宿に戻る頃には、日は傾きかけていた。
両手に抱えきれないほどの荷物を、部屋の隅に下ろす。
——さて。
ニナは早々に、買ったばかりの古本の一冊を広げて読み耽り始めていた。声をかけても、生返事しか返ってこない。
——今のうちか。
カイは荷物の中から、食材の入った袋だけを選り分ける。キタツグミの簡易ギャレーでは、到底この量を捌ける代物ではない。
台所を借りるしかなかった。
一階に降りると、食堂の奥から賑やかな声がする。夕餉時の仕込みだろう、湯気と香辛料の匂いが漂っていた。
カイは、女将らしき女性の姿を見つけると、真っ直ぐに歩み寄る。
「——すまない」
女将が振り返った。マンダロリアンの姿に、一瞬だけ目を丸くする。
「台所を、少し借りたいんだが」
*
カイは早速、勝手口の奥の台所へと足を向ける。
思っていたより、しっかりとした設備だった。食堂も兼ねているだけあって、かまども水回りも申し分ない。
手袋を外す。ガントレットを外す。
それらを台の端に、丁寧に並べて置いた。
「さて——」
袖を、肘の上まで捲り上げる。
——夜の仕込みはもう終わっているし、食堂を開けるまでなら。
そういう約束で貸してもらえた。手早くやらないと間に合わないだろう。
目の前に並べたのは、あちこちで買い集めた材料の山。半分近くが代用品、記憶と完全には一致しない、心許ない顔ぶれだった。
——まずは…………包丁か?
カイは戸棚を一つ、また一つと開けていく。皿、鍋、香辛料の瓶——出てくるのは、探している物以外ばかりだった。
棚という棚、引き出しという引き出しが、几帳面に整頓されている。裏を返せば、勝手を知らない者には迷宮も同然だった。
*
女将は、拭き終えたグラスを棚に戻しながら、小さく息をついた。
——マンダロリアンが台所を貸してくれ、なんて。
最初に言われた時は、面食らって断りかけた。だが、あの必死な食い下がりようだ。悪いようにはしない、手間もかけない、と繰り返す姿に、つい絆されてしまった。
——まあ、夜まで時間はあるし。
そう軽く考えていたのだが。
「すまない、まな板はどこだ?」
「またすまない、何か食材を入れる容器は——」
「度々すまない! 型か何か——」
立て続けに顔を出しては、律儀に詫びながら道具の在り処を尋ねてくる。律儀すぎて、逆にこちらが落ち着かない。
——これは。
流石に、この調子だと。
女将は、壁にかかった時計を一瞥する。
夜の開店までに、片付くのだろうか。
不安が拭えず、女将は手にしていた布巾を置くと、台所の方へ向かった。
*
台所を覗くと、案の定だった。
あちこちの戸棚が開けっ放しで、食材が作業台の上に所狭しと積まれている。肝心の手は、まだ何も切っていない。
「——ちょっと、あんた」
声をかけると、カイの肩がびくりと跳ねた。
「悪いが、これじゃ夜までに片付かないよ」
「——すまない」
「別に責めちゃいないよ。ただ、何を作ろうとしてるのか、聞いてもいいかい」
その問いに、カイは一瞬固まった。
視線が、明後日の方向を彷徨う。
「——いや、それは」
「言いたくないなら、それでも」
「——違う。そうじゃ、なくて」
何故か、歯切れが悪い。
女将が黙って続きを待っていると、カイは観念したように、小さく息を吐いた。
「——ウジャライを、マンダロアの焼き菓子を、作ろうと思っている」
「ウジャライ?」
「大事な、人に——」
その先が、なかなか出てこない。
「誕生日、なんだ。今日が」
「——へえ」
女将の口元が、緩む。
「あの子の、かい」
「——ああ」
カイは、耳まで赤くなっているのが、ヘルメット越しでも分かるくらいだった。
女将は、しばらくその様子を眺めてから、ふっと笑って腕まくりをした。
「——よし、分かった。手伝ってやるよ」
「——いいのか?」
「男が一人で、慣れない台所で四苦八苦してるのを、黙って見てられるほど薄情じゃないさ」
女将は、そう言うと、カイの脇に立った。
「まずは、その包丁の使い方から。危なっかしくて見てられない」
*
本のページをめくる手が、ふと止まった。
——何の音?
階下から、何やら声が聞こえてくる。食堂は、まだ開いていない時間のはずだった。宿全体が静かなだけに、余計に響く。
「ほら早く切らないと、いつまで経っても終わんないよっ!」
女将の声だ。怒鳴っている、というより、活を入れているような調子だった。
それに、くぐもった声で何かが言い返している。よく聞き取れないが、カイの声だというのは分かる。
——何をしているんだろう。
ニナは、少しの間、階下の気配に耳を澄ませていたが、やがてまた本のページに視線を戻した。
が、やがて——
「あんた、何てもん入れるんだい!?」
「うるさいな!親父は入れてたんだよ!!」
今度こそ、カイの声がはっきりと聞こえた。
——何か、作ってる?
階下が気になって仕方ないが、装飾品店の前の、カイの様子を思い出す。
——ううん、多分、私が見に行ったら駄目だと思う。
大きく息を吐いて、再び読書に戻った。
*
「ほら、そこ、焦がすんじゃないよ! かき混ぜる手、緩めない!」
「——っ、分かってる」
カイが、鍋の中身をかき混ぜる手に、ぐっと力を込める。
女将は、その様子を見ながら、ふと視線を止めた。
鍋の縁に添えられた手。袖口から覗く手首。
——やけに、傷が多いね。
古い傷、新しい傷。皮膚の硬さも、色艶も、まちまちだった。台所仕事で付くような傷とは、明らかに質が違う。
女将は、長く宿を営んできた。行き倒れ、訳ありの旅人、荒事に片足を突っ込んだ客——そういう人間の手を、何度となく見てきた。
だから、分かる。
この手が、どういう生き方をくぐり抜けてきたものか。
——だからって、聞くようなことじゃないさ。
それ以上何も言わず、女将は視線を鍋へと戻した。
「——火、少し弱めな」
何事もなかったかのように、次の指示だけを口にする。
*
ノックの音に、顔を上げる。
扉の向こうに、皿を持ったカイが立っていた。
テーブルに置かれたそれは——少し焦げ目のついた、素朴な焼き菓子だった。
置かれた瞬間、ゴツ、と鈍い音がした。見た目に反して、ずしりと重みのある音だった。
「——ウジャライだ。マンダロアの、焼き菓子で——ともかく」
カイが、静かに椅子へ腰を下ろす。
「——誕生日、おめでとう」
その一言に、ニナは息を止めた。
——今日が、誕生日。
自分でも、忘れかけていた日付だった。
「知って、たんですか」
「——色々あって、な」
歯切れの悪い返事。それ以上、聞く気にはなれなかった。
ニナは、フォークをそっと手に取る。
一口。
——甘い。
思っていたより、ずっと。噛みしめるほどに、木の実の香ばしさと蜂蜜の深みが、じんわりと広がっていく。
「……美味しい、です」
「——そうか」
短い返事の中に、安堵が滲んでいた。
「——親父の方が上手く作れるんだけどな。少し、焦がしたし」
「気にならないです。むしろ——」
言葉を、探す。
——なんだろう、この、胸の奥が。
「——温かい、味が、します」
うまく言えたとは思えなかった。それでも、カイは何も言わず、小さく頷いた。
「——もう一つ」
カイが、懐から何かを取り出す。
包装もされていない、それ。
——さっき、露天で見た。
灰色がかった青い石の、髪飾り。
「使わないなら、捨てたっていい」
差し出されたそれを、ニナはしばらく見つめていた。
——欲しい、と、言えなかったのに。
覚えていてくれた。
心の中に押し込めたはずの気持ちが、静かに溢れてくる。
「……ありがとう、ございます」
声が、震えた。
*
「それにしても」
ニナが、ふと呟いた。
「マンダロリアンって、もっと武骨で……こういうこと、あんまり気にしないイメージでした」
言ってから、しまった、と思う。
——失礼な質問だっただろうか。
だが、その心配は、すぐに吹き飛んだ。
「いや、祝わないな」
「え!?」
カイは、あっさりと言った。
「そもそも、孤児がほとんどだからな。誕生日自体が、分からない者が多い」
「——そう、なんですか」
「俺は親父が、そういうものがあるって——教えてくれたから、知ってるだけだ」
淡々とした説明。ニナは、それを黙って聞いていた。
「——だけど、その」
カイの声が、急に歯切れ悪くなる。
「誕生日っていうのは、本来、祝うもの、なんだろ?」
気まずそうな、それでいて真剣な問いだった。
ニナは、思わずくすっと笑ってしまう。
「——なら、今度は私が、お祝いしたいです」
「——え?」
「カイさんの、好きなもの、教えてください」
「……」
カイが、黙り込む。
——そんなに、難しい質問だっただろうか。
「カイさん——?」
「……」
沈黙が、思いのほか長く続く。
「もしかして、聞いたらマズイことでしたでしょうか?」
少し不安になって、様子を窺う。
「…………ウジャライ」
「え?」
「その——ウジャライが、好きで。それしか、作れないが」
——焦がしたけどな、と付け足す声は、小さかった。
ニナは、それを笑わずに受け止めた。
視線を、目の前の焼き菓子に戻す。
——精一杯、祝おうとしてくれたんだ。
その事実だけで、十分だった。
——誕生日。
聞こうとして、言葉を止める。
それはきっと、いたずらにカイを傷つけるだけだと、分かっていたから。
「——親父が、決めてくれたんだ」
カイが、静かに口を開いた。
「拾われた日を、誕生日代わりにしよう、って」
「——そうだったんですか」
「毎年、その日にウジャライを焼いてくれた」
カイの声に、懐かしさが滲む。
「——だから、祝うことといったら、これくらいしか、思いつかなくて……」
ニナは、その言葉を、ゆっくりと噛みしめた。
「その日って、いつなんですか?」
カイは、しばらく考え込んでから、指を折り数え、答えた。
「——そうなんですね」
ニナは、その日付を、頭の中で繰り返す。
忘れないように。
覚えておかなければ、と思った。
「まだ、少し先ですね」
「ああ」
ニナは、小さく微笑んだ。
——それなら、まだ時間がある。
*
酒場は、いつも通りの喧騒だった。
安酒の匂い。掠れた笑い声。誰かの下手な口笛。
女は、カウンターの隅で杯を傾けていた。
装いは、白と深紅が混ざり合った、飾り気のないアーマー。傍らのカウンターには、無造作にヘルメットが置かれている。
だが、その意匠は、この惑星系で見かけるような
「——もう二杯、同じのを」
カウンターの向こうへ、軽く声をかける。
マスターは、慣れた手つきでボトルを傾け始めた。
その様子を眺めながら、女は、ぽつりと呟く。
「——今日ね、大事な部下を失ってしまって」
声には、確かな悲しみの色があった。
マスターが、気の毒そうに頷く。
女は、手にしていた杯を、一息に空けた。
新しく用意された杯を、一つ、手に取る。
もう一つの杯へ、軽く触れさせた。
乾いた音が、酒場の喧騒に紛れて消える。
——献杯。
女は、残された杯を、そのままカウンターの端に置いた。
「優秀な子だったわ。本当に、残念」
その顔に浮かんだのは、紛れもない悔しさだった。
酒場は、何一つ変わらなかった。誰も、女の献杯に気付かない。いつも通りの、どこにでもある夜の風景。
その風景に、ふと、小さな綻びが生まれた。
入り口に、少女が現れた。
席を探して、辺りをきょろきょろと見回している。
やがて、その視線が——女と、ぶつかった。
少女の目が、ゆっくりと、大きく見開かれていく。
女もまた、少女に気付いていた。
——うん?
静かに、観察する。
深緑がかった旅装。裾や袖口には、葉脈のような刺繍が控えめに施されている。フードには、小さな装飾。歩き慣れた、けれど所帯じみてはいない足取り。
——灰みがかった青い石が、ハーフアップにまとめた髪に、控えめに光っていた。
少女は、しばらくの間、驚いたように女を見つめていた。
そして、すぐに踵を返す。
逃げるように、扉の向こうへ消えていった。
女は、その背中を見送りながら、口の端を、わずかに上げた。
——あら。
いつもと違う、何かが来る予感。
久しく、感じていなかった類のものだった。
*
ニナには、先に食堂へ行ってもらった。
誕生日のご馳走が、焦げたウジャライだけというのも、流石に忍びない。
部屋に一人残ったカイは、皿に残った焼き菓子を、齧る。
——やっぱり、親父のとは違うな。
小さく、ため息をついた。
その時。
扉を、激しく叩く音がした。
「カイさん! カイさん! 開けていいですか!?」
——何事だ。
緊急事態かと、慌ててヘルメットを被り直す。
だが、口の中には、まだウジャライが残っていた。
「——ろにがあった?」
どもりがちの、間の抜けた返事になった。
「マンダロリアンの人が! ヘルメット脱いで! もしかして!」
要領を得ない。何が「もしかして」なのか、さっぱり分からなかった。
訝しみながらも、扉を開ける。
——マンダロリアン?
その単語だけが、妙に引っかかった。
ほんの少し、嫌な予感がした。
扉の向こうには、息を切らしたニナが立っていた。
「カイさん、下に——」
言葉が、上手く繋がらない。
「マンダロリアンの人が、いるんです。ヘルメット、外してて」
「——え?」
「だから、その……ウォッチの方じゃ、ないですよね。もしかして、マンダロアのこと、知ってる人なんじゃないかと」
カイは、一瞬、言葉を失った。
——ウォッチ、じゃない?
この星に、心当たりなど一つもない。
だが、ニナの慌てぶりを見る限り、見間違いというわけでもなさそうだった。
「——どんな、姿だった」
「白と……赤っぽい色の、鎧でした。カウンターに、ヘルメットが置いてあって」
脳裏に、親父から聞いた話がよぎる。
——ウォッチとは、違う考え方をする連中もいる。ナイトアウル、とかだな。
ヘルメットを外している。ということは、少なくとも、ウォッチの人間ではない。
——ナイトアウルか。
可能性としては、あり得ない話ではなかった。
「——案内してくれ」
「はい」
カイは、ブラスターの位置を、指先で軽く確かめてから、部屋を出た。
*
入り口の空気が、変わった。
女は、視線だけをそちらへ向ける。
現れたのは、マンダロリアンの男——その後ろに、先ほどの少女が続いていた。
見覚えのない意匠、使い込まれた装備。光を弾かない漆黒の鎧と、こちらへ向かう足さばきから、只者ではない様子が見て取れる。
男はこちらへ迷いなく真っ直ぐ向かってきた。そして、自分の前で止まる。
出で立ちの割に素直な振る舞い。見た目の印象よりも若いのかもしれない。
「あなた——マンダロリアン、かしら?」
男はしばらく答えない。
向こうもこちらを観察しているのだろう。
連れの少女が、不安そうに二人を交互に見ている。
やがて——
「——ああ」
短い返事。ヘルメット越しの声は、機械的に加工されていたが、それでも若さは隠しきれていなかった。
佇まいを見る限り、腕の方は間違いなさそうだ。構え一つ取らずとも、隙のない立ち方をしている。
容姿、年齢、伝え聞いた情報とは一致している。
——少し、カマをかけても良いかもしれない。
「あら、噂は本当だったのね」
「——噂?」
「新共和国の残党狩りで、随分と派手にやったそうじゃない」
女は、持っていたグラスで男を指す。グラスを持つ指先が、妙に生々しい。
「追い剥ぎ——だったかしら」
男の肩が、目に見えて強張った。
「——それは、誤解だ」
「あら、そうなの?」
女は、くすりと笑う。
からかい甲斐のある反応だった。
「まあ、いいわ。それより——」
女は、話の接ぎ穂を探すように、視線を巡らせる。
男の後ろで、少女は少し身を寄せるようにして、こちらを警戒するように見つめていた。
——ん?
女の視線が、ふと止まる。
男のポールドロンに刻まれた、紋章。
ほんの少しの逡巡。
誤魔化す様に杯を煽る。
「貴方、私に話があるんじゃないの?」
女は傍ら、カウンターの空いた席を促す。
「私はヴェスパー、ヴェスパー・ドレン」
そして、艶かしく片目を瞑る。
「——マンダロリアンよ」
*
「私はヴェスパー、ヴェスパー・ドレン」
——マンダロリアンよ。
目の前の女の、余裕のある仕草。
カイは、少しだけ気圧された。
得体の知れない相手だった。同じ鎧を纏っていても、まとう空気がまるで違う。
ヴェスパーが、カウンターの空いた席を、軽く手のひらで示す。
——座れ、ということらしい。
カイは、ちらりと背後を振り返った。
ニナは、少し離れた場所で、心配そうにこちらを見つめている。
「——先に、部屋に戻っていてくれ」
短く告げると、ニナは戸惑いながらも、小さく頷いて食堂の奥へと下がっていった。
その背中を見届けてから、カイは、示された席に腰を下ろす。
「——何が、望みだ」
「あら、せっかちね」
ヴェスパーは、くすりと笑う。
「まずは一杯、どう?」
「——結構だ」
即答だった。
「——あら、そう」
ヴェスパーの視線が、カイのヘルメットを、上から下へ、ゆっくりと辿る。
外す気配など、微塵もない。
——ふうん。
その一瞥だけで、何かを見定めたような、そんな気配がした。
「——お前は」
カイは、探りを入れるように切り出す。
「ナイトアウルか。それとも——」
「あら」
言い終わる前に、ヴェスパーが遮った。
「随分と、単刀直入なのね。名乗りもせずに」
——名乗りもせずに物を聞くな。
親父の声が頭をよぎった。
「——カイだ」
「カイ」
名前を、味わうように繰り返す。
「——で? 答えを聞きたいのよね。ナイトアウルかどうか」
カイは、黙って頷く。
「確かに、昔そこにいたわ。今は——逸れ者。ただの、マンダロリアン」
グラスを傾けながら、あっさりと答えた。
——同じ、境遇か。
教義から外れた者同士、という共感めいたものが、無意識に警戒を薄れさせる。
「——なら、マンダロアの座標を知らないか」
性急な問いだった。
「ふふ、気が早いこと」
ヴェスパーは、カイのポールドロンへ視線を移す。
「その前に、聞きたいことがあるの。その紋章——氏族のものでしょう」
「——ヴォル氏族だ」
少し口ごもりながら、答えた。
「ヴォル……」
何度も舌の上で転がすように、繰り返す。度数の高い酒のように。
視線が、宙を彷徨った。白いグローブの指先が、流れ落ちる金の髪を巻き取る。
思い出そうとする、その長い、長い——間。
やがて、ヴェスパーの唇が、ゆっくりと動いた。
「——同族、殺し」
言葉が、一音ずつ、区切られるように落ちた。
酒場の喧騒が、遠くなる。
カイの耳には、その一言だけが、やけに鮮明に響いていた。
——何を、言った。
聞き間違いだと、思いたかった。
「——ああ、思い出した」
ヴェスパーの声に、遊びの色が滲む。
「悪い子のところには、断罪者が来るぞ、って」
「——何の、話だ」
声が、自分でも分かるほど、上ずっていた。
「昔読んだ、御伽噺よ」
ヴェスパーは、悪びれる様子もなく、続けた。
「子供の頃、寝物語に聞かされたわ。悪さしてると——
「——
カイは、その言葉を、なぞるように口にした。
——何を、言っている。
理解が、追いつかない。
孤児を探し、届け、また拾う。その繰り返しの中で、確かに誇りを感じてきた。親父が背負ってきた仕事も、自分が継ごうとしている務めも、そういうものだったはずだ。
そんな話は、聞いたことがない。教わったことも、匂わされたことすらない。
「絵本にね、挿絵があったのよ。今のあなたと、よく似た紋章の」
ヴェスパーの視線が、再びポールドロンへ向く。
「氏族の名前までは、覚えていなかったけれど——あら」
目が、細くなる。
「あなたの、その反応。図星、みたいね」
カイは、何も答えられなかった。
——違う。
そう言い返したいのに、言葉が出てこない。
根拠なんて、何もない。ただの御伽噺だ。分かっているはずなのに——なぜか、腹の底が、冷たくなっていく。
親父は、何も言わなかった。
いや——言えなかったのか。それとも、知らなかったのか。
どちらなのかすら、分からない。
「——子供騙しの、御伽噺だろう。そもそも、あんたが本当のことを言ってるのかさえ、俺には——」
喉が乾く。目の前が一瞬歪む。
やっとの思いで、そう絞り出した声は、思っていたより掠れていた。
「さあ、どうかしら」
ヴェスパーは、答えをはぐらかすように、笑みを深めた。
「別に、信じたくないなら、それでもいいのよ」
カイは、返す言葉を持たなかった。
「——ところで」
沈黙を割るように、ヴェスパーが話を継いだ。
「一つ、頼みたいことがあるの」
頭の隅で、思考が、まだ空転していた。
何か答えなければ、と分かっていても、うまく言葉が形にならない。
「仕事の、話よ」
「——今は」
「聞くだけ、聞いてくれない?」
カイが何か言う前に、ヴェスパーは続けた。
「この街を仕切ってる、質の悪い賞金稼ぎたちがいてね。——潰したいの」
——潰したい。
ぎり、と聞こえそうな程の歯軋りが、言葉に上乗せされている。
「それが、俺に、何の関係が——」
「大事な、仲間を失ってしまってね」
その声に、初めて、翳りが差した。
「私の仲間の——仇を、取りたいの」
ヴェスパーの、グラスを持つ手が、微かに震えた。
カイは、わずかに眉を寄せる。
どこか、聞き覚えのある言葉だった。仲間を守る、仲間の仇を討つ——そういう理屈には、慣れているはずだった。
「——あなたたちの教義では、違う考えかしら?」
ヴェスパーが、そっと首を傾げる。
その問いは、まるで、逃げ道を塞ぐようだった。
——仲間の仇。
教義に照らせば、断れる理由がない。
混乱した頭のまま、カイは、それだけを飲み込む。
ヴェスパーが、飲み干したグラスを、カウンターに置いた。
コツン、と。
良く響くその音に、カイは我に返る。
「——ここで、続ける話でもないわね」
ヴェスパーは、椅子から立ち上がりながら言った。
「残りは、私の部屋でしましょうか」