くれる……人を……」

 傍らに倒れた男を指し示した瞬間、叔父様の膝が崩れた。

 

 雪と煤にまみれた重い身体が、その場にゆっくりと倒れ込んだ。

 

 少女は息を呑み、医療ドロイドの担架が自動で前へ滑り出す電子音が響いた。

 

       *

 

 処置室の照明は、薄暗いオレンジに落とされていた。

 

 二台並んだベッド。片方には叔父様が横たわり、点滴の管から薬液がゆっくりと落ちている。もう片方には、まだヘルメットを着けたままの息子。胸の上下動が、あまりにも浅い。

 

 医療ドロイドのセンサー光が、その胸元を這うように走る。ピ、ピ、と規則的な電子音——のはずが、時折リズムが乱れる。タブレットに並ぶ数値を、少女は震える指でなぞった。

 

「熱傷は、二度と三度が混在……胸部に貫通熱傷、あと肋骨が二本……内出血の反応、が……」

 声に出して確認するたび、指先の震えが増していく。安堵はどこにもなかった。

 

《生体反応:危険域。早急な処置が必要》

 

 タブレットの警告表示に、少女の喉が小さく鳴った。

 

 センサーの光が、ヘルメットの表面で弾かれて消える。

 ベスカー鋼。

 貫通も、透過も、拒む金属。

 

《頭部の状態、測定不可》

 

 もう一度、傷ついていない箇所を確認しようとして——それがほとんど無いことに、少女は気づいてしまった。首、肩、腕、脚。どこもかしこも、焼けているか、切れているか、腫れている。

 

「……意識が戻らない理由、なら……」

 

 そう呟きかけて、少女の視線が止まる。ヘルメットの隙間、うなじにあたる部分にうっすらと滲んだ、赤黒い染み。

 乾きかけた血の痕だった。

 

 ——頭。真っ先に疑うべきは、そこだ。

 少女はタブレットを握る手に力を込めた。

 

     *

 

 少女は叔父様のベッドに近づき、迷いながらもその肩に手を添えた。

 

 重症の人を、無理に起こしていいのだろうか。

 このまま眠らせておくべきなのかもしれない。

 罪悪感が胸の奥でせめぎ合う。それでも、伝えなければならないことがあった。

 

「……叔父様、すみません、少しだけ」

 声をかけながら、そっと肩を揺する。

 

 反応は、思いのほか早かった。

 

「……ん……」

 ヘルメットの奥から、くぐもった声が漏れる。荒かった呼吸が、わずかに整えられていく。まるで、ずっと意識があって、ただ黙っていただけのように。

 

「……お嬢ちゃん、か……悪いな……どうした……」

 声は掠れ、時折、咳き込むように途切れた。庇った側の脇腹を庇うように、わずかに身をよじる仕草。少女は少し面食らいながらも、意を決して口を開く。

「あの、息子さんのことで……」

 

 言葉に詰まる。

 言わなければならないことは分かっている。だが、口にすることが恐ろしかった。

 

「治療のために……ヘルメットを、外さないといけません」

 

 言い切った瞬間、少女の肩が強張った。

 彼らの掟に土足で踏み込む発言だ。

 

 叔父様は、しばらく黙り込んだ。

 

 ヘルメットの向こう側で、何を考えているのかは分からない。ただ、荒い呼吸だけが、ゆっくりと繰り返されていた。処置室の機械音だけが、静かに時を刻む。

 

 自分の言葉は、どう受け取られただろうか。

 少女は身を固くして、次の言葉を待った。

 

 やがて、叔父様は小さく息を吐いた。

「……そうか」

 それだけだった。

 

 覚悟を決めたような、あるいは何かを諦めたような、短い一言。

 

 叔父様はゆっくりと身を起こそうとした。少女が慌てて止めようとするが、その手を軽く払われる。

 

「大丈夫だ……これぐらいは、自分で……」

 

 言葉とは裏腹に、身を起こす動きは鈍く、脇腹を庇う手つきに力がこもっていた。骨が軋むような呻きを一つ堪え、それでも叔父様は隣のベッドへ手を伸ばした。

 

 息子の頭に触れ、ヘルメットの留め具を探る指先は、痛みに震えながらも、驚くほど迷いがなかった。

 

 だが、そこで指は止まった。

 

 留め具にかけたまま、動かない。

 ヘルメットの奥から、何の音も聞こえてこない。

 少女は息を潜め、ただその手だけを見つめていた。

 

 どれくらい、そうしていただろう。

 

 やがて叔父様は、留め具から指を離した。

 その代わりに、掌全体でヘルメットの側面をそっと包み込む。

 

 撫でるような、慈しむような、静かな動き。

 まるで、そこにまだ幼い頃の息子の頭があるかのように。

 

 少女は、声をかけることができなかった。

 その手つきだけで、多くを語っていたから。

 

 やがて、叔父様の手が再び留め具へと戻る。

 今度こそ、迷いはなかった。

 

「——我らの道」

 

 重く、はっきりとした声だった。

 処置室の空気ごと、その一言に塗り替えられたような気がした。

 

 言葉と同時に、叔父様はヘルメットを一息に持ち上げた。

 

 カチリ、と小さな音。

 

 少女は、思わず目を逸らしかけた。

 

 だが——逸らせなかった。

 

 ヘルメットが外れた瞬間、少女は思わず息を呑んだ。

 

 露わになった顔は、想像していたよりもずっと若い。だが、その若さに見合わない傷が、顔から首にかけて刻まれていた。

 

 左目の上から首筋、鎖骨の下まで。皮膚が焼けただれている。新しい火傷だ。まだ赤黒く、一部は水疱が破れて滲んでいる。唇の端にも、乾いた血の筋があった。

 

「……これ……」

 声が震える。それでも少女は、すぐに医療ドロイドへ視線を走らせた。

「ドクちゃん、全部測って! 早く!」

 

 ドロイドのセンサー光が、即座に息子の全身を這う。ピ、ピピ、と忙しない電子音。タブレットに、これまでとは比べ物にならない量の数値が並んでいく。

 

《二度〜三度熱傷、範囲は顔面左半分から頸部・肩・上腕にかけて約28%》

《右側胸部に貫通熱傷。肋骨骨折二箇所、疑いあり》

《腹腔内、微量の内出血反応》

 

 命に関わる。命に、関わっている。

 数値がそれを、容赦なく突きつけてくる。

 

 少女は震える手で、胸元のアーマーを外しにかかった。留め具の一つが焼け付いて外れない。もどかしさに指先が滑る。

「……お願い、外れて……!」

 

 ようやく外れたアーマーの下、脇腹には黒く焦げた布と、その周囲に広がる皮下出血の痣があった。ブラスターの掠り傷にしては深すぎる。

 

「……脇腹に、被弾痕……肋骨、折れてます……!」

 声が上ずる。息を吸うたび、微かに軋むような音が漏れているのに、少女はようやく気づいた。

 

 次に、頭部へ手を伸ばした。指先で慎重に髪をかき分け、頭皮の状態を確かめる。触れた瞬間、指先に硬い感触が返ってきた。

 

「……腫れてる、こんなに」

 側頭部から後頭部にかけて、大きく膨らんだ痕がある。皮膚の一部が裂け、乾きかけた血がこびりついていた。内出血の色が、その周囲に濃く透けている。

 

「強い打撃を受けた跡があります……脳震盪、それとも、もっと深刻な……」

 言いながら、少女の声が上ずる。頭部への外傷は、外から見ただけでは判断できない。もっと深いところで、何かが損傷しているかもしれない。

 

 火傷。骨折。内出血。頭部の裂傷。

 それだけ並べても、まだ足りない気がした。

 

 ふと、脳裏に過るものがあった。

 ——クロノー放射。ハイパースペース。

 

「……もしかして」

 呟きながら、少女は隣のベッドへ視線を送る。

 

「ジャンプでここまで来たんですよね……ハイパースペースを、通って」

 

 叔父様が、わずかに顎を動かした。肯定の合図だった。声を出すだけの余裕はまだないようで、荒い呼吸だけが返ってくる。

 

「頭を強く打った状態で、あの空間を見続けたら……」

 少女の声が、徐々に確信を帯びていく。

「ハイパー・ラプチャー」

 

 その言葉を口にした瞬間、処置室の空気がさらに重くなった気がした。

 

 叔父様が、小さく息を吐く。

「……ああ」

 それだけだった。だが、その一言だけで、少女の推測が正しいことは十分に伝わった。

 

 重度の熱傷。骨折と内出血。頭部の裂傷。そして、ハイパースペースの視覚的衝撃。

 いくつもの傷が重なって、彼の意識を、記憶を、深く沈めている。

 

《生体反応、低下継続中》

 

 タブレットの表示に、少女は息を止めた。

 ——これが、一般人だったら。

 搬送の途中で、とうに息絶えていてもおかしくない。そう思わせるだけの数値が、そこには並んでいた。

 

「……治療、急がないと」

 声を絞り出し、少女はドロイドへ向き直った。

「バクタ・タンク、今すぐ!」

 ドロイドが即座に反応し、部屋の奥へ移動する。壁面のタンクユニットが低い駆動音とともに起動し、緑色の燐光がゆっくりと満ちていく。

 

 全身のこれだけの損傷を、本当にあれで何とかできるのだろうか。

 元より医者でもない自分には、縋る以外の選択肢がなかった。あとは——祈るしかない。

 

 少女は安堵しかけた。

 だが、次の瞬間、ドロイドのタブレットに表示された文字を見て、その安堵は凍りついた。

 

《バクタ残量:1回分》

 

「……え」

 

 少女は自分の目を疑い、もう一度画面を見た。

 数字は変わらない。

 

 一回分。

 

 それだけしか、残っていない。

 

 脳裏に、隣で荒い呼吸を繰り返す叔父様の姿が浮かぶ。

 全身の火傷。骨折の疑いのある箇所。恐らく、内臓にも損傷がある。

 そして、目の前で眠り続ける息子の、顔の傷と頭部の打撲。

 

 二人分は、ない。

 

 少女の手から、力が抜けそうになった。

 

「そんな……そんなの……」

 

 声が震える。

 誰かが決めなければならない。

 でも、そんなことを、自分が決めていいはずがない。

 

 少女は縋るように、叔父様のベッドへ視線を向けた。

 叔父様は、少女の表情だけで、状況を悟ったようだった。

 ヘルメットの奥から、静かな呼吸が漏れる。

 

「……言った、はずだ」

 かすれた声。それでも、迷いはなかった。

「……息子を、先に……」

 

「でも……!」

 少女は思わず声を張り上げた。「叔父様だって、こんなに、こんなに酷い怪我なのに……!」

 

 叔父様は、緩やかに、けれど確かに首を横に振った。

 

「……俺は……もう、十分だ」

 言葉の合間に、荒い呼吸が挟まる。

「……あいつを……頼む」

 

 少女の視界が、涙で滲んだ。

 何か言い返そうとしても、言葉にならない。

 これが最後の願いだと、聞かなくても分かってしまったから。

 

 ドロイドが静かに、タンクの準備完了を告げる電子音を鳴らした。

 

 少女は震える手で、涙を拭う暇もなく、息子の身体をタンクへ運ぶ準備に取り掛かった。

 

     *

 

 バクタタンクの中で、息子の身体はゆっくりと燐光の緑に沈んでいく。呼吸用のパイプが装着され、モニターに映る数値は安定していた。もう、少女がタンクに対してできることは、ほとんど残っていない。

 

「……お嬢ちゃん」

 叔父様の声が、少女を呼び止めた。

「少しだけ……あいつと、二人にしてくれないか」

 

 少女は振り返る。

 

「でも、叔父様の処置もまだ……」

 

「頼む」

 短く、しかし有無を言わせない響きがあった。

 

 少女は口を開きかけ、それでも言い返そうとした。まだ叔父様の治療は終わっていない。傷の様子だって、目を離していい状態じゃない。

 

 そう思おうとしたのに、視線がふと、叔父様の身体を捉える。

 

 バクタも使えない今、あの傷を、あの出血量を、この基地にある設備だけでどうにかできるのか。

 止血は施した。鎮痛剤も打った。それでも、応急処置がどこまで意味を持つのか、少女自身、心のどこかでずっと目を逸らしていた。

 

 ——ああ。

 

 気付いてしまった瞬間、喉の奥が冷たく締まった。

 

 この人は、治療を急いでほしいわけじゃない。

 

 もう、治療で助かる見込みがないから、こうして「頼む」と言っている。

 

 少女はとっさに何か言葉を探した。違う、そんなはずない、まだできることがあるはずだ——そう叫びたかった。だが、声にならない。

 

 ヘルメットの奥から向けられる気配——言葉にならない、静かな、けれど揺るがない何か——に、少女の抵抗は次第に力を失っていく。

 

 それは懇願というより、命令に近い重みを持っていた。この人が、これまでどれだけのものを背負い、どれだけの決断を重ねてきたのか。少女には計り知れない。ただ、その覇気だけが、痛いほど伝わってきた。

 

「……分かりました」

 絞り出すように答え、少女は後ろ髪を引かれながらも処置室を後にした。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 

     *

 

 扉が完全に閉じたのを、瀕死の男は音で確認した。

 しばらくの間、身動きひとつしない。

 処置室に響くのは、バクタ・タンクの静かな循環音だけだった。

 

 やがて、男はゆっくりと懐へ手を伸ばす。動くたびに、傷ついた身体のあちこちが軋むように痛んだ。それでも、指先だけは迷わなかった。

 

 取り出したのは、小さな録画機械(ホロ・レコーダー)だった。

 煤にまみれ、表面のあちこちが傷ついている。それでも、赤いランプはまだ健気に点滅していた。

 

 男は、それを手のひらの上でしばらく見つめる。

 

 そして、タンクの中でゆっくりと沈んでいく息子の姿へ、ヘルメットの視線を向けた。

 

      *

 

 

 この施設の片隅には、書斎がある。

 

 飾り気のない木製の棚が、壁一面を埋めている。ちょっとした図書室ほどの蔵書量だ。医学書と工学書が大半を占めているが、それだけではない。詩集、星図の解説書、古い神話をまとめた本、種族ごとの言語辞典——ジャンルはあまりにも雑多だった。

 棚の下段には、場違いなほど場違いな絵本が数冊、並んでいる。表紙は色褪せ、背表紙には子供の字で名前が書かれていた。

 

 部屋の中央には、大きな書き物机がひとつ。

 その上は、酷く散らかっていた。

 

 何冊もの本が開かれたまま重ねられ、付箋がいくつも貼られている。走り書きのメモが、机の隅から溢れそうになっていた。

 

『埋葬 手順』

『体液 処理』

『遺体 保存 惑星環境別』

『匂い 消臭 方法』

 

 几帳面な字で書かれたそれらの文字が、静かな部屋の中で、ひどく生々しい重みを持って存在していた。

 

 誰もいない書斎に、窓から差し込む光だけが、机の上の紙を白く照らしていた。

 

      *

 

 よく晴れた日だった。

 

 雪原に反射する陽光が、痛いほど眩しい。風は穏やかで、ここ数日続いた吹雪が嘘のように、空は澄み渡っていた。

 

 施設の裏、開けた場所で、少女は雪を掘っていた。

 

 スコップを持つ手は、もう何度も雪と土を掬い続けている。腕は震え、指先の感覚はとうに失われていた。それでも、手を止めない。止めれば、何かが決壊してしまう気がした。

 

 傍らには、大柄な成人男性の体格に合わせた死体袋が横たわっている。

 

 少女の顔には、泣き腫らした跡がくっきりと残っていた。目元は赤く腫れ、頬には涙の跡が乾いて筋になっている。

 だが、今はもう涙も出てこない。枯れ果ててしまったように、ただ黙々と、スコップを雪に突き立てては、掬い、放る。その繰り返しだけが続いていた。

 

 ザク、ザク、という音だけが、静かな雪原に響く。

 

 風が、少女の乱れた髪を撫でていく。

 

 空は、どこまでも青かった。

 

      *

 

 小さな雪山の上に、粗末な墓標が立っていた。

 

 拙い作りだった。歪んだ十字の形に組まれた金属片は、恐らく基地のどこかから拾い集めてきたものだろう。溶接の跡は不揃いで、素人の手によるものだと一目で分かる。

 それでも、そこには確かに、心が込められていた。

 

 少女は墓標の前に膝をつき、両手を組んで祈りを捧げる。

 

「……マンダロリアンの埋葬の仕方が、分からなくて……ごめんなさい」

 

 声は掠れていた。

 

「火葬にする、燃料も……ここには、なくて……ごめんなさい」

 

 風が、雪原を渡っていく。墓標の周りに積もった雪が、さらさらと音を立てて崩れる。

 

「ここなら……凍っていて、腐敗の心配はきっと、ないと思います」

 

 それが、せめてもの慰めだというように、少女は自分に言い聞かせるように呟いた。

 

「だから……いつか、必ず……ちゃんと、弔わせてください」

 

 最後の言葉を紡いだ瞬間、少女の喉から嗚咽が漏れた。

 枯れ果てたはずの涙が、再び頬を伝って流れ落ちる。乾いた頬に、新しい跡を刻みながら。

 

 少女は墓標に額を寄せ、声を殺すこともできないまま、ただ泣き続けた。

 

 青い空の下、雪原には少女の泣き声だけが、いつまでも響いていた。

 

       *

 

ABY9年××月××日

 またブリザード。叔父様を埋めた日はたまたまだったらしい。予報はずっとブリザード。ブリザード。ブリザード。

 うんざりする。

 

ABY9年××月××日

 一週間経過した。治療はひとまず完了。まだ目を覚ます気配はない。念のため、意識が回復するまで、タンクの中に入っていてもらうことにした。

 

ABY9年××月××日

 あの人のヘルメットとアーマーを清掃する。思ったよりも時間がかかった。

 本当は触らない方が良い気がするけど、汚れが酷くて不衛生だ。それに、あの人が目を覚ましたらすぐに必要になるだろうから。

 治療室のロッカーにいつでも出せるようにしまっておく。服は申し訳ないが損傷が酷すぎたので処分させてもらった。

 叔父様のも同じように磨いておいた。こちらは武器とかと同じ空き部屋にしまっておこう。

 武器を綺麗にしようとしたらドクちゃんに止められた。破損が酷くて暴発する可能性があるって。こちらに任せろ、と譲らないので任せることにする。

 

ABY9年××月××日

 いよいよ電力が足りない。

 

        *

 

 

ABY9年××月××日

 最優先を決めること。父さんの口癖。

 

       *

 

 管制室の空気は、いつになく張り詰めていた。

 

「バイオプラントの電力供給、カットします」

 少女の声は、これまで聞いたことのないほど平坦だった。感情の温度が、どこにも見当たらない。

 

 ドロイドのセンサーランプが、わずかに揺れる。

 

《ですが》

 タブレットに、抗議の文字が浮かぶ。

《現在の食料備蓄は僅少です。バイオプラントの稼働を止めれば、遠からず備蓄は底をつきます》

 

「治療室が最優先」

 少女は遮るように言った。

「生存に直結しない設備は、全部カット。バイオプラントも含めて」

 

 ドロイドはしばらく沈黙した。それから、慎重に文字を並べる。

 

《せめて、バイオプラントだけは維持することを提案します。マスターの生存に直結する問題です》

 

「今は電力を分散させてる余裕がない」

 少女の声に、感情の揺れは見えなかった。ただ、その手は、タブレットを持つ指の先が、ほんのわずかに白くなっていた。

 

 ドロイドは、しばらく動かなかった。

 そして、タブレットに新たな文字を表示させる。

 

《提案します》

《あちらの患者への処置を、この時点で打ち切ることを》

《現状のまま治療を継続しても、二人とも共倒れになる可能性が高いと判断します》

《主人の生存を最優先とするなら、これが合理的な選択です》

 

 管制室の空気が、一瞬だけ止まった。

 

 少女は、ドロイドを見つめる。

 その目に浮かんでいたのは、怒りでも、悲しみでもなかった。

 ただ、静かで、冷たい何かだった。

 

「……基本コマンド」

 

 短い一言。

 

 ドロイドのセンサーランプが、わずかに点滅する。躊躇うような、そんな間が挟まった。

 

《……基本コマンド。所有者の命令を、最優先事項として実行すること》

 

 ドロイドは、その文言を淡々と復唱した。

 

 少女は、頷かなかった。ただ、静かにドロイドを見据えたまま、口を開いた。

 

「命令」

 その声は、揺るがなかった。

「許可を出すまで、バイオプラントの電力供給をカットすること」

 

  壁面のモニターに並んだ電力供給状況の表示が、いくつも同時に色を変えて切り替わっていく。バイオプラント本体、循環ポンプ、そこに繋がる照明や給湯まで、緑だった項目が次々と灰色に沈んでいった。

 

       *

 

 バクタ・タンクの燐光越しに、少女は男を見上げていた。

 

 やつれた顔だった。ここ数日、ろくに眠っていない。頬はこけ、目の下には濃い隈が落ちている。唇はひび割れ、以前よりも一回り小さくなったように見えた。

 

 タンクの中で、男はただ静かに沈んでいる。緑の光が、その輪郭を淡く滲ませていた。

 

 焦りが、少女の胸を締めつける。

 心配が、その焦りに折り重なる。

 そして——このまま目を覚まさなかったら、また独りになるのではないかという、名前をつけたくない不安が、じわりと這い上がってくる。

 

 少女は小さく頭を振り、その不安を追い払おうとした。

 

 見上げた顔には、笑顔を貼りつける。

 だが、口角はぎこちなく引き攣り、うまく笑えているとは、自分でも思えなかった。

 

 届かないと分かっていながら、少女は語りかけた。

 

「……会えるの、楽しみにしてたんですよ」

 声が、タンクの燐光に溶けていく。

「こんな形になるとは、思わなかったですけど」

 

 ガラス越しの男は、何も答えない。ただ静かに、規則的な泡だけが立ち上っていく。

 

「早く、お話しできるようになるの、楽しみです」

 

 少女は膝を抱えるようにタンクの前にしゃがみ込み、ガラスに額を寄せた。

 

「お兄さんは、何が好きですか?」

 

 返事はない。

 

「私は……本を読むこと、かな」

 

 言葉を紡ぐたびに、少女の顔が少しずつ歪んでいく。笑顔だったはずのそれが、次第に耐えきれなくなって崩れていった。

 

「……起きないんですか?」

 

 声が震える。

 

「私、また……一人になっちゃうんですか?」

 

 その一言を口にした瞬間、少女の膝から力が抜けた。タンクの前に崩れ落ち、両手でガラスにすがりつく。

 

「一人にしないで」

 

 嗚咽が、言葉の隙間を埋めていく。

 

「お願いだから、起きて」

 

 涙が、次から次へとこぼれ落ちる。届かない相手に向かって、それでも少女は懇願を止められなかった。

 

「……どうか」

 

 燐光の緑だけが、静かに、少女の泣き声を照らし続けていた。

 

       *

 

 机に突っ伏したまま、少女は眠っていた。

 

 開きっぱなしの本の上に頬を乗せ、規則正しい寝息を立てている。ここ数日の疲労が、ようやく限界を超えていたのだろう。

 

 ピリリリリ。

 

 机上に置きっぱなしだったタブレットが、鋭い通知音を鳴らした。

「……ん、っ……」

 少女は跳ねるように顔を上げた。寝ぼけた視界の中、タブレットの画面には点滅する文字が浮かんでいる。

 

《患者、覚醒》

 

 その一文を見た瞬間、眠気は一気に吹き飛んだ。

 

 少女は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、部屋を飛び出す。廊下を駆ける足音が、静まり返った基地に響いた。

 

       *

 

 治療室の扉を開けた瞬間、少女は息を呑んだ。

 

 男は上体を起こし、両手で頭を抱え込んでいた。呼吸用のパイプはすでに外れ、荒い呼吸が室内に響いている。指先が、髪をかきむしるように震えていた。

 

「大丈夫ですか!? 頭が痛みますか!?」

 

 少女は駆け寄りながら声をかけた。だが、男の目には焦点がない。少女の声など、届いていないようだった。

 

「……俺は、誰だ」

 

 一拍置いて、また同じような声が漏れる。

 

「……記憶が」

 

 言葉はそこで途切れ、しばらく荒い呼吸だけが続いた。それから、絞り出すように。

 

「……思い出せない……」

 

 少女は息を呑んだ。

 

 覚悟はしていたはずだった。頭部の損傷を見た時から、記憶に何らかの影響が出る可能性は考えていた。それでも、実際にその言葉を聞くと、胸の奥が締めつけられる。

 

 少女は小さく息を吸い、震える手を伸ばす。

「大丈夫です、大丈夫ですから……!」

 震える背中に、そっと手を添える。男は少女の声にも触れる手にも反応せず、頭を抱えたまま、荒く呻き続けていた。

 

「俺は、俺は誰だ……思い出せない……!」

 その声が、次第に苦悶に変わっていく。身体を折り曲げ、両手で頭を強く押さえつける。今にも自分の頭を殴りつけそうな、危うい動きだった。

 

 少女はそれでも手を離さず、必死に背中をさすり続けていた。

 

 だが、男の腕が不意に大きく振られた。少女の肩をかすめかけ、間一髪、身体を引いて避ける。

 医療ドロイドのセンサーランプが、赤く点滅した。

 

 男の錯乱がこのまま続けば、少女に危害が及びかねない——その判断は、一瞬だった。

 ドロイドは即座に動き、男の腕を片方確保する。もう片方の金属の手には、いつの間にか注射器が構えられていた。

 

 少女が止める間もなく、抵抗する男の腕に、迷いなく針が突き立てられる。

 

 プシュ、と短い音。

 

 鎮静剤が血流に乗った瞬間、男の抵抗が徐々に弱まっていく。荒かった呼吸が、少しずつ穏やかになっていった。

「……あ……」

 最後に小さな声を漏らし、男の身体がベッドへと沈んでいく。

 

 少女はその手を握ったまま、しばらく動けなかった。

 治療室に、静寂が戻ってくる。

 残っているのは、規則的な機械音と、少女の乱れた呼吸だけだった。

 

       *

 

ABY9年××月××日

 あの人の記憶はやっぱりないようだ。起きたらすぐに渡そうと思っていたヘルメット、渡せなかった。

 今は、様子を見ようと思う。

 

ABY9年××月××日

 変装、いらなかった。ちょっと恥ずかしい。いや凄く恥ずかしい。

 お肉美味しかった。

 

ABY9年××月××日

 図鑑で調べたけど、ワンパって、人間が勝てるものなの?

 

ABY9年××月××日

 あの時の大きな音って地割れだったのかもしれない。こっちまで届かなくて良かった。

 

ABY9年××月××日

 キースティックの隠し場所を変えた方がいいかもしれない。でもドクちゃんはいつもどこに隠しても見つけ出すから意味ないかも

 

ABY9年××月××日

 お風呂最高♡ 本当にお兄さんに感謝でいっぱい。

 でも、滑って転んだ、って嘘だと思う。聞けなかった。お兄さんと私嘘つき仲間だ。

 違う。私の方がずっと嘘つき。

 

ABY9年××月××日

 明日こそ、本当の事を話そう。

 ブリザードが開ける前に。

 

       *

 

 宇宙船の点検を終え、二人はお茶休憩のため、格納庫から居住区へ向かって歩いていた。

 

 少女は、ずっとそのタイミングを窺っていた。今度こそ本当のことを——その思いが、ここ数日、胸の奥でずっとつかえていた。

 

「あの……」

 

 思い切って声をかける。少し前を歩いていた男が、足を止めて振り返った。

「ん?」

 優しく微笑んでいる。屈託のない、いつもの表情だった。

 

 その顔を見た瞬間、少女の喉が詰まった。

 

 言おうとしていた言葉が、行き場を失う。何から話せばいいのか。どこまで、何を、どんな順番で。頭の中でぐるぐると渦を巻いて、結局、何も出てこなかった。

 男は、少女の様子に何かを察したのか、ああ、と小さく頷いた。合点がいったような顔で、こちらへ歩み寄ってくる。

 少女は思わず、ぎゅっと目を瞑った。

 

 ——何かに、身構えていた。

 

 だが、次の瞬間感じたのは、腕に抱えていた工具の重みがふっと軽くなる感覚だった。

 目を開けると、男はすでに両手いっぱいに工具や資材を抱えた上に、少女の分まで無理やり受け取っていた。危なげなく、慣れた様子でバランスを取っている。

 

「疲れたよな、ごめん」

 男はそう言って、また前を向いて歩き出した。

 

 少女が疲れて、言葉も出なくなっていると思ったのだろう。まるで悪びれた様子もなく、当たり前のように荷物を引き受けて。

 

 ——違う。そうじゃない。

 

 少女は口を開きかけたが、声にならなかった。伝えたかったことも、否定の言葉も、全部喉の奥に張り付いたまま。

 

 遠ざかっていく背中を、少女はしばらく見つめていた。

 結局、何も言えないまま、少女はその後を追いかけた。

      

       *

 

 止まない吹雪がないように

 枯れない花がないように

 穏やかな日々は終わりを告げ

 運命の刃は振り下ろされる

 

       *

 

 少女の部屋には、誰もいなかった。

 

 机には、椅子が二脚。少女と男が何度も向かい合って食事をした机だった。今はどちらの椅子も、静かに机の下へ収められている。

 

 ベッドは、几帳面に整えられていた。寝具の角は綺麗に折り畳まれ、皺ひとつ残っていない。

 

 書き物机の隣には、薬品棚と本棚が並んでいる。ラベルの剥げかけた薬瓶が整然と並ぶ様子から、この部屋がかつて診察室だったことが窺えた。

 

 本棚には、医学書に混じって、場違いなほど柔らかい表紙の本が何冊か並んでいる。父の書斎から持ち出してきたものだろう。物語の本、詩集——少女が好んで読んでいたのだろう本たちが、専門書の合間にひっそりと収まっていた。

 

 机の上には、一枚の紙が置かれている。

 

 その置き方には、迷いがなかった。うっかり置き忘れたのでも、しまい忘れたのでもない。誰かの目に留まるように、机の中央に、まっすぐに。

 

 書き出しは、こう始まっていた。

 

「お兄さんへ」

 

       *

 

 お兄さんへ

 

 この手紙を読んでいる頃、私はもうここにはいません。

 

 最初に、謝らなければいけないことがあります。

 ずっと、騙していました。あなたの船のことも、記憶のことも、本当は最初から知っていたのに、ちゃんと言えませんでした。何度も、言おうとする機会はあったのに、怖くて、結局最後まで、自分の口からは伝えられませんでした。ごめんなさい。

 

 それでも、あなたはたくさん、私のために働いてくれました。

 ワンパを狩ってくれたこと。バイオプラントを直してくれたこと。お風呂も、宇宙船も。数えたらきりがないくらい、色々な物を、この病院に取り戻してくれました。ずっと一人だった私にとって、それがどんなに嬉しかったか、きっとうまく言葉にできません。本当に、ありがとうございました。

 

 こんな大事なことを、手紙なんかで伝えるのは、失礼だとわかっています。本当は、ちゃんとお顔を見て、自分の口で言うべきなんだと思います。でも、今の私には、それだけの勇気がありませんでした。ごめんなさい。

 

 それから、これだけは伝えておきたくて。

 もう、私たちが会うことはないと思います。だから、安心してください。

 

 ありがとうございました。

 そして、ごめんなさい。

 

       *

 

 男が、治療室の扉を開けると、そこにあるのは静寂だけだった。

 誰もいない。バクタタンクの燐光もすでに落とされ、部屋は薄暗い常夜灯だけに照らされている。

 

 男は、しばらくその場に立ち尽くしていた。今まで、なんとなくこの部屋には近寄りたくなかった。理由ははっきりしないが、無意識のうちに、何か触れたくない真実がここにあると分かっていたのかもしれない。

 そう思うと、自分でも小さく笑ってしまう。

 

 部屋の片隅に、ロッカーがあった。

 

 扉を開けると、そこには自分のヘルメットとアーマー一式が、丁寧に収められていた。

 

 男は無言のまま、それらを身につけていく。

 肩当て、胴部の装甲、篭手。金属が擦れる音だけが、静かな部屋に規則正しく響いた。

 

 最後に、ヘルメットへ手を伸ばす。

 両手で持ち上げ、ゆっくりと頭に被せた。

 

 視界が、バイザー越しの色に変わる。周囲の音が、微かに遠く、くぐもって聞こえるようになった。世界との間に、薄い膜が一枚挟まったような感覚。

 

 だが、それは不快なものではなかった。

 むしろ——

 あるべき場所に、ようやく収まったような。

 欠けていた最後のピースが、かちりと嵌ったような。

 不思議な充足感が、胸の奥にじんわりと広がっていく。

 

 男は、しばらくその感覚に浸ったまま、動かなかった。

 

 全て身につけ終えると、診察台に乱暴に腰を下ろす。

 うつむき、片手で軽く顔を押さえたまま、しばらく動かなかった。

 

 扉越しに聞こえた、少女の声が離れない。

 何度も、何度も、生きろ、と繰り返していた。最後は涙に押し流されて、ほとんど声になっていなかったけれど、それでも微かに、聞こえてはいた気がする。

 

 ——生きてるだけで、嬉しかった。

 

 舌打ちが漏れる。

 男は苛立ちを逃がすように、背後の壁を拳の甲で殴りつけた。

 

 その振動で、座っていた診察台が少しだけずれる。同時に、何か小さなものが台の下から転がり出て、男の足元に当たった。

 

 視線を落とす。

 

 小さな録画機械(ホロ・レコーダー)だった。表面には、乾いた古い血がべったりとこびり付いている。

 

 男はしばらく、それを見つめていた。

 記憶の底で、何かが動く感覚があった。

 

 ——これは。

 

 親父のだ。

 

 その確信が、ゆっくりと胸に広がっていく。

 

 男は急いで服の袖でこびりついた血を拭うと、震える指で再生ボタンを押した。

 

 プシュ、と微かな起動音とともに、診察台の脇に青白い光が広がる。人影が、ゆっくりと輪郭を結んでいった。

 

 誰かが、どこかに腰掛けている。

 

「……親父——ッ」

 

 ホログラムの中の親父は、ひどく苦しそうだった。肩で息をし、輪郭が今にも崩れ落ちそうなほど揺らいでいる。それでも、その目だけは真っ直ぐに、レンズの向こうを——今、これを見ている自分を、見据えていた。

 

 男は、ハッとして自分の座る診察台へと目を落とした。

 

 ——ここか。

 

 親父は、この台に腰掛けて、これを撮ったのだ。

 

 ホログラムの中の親父が、ゆっくりと口を開く。

『……よう』

 あまりにも軽い声だった。遺言だとは思えない、いつもと変わらない気楽さで。

 

『そそっかしいお前のことだから……一番大事な事を、先に話すぞ』

 

 一呼吸、置く。

 

 その間だけが、やけに長く感じられた。

 

『お前のヘルメットを外したのは……俺だ』

 

 ホロ・レコーダーを落としそうになる。

 

 男は、信じられなかった。

 

 マンダロリアンの信条を、この身に叩き込んだ人が。

 顔を晒すことの意味を、誰よりも重んじていたはずの人が。

 自分の手で、息子のヘルメットを外した——。

 

 ホログラムの親父は、苦しげに息を継ぎながら、なおも言葉を紡いでいく。

『……だから、な……嬢ちゃんを……責めん、でやってくれ……』

 喘ぐような呼吸の合間に、それでも言葉を絞り出す。

『あの子は……必死に……頑張った、んだ……』

 

 軽く咳き込む音が挟まる。痛みを堪えるような呻きが漏れた。

 彼は懐から取り出した何かを大腿部に叩き付ける。

 プシュ、と短い噴出音。そのまま項垂れ、しばらく動かない。

 

『……俺たちの、教義……ちゃんと、分かって、るな……』

 一瞬、間が空く。ホログラムの輪郭が、ぐらりと大きく揺れた。それでも、親父は続ける。

『……違うぞ……ヘルメット、の方じゃ……ない……』

 

 深く、長い呼吸。

 喉の奥で、何かが詰まったような音がした。

 

『……孤児(ファウンドリング)は……俺たち、マンダロリアンの……宝、だ……』

『……だから……保護、して……仲間の、元に……帰せるなら……帰す、し……育てて……次代に、する……こと、もある……』

 

 咳き込みが、また挟まる。

 喘鳴混じりの呼吸が、しばらく続いた。

 

『……マンダロリアンの……最も、崇高な……行い、だ……』

 

 親父は、そこで一度、口をつぐんだ。堪えるように、合わされた指先が震えている。それでも、首をもたげ、再びレンズを——男を、見据えた。

 

『……実は……ここの、先生……古い、友人でな……』

『……あいつ……しばらく前に……病を、やっちまって……な……』

 

 声が、震える。

 力を振り絞るように、それでも言葉を止めない。

『……いよいよ……となったら……娘を、俺に……頼む、と……約束、したんだ……』

 男は、動けなかった。ただ、その言葉ひとつひとつを、飲み込むように聞き続けていた。

 

『……俺は……お前と、一緒に……今まで……たくさんの、孤児を……保護、してきた、な……』

 

 一拍、呼吸を整えるような沈黙。

 

『……先生は……亡くなった、みたいだ……』

 

 喘ぐような息。

 

『……分かる、な……』

 

 そこで——ホログラムの中の親父が、しっかりと背筋を伸ばした。

 

 揺らいでいた輪郭が、一瞬だけ、確かな形を取り戻す。この時だけは、瀕死には見えなかった。まるで、これだけは全力で伝えなければならないと、最後の力を振り絞ったかのように。

 

『……あの子は、孤児だ』

『お前が……俺の代わりに……使命を、果たせ』

 

『——我らの道』

 

 ホログラムは、そこで途切れた。

 

 青白い光が消え、診察室にはまた薄暗い常夜灯だけが残る。

 

 男は、無言だった。

 

 だが、涙が顎を伝い、ヘルメットの下端から、ぽつりと滴り落ちた。

 

「……我らの道」

 

 男は、それだけを、しっかりと復唱した。

 

       *

 

 格納庫の片隅で、少女は一人、装備を整えていた。

 

 防寒具に袖を通し、留め具をひとつずつ、丁寧に締めていく。誰かに手伝ってもらうことなど、初めから考えていなかった。

 

 目元は赤く腫れていた。頬には、幾筋もの涙の跡が乾いて残っている。それでも今は、涙は流れていなかった。

 

 ロープを肩にかけ、工具を腰のベルトに差し込む。手つきに迷いはない。何度も、頭の中で手順を繰り返してきたのだろう。

 

 少女は無言のまま、最後にゴーグルを手に取った。

 

 握りしめたその指先に、静かな、けれど揺るがない決意が滲んでいた。

 

      *

 

 クレバスは、記憶にあるよりも遥かに深く、暗かった。

 

 晴れ渡った空の下、雪原に走る亀裂は、まるで大地そのものが引き裂かれたかのように、どこまでも続いている。縁に近づくほど、氷の壁は青みを増していった。太陽の光が氷の層を透かし、深いところでは、ほとんど黒に近い青が沈んでいる。

 

 風は穏やかだが、気温は装備なしでは数分と持たないほど低い。吐く息が、瞬時に白く固まって視界を曇らせた。防寒具の隙間から忍び込む冷気が、肌を刺すように痛む。

 

 少女は縁に膝をつき、恐る恐る下を覗き込んだ。

 

 風が、亀裂の底から吹き上げてくる。ひゅう、と低く、途切れがちな音を立てながら。

 

 そこに、変わらずシャトルは横たわっていた。

 

 白と灰の船体は、雪と氷にさらに深く埋もれかけている。だが、あの時見た輪郭は、まだはっきりと確認できた。

 

 少女は一度、大きく息を吸った。

 

 ロープの結び目を、もう一度確かめる。基地の資材庫から引っ張り出した、古いが頑丈な登攀用のロープだった。使い方は、父の残した本で何度も読んだ。

 実践するのは、これが初めてだったけれど。

 

 岩肌に打ち込んだアンカーに、ロープをしっかりと通す。手袋越しでも、金属の冷たさが伝わってきた。

 

 少女は縁に足をかけ、ゆっくりと体を反転させる。

 

 崖の内側に向き直り、両足を氷壁に押し当てながら、腰を落とす。ロープを握る手に、体重を預けていく。

 

 最初の一歩は、恐ろしいほど頼りなかった。足元の氷が、ぱらぱらと崩れて底へ落ちていく音が、やけに長く響く。

 

 それでも、少女は止まらなかった。

 

 右足を、少し下へ。次に左足。ロープを、少しずつ、少しずつ緩めながら。

 

 氷壁は思ったよりも滑らかで、掴めるような突起はほとんどない。だから、足の裏の感覚だけを頼りに、慎重に体重を移していく。一歩ごとに、風が亀裂の底から吹き上げ、身体を揺らそうとした。

 

 腕が震える。指先の感覚が、少しずつ失われていく。

 

 それでも、少女は歯を食いしばり、一歩ずつ、確実に、下へと降りていった。

 

 シャトルの輪郭が、少しずつ、大きくなっていく。

 

 その時だった。

 

 右足が、氷の突起から滑った。

 

 視界が、一瞬で反転する。

 

 身体が、宙に投げ出される感覚。氷壁が目の前を流れるように過ぎていく。ロープを握る手に、全身の重みが一気にのしかかった。

 

「――っ!!」

 

 声にならない悲鳴が、喉の奥で潰れる。

 

 落ちる。

 

 その一言が、頭の中で真っ白に炸裂した。

 

 とっさに、ロープを握る両手に、渾身の力を込める。手袋越しに、ロープの繊維が肌に食い込む感触があった。もう片方の足を、必死に氷壁へ叩きつける。

 

 ガリッ、と鈍い音。氷が僅かに削れ、爪先が、かろうじて引っかかった。

 

 身体の落下が、ぴたりと止まる。

 

 少女は、氷壁に張り付いたまま、動けなかった。

 

 心臓が、耳の奥で暴れるように鳴っている。呼吸が、うまくできない。腕も脚も、細かく震え続けていた。

 

 視線を下に落とすことは、できなかった。落とせば、今しがた自分がどれほどの高さから落ちかけたのか、嫌でも思い知らされる気がした。

 

 風の音だけが、亀裂の底から吹き上げてくる。

 

 どれくらい、そうしていただろう。

 

 少女は、ゆっくりと、震える息を吐いた。

 

 一度。もう一度。

 

 肺の奥まで、冷たい空気を送り込むように、丁寧に呼吸を整えていく。指先の震えが、少しずつ収まっていった。

 

 それでも、恐怖は簡単には消えない。

 

 少女は氷壁に額を押し付け、しばらくの間、ただじっと、自分の呼吸の音だけを聞いていた。

 

 ——大丈夫。

 

 自分に、言い聞かせる。

 

 もう一度、息を大きく吸い込んだ。

 

 少女は、震える手でロープを握り直し、再び、ゆっくりと降り始めた。

 

       *

 

 崖の縁、氷に打ち込まれたアンカーの上で、ロープはひどく擦り減っていた。

 

 何度もの揺れと、氷の縁との摩擦。少女が一歩踏み出すたびに、ロープの繊維は少しずつ、少しずつ、擦り切れていた。表面を覆っていた保護コーティングは、すでにあちこちで剥がれ、内側の芯材が剥き出しになっている箇所もある。

 

 そして今、少女の身体が滑落し、全体重が一瞬でロープにかかったその瞬間——

 

 パチッ。

 

 微かな音。

 

 縁の岩肌に擦れていた一箇所で、繊維が数本、弾けるように千切れた。

 

 断面が、白くほつれる。

 

 誰も、それに気づいていない。

 

 ロープは、まだ持ちこたえていた。だが、その太さは、ほんの少しだけ、確かに細くなっていた。

 

 風が、崖の縁を撫でるように吹き抜けていく。

 

 ほつれた繊維の先端が、その風に揺れて、力なく揺らめいていた。

 

       *

 

 男は、足早に廊下を進んでいた。

 

 アーマーの継ぎ目が、歩くたびに小さく音を立てる。ヘルメットの中、自分の呼吸だけが、やけに大きく反響していた。

 

 少女に、何を言えばいいのか。

 

 頭の中で、何度も言葉を組み立てては、崩していく。謝るべきなのか親父のことをまず話すべきなのか。どうして本当のことを話してくれなかったのか聞くべきなのか。それともやっぱりまず謝るべきなのか。

 順序も、言葉も、何ひとつまとまらないまま、足だけが先へ先へと急いていた。

 

 少女の部屋の前に着く。

 

 男は、扉を叩いた。

 

 ——返事はない。

 

 もう一度、今度はゆっくりと、はっきりと。

 

 ——それでも、返事はない。

 

「……すまない、俺、なんだが」

 

 声が、思っていたよりも上擦って、掠れていた。

 

 ——返事はない。

 

「……入っていいか?」

 

 沈黙だけが、扉の向こうから返ってくる。

 

 男は、大きく息を吸い込んだ。

 

「……入るぞ?」

 

 意を決し、開閉パネルに触れる。

 

 部屋の中に、少女の姿はなかった。

 

 きちんと整えられたベッド。片付けられた机。その部屋の空気には、まだ、少女の匂いがふんわりと残っていた。

 

 ——何考えてんだ、馬鹿。

 

 男は、頭を軽く振った。ここにいないなら、他を探せばいい。それだけのことだ。

 

 踵を返しかけた、その時。

 

 書き物机の上——そこに置かれた、一枚の紙に、視線が引き寄せられた。

 

       *

 

 男は、施設内を駆けていた。

 

 最初は早足だった。それが、すぐに駆け足に変わり、ものの数秒で全力疾走になっていた。

 

「ドロイド! ドロイド! !ッ——!ドクちゃん……!」

 

 叫びながら、廊下を曲がる。舌を噛みそうになる。手に持ったままの紙が、握りしめた拳の中でくしゃりと歪んだ。

 

「……ドロイド!」

 

 叫びながら、ふと、気付いた。

 

 ——呼びかける、あの子の、名前すら知らない。

 

 こんな時になって、それに気付く自分に、腹の底から苛立ちが込み上げる。だが、立ち止まっている暇はなかった。

 

 搬入口の方向から、けたたましい電子音が響いてくる。

 

 悲鳴のような、途切れない警告音。ドロイドのものだ。

 

 男は、その音を頼りに全力で走った。

 

 搬入口に飛び込むと、シャッターは既に開いていた。ドロイドが開けたのだろう。冷気が、施設内へと吹き込んでいる。

 

「あの子は!? 外か!?」

 

 男の問いに、ドロイドは答えない。ただ、赤く点滅するセンサーランプを、開いたシャッターの向こうへ向け続けていた。

 

 男は、シャッターの外へ目をやる。

 

 雪の上に、小さな足跡が、まっすぐに続いていた。

 

 迷いのない、一直線の足跡。

 

 その先に、何があるのか——考えるまでもなかった。

 

 男は、歯を強く食いしばった。

 足跡の先を見据える。

 ヘルメットの下、その瞳に、強い決意が灯る。

 

 背中のジェットパックが、低い駆動音とともに起動する。

 

 男は、雪原へと飛び出した。

 

       *

 

 少女は、シャトルの翼の上に辿り着いた。

 

 一歩踏み出すたび、雪と氷を被った金属が、ぎしり、と軋んだ音を立てる。少女は息を殺し、体重を慎重に移しながら、機体の中央へと進んでいった。

 

 ハッチは、開けっぱなしになっていた。

 

 その内側を覗き込んだ瞬間、少女の呼吸が止まった。

 

 操縦席のシート、コンソール、床——そこかしこに、黒ずんだ染みが広がっている。血だと、すぐに分かった。

 乾いて固まり、時間の経過を物語る色をしている。だが、腐敗特有の異臭は感じられなかった。

 ハッチが開けっぱなしだったおかげで、極寒の空気がずっと吹き込み続けていたのだろう。

 

 少女は、その光景に、しばらく動けなかった。

 

 ——ここに、二人がいた。

 

 瀕死の身体で、この座席に座り、操縦桿を握っていた。血を流しながら、それでもここまで、この星まで、辿り着いた。

 

 喉の奥が、痛いほど締めつけられる。

 

 少女は、震える手で胸を押さえ、無理やり呼吸を整えた。今は、立ち止まっている場合ではない。

 

 狭い機内を進み、装置が格納されているという区画へと向かう。ハッチの隙間から差し込む光が、埃と冷気の舞う空間を淡く照らしていた。

 

 出発前に、何度も読み込んだマニュアルの図面を、頭の中で思い出す。この型式なら、確か——このあたりに。

 

 少女は、狭い隔壁の奥へと目を凝らした。

 

 ——あった。

 

 そこには、目的のハイパードライブ装置が、傷ひとつない姿で鎮座していた。

 

「無事……!」

 

 思わず、声が漏れた。

 

 これなら、互換性もある。HWK-290に載せられる。

 

 込み上げてきた感情に、少女は目元を拭った。指先に、温かい涙が触れる。

 

 だが、感傷に浸っている時間はなかった。

 

 少女は工具を取り出し、慣れない手つきで装置の固定具を一つずつ外していく。手袋越しの指先は思うように動かず、何度も工具を落としかけた。

 それでも、根気強く作業を続け、ようやく装置を隔壁から取り外すことに成功する。

 

 ——思ったよりも、重い。

 

 両腕で抱えてみたが、これを持ったまま崖を登るのは、到底無理だと悟った。

 

 少女は、持ってきたロープを装置にしっかりと括り付ける。何重にも結び目を確認し、緩みがないことを確かめた。

 

 まずは、自分だけ登る。それから、これを引っ張り上げる。

 

 少女はロープに手をかけ、崖を見上げた。

 

 その瞬間、息が詰まった。

 

 ——こんなに、高かっただろうか。

 

 降りてきた時よりも、遥かに遠く見える縁。氷の壁は、見上げるほどに青く沈み、天辺の光は小さく、遠かった。

 

 どっと、疲労が全身にのしかかってくる。ここまでの緊張、崖を降りた恐怖、装置を外した苦労——そのすべてが、一気に押し寄せてきたようだった。

 

 視界が、ぐらりと歪む。

 

 膝から力が抜けそうになり、少女はとっさに機体の縁に手をついた。

 

 ——駄目だ。

 

 少女は、強く頭を振った。ここで倒れるわけにはいかない。装置は手に入れた。あとは、登るだけだ。

 

 深く息を吸い込み、冷たい空気で肺を満たす。

 

 少女は、気を取り直してロープを掴み直した。

 

 そして、ゆっくりと、崖を登り始めた。

 

       *

 

 一歩、また一歩。

 

 少女は、慎重に足場を選びながら登っていった。

 

 身体が、鉛のように重い。腕を上げるだけで、肩が悲鳴を上げる。指先は、とうに感覚を失いかけていた。ロープを握る手が、思うように力を込められない。

 

 息が、白く途切れがちに漏れる。

 

 視界の端が、時折ぼやける。疲労のせいなのか、寒さのせいなのか、少女にはもう判断がつかなかった。ただ、身体に染み込んだ手順だけを頼りに、右手、左足、左手、右足——その繰り返しを、機械的に続けていく。

 

 鈍くなった感覚では、気付けなかった。

 

 視界の先——もう少しで手が届く、崖の縁で。

 

 自分を支えているロープが、既に限界を迎えていたことに。

 

 擦り切れた繊維は、先ほどの滑落でさらに損耗が進み、太さを保っていたのはもう、ほんのわずかな束だけだった。

 

 少女は、荒い息を吐きながら、最後の力を振り絞って手を伸ばす。

 

 

 あと少しで、崖の縁に手がかかる。

 

 指先が、氷の縁にかかった。

 

 ——届いた。

 

 その安堵が、胸に広がりかけた、その時だった。

 

 ブツンッ。

 

 乾いた、短い音。

 

 張り詰めていたロープが、ついに限界を超えた。すり減った繊維が、一斉にほどけて弾ける。

 

 支えを失った身体が、一気に重力に引かれる。

 

 崖の縁を掴んだ指先だけが、かろうじて自分を繋ぎ止めていた。だが、それだけでは、体重を支えきれない。

 

「——っ!!」

 

 悲鳴が、喉から迸る。

 

 足元で、千切れたロープの先が、装置を括りつけたまま、暗いクレバスの底へと吸い込まれるように落ちていった。

 

 指先が、氷の縁から離れる。

 

 身体が、仰向けのまま、ゆっくりと宙へ投げ出されていく。

 

 不思議なほど、時間が引き伸ばされて感じられた。

 

 視界いっぱいに、青い空が広がっている。落ちているはずなのに、その青さだけが、やけに鮮明だった。

 

 少女の胸に、奇妙な安堵が滲んだ。

 

 ——もし、このまま死んでしまったら。

 

 あの人の素顔を見た人間は、もう、誰もいなくなる。

 

 その事実が、何故か、少女の心を静かに軽くした。

 

 ——あの人は、また仲間の元に、戻れるだろうか。

 

 ——一人ぼっちじゃ、なくなるだろうか。

 

 自分の命よりも、最後に浮かんでくるのは、そんなことばかりだった。柔らかそうな夕焼け色の髪。揺らめくハシバミ色の瞳。古傷の残る手のひら。優しい声。温もり。

 

 どれも、もう二度と、届かないのだと思うと——

 

 それでも、悲しいとは、あまり感じなかった。

 

       *

 

 雪原に、ジェットパックの噴射音が低く響いていた。

 

 マンダロリアンの甲冑を纏った男が、白い大地の上を飛んでいる。

 

 バイザー越しの視界に、時折ノイズ混じりの表示が走る。男は苛立ちを抑え、繰り返しスキャンを操作した。

 

 熱源反応——ない。

 

 どこにも、ない。

 

 視界いっぱいに広がる、ただ白いだけの雪原。焦りが、腹の底からせり上がってくる。

 

 ——いや。

 

 バイザーの端、表示の隅に、微かな反応が瞬いた。

 

 クレバスの向こう。

 

 崖の縁。

 

 男は、迷わず機体——否、自らの身体を、その方向へ加速させる。

 

 距離が、みるみる縮まっていく。

 

 崖の縁に、小さな人型の反応。

 

 一瞬、安堵が胸をよぎりかけた。

 

 だが、その視線が、崖にかけられたロープを捉えた瞬間——

 

 血の気が、一気に引いた。

 

 擦り切れ、今にも千切れそうな、細い束。

 

 その先で、少女の身体が、宙に投げ出されようとしていた。

 

 ——間に合え。

 

 男は、加速する。

 

 ——間に合え。

 

 推進器の唸りが、限界まで吼える。

 

 ——間に合ってくれ。

 

 視界の中心に、落下していく小さな影だけを捉えたまま、男は雪原を切り裂くように飛んだ。

 

       *

 

 少女は落ちる。

 

 見上げる空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。

 

 その青の中に、小さな、暗い影が見えた気がした。

 

 鳥、だろうか。

 

 こんな極寒の星に、鳥なんているはずがないのに。

 

 少女は、ぼんやりとその影を見つめながら、思う。

 

 ——私も、あんなふうに、生まれ変われたらいいな。

 

 自由に空を飛べる、あの鳥みたいに。

 

 少女は、静かに目を閉じた。

 

 もう、抗う力も、残っていなかった。

 

 落下する風が、耳元で唸る。

 

 その音に混じって、何か別の音が近づいてくる。

 

 轟音。

 

 規則的で、力強い、噴射のような音。

 

 少女がそれを認識するよりも早く——

 

 背中に、強い衝撃が走った。

 

 何かが、しっかりと少女の身体を抱え込んでいる。

 

 少女は、驚いて目を開けようとした。

 

 だが、身体が急激に押し上げられる感覚と、吹き荒れる強い風圧に、再び目を、固く閉じることしかできなかった。

 

       *

 

 ジェットパックの推進が、雪原の上空へと二人を押し上げていく。

 

 腕の中に抱えた少女の重みだけを、頼りに。

 

 崖の縁を越え、地上まであと数メートル——そこで、背中の噴射が、不意に途切れた。

 

 燃料が、切れた。

 

 落下する感覚に、男の口から短い声が漏れる。

 

 男は、とっさに身体を捻った。少女を強く胸に抱き寄せ、自分の背中が地面を受け止めるように、体勢を入れ替える。

 

 衝撃が、背中から全身へと突き抜けた。

 

 雪煙が、二人の周囲に舞い上がる。

 

 男は、その体勢のまま、しばらく動けなかった。荒い呼吸だけが、ヘルメットの中で繰り返される。全身が軋むように痛んだが、それよりも、腕の中の重みを離すまいという意識だけが、強く働いていた。

 

 先に身体を起こしたのは、少女だった。

 

 雪の上で身を起こし、目の前の男を見る。

 

 見慣れない、黒い甲冑。ヘルメットに覆われたその姿に、少女は一瞬、戸惑うように動きを止めた。

 

 だが、それも一瞬だった。

 

「……お兄さん!?」

 

 声が、震えながらも、確信を持って呼びかける。

 

 男は、まだ息が整わないまま、雪の上に横たわっていた。

 

 ゆっくりと、腕を持ち上げる。

 

 伝えたかった言葉が、いくつも頭の中を駆け巡っていた。それでも、いざ声にしようとすると、喉の奥で何度も詰まってしまう。

 

「……っ……」

 

 何度か、言葉にならない音だけが漏れた。

 

 それでも、ようやく絞り出せたのは——

 

「……生きてて……よかった……」

 

 男の手が、少女の頬に触れる。

 

 冷えた指先が、そっと、頬を伝う一粒の涙をすくい取った。

 

 その言葉をきっかけに、少女は、堰を切ったように大声で泣き出した。

 

 声を抑えることもできず、雪の上に座り込んだまま、しゃくり上げるように泣き続ける。

 

 五年間、ずっと一人だった。

 

 困難に直面するたび、頼れる誰かなどいなかった。倒れても、泣いても、それでも立ち上がるのは、いつだって自分自身だった。

 

 助けてもらう、ということが、どういう感覚なのか。少女はもう、忘れてしまっていた。

 

 それなのに、今——

 

 駆けつけてくれる人がいる。

 

 その事実が、涙となって、堰を切ったように溢れ出す。

 

 悲しみでも、恐怖でもなかった。

 

 ただ、ずっと張り詰めていた何かが、ようやく緩んでいくような、そんな感覚だった。

 

 その姿は、これまで見せてきたどんな表情よりも、幼い子供のようだった。

 

 男は、何も言わず、ただその背中にそっと腕を回した。

 

 雪原に、少女の泣き声だけが、いつまでも響いていた。

 

       *

 

 男は、少女を背負って雪原を歩いていた。

 

 背中のジェットパックはすでに邪魔でしかなく、代わりに腕の中——胸元に抱えるように持ち替えている。燃料は尽きた。あとは、自分の足で帰るしかない。

 

 背中越しに、まだ少女のしゃくり上げる声が聞こえていた。

 

 男の足取りは、いつになく慎重だった。できるだけ揺らさないように。できるだけ、静かに。少しでも揺らしたら、少女が崩れてしまうかのように。

 

 何か声をかけたい。そう思いながらも、どんな言葉が正しいのか、男には分からなかった。慰めなのか、労いなのか、それとも、ただ黙って歩くべきなのか。

 

 気を紛らわせるように、ポケットへ手を伸ばす。

 

 指先が、小さな紙片に触れた。

 

 ——ああ、これか。

 

 悪夢の夜、扉の下に挟まっていたメモ。

 たたんで、しまって、お守りみたいに大事にしていた。

 

 男は、それを取り出した。

 

「あの、さ……」

 

 おずおずと、口を開く。

 

「これ……」

 

 メモを、少女の見える位置に掲げる。

 

 背中で、頭が僅かに動く感触があった。

 

「部屋の前にあったんだが」

 

 男は続けた。自分の思いつきが、急に子供じみたものに思えて、一瞬躊躇う。それでも、口にする。

 

「……署名が、無いんだ」

 

「え?」

 

 背中で、困惑したような声がした。

 

「だから、誰が書いたか分からなくてさ」

 

「それは——」

 

「名前を」

 

 少女の言葉に、被せるように続けた。

 

 男は、小さく息を整える。

 

「名前を、教えてくれないか……?」

 

 しばらく、沈黙が落ちた。

 

 風だけが、二人の間を吹き抜けていく。

 

 男は、気まずさに耐えかねて、口を開いた。

 

「……すまない」

 

 もはや使い慣れてしまった謝罪の言葉。

 

 しばしの沈黙の後——

 

「……ニナ」

 

 小さな声が、背中から返ってきた。

 

「え?」

 

「ニナ……ニナ・マワリ、です」

 

 少女は、そう名乗った。声には、さっきまでより、少しだけ明るさが戻っていた。

 

「よろしくお願いします。……“すまない”さん」

 

 男は、短く笑った。心の底から、嬉しそうに。

 

「カイ・ヴォル、だ。カイでいい」込み上げてくる熱いものを堪える。「よろしく、ニナ」

 

       *

 

 格納庫に、金属を叩く音と、工具の擦れる音が響いていた。

 

 カイは狭い機関部に上半身を潜り込ませ、配線を確認していく。ニナは端末を操作しながら、簡潔に応じた。

 

 装置は、作業台での最終点検を終えている。二人がかりで機関部へ運び入れ、固定具を差し込み、ボルトを締めていく。

 

「ニナ、もう少し左」

「これくらいですか」

「ああ、そこでいい」

 

 配線を繋ぎ直す。旧式の規格に手間取りながらも、マニュアルと照らし合わせて一つずつ接続していった。

 

「ここ、極性逆じゃないか?」

「あ……すみません」

「いい、直せば済む」

 

 最後の配線が繋がる。

 

「これで、全部……」

 

 カイの声が途中で止まった。手元の部品箱を覗き込み、舌打ちする。

 

「足りない」

「え?」

「コンデンサ・モジュールが一つ足りない。型が古すぎて、予備部品も規格外だ」

 

 持ち込んだ部品を並べ直しても、数は変わらない。カイは腕を組み、装置を睨んだ。

 

「……これじゃ、動かせないな」

 

 沈黙が落ちる。

 

 と、そこへドロイドが車輪を軋ませながら近づいてきた。

 

 胸部のタブレットに、文字が浮かぶ。

 

《僭越ながら、マンダロリアン》

 

「なんだ」

 

《私のパーツで規格が一致するものがございます。摘出すれば、その足りない部品の代わりになるかと》

 

 ニナの表情が凍りついた。

 

「駄目です」

 

 タブレットの文字が切り替わる。

 

《ニナ——》

 

「駄目、絶対に駄目です!」

 

 ニナはドロイドの前に飛び出し、両手を広げてその身体を庇うように立ちはだかった。

 

「この子は……この子は、私の大事な家族です。パーツを取るなんて、そんなの……」

 

 声が震える。目にみるみる涙が溜まっていく。

 

「駄目です。他の方法を探します。だから……お願いですから……」

 

 ドロイドはしばらく沈黙した後、ニナの頭にそっと手を——正確には器用な鉗子アームを——乗せた。

 

 電子音が小さく、あやすように鳴る。

 

 ニナはこらえきれず、ドロイドの胴体に縋りついて泣き出した。

 

 ドロイドはしばらくニナを慰めるように背をさすると、静かにカイへと向き直った。

 

 タブレットに、文字が浮かぶ。

 

《マンダロリアン。私の第一種プロトコルは、主人の命令が絶対でございます。私自身の手で私を破損させることは、規定上できません》

 

 一拍置いて、続けた。

 

《ですが》

 

《私は、家族の安全を第一にしたい》

 

 短い一言だったが、それが何を意味するのか、カイには痛いほど伝わった。

 

 カイは短く息を吐き、ドロイドへ黙って頷いた。

 

「ニナ」

 

「嫌です、嫌です……!」

 

 カイはニナの肩に手を回すと、優しく、けれど逃げ場を与えないほどの力でその身体を引き離した。

 

「離してください……お願い、離して……!」

 

「悪いが、これしかない」

 

 カイの声は静かだったが、有無を言わせない響きがあった。

 

 ドロイドの外装パネルを外し、目的のモジュールを慎重に取り出していく。金属音と、小さな放電音。

 

 やがて、ドロイドの内部灯が明滅し、そして——消えた。

 

 完全な機能停止。

 

 格納庫に、ニナの泣きじゃくる声だけが響く。

 

 カイはニナの前に膝をつき、震える肩をそっと抱き寄せた。

 

「必ず直す」

 

「……っ」

 

「必ず、必ず直すから。こいつのことも、ちゃんと連れて行く。今は……我慢してくれ」

 

 ニナは何も答えず、ただカイの胸に顔を埋めて泣き続けた。

 

 やがて涙が落ち着いたところで、カイは摘出したモジュールを装置に組み込む。最後の固定具を締め、配線を繋いだ。

 

「これで、全部か」

 

 ニナは涙の跡が残る顔で、それでも小さく頷いた。

 

「あとは……起動テストだけです」

 

 カイは操縦席に乗り込み、コンソールに手をかけた。

 

 低い唸りとともに、装置に灯が点る。

 

《ハイパードライブ、接続確認》

《出力、正常》

《航法系統との連携、成功》

 

「……動くな」

 

 短く、そう呟いた。

 

       *

 

 施設の遥か上空。

 

 白く続く雪原の中に、小さな二つの人影が立っている。傍らには、粗末な墓標。

 

 その足元から、太い煙が、まっすぐに立ち上っていた。

 

 風のない、静かな日だった。煙は乱れることなく、幾重にも重なりながら、ゆっくりと空へ向かって伸びていく。

 

 どこまでも青い空へと、その煙は昇り続けた。

 

       *

 

 カイは、親父のヘルメットを手に取った。

 

 しばらくの間、黙って眺める。煤に汚れた表面、無数の塗装傷。この下に、あの人の顔があったのだと思うと、胸の奥が締めつけられた。

 

 傍らに置いた、大きめのケースの中へ、そっと収める。

 

「親父……ちょっと狭いけど、我慢してくれ」

 

 静かな声だった。

 

 続けて、他の装備も一つずつ手に取っていく。汚れを軽く拭い、丁寧に、ケースの中へ収めていった。

 

 最後に、装備が元々収められていたコンテナの底へ手を伸ばす。

 

 そこに、見慣れない鞘があった。

 

 カイは、動きを止めた。

 

 ——知らない短剣。

 

 いや—— 一度だけ、ある。

 

 夜中、親父が一人で取り出して、じっと眺めていた光景。あの時は、何も聞けなかった。

 

 カイは鞘を持ち上げ、中の刃をゆっくりと引き抜いた。

 

 細身の刃は、左右対称の真っ直ぐな造り。艶を殺した黒染めの表面には、装飾らしい装飾がひとつもない。

 柄は短く、滑り止めの革が巻かれているだけの、無骨な作りだった。

 刀身の中央には、細い溝が一本。血抜きのためだろうか、とカイは思う。

 

 握ってみると、驚くほど手に馴染んだ。

 

 軽い。それでいて、しっかりとした重心を感じる。

 

「……ベスカーで、出来てんのか、これ」

 

 困惑した呟きが、静かな部屋に落ちた。

 実用一辺倒の作りだ。だが、この重さと質感は、並のナイフでは出ない。

 

 カイは刃を鞘へ戻した。

 しばらく、その感触を確かめるように、柄を握り直す。

 どうしてか、これは自分が身につけておくべきだ、という感覚があった。理屈はうまく説明できない。ただ、そう思った。

 

 カイは胸元、弾薬帯(バンドリア)へ手をやると、鞘ごと短剣を滑り込ませた。かちり、と小さな音。マグネットの留め具が噛み合う音だった。

 

 軽く、胸を叩いて確かめる。

 

 違和感は、なかった。

 

 まるで、最初からそこにあったかのように、しっくりと馴染んでいた。

 

       *

 

 宇宙船の前で、ニナがおずおずと尋ねた。

「……それで、全部ですか……?」

 中身を知っているだけに、慎重で、どこか気遣うような声だった。

 

「ああ」

 カイは短く答え、ケースを積み込んでいく。

「積み忘れは、無いか?」

 

 念のため、二人で指を折りながら積荷を確認していく。次にここへ戻れるとして、それがどれほど先になるかは分からない。

 

 ふと、視線を上げると、ニナの様子がどこか落ち着かない。

 カイは、僅かに不安を覚えた。

 

 ニナは、意を決したように口を開いた。

「私、ここに残ろうと思います」

 

「動かない子を引きずって連れて行くなんて、そんなの……できません。だから、私がここに残って、ちゃんと最後まで面倒を見ます。それだけです」

 

「五年間、ずっと一緒だったんです。ワガママを言えたのも、夜中に怖い夢を見た時に灯りを点けてくれたのも、ドクちゃんだけでした。だから、これは……嘘じゃないです」

 

 言い訳をするように、少し早口でまくし立てる。

 

 カイは、小さくため息をついた。

 こう言い出すことは、何となく予想がついていた。

 

 ……本音はどうせ、それだけじゃないんだろうが。

 

 大方、顔を見た自分がここに残れば、掟に対して何も問題は起こらなかったことになる、とでも考えたのだろう。動かなくなったドクちゃんの話は、ただの建前だ。都合のいい言い訳を見つけて、それに縋っているだけ。

 

 だが、それはただの、緩やかな自殺だ。

 

 この極寒の星に、たった一人。備蓄も設備もいずれ尽きる場所で、それを「残る」などと軽く言うことを、到底認めるわけにはいかない。

 

 カイの内側で、静かな怒りが、僅かに疼いた。

 

 どう言えば、この子を納得させられる。

 

 カイは、頭の中で言葉を探しながら、視線だけを空へ向けた。

 

「ニナ、今更他に家族が居ますとか言い出さないよな? ……その、ドロイド以外で」

 

 唐突な問いに、ニナは戸惑いながら答える。

 

「い、居ないです……」

 

「じゃあ君は孤児だ」

 

「え?」

 

「俺たちマンダロリアンは、孤児を保護し、仲間の元へ送り届ける」

 

「え? え?」

 

「マンダロリアンの、崇高な使命だ」

 

「えっ? あの?」

 

 カイは、ニナをひょいと抱え上げた。

 

「我らの道」

 

「われ? え?」

「ちょっとー!?」

 

 ジタバタするニナを意に介さず、カイは船へと乗り込んでいく。

「お、降ろして……! って、ドクちゃんは……」

「もう積んだ」

 

 食い気味の即答に、ニナは一瞬、言葉に詰まる。

 

 恥ずかしそうにもがく声が、格納庫に響く。

 船の中へ、二人が消えていく。

 

 タラップが、ゆっくりと上がっていく。

 

 しばらくして、エンジンが低く唸り始めた。

 

 やがて——

 

 宇宙船は、白い雪原を離れ、静かに空へと昇っていく。

 

       *

 

 惑星ホスの大気圏外。

 

 漆黒の宇宙に、一隻の宇宙船が静かに浮かんでいた。

 

 コックピットの透明装甲材(トランスパリスティール)に、両手をついた少女がいる。窓の向こうには、白く輝く惑星が広がっていた。かつて、五年間を過ごした場所。見慣れているはずのその姿が、こうして外側から見ると、まるで違う星のように見える。

 

 少女は、飽きることなく見つめ続けていた。

 

 操縦席では、ヘルメットを被った男が、コンソールを操作している。表示を確認しては、また少し弄る。その繰り返しを、うんうんと唸り、時折り首を傾げながら続けていた。

 

 シートの後方には、小さく縮こまるようにして、ドロイドが置かれている。センサーランプは消え、完全に停止していた。

 

 やがて、男が軽く頷いた。何かの設定が終わったらしい。

 

 顔を上げ、少女の方へ振り返る。何か声をかけたのか、ヘルメットが僅かに揺れた。

 

 少女は、反応しない。窓の外の景色に、意識のすべてを向けたままだった。

 

 男は、指先で軽く、少女の背中をつついた。

 

 びくり、と肩が跳ねる。

 

 振り返った少女に、男は席を促すように、操縦席の隣を示した。少女は頷き、腰を下ろす。ベルトを締める、小さな金属音。

 

 男は、周囲に並んだボタンを、いくつか操作していく。

 

 最後に、操縦桿を、ゆっくりと引いた。

 

 機首が、上がる。

 

 窓の向こうの景色が、変わっていく。瞬くことのない、無数の星々。

 

 やがて、ハイパードライブが起動する。

 

 星々が、光の筋になって、遥か後方へと流れていった。




――この物語を書き上げるまで、根気強く隣で伴走してくれた二人の相棒(バディ)へ、心からの感謝を。
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