十分ほどして、担当官だけが戻ってきた。
「悪いが、あの子、登録自体が初めてらしい。データが一切ないんだ」
「……初めて?」
「そう。再発行とかそういう話じゃなくて、まっさらな新規登録になる」
担当官は、後ろ頭を掻きながら続ける。
「照合やら本人確認やら、色々手続きが要る。今すぐってわけにはいかない」
「どれくらいかかる」
「早くて数時間、遅けりゃ日を跨ぐ」
カイは、思わず息を吐いた。
——まあ、想定の範囲内か。
むしろ、これ幸いと言えなくもない。どうせいつかは通らなければならない手続きだ。
「少佐」
カイは、傍らに立つ少佐へ向き直る。
「一つ、頼みがある」
少佐は、片眉を上げた。
「ほう?」
「あの子の登録、ここで済ませたい。あと——」
カイは、格納庫の隅に停めたキタツグミの方へ視線を送る。
「もう一つ、頼めるメカニックはいないか。壊れたドロイドがある」
ずっと気に掛かってはいたが、なかなか取り掛れなかった。
時折、動かなくなった『ドクちゃん』を見つめるニナの横顔が頭に浮かぶ。
少佐は、しばらくカイの顔——正確にはヘルメットだが——を眺めていたが、やがてニヤリと口の端を上げた。
「金は出せるのか?」
「謝礼は……払う。足りないなら、労働か何か——悪いが、何とかならないか」
「お、言ったな?」
——え?
「こっちも頼みたい仕事があってな。ちょうど手が足りなくて助かるよ」
待ってましたと言わんばかりの提案だった。カイは、面食らう。
——は?
「仕事?」
「うちの管轄内に、帝国シンパの残党が立て篭もってる場所があってな。隊長格を捕らえたいんだが、こっちの人数じゃどうにも足りない」
少佐は、後ろで気だるげに佇む部下たちを一瞥する。
「見ての通りだ」
見張り塔は止まったまま、整備中の機体は放置されたまま。良くも悪くも、色々とゆるい基地だった。
「マンダロリアンなら、ちょうどいいと思ってな」
その一言に、複雑な感情が去来する。
——俺の実力じゃなくて、マンダロリアンって看板が欲しいだけか。
それでも、断る理由はこちらにはなかった。
「分かった。手伝う」
「よっし、決まりだ、な」
少佐は、あっさりと手を叩いた。
「報酬は——」
提示された金額を聞いて、カイは一瞬言葉を失った。
まだ相場観というものがよく分からない。それでも、この基地の懐事情を思えば、明らかに割高な気がする。
「……高くないか、これ」
「マンダロリアンを雇うなら、これくらい出さねぇと逃げられるからな」
少佐は、悪びれもせずそう言った。
——かつての奴らが、そういう相場を作ったんだろうな。
自分の実力とは無関係な、先人の遺産にただ乗りしている気分になる。素直に喜べない複雑さが、胸の奥に淀んだ。
それでも、若さゆえの見栄がそれを上回った。
「前金で、三分の一貰おうか」
努めて平静な声で、そう告げる。
「残りは終わってからでいい」
「話が早くて助かるよ」
少佐は、片手を差し出した。カイは、その手を握り返す。
——やるしかない、か。
背後を振り返る。ニナは、まだ戻ってこない。
カイは、小さく息を吐いた。出発の前に、まだ言っておきたいことがある。
「話は決まりだ。行こうか」
少佐がそう言って踵を返しかけたところで、廊下の奥からニナが顔を覗かせた。
「あ、カイさん」
「まだかかるんじゃなかったのか?」
「途中で一回、休憩が入るみたいで。少しだけ時間ができました」
担当官に促されて、束の間の空き時間をもらえたらしい。ニナは小走りに近づいてくると、カイの前で足を止めた。
「どこか、行くんですか?」
「ああ。ちょっと頼まれごとが、な。すぐ済む」
適当に請け合ったつもりだったが、ニナの表情は晴れなかった。
しばらく、言葉を選ぶように黙っていたニナが、やがて意を決したように口を開く。
「あの、一つだけ」
「何だ?」
「殺さない戦い方は、できないんですか」
唐突な問いだった。カイは、すぐには答えられなかった。
「……できるだけ、そうしてるつもりだが」
「つもり、ですよね」
ニナの視線が、揺るがない。
「余裕がある時は、な」
カイは正直に答えた。ごまかしても、この子には見透かされる気がした。
「でも、いつも余裕があるわけじゃない」
「……そう、ですよね」
ニナは俯く。だが、それで終わりにはしなかった。
「でも——もし、その人が死んだら」
顔を上げる。
「その人にも子供がいたら、孤児を——カイさんが増やしてしまうことにも、なりませんか」
その一言に、カイは息を呑んだ。
「全員、保護できますか? カイさんが」
「……」
「できませんよね」
容赦のない指摘だった。だが、そこに悪意はない。ただ、まっすぐにこちらを案じているだけの目だった。
カイは、しばらく何も言えなかった。反論しようにも、言葉が見つからない。
「――前向きに、検討する」
やっと絞り出せたのは、それだけだった。
ニナは、その返事に満足したのかどうか、微妙な顔で小さく頷いた。
「約束、ですよ」
「善処する、としか言えないが」
「それでいいです」
少し拍子抜けしたような声で、ニナはそう言った。
担当官が奥から呼ぶ声がして、ニナは名残惜しそうにしながらも「行ってきます」と踵を返す。
カイは、その背中を見送りながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
*
小さな会議室に、埃っぽい光が差し込んでいた。
卓の上に広げられているのは、施設の見取り図——らしきもの。あちこち黄ばみ、折り目がそのまま線のように焼き付いている。作成年を確認したいのに見事に掠れて消えていた。
「これが、例の施設の図面です」
説明役に立ったのは、少佐でもなければ、あの担当官でもない。もう一人、別の部下だった。人の良さそうな丸顔で、やたら胸を張っている。
「……古くないか、これ」
カイは、思わず口を挟んだ。端の方が変色し、印刷というより手書きに近い部分すらある。
「古いですけど、これしかないんで」
あっさりとした返しだった。食い下がる隙もない。
「元は帝国の通信施設だったので、正確な図面はそもそも残ってないんですよ。これは、その、伝聞ベースで再構成したやつです」
「伝聞……」
嫌な予感がした。
「大体合ってると思います、多分」
「多分」
思わず聞き返す。部下は、悪びれる様子もなく頷いた。
「人員配置は、これくらいで」
図面の脇に並べられた駒——代わりに使われているのは、何かの部品のようなものだった——の数を、カイは数える。
少ない。
「これだけか」
「これしかいないので」
またも即答だった。
「後詰めが薄すぎないか」
「基地の総力です」
誇らしげにすら聞こえる声だった。カイは、思わず眉間を押さえる。
「隊長の顔写真とかは」
「ないですね」
「ないのか」
「風の噂で、体格がいいって話は聞いてます」
「体格が、いい……」
情報と呼べるかどうかも怪しい代物だった。
その時、部屋の隅で黙って書類を整理していた別の隊員が、控えめに手を挙げた。
先の二人とは、明らかに空気が違う。姿勢も、目つきも、やけに真面目だった。
「あの……よろしいでしょうか」
「何だ」
「そもそもの話なんですが」
その隊員は、少し言いにくそうに言葉を選ぶ。
「民間人に——それも、マンダロリアンの方に、正式な報酬を払って軍の任務を代行させるというのは、本当に問題ないんでしょうか」
カイは、思わずその隊員の方を見た。
——同じことを、考えていた。
自分でも、腑に落ちないまま流していた疑問だった。まさか、基地の側からそれを指摘されるとは思わなかった。
「監査が入ったら、どう説明するんです? 装備も人手も足りない、では——」
「はいはい、堅いこと言うなって」
少佐が、あくびを噛み殺しながら手を振る。
「その通り。装備も、人も、練度も足りねぇんだよ、うちは。使えるもんは何でも使う。それだけの話だ」
「ですが……」
「後ろ暗いことなんざ何もねぇだろ。ちゃんと報酬も払ってる」
あっさりと、少佐は切り捨てた。真面目な隊員は、それでも納得しきれない顔で口を噤む。
——いや十分後ろ暗いだろ。
カイも言葉を飲み込む。
カイは、内心で複雑な気分になった。
——こっちとしても、あんまり自信持って肯定できる話じゃないんだが。
だが、この基地の懐事情を見れば、少佐の言い分も理解できなくはなかった。
「まあ、それに——」
少佐が、ふと声のトーンを落とした。
先ほどまでの気だるさが、ほんの少しだけ、薄れる。
「今回のシンパの連中は、な」
カイは、その言葉の続きを待った。
「——いや、何でもない」
少佐は、そう言うと、すぐにいつもの調子に戻ってしまった。
何かを言いかけて、飲み込んだのが分かった。だが、それが何なのかまでは、教えてもらえそうになかった。
カイは、少し引っかかりを覚えたものの、それ以上は追及しなかった。
「……とにかく、行けばいいんだな」
「そういうこった」
少佐は、あっけらかんとそう答えた。
カイは、天を仰いだ。
——これは、思っていたより、割に合わない仕事だったかもしれない。
前金の重みが、急に頼りなく感じられた。
*
装備の点検に、いつもよりわずかに時間をかけた。
バンドリアの弾薬帯を指で辿り、数を数える。グレネードのピンの掛かり具合を確かめ、ヴァイブロブレードの起動を一度だけ試す。
低い振動音が手のひらに伝わり、正常だと分かって止める。
ダートの残弾を確認し、最後にブラスターの薬室を覗き込んだ。
深く、息を吐く。
——施設内、閉所での接近戦。数の優位。
作戦の内容自体は、悪くない。むしろ、自分の得意分野に近いとすら言える。
見る限りでは、だが。
あの緩さで組まれた作戦だ。現地に着けば、想定と違うことの一つや二つ、出てくるだろう。最後は、出たとこ勝負になる公算が高い。
それでも構わない、とは思う。
ただ——ベスピンの時のような遅れは、二度と取りたくなかった。ネヴァロのあの日、力が及ばなくて、守りきれなかったものもある。
この基地の空気に流されて、自分まで緩んでいたことに、今更ながら気付く。
カイは、意識して肩の力を入れ直した。
——集中しろ。
そう自分に言い聞かせたところで。
肩を、強く掴まれた。
振り返ると、少佐だった。
「……何だ」
「いや」
少佐は、少しの間、こちらの全身を眺め回すような視線を寄越した。
「正直、最初はな。若造一人に任せて大丈夫かって、心配してたんだ」
——チェーンコードを盗み見たな、こいつ。
突っ込みたい気持ちはあったが、飲み込んだ。今更、目くじらを立てるようなことでもない。
「それで?」
「今は、悪くない目をしてる。安心した」
そう言った少佐の表情は——だが、安心とは程遠かった。
眉間に薄く皺が寄り、口元だけが笑おうとして、うまく笑いきれていない。
「……そうは見えないが」
カイは、素直にそう指摘した。
少佐は、一瞬だけ言葉に詰まる。それから、真っ直ぐにこちらを見た。
「今回の作戦、な」
声のトーンが、それまでとは違っていた。
「最優先事項として、追加してほしい」
「——部下を頼む」
短い、それだけの言葉だった。
カイは、その先を待った。だが、続きはなかった。
「ずいぶんと、曖昧な指示だな」
茶化す気配は、なかった。純粋な指摘だった。
少佐は、何も付け加えなかった。ただ、こちらを見つめる目だけが、それ以上の言葉を求めていた。
「……最優先だな」
カイは、短く請け負う。
「任された」
少佐の肩から、わずかに力が抜けたのが分かった。
「頼む」
もう一度、それだけ言うと、少佐は肩を叩いて離れていった。
カイは、その背中を見送りながら、装備帯をもう一度、確かめるように締め直した。
*
「細かいことは、現地で何とかしてくれ」
そんな無責任な台詞を残した張本人は、さっさとX-ウイングに乗って飛び去ってしまった。
現地付近で待機して様子を伺う、という。
カイは用意された輸送船の中で、先程確認しそびれたことを尋ねる。
本来、わざわざ聞くまでもない事なのだが、嫌な予感が拭えなかったのだ。
「通信手段はあるんだよな?」
「基本的に、大声です」
「大声」
——大声?
「あと、光の点滅とか」
同行している説明役の部下は、これといって恥じる様子もなく続ける。カイは、もはや何から突っ込めばいいのか分からなくなっていた。
「……本当に、俺だけで足りるのか、これ」
思わず漏れた呟きに、部下は元気よく答える。
「足りなかったら、その時考えます」
「頼もしいな、おい」
皮肉のつもりだったが、部下には通じなかったらしい。にこやかに頷き返してきただけだった。
——おいおい、"頼む"ってまさかこういうことじゃないだろな。
命だけじゃなくて、これは——
信じられない結論を、頭を振って追い払う。
カイは、
今になって、なぜ部下に渡さなかったのか理解した。
通信が繋がった瞬間——
「お゙い゙!!!!」
カイは低い声で怒鳴りつけた。
『おー、マンドー式の通信は威勢がいいんだな』
通信機越しの
その態度が余計にカイの神経を逆撫でた。
「おま、これ、ほんとに正規軍か!?」
『正規軍なんだなぁ』
「——————ッ!!」
もはや言葉にすらできなかった。
目の前で苛立たしげに足を踏み鳴らすマンドーを、NRたちは怯えながら見ている。
『まぁまぁ、兄さん聞いてくれよ』
「……兄さん呼び止めろ」
『ははははは』
笑って受け流しながら少佐は続ける。
『そもそも、な。うちの連中の練度が低いのには理由があるんだよ』
「聞かなくても分かる。やる気がないんだろ」
『それも間違っちゃいないが、根っこはもっと単純だ』
少佐は、鼻歌でも歌い出しそうな調子で続けた。
『食うに困った奴らの、貴重な就職先ってだけだよ、ここは』
外縁部は貧しい生活を送る者が少なくない。辺境の辺境ならなおさらだ。
『向こうのシンパ連中も、似たようなもんだ。大義がどうこうより、他に行き場がなかった連中の吹き溜まり』
その言葉に、カイは思わず言葉を失う。
拾う者次第で変わる運命。それは
『まあそういうことでな。今まで、大した消耗も衝突も、ろくに起きたことがない。言ってみりゃ、なあなあの平和ってやつだ』
妙に実感のこもった声だった。
「じゃあ、今回は——」
『なあに、心配すんな』
カイの問いを遮るように、少佐が言葉を被せる。
『体力だけは、ちゃんとしごいておいたから』
「……本当だろうな」
もはや、文句を言う気力すら湧いてこなかった。ただ、深く長いため息だけが漏れる。
カイは、片手で顔を覆いたい衝動をどうにか堪えた。ヘルメットの下では意味がないと分かっていても、そうしたくなる気持ちだけは本物だった。
「……ヘルメットの周波数、教えとく」
諦めの境地で、そう告げる。
『お、いいのか?』
「暗号帯も含めてだ。今後はこっちを使ってくれ」
口にしてから、一瞬だけ迷いがよぎった。
——これ、後々まずいことにならないか。
だが今更、撤回する気にもなれなかった。数列を読み上げ、通信機へと打ち込ませる。
『よし、繋がった。これで安心だな』
「安心できるかどうかは、お前次第だ」
『手厳しいな』
軽口を叩く少佐に構わず、手に持ったままのコムリンクへ視線を落とす。もう用済みだ。
「——お前が持ってろ」
説明役の部下に向けて、軽く放り投げる。
だが、油断していたのか、間の抜けた声と共に、コムリンクは指先をすり抜けて地面に転がった。
「わっ……!」
部下が、慌てて拾い上げる。幸い、傷一つついていないようだった。
「おい、壊すなよ!……いや、失くすなよ!?」
*
施設を望む岩陰から、カイは遠巻きに様子を窺っていた。
傍らに伏せる後詰めの数人が、それぞれ機材を構えている。緩い部下——ペックスと名乗っていた——の一人が、小さな端末に目を落としたまま囁いた。
「タレット、二機です。ゆっくり周回してます」
端末の画面には、点滅する反応が二つ。その隅で、時折ノイズのような乱れが走っているのが目に入ったが、部下は特に気にした様子もなかった。
——二機。
カイは、ジェットパックの左側面——マグネットで固定されたスラッグ・スローワーへ手をやる。取り外し、薬室を開く。
弾薬帯を指で辿り、EMPカートリッジに手が伸びる。確実に無力化できる、便利な代物だ。
——だが。
指先が、そこで止まる。
——高いんだよなぁ、これ。
一発一発の値を思い出すと、途端に手が惜しくなった。二機程度なら、わざわざ使うほどでもない。
少し逡巡してから、ライフルを元の位置に戻す。
「——借りるぞ」
傍らの部下から、代わりにライフルを受け取った。持っただけで、整備の悪さが伝わってくる代物だった。銃身にがたつき、グリップの塗装は剥げかけている。
思わず、ため息が漏れる。
——まあ、これでも十分だ。
道具の善し悪しは、多少なら腕で埋められる。
スコープを覗く。まずは、一番狙いやすい位置にいる一機。動きも読みやすい。
——一発目。
乾いた発射音。命中と同時に、タレットの灯りが消える。
銃の癖は、これで大方掴めた。
——二発目。
間を置かず、二機目も同様に沈黙する。
「あ」
傍らで、間の抜けた声が漏れた。
——あ、って何だよ。
「もう一機、いました!」
「先に言え、バカ!」
悪態をつきながら、カイは目を凝らす。周回コースの死角、暗がりの中に紛れていたそれを、かろうじて視界に捉えた。
——妨害電波か!
端末の画面に走っていたあのノイズは、これのせいだったらしい。局所的な妨害装置か何かで、探知そのものを阻害されていたのだろう。今更気付いても、遅い。
照準を合わせる。引き金を絞る。
命中——だが、コンマ数秒、遅かった。
着弾の直前、タレットから鋭い警告信号が放たれる。
施設全体に、けたたましいサイレンが鳴り響いた。
カイは、小さく舌打ちする。
——見つかったか。
もう、忍び込む手は使えない。
振り返りライフルを返すと、後詰めの肩を叩いて先を促す。
「見つかった。忍び込むのは無理だ、行くぞ」
短くそう告げると、カイは施設の正面へ向けて駆け出した。
*
施設全体に、けたたましいサイレンが鳴り響いていた。
——今頃気付いても、遅い。
正面ゲートは、後詰めが強引にこじ開けた。
なだれ込むように、カイは先頭で駆け出す。
構造物の中、サイレンはまだ鳴り続けている。それなのに、駆けつけてくる足音の一つもない。
「——あの音、止めろよ」
「うるせえな、誤作動だろ」
通路の奥から、気だるげな声が漏れ聞こえてくる。誰も、本気で対応する気配がなかった。
やがて、耳障りな音が唐突に途切れる。誰かが、面倒臭がって手動で止めたのだろう。静寂だけが、通路に戻ってきた。
——助かるが、危機感がなさすぎるだろ、これ。
拍子抜けした気分のまま、カイは足を止めない。
通路の構造は、渡された図面とまるで違っていた。曲がり角が一つ多い。壁の位置もズレている。
——伝聞ベースって、こういうことか。
舌打ちする間もなく、最初の敵影が現れる。
躊躇なく踏み込み、当て身一つ。意識を刈り取る。崩れ落ちる体から、ブラスターだけを蹴り飛ばして先へ進む。
——待てよ。
ふと、足を止めかける。
武器を奪うだけでいいのか。隠し持った予備の一つや二つ、あってもおかしくない。今は意識がなくても、目を覚ませば話は別だ。
——後ろに、ペックスたちがいる。
万が一、途中で意識を取り戻した誰かに、後詰めの誰かが不意を突かれでもしたら。
——思考が一瞬、囚われた隙に。
「突入します!」
背後で、やたら威勢のいい声。ペックスが、真っ先に飛び出していく。
「——待て、先に——」
制止は、間に合わなかった。
通路の奥、複数の敵影。ペックスは棒立ちのまま、どれから狙うべきか迷っている様子だった。
舌打ち一つ、カイはその横をすり抜けざまに動く。
閃光。乾いた打撃音。また一人、崩れ落ちる。
だが、殺す前提で磨いてきた体は、時折その”加減”に戸惑う。踏み込みが深すぎたり、力が余ったり。
——やりにくいな、これは。
氏族に伝わる戦闘術は、そもそも手加減のために組まれてはいない。今更ながら、それを実感する。
「あ——危な!」
背後で、間の抜けた悲鳴。振り返れば、ペックスが敵の一撃を紙一重で躱していた。
——おい。
カイは、思わず天を仰ぎたくなった。
——任せるって、やっぱり教育もかよ。
少佐との約束を、今更ながら恨めしく思う。
それでも、数の優位は揺るがない。後詰めが多少頼りなくとも、圧倒的な状況そのものは崩れなかった。
——これだけ人手と装備が揃っていれば。
ふと、ベスピンでの死闘が脳裏をよぎる。あの時とは、何もかもが違う。守る者もなく、退路も潤沢な、恵まれた戦いだった。
あらかた制圧し終えると、カイはもう一度、ヘルメットのセンサーに意識を向けた。
熱源反応、なし。物音も、なし。
——片付いたか。
それでも油断せず、しばらく周囲を窺う。誰かが息を潜めている気配もない。ようやく、詰めていた息を吐き出した。
誰にも聞こえないような声量で、無意識に呟く。
「——ニナ、どうしてるかな」
*
ニナが案内された小部屋には、聞き慣れない機械音が満ちていた。
担当官が、キタツグミの登録情報を呼び出しながら、ペンで頭を軽く叩く。
「あー、だから止められたんだな、あんたら」
「何がですか?」
「航行履歴が、ほとんど白紙なんだ。この十五年、どこにも飛んでない」
ニナは、静かにその言葉を受け止めた。
——ずっと、あの整備場の奥に眠っていた船だもの。
驚くようなことでも、ない気がした。
「まあ、辺境じゃ珍しくない話だ。長らく倉庫に眠ってた船とか、記録漏れとか」
担当官の言葉に、ニナは小さく頷く。
「——おっと、所有者が違うみたいだな」
「え!?」
「ま、これもよくある話だ。それより——こっちが前の所有者の記録なんだが」
担当官の声が、少しだけ変わる。
「これ、あんたの血縁者らしいぞ」
「——え?」
「船の登録情報に紐づいてる血縁データだ。おそらく、母親に当たる人物だな」
心臓が、跳ねた。
「わ、私の、母親……?」
「ああ。詳しく見てみるか」
担当官が、画面をこちらへ向ける。
モニターには、機械的に整列した文字列。ニナは、その一つ一つを目で追う。
だが——知らない。
どこにも、見覚えのある響きがなかった。
「え……——何て、私、知らないです。この人が私のお母さんなんですか?」
モニターに、そっと手を沿わせる。そこに並んだ無機質な文字の羅列。それは何も語らずに、微かな走査線の中で揺らいでいる。
「お母さんは、私のお母さんは——」
その時、一つの情景が、ゆっくり開かれたカーテンの向こうのように頭に浮かんだ。
開かれた図鑑、優しく降り注ぐ声、文字をなぞる——二つの手。
——ニナ。
背中の温もり。甘く包む香り。
見上げる顔は、白く焼け付いて思い出せない。
——ニナ、ほら、ツグミさんだよ。
自分を抱える女性は、自分の名前を呼びながら、本の写真を指差す。
後ろから、父の呼ぶ声が聞こえる。
——ご飯ができたよ。
——ニナ……ソ——
「ソレイン——」
思い出した、お母さんは、ソレインって呼ばれてた。
「ソレイン……お母さんは、ソレインって呼ばれてました」
繰り返すように、もう一度呟く。
担当官が、怪訝そうに眉を寄せた。
「ソレイン? ……それ、この基地の名前と同じじゃないか」
「え……」
「どういうことだ、そりゃ」
答えられるわけがなかった。ニナ自身、何が起きているのか分からない。
「わ、私にも、分からないです。ただ、母は……その名前で、呼ばれていたので」
画面に映る、見知らぬ文字列を見つめたまま、ニナは正直にそう答えるしかなかった。
「私、この本名なんて、聞いたこともなくて」
担当官は、しばらく画面と睨めっこしていたが、やがて何かに思い当たったように、ぽん、と手を打った。
「——ああ、なるほどな」
「?」
「よくある話だ。お母さん、この基地の名前を、そのまま自分の呼び名として使ってたんじゃないか?」
「基地の……名前を?」
「たとえば、な。景気付けとか、縁起担ぎとか。外縁部じゃ珍しくもない」
担当官は、軽い調子でそう説明する。
「名乗りと本名が別にある人間なんて、この辺じゃごまんといるさ。あんたのお母さんも、その口だったんだろうよ」
その言葉に、ニナはようやく合点がいった。
——だから。
基地の名前を聞いた時、あの既視感があったのだ。母の呼び名と、同じだったから。
偶然ではなく、ちゃんと繋がっていた。
ニナは、モニターに映る見知らぬ文字列を、もう一度見つめる。
知らない名前。それでも——確かに、これが、母だった。
小部屋を出る前、担当官が最後にもう一つの端末を操作した。
「そういえば、船の方の登録もついでに済ませとくか。前所有者が身内なら話は早い」
「あ……はい、お願いします」
手続きは、思いのほかあっさりと進んだ。数回のサインと、指紋の照合。ものの数分で、キタツグミの所有者欄に、ニナの名前が刻まれる。
——お母さんの船が、私の船になった。
実感の湧かないまま、画面をぼんやり見つめる。
小部屋を出ると、廊下の窓から差し込む光が、やけに眩しく感じられた。
——図鑑の、一番好きなページ。
思い出したのは、名前だけではなかった。優しい声で読み聞かせてくれた、あの一節。今も諳んじられるくらい、体に染み付いている。
あれは、母がくれたものだったのだ。
ニナは、静かにその事実を胸にしまう。悲しみでも、喜びでもない。ただ——知らなかった自分の欠片が、また一つ埋まったような感覚だった。