金属を軋ませる音が、絶え間なく響いている。
砕かれた鉱石が、選鉱ラインの上を流れていく。埃っぽい空気。錆びついた配管。むき出しのベルトコンベアが、単調な音を立てて奥へと続いている。
——ここなら、多少の物音は誰も気にしない。
「——いい仕事するわよね、貴方。アジトの位置も、人員の配置も、ばっちり」
女の声が、機械音の合間に響いた。
「けど、ね」
乾いた銃声が一発。
女の目の前、一人の男が崩れ落ちた。
「それを漏らされるのは困るのよ、分かるでしょう——?」
即死だった。
もう一人の男は、それをただ見ていた。動けなかった。
女は、物言わぬ身体を無造作に蹴った。転がるように、コンベアの上に落ちる。
ベルトが動き出す。
ゆっくりと——男の目には、やけにゆっくりと見えた——死体が運ばれていく。奥の機構へ。金属の唸りが、一段大きくなる。
それきり、人だった何かは、コンベアの向こうに消えた。
「はい、次——」
女の視線が、男へと向いた。
男は、悟った。
自分が呼ばれた理由に、心当たりなどなかった。使えないと判断された、それだけだ。
「——っ、あ、いや、いやだ……!」
声にならない声で叫ぶ。逃げようと、足を動かそうとする。だが体は、恐怖に縫い止められたように動かない。
女が、こちらへ歩いてくる。
——近い。
近すぎる。
その目を、見てしまった。
心臓を掴み上げるような、暗い光。
男の喉から、それきり音が消えた。悲鳴すら、出なかった。
体が、コンベアの上に運ばれていく。金属の唸りが、すぐ側で響いている。轟音の中、それでも、間近にいる女にだけは、聞こえていたのかもしれない。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
助けて誰か嫌だ怖い嫌だ嫌だ。
いや——
男の意識は、そこで途切れた。
*
女は、うっとりと目を細めていた。
轟音の中に佇み、機構が仕事を終えるまでの、ほんの短い時間を。
「——ん、ふふ。いい音。役に立ったじゃない」
満足げに、息を吐く。
少し離れた場所——女とコンベアの両方が見える位置に、部下たちが整列していた。誰も、身じろぎ一つしない。
ただ、恐怖だけが、その場を支配していた。
*
眼下に広がる惑星は、遠目にも賑わっているのが分かった。灯りの密度が違う。港湾部の光点は数珠つなぎで、これだけでも相当な交通量だと察しがつく。
「——発着枠が埋まってる、と」
管制からの応答を聞き流しながら、カイはひとりごちた。
なんでも、地上で大規模な見本市が開かれているらしい。物流だ、技術だ、と各方面の商人が押し寄せていて、通常便の受け入れすら滞っているという。
「しばらく上空待機を、だそうだ」
操縦席から振り返る。ニナは窓の外を覗き込んで、目を輝かせていた。片手に掴んだサンドイッチのことは、すっかり頭から抜けているようだ。
「賑わってますね」
「——そうだな」
混雑した空路の向こうに、無数の灯りが瞬いている。悪い星ではなさそうだ、と思う。少なくとも、傭兵稼業や賞金首の噂が転がっていそうな活気はある。
問題は、それが今すぐ手に入らないということだった。
「——で、どれくらい待つんだ」
誰にともなく呟いた声に、管制からの淡々とした返答が重なる。
「——一時間ってところか」
カイは、シートに深く座り直した。
ニナはようやく最後の一口を食べ終わると開口一番、「あの」と切り出す。
——こうやって空き時間ができると、二人は自然とお互いの話をするようになった。
もっと知りたい、ニナの希望を受けてからである。
大半はとりとめのない話題。
カフの好みとか、シートの座り心地とか、先日買ったレーションの味とか。
武器の手入れのコツ、応急処置で意外と気をつける点。
ニナの知らない星の風習、カイの会ったことのない患者の話。
——今回、最初に切り出したのはニナだった。
「マンダロリアンって、戦士の一族なんですよね。孤児の保護って皆さんでなさってるんですか?」
少し意外な質問に面食らったが、言われてみるときちんと説明したことも無かった気がする。
「いや——そういう訳でもないな」
「?というと?」
「んー……そうだな、教義としては確かに全体の義務ではあるんだが」
そこで一旦、言葉を切るとカイは頬に当てた指先で軽くヘルメットを叩く。
——さて、どう説明したものか。
父から、大人から、周りから、幼い頃より叩き込まれた教義ではあるが、いざ説明するとなると切り出し方にも迷う。
「まず、孤児を保護するだろ? ニナにしたみたいに」
——結果的には孤児という歳でもなかったわけだが。
ニナは話の腰を折ることなく、黙って頷く。
「仲間や親族、部族とか、返せるところがあるか探して、それでも無いってなると——」
あの日のニナの泣き声が唐突に蘇って、言葉をのむ。
今となっては、酷い所業をしたものだと、我ながら嫌になる。
黙りこくってしまったカイの後を継ぐように、ニナが助け舟を出した。
「チルドレン・オブ・ザ・ウォッチの皆さんに、預けて育てる?」
「——そうなるな」
——ん? その
ふとよぎった疑問を、ニナの質問がかき消した。
「それだと——仲間の元に返す人が必要じゃないですか?」
「ああ」
ずっと天井付近を彷徨わせていた視線をニナへ向ける。
「それが——ヴォル氏族の仕事なんだ」
「え?」
「これが、結構、大変な任務で——」
ふーっと息を吐いて再び天井を仰ぐ。
「調べて、探して、届けて……届けた先で、また孤児を拾ったこともある」
かつて過ごした時間を、頭に浮かべながら話す。その言葉は苦労話というより、どこか楽しそうな響きだった。
キタツグミと違う輸送船、操縦席にはシオウが座り、自分はいつも複座で——
戻ってもまた新しい孤児が待っている。
慌ただしく支度を済ませて、すぐに発つことだって少なくなかった。
だからこそ、久しぶりに顔を合わせた仲間には、いちいち驚かれる羽目になる。
——そういえば、ロウガンの顔が広くなりだしたのも、この時からか。
「帰ったら、アジトが移転してた事もあったな。ロウガンが、事前に教えてくれなかったらマズかった」
「落ち着いてる期間の方が、正直少なかったな」
——でも、楽しかった。
戻らない日々を思うと、今でも胸が苦しくなる。
氏族の使命、そう誇りを胸に刻んだ日々を——
「といっても、親父も死んだし、今は俺しか——」
そこまで言って、またも言葉が続かない。
ニナは、小さく頷く。そして——
「すごい、誇り高い氏族、なんですね」
真っ直ぐとこちらを見つめる。
「ヴォル氏族って」
「——そうだな」
氏族を褒められて、照れくささを噛み殺す。
もうマンダロリアンじゃない。氏族を継ぐと決めたわけですらない。
そこにはお互い触れないことにしていた。
いつの間にか、そうなっていた。
——ポールドロンに刻まれた氏族の意匠。まだ真新しいその紋章を、背負う覚悟ができているかと言うと怪しい。
沈黙を破ったのは、ニナだった。
「——さっき、教義としては全体の義務だって、おっしゃってましたよね」
「ん?」
「『としては』ってことは……みんながみんな、同じように考えてる訳じゃない、ってことですか?」
——地味に鋭いところを突いてくる。
「——ああ、そういうわけでもないな」
「そうなんですか?」
——そう言えば、確かにそんな話をした覚えがある。
「ウォッチとは、また違う考え方をする連中もいる」
昔、父親から聞いた単語が思い当たった。
「ああ……ナイトアウル、とかだな」
「ナイトアウル」
舌の上で転がすように、ニナが繰り返す。
「詳しいことは、俺もよく知らないんだが」
——親父から聞いた話も、正直かなりふわっとしている。
「教義の解釈が、ウォッチほど厳格じゃない連中がいる、ってだけの話でな」
「厳格じゃない?」
「ヘルメットのルールとか、そういうのに、もう少し緩やかな考え方をする一族らしい」
——らしい、としか言えないのがもどかしい。
「親父も、直接会ったことはなかったんじゃないか、と思う」
カイは、記憶の底を探るように視線を彷徨わせる。
「ただの又聞きだ。ウォッチだけが、マンダロリアンの全てじゃない、ってことぐらいしか、俺には分からない」
ニナは、それでも興味深そうに頷いた。
「——でも、そういう人たちが、マンダロアの座標を知ってるかもしれないんですよね?」
「ああ」
「じゃあ、会えたらいいですね」
カイは、曖昧に頷き返すことしかできなかった。
——会えたら、な。
どんな連中なのか、見当もつかないというのに。
*
着陸許可までは、まだ時間がかかりそうだった。
——今のうちか。
カイは、コックピットの隅で丸くなっているドロイドに視線を送る。
「——ニナ、悪いんだが」
「はい?」
「着陸に備えて、アストロメクの接続調整、確認しておきたい」
「はい、分かりました」
ニナは素直に頷いた。
——だが、動かない。
興味深そうにドロイドの方へ身を乗り出し、副操縦席に座ったまま、じっと待つ体勢に入っている。
——いや、そうじゃなくてだな。
「——外で、待っていてくれるか」
「え?」
ニナが、きょとんとした顔でこちらを見る。
「一緒に見ていちゃ、駄目なんですか?」
「——いや、その」
言葉に詰まる。適当な理由をでっち上げた手前、断る理由も咄嗟に出てこない。
「地味な作業だから、退屈すると思う」
これは流石に苦しいだろう、と自分でも思う。が、ニナは少し不思議そうにしながらも、椅子から腰を上げる。
「分かりました。何かあったら呼んでください」
「——ああ、頼む」
ハッチが閉まるのを見届けてから、カイはドロイドに向き直る。
「……」
大きく息を吸って、吐く。
「——ドク」
《……》
電子音が一つ、短く鳴った。
「聞きたいことがある」
《……ピー》
まるで聞こえていないふりだ。
「聞きたいことがある。ニナのことで」
ドロイドの丸い目のようなセンサーが、ゆっくりとカイの方を向いた。だが、キタツグミのモニターには何も表示されない。代わりに、低い唸り音がひとつ。
——なんだ、その反応。
「お前、知ってるんだろう」
《ピリリ、リリ……》
やはり、答えない。
カイは、うなじに手をやった。
「——なあ。今回だけだ。今回だけでいいから」
沈黙。
ドロイドは、ゆらり、と一度だけ本体を揺らした。それきり、動かない。
——呆れられているのか、それとも。
しばらく睨み合いが続いた。根負けしたのは、カイの方が先だった。
「頼む」
柄にもなく、頭を下げた。
ドロイドが、電子音を一つ鳴らす。今度は、さっきまでとは違う響きだった。どこか、確認するような。
——なんだ?
「……あんたが、大事に思ってる。それは分かってるつもりだ」
勘だった。だが、当たっている気がした。
ドロイドは、しばらく黙っていた。
やがて、コックピットに設置されたモニターに文字が浮かぶ。
数字が、ふたつ。
カイは、それをじっと見つめた。
——ああ。
ソレイン基地、詰め所前のボロいベンチに並んで座って。
『もうすぐ——』
言いかけて、ニナが飲み込んだ、あの続き。
やはりあれは、こういうことだったのか。
*
「宿、すぐに決まって良かったですね」
「ああ」
二人は荷物を部屋に置き終えると、身軽な姿で市場へ繰り出した。見本市の影響か、それとも普段からなのか、通りは人、人、人……。二人は圧倒される。
——キャンセルが出たのが奇跡だったな。
本当にたまたま、一部屋だけだが空きが出たらしい。満室です、予約が無いと、と断られ続けた二人は、悩む余裕もなくすぐに決めざるを得なかった。
——まあ、俺は床、いや船で寝れば良いし。
隣で人混みに目を回しているニナに声をかける。
「さて、ちょっと買うものがあるから付き合ってくれ」
*
最初に入ったのは食料品店だった。保存食に焦点を絞った品揃え。
今まで補給で訪れた時も、度々似たような店舗には入ったことがある。
だが、いつもは当然だが出発直前に買い足すもので、到着早々に来るのは初めてのことだ。
「店主!干した果実は——これだけか?」
カイに呼びかけられた店主は、ぶっきらぼうに「そうだよ」と返す。
何個かニナが聞いたことのない名前を並べるが——
「聞いたことないねえ、なんだいそれ」
「これくらいの大きさで、赤くて——」
「それならこれかい?」
「いやそれじゃなく……じゃあ、ダリクロン星系の——」
「あんた、そんな遠くの品が手に入るわけないだろう」
「そ、そうか——」
それきり、カイはドライフルーツの平台の前で腕組みして考え込んでしまう。
冷やかしかと、店主の視線が痛くなってきた頃。
カイはようやく意を決し、声をかけた。小声で何かやり取りする。
少し離れた場所で、店内をうろついていたニナへ手招きした。
「カイさん、どうしました?」
「ちょっと、味見してもらえるか——?」
「味見、ですか——?」
困惑する二ナの前に3つの小さなドライフルーツが差し出される。
赤いのと、黒いのと、青緑色をしたぐにゃりとしたもの。
カイの方を見ると、少しバツが悪そうに頷く。
——この中から選ぶってことなのかな。
一個目。
「甘酸っぱいですね」
「食えそうか?」
それは——この場で聞いて良いものなのか。
店主の咳払いを聞こえなかったフリをして頷いた。
続いて、二個目。
「わ、すっごい甘い。——でも美味しい、です」
少し気を使った返答を心がける。
そして、三個目。
強烈なビジュアルに手が止まるが、ままよ、とニナは腹をくくった。
口に放り込んで咀嚼する。
店主と、ヘルメットからの視線が——重い。
そして——
「…………美味しい!私、これ好きです!」
口いっぱいに広がる爽やかな甘さと、豊かな香りに、ニナは思わず大きめの歓声が上げる。
「そっか——」
カイのホッとしたようなため息が聞こえた。
「それじゃ店主——全部、一袋ずつ、あ、こっちは二袋くれ」
「え、全部?」とニナ。
「ああ、全部」とカイ。
——味見の意味、ありました!?
そう口から飛び出しそうになるのを、どうにか堪える。
「さて——」
カイは受け取った商品を確認すると、今度は——
「店主、ナッツはどこだ?」
「まだあるの!?」
今度こそ口に出してしまう。
カイは心から申し訳なさそうな声で、
「——ごめん」
と謝った。
*
それからカイに連れ回されること数時間。
味見を頼まれたり、目的の物が見つからず彷徨ったり——
流石にニナの体力も限界に近づきつつあった。
「すまない、疲れただろ。少し休むか」
「あ、はい。大丈夫です」
適当な東屋の長椅子に腰を下ろす。両手いっぱいの荷物を、カイが横に置いた。
——結局、何を作るつもりなんだろう。
木の実、香辛料、蜂蜜、粉状の何か。買った物を並べて眺めてみても、ニナには見当がつかなかった。
「あの、これって……」
「——ん?」
「何を、作られるんですか?」
試しに聞いてみる。
「——いや、まあ、その」
カイの視線が、明後日の方向を彷徨う。
「——秘密だ」
随分と分かりやすい誤魔化し方だった。
それ以上聞いても、はぐらかされるだけだろう。ニナは大人しく、荷物の中身を数えるふりをして黙り込んだ。
*
——やっぱり、駄目か。
カイは荷袋の中身を確認しながら、内心でため息をついていた。
揃った材料の半分近くが、記憶にあるものとは違う代用品だ。味は近いはずだが、"はず"でしかない。仕上がりがどうなるか、正直自信が持てなかった。
——そもそも、俺には確かめようがないんだがな。
ヘルメット越しでは、味見のしようがない。合っているかどうかの判断は、結局のところ勘に頼るしかなかった。
——せめて。
救いがあるとすれば、ニナに一口ずつ確かめてもらったことくらいか。少なくとも、食えないものが紛れ込む心配だけはない。それだけでも、随分と気が楽になった。
——親父に教わった時とは、何もかも違う。
ふと、隣に座らせておいたはずのニナの姿がないことに気付く。
視線を巡らせると、少し離れた露天商の前で、ニナが足を止めていた。
並んだ装飾品に、目を輝かせている。
*
露天に並べられたアクセサリーが、陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
疲れた体には余計に眩く見えて、つい足が向いてしまった。
色とりどりの宝石が、煌めく金属の繊細な細工の上に、淑女のように静々と収まっている。
御伽噺のお姫様が付けているような、付けて、いるような……。
——何だろう、これ。
*
「装飾品が、欲しいのか?」
「わっ」
背後から声をかけられて、初めて断りもなく離れてしまったことにニナは気付いた。
「ご、ごめんなさい!勝手に離れたりして——」
「別に、子供じゃないんだから、とやかく言う気はないさ」
——子供じゃない。
いつかの会話で、子供扱いを怒ったことがある。
なのに、いつの間にか自分が子供扱いされることに慣れていたことに——今更、気付いてしまった。
——結局、それに甘えていたのは自分の方だったのかもしれない。
妙な気恥ずかしさが込み上げて、ニナは俯く。
「——で、これが気になるのか?」
カイの視線が、ニナの見ていた装飾品の方へ動いた。
ニナの視線の先——陳列された装飾品の一つに、カイの手が伸びた。
小さな金属の台座。その中央に、灰色がかった青い石が収まっている。
——何だ、これ。
特に意味もなく、目についたものを手に取っただけだった。
「——お客さん、髪飾りをお求めかい?」
奥から、店主が姿を現した。
気配自体は先程からしていたが、カイの無骨な佇まいに、どうせ買う気はないだろうと踏んでいたらしい。
——だが、連れがいるとなれば話は別だ。
そんな計算が、店主の顔にちらりと滲んでいた。
「——髪飾り」
繰り返した言葉に、カイの中で何かが繋がる。
——そうか、これは、髪に付けるものか。
思えば、髪を飾るという発想自体、これまで頭になかった。
カイは、手にした髪飾りを、そっとニナの方へかざしてみる。
瞳と——同じ色。
偶然のはずなのに、妙にしっくりくる気がした。
不思議そうにこちらを見上げるニナと目が合った。
そういえば、と思い出す。
作業をしている時。食事の時。読みかけの本に向かっている時。
ニナは時折、肩にかかる髪を、無意識に手でかき上げていた。
邪魔そうに。少し、鬱陶しそうに。
「——いるか?」
軽い調子で聞いたつもりだった。
だが、ニナは答えなかった。
答えられなかった。
*
「——いるか?」
そうカイに聞かれた時、ニナの中で何かがもがいた。
心の中の箱。無数に並んだ中の一つが——
ガタガタと。
ゴトゴトと。
開けろ、と。
出せ、と。
ニナには一つのおまじないがあった。
それは、五年間の孤独の中で、心を壊さないために身につけたおまじない。
向き合ってもどうにもならない。
出しても辛くなってしまう。
ぶつける相手なんて——何処にもいない。
そんな気持ちが湧いた時、しまって、閉じ込めて、鍵をかける——
そんな箱。
それが積み重なって、自分を囲んで、身動きできなくなっても。
今更、開けられない。
そんな、箱。
以前に、一度だけ開けてしまったことがある。
今まで言えなかった気持ちが、一つだけ逃げ出してしまった。
カイが瀕死で運ばれた時も。
叔父様が亡くなって一人で処理した時も。
満足に食事もできずに倒れた時も。
クレバスから落ちて、死を覚悟したあの時も。
——誰か助けてください。
言えなかったはずなのに、伝えるつもりなんてなかったはずなのに。
——助けてくれる人がいた。
だから甘え続けてしまった。
でももう、孤児じゃない。
守ってもらえる理由がない。
助けてもらえる理由がない。
だから、これ以上は、ワガママを言ってはいけない。
箱を押さえつける。上に新しく乗せる。
湧いてしまったワガママを、その中にしまう。
決して見られないように。
決して見せないように。
*
「——っ」
喉の奥が、きゅっと締まる感覚があった。
言葉にしようと開きかけた口を、ニナはすぐにまた固く結ぶ。
視線を落として、ただじっと黙り込む。
その沈黙を、カイは違う意味に受け取ったのかもしれない。
店の奥へと足を向け、店主と小声で何か言葉を交わす気配がした。
しばらくして、戻ってくる。
——その手には、何も持っていなかった。
カイはニナの肩を、軽く一度だけ叩いた。
「行こう——」
それだけ言って、歩き出す。
*
古本屋の前を通りかかった時だった。
——また、か。
視界の端で、ニナの足が止まる気配がした。振り返るまでもなく、大体察しがついた。
案の定、彼女は積み上げられた古本の山を前に、目を輝かせている。
——さっきの装飾品の時とは、少し違うな。
あの時は、どこか遠慮がちに、盗み見るような目だった。今度は違う。真っ直ぐに、迷わず、食い入るように見つめている。
「——欲しいなら、欲しいと言ってくれ」
我ながら、少し呆れた声が出た。
「そこまで甲斐性なしだと思われているのも、心外だ」
「——そういう訳じゃ」
ニナが、慌てて振り返る。
「でも、ここまで結構、使いましたし……」
視線が、これまで買い込んだ荷物に落ちる。
——それは、確かにそうなんだが。
正直言って、痛くない出費と言えば嘘になる。
だがそこまで切羽詰まった問題でもない。
なにより——
「どのみち、この星で仕事は探すつもりだった。心配は要らない」
「そう、ですけど……」
「それに」
言いかけて、少し口が滑った。
「——俺も、たまに欲しい武器を買っちまってるし」
「え」
ニナの目が、丸くなる。
「——初耳です」
——しまった。
脳裏に浮かぶのは、寝台の上を占拠しつつ、ついに寝る場所を確保できなくなった武器の数々。
「まさか、最近……」
ニナの声が、何かに思い当たったように低くなる。
「——寝てるかと思ったら、ずっと部屋からガチャガチャ音がしてたのって……」
「——すいません。ライフルの追加パーツを……買ってみたら楽しくて、つい」
カイは、素直に白状した。
沈黙が落ちる。
——これは、分が悪い。
話を逸らすように、足元のまとめ売りされた古本の山を指差した。
「——これ、買おうか?」
「……どうぞ」