「——ヴェスパー!」
瓦礫に向かって、声を張る。
返事は、ない。
——生きて、いるよな。
嫌な想像が、頭をよぎる。だが、すぐに打ち消した。
蹴り飛ばした直後、ジェットパックの噴出炎が見えた。あの速度なら、巻き込まれてはいないはずだった。
ヘルメットの通信機を作動させる。
「——聞こえるか」
雑音混じりに、応答があった。
『——ええ、聞こえてるわ。埃っぽいこと』
軽い口調。ひとまず、無事らしい。
『——そっちは?』
「——問題ない」
『罠、かしらね。お互い運がなかったみたい』
その言葉に、黙って頷きながら、カイは壁を軽く撫でる。
——脆い。古びてもいる。
「連鎖して崩れたか——早く離れた方がいい」
『そちらもね』
ため息混じりの声が返ってきた。
カイは、瓦礫の壁を一瞥する。
どちらも、進む方向は決まっていた。
「——残りは俺が片付ける。お前は——」
『分かってる。奥の親玉、でしょう?』
カイが言い終わる前に、ヴェスパーが引き取った。
「——ああ」
『それじゃあ、退路にレッドカーペットでも敷いていてもらえる?』
「余裕はあるようだな——合流可能になったらまた連絡する」
通信を、切る。
カイは、崩れた通路を一瞥した。
——さて。
退路の確保も、残りの掃討も、今度は一人でやるしかない。
小さく息を吐いて、瓦礫の奥へと足を向けた。
*
ニナは、本のページを、めくる手が止まらなかった。
待機を命じられてから、もう随分経つ。
キタツグミの座席で膝を抱え、ニナは買ったばかりの古本を次々と開いていた。古書の山でたまたま見つけたこれら。この星の地質学、地理、そして歴史。
カイたちが向かった施設について、何か手がかりがないか——そう思って読み始めたはずが、いつの間にか夢中になっていた。
昔からの、癖だった。
知りたいことがあると、本を集めて調べる。ホスにいた頃、生きるために必要な知識を、そうやって拾い集めてきた。
傍らで、ドクちゃんが電子音を一つ鳴らす。
「——分かってる。もう少しだけ」
生返事を返しながら、ページをめくる手を止めない。
その時。
微かな振動が、船体を伝った。
ニナは、顔を上げる。
「——今の……」
ドクちゃんも、センサーを揺らして反応していた。
外の景色に、変化はない。だが、確かに何かが起きた気配があった。
「——ドクちゃん、通信、繋げる?」
ドクちゃんが、電子音を短く鳴らす。コンソールに、通信のインジケーターが灯った。
「——カイさん、聞こえますか!」
しばらく、雑音だけが返ってくる。
やがて。
『——ああ、聞こえる』
カイの声だった。息が、少し弾んでいる。
「——今、何かありました? 振動が——」
『——ちょっとした、崩落だ。心配ない』
声の向こうから、遠く、金属の軋むような音が続いている。
「——今、どの辺りに?」
『——分からない。粉砕機の残骸が、そこら中にある場所だ。天井が、崩れて——』
カイの声が、途切れ途切れに情報を寄越す。
ニナは、膝の上の本に、視線を落とした。
この星の、地質学の本。地図。かつての施設の見取り図らしき、粗い挿絵。
——粉砕機。天井が崩れる場所。
指で、ページをなぞる。
——この辺り、かもしれない。
地盤の脆さについての記述があった一帯。地図と照らし合わせれば、大体の見当がつく。
「——カイさん、多分、崩落があったのは施設の北側、地下の空洞が多い区画だと思います。本に、地盤が特に脆いって——」
『——ああ、助かる』
声に、少し驚いたような響きが混じった。
もう少し、詳しく伝えようとした、その時。
『——ちっ』
舌打ちが、通信越しに響く。
背後で、複数の足音と、怒声のようなものが聞こえた。
『——悪い、客が来た』
「——え」
『またかける』
通信が、ぶつりと切れる。
ニナは、しばらく、通信機を見つめたまま動けなかった。
「——カイさん?」
呼びかけても、返事はない。
——今の、足音。
嫌な想像だけが、頭の中を巡る。
じっと座っていられなかった。立ち上がり、座り、また立ち上がる。それを、何度も繰り返す。
「——ドクちゃん、どうしよう」
ドクちゃんが、答えるように、電子音を一つ鳴らした。
次の瞬間、操縦席のパネルに、次々と明かりが灯る。
——エンジン、起動?
驚く間もなく、キタツグミの機体が、低い駆動音を立てて震え始めた。
「——ドクちゃん、待って、勝手に——」
抗議しかけて、すぐに気付いた。
ドクちゃんは、待つ気などないらしい。
操縦席の一部、アストロメク用の接続ポートが、しゅるりと動く。すでに、繋がっている。
——そうだ、これなら。
複雑な操作は、まだ分からない。それでも、ドクちゃんが補助してくれれば、最低限の操縦くらいはできる。何度か、練習させてもらったこともあった。
ニナは、慌てて操縦席に滑り込んだ。
「——うぅ、私が頑張らないと……」
通信のコールと共に、キタツグミが浮上する。
地面を離れる感覚に、心臓が跳ねた。
だが、迷っている暇はなかった。
*
瓦礫の壁を回り込むと、崩落に気付いた敵が、こちらへ殺到してきていた。
数えることは、しなかった。
数える意味が、なかった。
最初の一人。喉を撃ち抜く。声も上げず、崩れ落ちる。
二人目。踏み込みざま、心臓の位置を正確に抉る。
三人目、四人目。ほとんど同時だった。関節の隙間を縫って、致命の一撃だけを置いていく。
感情は、動かない。
軽口も、憎まれ口も、出てこない。
ただ、体だけが機械のように正確に、目の前の脅威を排除し続けていた。
銃を構える暇すら与えない。距離を詰め、仕留め、次へ。
誰かが叫ぶ声も、遠くで銃声が響くのも、どこか遠い場所の出来事のように感じられた。
視界の端で捉えた動きに、体が勝手に反応する。考える前に、答えが出ている。
——次。
その繰り返しだけが、意識のすべてだった。
やがて、動くものがなくなる。
周囲に転がる影の数を、カイは数えなかった。
——退路を、探さないと。
それだけを頭の隅に置きながら、崩れた通路の奥へと、足を進めた。
*
崩落の向こう側で、ヴェスパーは独りだった。
瓦礫の隙間から差し込む、頼りない明かり。
——さて。
息を整え、装備を確認する。
目指す先は、決まっていた。この施設の奥、親玉が潜んでいるはずの場所。
ヴェスパーは、瓦礫の隙間を縫うようにして、迷わず奥へと足を向けた。
*
瓦礫を掻き分けながら進むうちに、カイの視界が開けた。
崖の側面——外に繋がる、大きな開口部。
風が、吹き込んでくる。
——出口、か。
だが、安堵は一瞬だった。
開口部の外を覗き込んで、カイは動きを止める。
切り立った崖。ぽっかりと空いた穴の下には、足場らしい足場が一つもない。飛び降りれば、ただでは済まない高さだった。
見上げるとせせり立った岩肌しか見えない。よじ登るにしても、これはだいぶ難儀しそうだ。
——行き止まり、か。
ジェットパックの燃料は、まだ余裕がある。だが、これを使わずに済ませる方法が、思いつかなかった。
温存したかったのに。
小さく舌打ちして、噴射口の残量を確かめ直す。
その時。
空に、影が差した。
「——は?」
思わず、間の抜けた声が出る。
見慣れた船影。キタツグミだった。
なぜ、ここに。
驚きのあまり、次の言葉が出てこない。
ゆっくりと高度を落としてくるその機体。操縦席に、小さな人影が見える。
「——ニナ?」
声が、裏返った。
通信が、繋がる。
『カイさん! ちゃんと機首、あっちに向いてます!? 分かんな、あの、これでいいんですよね!?』
早口で、噛み合わない言葉が飛んでくる。
「——お、落ち着け」
『落ち着いてます! 落ち着いてますけど、これ本当に合ってますか!? 高度、これくらいで——』
コックピット越しに見えるその姿は、明らかに落ち着いていなかった。操縦桿を握る手が小刻みに震え、視線があちこちに泳いでいる。
——おい、それは、本当に大丈夫なのか。
カイは呆れと心配で思わず呆然とする。
だが、次の瞬間。
たまらず、吹き出した。
崩落の中で削ぎ落としたはずの感情が、そこで一気に戻ってくる。
これほど間の抜けた光景を前にして、冷静でいられるはずもなかった。
「——っ、くく……」
『な、なんで笑うんですか!? こっちは必死で——』
「——ごめん、悪かった」
笑いを噛み殺しながら、カイは開口部から身を乗り出す。
「——いい判断だ。よく、来てくれたな」
キタツグミのハッチが、ぎこちなく開いた。
カイは、崩れかけた足場を蹴ってジェットパックを噴かし、一気に距離を詰める。
機内へ転がり込むと、操縦席のニナと、目が合った。
「あああ、あの、無事で、良かっ……」
安堵で、今にも泣き出しそうな顔だった。
「——頑張った、良くやった。助かったよ」
カイは、その頭に軽く手を置いて操縦を替わる。
「ヴェスパーさんは——」
「奥の親玉と、対峙してるはずだ」
窓の外、崩落した施設の一角に目を向ける。
「——迎えに行くぞ」
*
瓦礫の隙間から差し込む、頼りない明かり。
その中を、ヴェスパーは迷わず進む。
やがて、開けた空間に出た。
中央に、一人の女が立っている。がっしりとした体躯、装備は雑多で統一感がない。だが、その佇まいには、この場を支配してきた者特有の重みがあった。
——あなたが、親玉ね。
女の後ろには、怯えたように身を寄せ合う数人の姿があった。恐らく、下働きか、囚われの者たちだろう。
女が、ぎょろりとこちらを睨む。
「——あなたが、暴れてる奴かしらぁ?」
「ええ。悪いけど、ここで終わりよ」
ヴェスパーの声に、迷いはなかった。
「——はっ!」
女は、鼻を鳴らす。
「やっぱり、あの男。もっと早く始末すれば良かったわ」
——あの男。
部下のことだ、とすぐに分かった。
女は、値踏みするような目で、ヴェスパーを頭から爪先まで眺めた。
「情報漏らして、裏切って。挙句、こんな
くつくつと、喉の奥で笑う。
「——ねえ、せめて、こっちの方じゃ楽しませてくれるかしら?」
女は、手にした武器を、軽く肩に担ぎ直す。
「がっかりさせないで欲しいものだわ」
その一言だけで、十分だった。
ヴェスパーは、答えなかった。
構えすら取らず、ただ静かに、間合いを詰める。
女が振り下ろす武器を、横薙ぎに払い除ける。鈍く重い金属音が、広間にこだました。
力任せに見えて、無駄のない動き。
振り払われた武器を再度構え直す、女の表情にはまだ余裕が浮かんでいた。
だが——それもすぐに消える。
最小限の踏み込みからの、容赦ない斬り上げ。
女には防ぐ間すら無かった。
辺り一帯を仕切っていた、賞金稼ぎの親玉の体が、膝から崩れ落ちる。
後ろで震えていた者たちが、息を呑む気配がした。
ヴェスパーは、それきり振り返らなかった。
「——優秀だったあの子の、仲間の仇。取らせてもらったわ」
誰へともなく、静かにそう告げる。
その声には、これまで見せてきたどんな表情よりも、真っ直ぐなものが滲んでいた。
*
親玉が崩れ落ちる音は、思いのほか静かだった。
ヴェスパーは、しばらくその場に佇んでいた。
やがて、さらりとヘルメットを脱ぎ去る。
——喧騒が、消えている。
施設中に響いていた怒声も、悲鳴も、もう聞こえない。代わりに、崩落の余波か、どこか遠くで軋むような音だけが、断続的に届いていた。
——終わった、のね。
肩の力が、するりと抜ける。
震えている者たちへ、ちらりと視線をやった。囚われていたのか、雇われていたのか。どちらでもいい話だった。ヴェスパーは、それ以上気に留めることなく、踵を返す。
「——さて、どうしたものか」
独りごちながら、通信機を操作する。
「あの坊やは、ちゃんと仕事してくれたかしら」
少し、口の端が上がる。
悪くない気分だった。久しぶりに、体を動かした甲斐がある戦いだった。
通信が、繋がる。
「——聞こえる? そろそろ、迎えに来て欲しいのだけれど」
『——今、そっちに向かってる』
カイの声が、返ってくる。
——向かってる?
『——ただ、そっちの通路、瓦礫で完全に塞がってるみたいなんだが』
——あら。
ヴェスパーは、崩れた通路の方を振り返る。確かに、瓦礫が隙間なく積み重なっていた。
「じゃあ、どうするの?」
『——少し、下がってくれ』
言われるまま、ヴェスパーは適当に数歩、下がる。
『——違う、そっちじゃなく』
「——は?」
『もう少し、右だ。いや……手前』
どっちよ。
訝しみながらも、指示通りに位置を変える。
『そこで、止まってくれ』
「——それで、何をする気?」
返事がない。
代わりに、通信越しに、別のやり取りが漏れ聞こえてきた。
『——ニナ、少しの間、操縦を代わってくれるか』
『——え、私、ですか!?』
『——ああ、頼む』
『ちょ、待ってくださ、まだそんな、急に——』
ガタン、と、機内で何かがぶつかるような音。
——何、してるの。
嫌な予感が、じわじわと膨らんでいく。
『あの、これで、合ってますか!? 高さ、これくらいで——』
『——問題ない。そのまま維持してくれ』
カイの声は、平然としていた。
だが、平然としているからこそ、余計に不安を煽った。
——何を、するつもりなの。
考えても、見当がつかない。
この短い付き合いの中で、この男の行動の予測がまるでつかないことだけは、嫌というほど分かっていた。
『それじゃあ——』
唐突にカイからこちらへ声がかけられる。
『防御姿勢でも取ってくれ』
——はい?
『——三、二——』
「ちょっと、待っ——」
言い終わる前に、轟音が響いた。
崩れかけていた瓦礫の壁が、外側から吹き飛ぶ。
衝撃波が、ヴェスパーの髪を大きく巻き上げた。
埃と粉塵が、視界を覆い尽くす。
「——正気!?」
咳き込みながら、瓦礫の向こうを睨む。
開いた穴の先に、キタツグミの機影が見えた。
『——おーい、通れるようになったぞ』
カイの、悪びれない声。
「これが、
ヴェスパーは、埃まみれの髪を乱暴に払いながら、声を張り上げる。
「せめて、先に言いなさいよ! 埋まってたらどうする気だったの!」
『——大丈夫だろ、多分』
「多分って何よ!?」
あんまりな返答に、開いた口が塞がらない。
だが、文句を言いながらも、足は自然と穴の方へ向かっていた。
開いた瓦礫の穴を抜けると、キタツグミのハッチが待っていた。操縦席には、まだ少し青ざめた顔のニナが見える。
「——ヴェスパーさん、大丈夫でしたか!?」
「ええ、平気よ。——この人のせいで、寿命が少し縮んだけれど」
じろりと、カイを睨む。
「——結果的には、開通しただろう」
悪びれない声に、ため息しか出なかった。
髪についた埃を払いながら、ヴェスパーは機内へと乗り込む。
——本当に、退屈しない仕事だったこと。
そう思いながら、崩落で汚れたアーマーの袖を、軽く払った。
*
日が、傾きかけていた。
岩場に、三人分の影が長く伸びている。
遠くには、まだ崩落の粉塵が燻る採掘場が見えた。あちこちから、白い煙のようなものが立ち上っている。
ヴェスパーは、一人、崖の縁に立っていた。
風が、彼女の髪を巻き上げる。
カイとニナは、少し離れた場所で、その背中を見ていた。さらにその奥には、停泊させたキタツグミの機影がある。
ヴェスパーが、腰のナイフを一本、静かに引き抜いた。
躊躇う様子もなく、自分の髪を一房、切り取る。
風に、任せるように。
崖の向こうへ、金色の髪が
「——ありがとう」
その声は、神妙だった。
「おかげで、あの子の仇も、取れたわ」
後ろを向いたまま、そう告げる。
表情は、窺えなかった。
カイは、何も言わずに、その様子を見ていた。
隣で、ニナも同じように、静かにヴェスパーの背中を見つめている。
——仲間を想う気持ちは、あちらも同じか。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
自分でも、少し呆れる。
だが、今のこの光景を見て、そう思わない方が難しかった。
*
ヴェスパーが、さっぱりとした様子で振り返った。
「——さて」
纏う空気が、切り替わる。
「今回の報酬、渡しておくわね」
ガントレットを軽く操作すると、カイの通信機に何かが送られてくる。
カイは、自分のガントレットを操作した。
空中に、淡い光が浮かび上がる。
——これが。
ホログラムとして投影されたのは、一つの惑星だった。
荒涼とした、それでいて、確かな座標が付与された惑星。
「——マンダロア」
思わず、名前が口から零れた。
「我が名と、祖先たちの名にかけて誓って——この情報は、確かなものよ」
ヴェスパーの声に、これまでにない重みがあった。
カイは、ホログラムから目を離せずにいた。
やっと、辿り着いた。手がかりが。
*
少し、間があった。
緊張が緩んだ、その隙を突くように。
ヴェスパーの視線が、カイの胸元へ動いた。
「——ねえ」
「——なんだ」
「その短剣、少し見せてもらえない?」
軽い調子だったが、有無を言わせない響きもあった。
カイは、一瞬迷ってから、頷く。
短剣を抜き、その柄を、ヴェスパーへ差し出した。
ヴェスパーは、それを受け取ると、しばらく黙って眺めていた。
刃を、傾ける。夕陽に、黒い光沢が鈍く反射する。
「——やっぱり、ベスカーで、できてたのね」
感嘆とも、確認ともつかない、そんな呟きだった。
「この溝は——」
「——恐らく、毒を流すものだろう」
言い終わる前に、カイが引き取った。
もう、何度も、自分に言い聞かせてきた言葉だった。
ヴェスパーは、それ以上何も言わず、短剣を返す。
受け取ったカイは、それを、じっと見つめた。
暗殺に使われたであろう、氏族伝来の刃。
ニナも、隣で、同じように黙って短剣を見つめている。
誰も、何も言わなかった。
言葉にすれば、余計に重くなるだけだと、分かっていたから。
「——まあ」
沈黙を破ったのは、ヴェスパーだった。
「御伽噺は、御伽噺よ」
少し、いたずらっぽく、口の端を上げる。
「案外、本当に悪い子を懲らしめて回ってた、だけなのかもしれないわよ」
その言葉には、軽さがあった。
だが、本気でそう思っているようには、聞こえなかった。
カイも、それが慰めにすらならないことを、分かっていた。
それでも、何も言わず、静かに聞き流した。
*
キタツグミのタラップが、上がっていく。
閉まる直前、ヴェスパーが、最後に一言だけ告げた。
「——ヴォル氏族について。こちらでも、調べておいてあげる」
カイは、小さく頷いた。
「——お願いします!」
ニナが、代わりに声を張った。大きく、手を振っている。
ヴェスパーは、それに軽く手を上げて応えると、踵を返した。
*
二人を乗せたキタツグミが、惑星の重力から離れていく。
窓の外、遠ざかっていく街の灯りを、カイはぼんやりと眺めていた。
——毒溝、か。
ヴェスパーの言葉が、まだ頭の隅にこびりついている。
考えても、答えは出ない。今は、それでいい。少しずつ、氏族の輪郭が見えてくればいい。
そう自分に言い聞かせていた、その時。
「あの……」
ニナが、口を開いた。とても言いにくそうに。
思えば、彼女には何も説明していなかった。それでも空気を読んだのか、今まで何も言わないでくれたのだろう。
それでも、まだ、自分でも整理がつけられた訳ではない。
「ニナ、ごめん。もう少し待ってほしい。説明は、今は少し——難しい」
気遣いに対して、こんな回答しか返せない申し訳なさに、胃に鉛が落ちたような気分になる。
「いえ、それより確認したくて」
「それよりって——」
少し剣呑な返答に、ニナは「違うんです!」と全力で否定しながら続ける。
「お腹とか、痛くなってたりしませんか……?ていうか、体調は大丈夫ですか!?」
「…………へ?」
予想外の問いに、間の抜けた声が出た。
ニナは、もじもじと視線を彷徨わせている。
「その、さっきの話。毒の溝、とか……」
カイは、しばらく黙って、ニナの言わんとすることを考える。
——何も思い付かない。
「え……何の話だ?」
「あの、
「あー……」
確か着陸前にニナが、切れ味の良いナイフが無いか、って聞きにきて——
「貸したな、これ」
胸元の短剣に目を落とす。
他に適当なナイフも思い当たらず、とりあえずまあいいか、と渡してしまった記憶がある。
「あの、それで私、パンを、ですね」
「パン?」
「あとハムも」
「ハム??」
「ちゃんと、使う前と使った後は洗ったんですけど」
——待った。
頭の中で、嫌な点と点が繋がる。
いつも新しい星に降りる前は、痛みやすい残り物を処理するつもりでまとめて調理していた。
着陸前に、ニナが食べていたサンドイッチ。その前に自分も食った記憶が……。
「——ストップ」
頭を抱えながら制止する。心なしか胃が痛い。
「あの、サンドイッチ……」
「だから、体調、大丈夫ですか、って」
「ニナは——」
「私は今は——」
カイは、再び自分の胸元——短剣の位置に、視線を落とす。
毒。血抜き溝ではない、という指摘。
今の今まで、ただの便利な小型ナイフとして扱ってきたそれを、改めて見つめ直す。
「あの、大丈夫でしょうか」
ニナの不安そうな声。
「——分からない」
正直に、答えるしかなかった。
「代々受け継がれてきたものだ。今も、機能してるかどうかは——」
「え、ちょっと、待ってください」
ニナの顔が、みるみる青ざめていく。
「じゃあ私、もしかして……!」
「——いや、待て。多分、大丈夫だ」
「多分ってどこからの自信ですか!?」
「——今のところ、ピンピンしてるだろう」
「それは、今のところじゃないですか!」
二人のやり取りに、ドクちゃんが呆れたように電子音を鳴らした。
「だいたいカイさんは、多分とかきっととか、いっつも適当で!」
「仕事はきっちりやってるんだから別にいいだろ!」
「でも無茶苦茶するし報連相もないし!」
「ニナだって無茶する時あるだろ、さっきだって船一人で動かしたし」
「私の船ですからね、これ!報連相もなしに弄られましたけど!」
「それ今更持ち出すのはズルいんじゃないか!?」
果てのない口論を続ける主人たちに呆れたドロイドは、とりあえず
航路を設定し、後は決定を押してもらうだけなのだが——
モニターに映し出された『マンダロア』の行き先表示は、いつまでもいつまでも仮登録のままなのであった。