黒刃と寄る辺なき花   作:アサナシケイ

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第五話 黄昏のスズメバチ 4/4

「——ヴェスパー!」

 瓦礫に向かって、声を張る。

 

 返事は、ない。

 ——生きて、いるよな。

 嫌な想像が、頭をよぎる。だが、すぐに打ち消した。

 

 蹴り飛ばした直後、ジェットパックの噴出炎が見えた。あの速度なら、巻き込まれてはいないはずだった。

 

 ヘルメットの通信機を作動させる。

「——聞こえるか」

 雑音混じりに、応答があった。

『——ええ、聞こえてるわ。埃っぽいこと』

 軽い口調。ひとまず、無事らしい。

『——そっちは?』

「——問題ない」

『罠、かしらね。お互い運がなかったみたい』

 

 その言葉に、黙って頷きながら、カイは壁を軽く撫でる。

 ——脆い。古びてもいる。

「連鎖して崩れたか——早く離れた方がいい」

『そちらもね』

 ため息混じりの声が返ってきた。

 

 カイは、瓦礫の壁を一瞥する。

 どちらも、進む方向は決まっていた。

 

「——残りは俺が片付ける。お前は——」

『分かってる。奥の親玉、でしょう?』

 カイが言い終わる前に、ヴェスパーが引き取った。

「——ああ」

『それじゃあ、退路にレッドカーペットでも敷いていてもらえる?』

「余裕はあるようだな——合流可能になったらまた連絡する」

 通信を、切る。

 

 カイは、崩れた通路を一瞥した。

 

 ——さて。

 

 退路の確保も、残りの掃討も、今度は一人でやるしかない。

 小さく息を吐いて、瓦礫の奥へと足を向けた。

 

       *

 

 ニナは、本のページを、めくる手が止まらなかった。

 

 待機を命じられてから、もう随分経つ。

 

 キタツグミの座席で膝を抱え、ニナは買ったばかりの古本を次々と開いていた。古書の山でたまたま見つけたこれら。この星の地質学、地理、そして歴史。

 

 カイたちが向かった施設について、何か手がかりがないか——そう思って読み始めたはずが、いつの間にか夢中になっていた。

 

 昔からの、癖だった。

 

 知りたいことがあると、本を集めて調べる。ホスにいた頃、生きるために必要な知識を、そうやって拾い集めてきた。

 

 傍らで、ドクちゃんが電子音を一つ鳴らす。

「——分かってる。もう少しだけ」

 生返事を返しながら、ページをめくる手を止めない。

 

 その時。

 

 微かな振動が、船体を伝った。

 

 ニナは、顔を上げる。

「——今の……」

 ドクちゃんも、センサーを揺らして反応していた。

 

 外の景色に、変化はない。だが、確かに何かが起きた気配があった。

 

「——ドクちゃん、通信、繋げる?」

 ドクちゃんが、電子音を短く鳴らす。コンソールに、通信のインジケーターが灯った。

「——カイさん、聞こえますか!」

 しばらく、雑音だけが返ってくる。

 

 やがて。

 

『——ああ、聞こえる』

 カイの声だった。息が、少し弾んでいる。

 

「——今、何かありました? 振動が——」

『——ちょっとした、崩落だ。心配ない』

 声の向こうから、遠く、金属の軋むような音が続いている。

 

「——今、どの辺りに?」

『——分からない。粉砕機の残骸が、そこら中にある場所だ。天井が、崩れて——』

 カイの声が、途切れ途切れに情報を寄越す。

 

 ニナは、膝の上の本に、視線を落とした。

 

 この星の、地質学の本。地図。かつての施設の見取り図らしき、粗い挿絵。

 ——粉砕機。天井が崩れる場所。

 指で、ページをなぞる。

 

 ——この辺り、かもしれない。

 

 地盤の脆さについての記述があった一帯。地図と照らし合わせれば、大体の見当がつく。

 

「——カイさん、多分、崩落があったのは施設の北側、地下の空洞が多い区画だと思います。本に、地盤が特に脆いって——」

『——ああ、助かる』

 声に、少し驚いたような響きが混じった。

 

 もう少し、詳しく伝えようとした、その時。

 

『——ちっ』

 舌打ちが、通信越しに響く。

 

 背後で、複数の足音と、怒声のようなものが聞こえた。

 

『——悪い、客が来た』

「——え」

『またかける』

 通信が、ぶつりと切れる。

 

 ニナは、しばらく、通信機を見つめたまま動けなかった。

 

「——カイさん?」

 呼びかけても、返事はない。

 

 ——今の、足音。

 嫌な想像だけが、頭の中を巡る。

 

 じっと座っていられなかった。立ち上がり、座り、また立ち上がる。それを、何度も繰り返す。

「——ドクちゃん、どうしよう」

 ドクちゃんが、答えるように、電子音を一つ鳴らした。

 

 次の瞬間、操縦席のパネルに、次々と明かりが灯る。

 

 ——エンジン、起動?

 

 驚く間もなく、キタツグミの機体が、低い駆動音を立てて震え始めた。

「——ドクちゃん、待って、勝手に——」

 抗議しかけて、すぐに気付いた。

 

 ドクちゃんは、待つ気などないらしい。

 

 操縦席の一部、アストロメク用の接続ポートが、しゅるりと動く。すでに、繋がっている。

 ——そうだ、これなら。

 複雑な操作は、まだ分からない。それでも、ドクちゃんが補助してくれれば、最低限の操縦くらいはできる。何度か、練習させてもらったこともあった。

 

 ニナは、慌てて操縦席に滑り込んだ。

「——うぅ、私が頑張らないと……」

 

 通信のコールと共に、キタツグミが浮上する。

 地面を離れる感覚に、心臓が跳ねた。

 

 だが、迷っている暇はなかった。

 

       *

 

 瓦礫の壁を回り込むと、崩落に気付いた敵が、こちらへ殺到してきていた。

 

 数えることは、しなかった。

 数える意味が、なかった。

 

 最初の一人。喉を撃ち抜く。声も上げず、崩れ落ちる。

 二人目。踏み込みざま、心臓の位置を正確に抉る。

 三人目、四人目。ほとんど同時だった。関節の隙間を縫って、致命の一撃だけを置いていく。

 

 感情は、動かない。

 軽口も、憎まれ口も、出てこない。

 

 ただ、体だけが機械のように正確に、目の前の脅威を排除し続けていた。

 

 銃を構える暇すら与えない。距離を詰め、仕留め、次へ。

 

 誰かが叫ぶ声も、遠くで銃声が響くのも、どこか遠い場所の出来事のように感じられた。

 

 視界の端で捉えた動きに、体が勝手に反応する。考える前に、答えが出ている。

 ——次。

 その繰り返しだけが、意識のすべてだった。

 

 やがて、動くものがなくなる。

 周囲に転がる影の数を、カイは数えなかった。

 

 ——退路を、探さないと。

 

 それだけを頭の隅に置きながら、崩れた通路の奥へと、足を進めた。

 

       *

 

 崩落の向こう側で、ヴェスパーは独りだった。

 瓦礫の隙間から差し込む、頼りない明かり。

 

 ——さて。

 息を整え、装備を確認する。

 

 目指す先は、決まっていた。この施設の奥、親玉が潜んでいるはずの場所。

 

 ヴェスパーは、瓦礫の隙間を縫うようにして、迷わず奥へと足を向けた。

 

       *

 

 瓦礫を掻き分けながら進むうちに、カイの視界が開けた。

 崖の側面——外に繋がる、大きな開口部。

 風が、吹き込んでくる。

 ——出口、か。

 

 だが、安堵は一瞬だった。

 

 開口部の外を覗き込んで、カイは動きを止める。

 切り立った崖。ぽっかりと空いた穴の下には、足場らしい足場が一つもない。飛び降りれば、ただでは済まない高さだった。

 見上げるとせせり立った岩肌しか見えない。よじ登るにしても、これはだいぶ難儀しそうだ。

 

 ——行き止まり、か。

 ジェットパックの燃料は、まだ余裕がある。だが、これを使わずに済ませる方法が、思いつかなかった。

 

 温存したかったのに。

 小さく舌打ちして、噴射口の残量を確かめ直す。

 

 その時。

 

 空に、影が差した。

 

「——は?」

 思わず、間の抜けた声が出る。

 

 見慣れた船影。キタツグミだった。

 なぜ、ここに。

 驚きのあまり、次の言葉が出てこない。

 

 ゆっくりと高度を落としてくるその機体。操縦席に、小さな人影が見える。

 

「——ニナ?」

 声が、裏返った。

 通信が、繋がる。

 

『カイさん! ちゃんと機首、あっちに向いてます!? 分かんな、あの、これでいいんですよね!?』

 早口で、噛み合わない言葉が飛んでくる。

「——お、落ち着け」

『落ち着いてます! 落ち着いてますけど、これ本当に合ってますか!? 高度、これくらいで——』

 

 コックピット越しに見えるその姿は、明らかに落ち着いていなかった。操縦桿を握る手が小刻みに震え、視線があちこちに泳いでいる。

 

 ——おい、それは、本当に大丈夫なのか。

 

 カイは呆れと心配で思わず呆然とする。

 

 だが、次の瞬間。

 

 たまらず、吹き出した。

 

 崩落の中で削ぎ落としたはずの感情が、そこで一気に戻ってくる。

 これほど間の抜けた光景を前にして、冷静でいられるはずもなかった。

 

「——っ、くく……」

『な、なんで笑うんですか!? こっちは必死で——』

「——ごめん、悪かった」

 笑いを噛み殺しながら、カイは開口部から身を乗り出す。

「——いい判断だ。よく、来てくれたな」

 

 キタツグミのハッチが、ぎこちなく開いた。

 カイは、崩れかけた足場を蹴ってジェットパックを噴かし、一気に距離を詰める。

 

 機内へ転がり込むと、操縦席のニナと、目が合った。

「あああ、あの、無事で、良かっ……」

 安堵で、今にも泣き出しそうな顔だった。

「——頑張った、良くやった。助かったよ」

 カイは、その頭に軽く手を置いて操縦を替わる。

 

「ヴェスパーさんは——」

「奥の親玉と、対峙してるはずだ」

 窓の外、崩落した施設の一角に目を向ける。

 

「——迎えに行くぞ」

 

       *

 

 瓦礫の隙間から差し込む、頼りない明かり。

 その中を、ヴェスパーは迷わず進む。

 

 やがて、開けた空間に出た。

 

 中央に、一人の女が立っている。がっしりとした体躯、装備は雑多で統一感がない。だが、その佇まいには、この場を支配してきた者特有の重みがあった。

 

 ——あなたが、親玉ね。

 

 女の後ろには、怯えたように身を寄せ合う数人の姿があった。恐らく、下働きか、囚われの者たちだろう。

 

 女が、ぎょろりとこちらを睨む。

「——あなたが、暴れてる奴かしらぁ?」

 

「ええ。悪いけど、ここで終わりよ」

 ヴェスパーの声に、迷いはなかった。

 

「——はっ!」

 女は、鼻を鳴らす。

「やっぱり、あの男。もっと早く始末すれば良かったわ」

 

 ——あの男。

 部下のことだ、とすぐに分かった。

 

 女は、値踏みするような目で、ヴェスパーを頭から爪先まで眺めた。

「情報漏らして、裏切って。挙句、こんな女(ブス)を連れてくるなんて」

 くつくつと、喉の奥で笑う。

「——ねえ、せめて、こっちの方じゃ楽しませてくれるかしら?」

 女は、手にした武器を、軽く肩に担ぎ直す。

「がっかりさせないで欲しいものだわ」

 

 その一言だけで、十分だった。

 ヴェスパーは、答えなかった。

 

 構えすら取らず、ただ静かに、間合いを詰める。

 

 女が振り下ろす武器を、横薙ぎに払い除ける。鈍く重い金属音が、広間にこだました。

 力任せに見えて、無駄のない動き。

 

 振り払われた武器を再度構え直す、女の表情にはまだ余裕が浮かんでいた。

 だが——それもすぐに消える。

 

 最小限の踏み込みからの、容赦ない斬り上げ。

 女には防ぐ間すら無かった。

 

 辺り一帯を仕切っていた、賞金稼ぎの親玉の体が、膝から崩れ落ちる。

 

 後ろで震えていた者たちが、息を呑む気配がした。

 

 ヴェスパーは、それきり振り返らなかった。

 

「——優秀だったあの子の、仲間の仇。取らせてもらったわ」

 

 誰へともなく、静かにそう告げる。

 

 その声には、これまで見せてきたどんな表情よりも、真っ直ぐなものが滲んでいた。

 

       *

 

 親玉が崩れ落ちる音は、思いのほか静かだった。

 ヴェスパーは、しばらくその場に佇んでいた。

 

 やがて、さらりとヘルメットを脱ぎ去る。

 

 ——喧騒が、消えている。

 

 施設中に響いていた怒声も、悲鳴も、もう聞こえない。代わりに、崩落の余波か、どこか遠くで軋むような音だけが、断続的に届いていた。

 

 ——終わった、のね。

 

 肩の力が、するりと抜ける。

 

 震えている者たちへ、ちらりと視線をやった。囚われていたのか、雇われていたのか。どちらでもいい話だった。ヴェスパーは、それ以上気に留めることなく、踵を返す。

 

「——さて、どうしたものか」

 独りごちながら、通信機を操作する。

「あの坊やは、ちゃんと仕事してくれたかしら」

 少し、口の端が上がる。

 

 悪くない気分だった。久しぶりに、体を動かした甲斐がある戦いだった。

 

 通信が、繋がる。

「——聞こえる? そろそろ、迎えに来て欲しいのだけれど」

 

『——今、そっちに向かってる』

 カイの声が、返ってくる。

 ——向かってる?

 

『——ただ、そっちの通路、瓦礫で完全に塞がってるみたいなんだが』

 

 ——あら。

 

 ヴェスパーは、崩れた通路の方を振り返る。確かに、瓦礫が隙間なく積み重なっていた。

「じゃあ、どうするの?」

『——少し、下がってくれ』

 言われるまま、ヴェスパーは適当に数歩、下がる。

 

『——違う、そっちじゃなく』

「——は?」

『もう少し、右だ。いや……手前』

 

 どっちよ。

 

 訝しみながらも、指示通りに位置を変える。

『そこで、止まってくれ』

「——それで、何をする気?」

 

 返事がない。

 

 代わりに、通信越しに、別のやり取りが漏れ聞こえてきた。

 

『——ニナ、少しの間、操縦を代わってくれるか』

『——え、私、ですか!?』

『——ああ、頼む』

『ちょ、待ってくださ、まだそんな、急に——』

 ガタン、と、機内で何かがぶつかるような音。

 

 ——何、してるの。

 嫌な予感が、じわじわと膨らんでいく。

 

『あの、これで、合ってますか!? 高さ、これくらいで——』

『——問題ない。そのまま維持してくれ』

 カイの声は、平然としていた。

 だが、平然としているからこそ、余計に不安を煽った。

 

 ——何を、するつもりなの。

 

 考えても、見当がつかない。

 

 この短い付き合いの中で、この男の行動の予測がまるでつかないことだけは、嫌というほど分かっていた。

『それじゃあ——』

 唐突にカイからこちらへ声がかけられる。

『防御姿勢でも取ってくれ』

 ——はい?

 

『——三、二——』

「ちょっと、待っ——」

 

 言い終わる前に、轟音が響いた。

 

 崩れかけていた瓦礫の壁が、外側から吹き飛ぶ。

 

 衝撃波が、ヴェスパーの髪を大きく巻き上げた。

 

 埃と粉塵が、視界を覆い尽くす。

 

「——正気!?」

 咳き込みながら、瓦礫の向こうを睨む。

 

 開いた穴の先に、キタツグミの機影が見えた。

 

『——おーい、通れるようになったぞ』

 カイの、悪びれない声。

 

「これが、あなたたち(ウォッチ)のやり方だっていうの!?」

 ヴェスパーは、埃まみれの髪を乱暴に払いながら、声を張り上げる。

「せめて、先に言いなさいよ! 埋まってたらどうする気だったの!」

『——大丈夫だろ、多分』

「多分って何よ!?」

 あんまりな返答に、開いた口が塞がらない。

 

 だが、文句を言いながらも、足は自然と穴の方へ向かっていた。

 

 開いた瓦礫の穴を抜けると、キタツグミのハッチが待っていた。操縦席には、まだ少し青ざめた顔のニナが見える。

「——ヴェスパーさん、大丈夫でしたか!?」

「ええ、平気よ。——この人のせいで、寿命が少し縮んだけれど」

 じろりと、カイを睨む。

 

「——結果的には、開通しただろう」

 悪びれない声に、ため息しか出なかった。

 

 髪についた埃を払いながら、ヴェスパーは機内へと乗り込む。

 

 ——本当に、退屈しない仕事だったこと。

 

 そう思いながら、崩落で汚れたアーマーの袖を、軽く払った。

 

       *

 

 日が、傾きかけていた。

 

 岩場に、三人分の影が長く伸びている。

 

 遠くには、まだ崩落の粉塵が燻る採掘場が見えた。あちこちから、白い煙のようなものが立ち上っている。

 

 ヴェスパーは、一人、崖の縁に立っていた。

 

 風が、彼女の髪を巻き上げる。

 

 カイとニナは、少し離れた場所で、その背中を見ていた。さらにその奥には、停泊させたキタツグミの機影がある。

 

 ヴェスパーが、腰のナイフを一本、静かに引き抜いた。

 躊躇う様子もなく、自分の髪を一房、切り取る。

 

 風に、任せるように。

 

 崖の向こうへ、金色の髪が黄昏(ヴェスパー)に溶けていく。

 

「——ありがとう」

 その声は、神妙だった。

「おかげで、あの子の仇も、取れたわ」

 後ろを向いたまま、そう告げる。

 

 表情は、窺えなかった。

 

 カイは、何も言わずに、その様子を見ていた。

 隣で、ニナも同じように、静かにヴェスパーの背中を見つめている。

 

 ——仲間を想う気持ちは、あちらも同じか。

 

 ふと、そんな考えが頭をよぎった。

 自分でも、少し呆れる。

 

 だが、今のこの光景を見て、そう思わない方が難しかった。

 

       *

 

 ヴェスパーが、さっぱりとした様子で振り返った。

「——さて」

 纏う空気が、切り替わる。

「今回の報酬、渡しておくわね」

 

 ガントレットを軽く操作すると、カイの通信機に何かが送られてくる。

 カイは、自分のガントレットを操作した。

 空中に、淡い光が浮かび上がる。

 

 ——これが。

 

 ホログラムとして投影されたのは、一つの惑星だった。

 荒涼とした、それでいて、確かな座標が付与された惑星。

 

「——マンダロア」

 思わず、名前が口から零れた。

「我が名と、祖先たちの名にかけて誓って——この情報は、確かなものよ」

 ヴェスパーの声に、これまでにない重みがあった。

 

 カイは、ホログラムから目を離せずにいた。

 

 やっと、辿り着いた。手がかりが。

 

       *

 

 少し、間があった。

 

 緊張が緩んだ、その隙を突くように。

 ヴェスパーの視線が、カイの胸元へ動いた。

 

「——ねえ」

「——なんだ」

「その短剣、少し見せてもらえない?」

 軽い調子だったが、有無を言わせない響きもあった。

 

 カイは、一瞬迷ってから、頷く。

 

 短剣を抜き、その柄を、ヴェスパーへ差し出した。

 ヴェスパーは、それを受け取ると、しばらく黙って眺めていた。

 

 刃を、傾ける。夕陽に、黒い光沢が鈍く反射する。

「——やっぱり、ベスカーで、できてたのね」

 感嘆とも、確認ともつかない、そんな呟きだった。

「この溝は——」

 

「——恐らく、毒を流すものだろう」

 言い終わる前に、カイが引き取った。

 

 もう、何度も、自分に言い聞かせてきた言葉だった。

 

 ヴェスパーは、それ以上何も言わず、短剣を返す。

 受け取ったカイは、それを、じっと見つめた。

 

 暗殺に使われたであろう、氏族伝来の刃。

 

 ニナも、隣で、同じように黙って短剣を見つめている。

 

 誰も、何も言わなかった。

 

 言葉にすれば、余計に重くなるだけだと、分かっていたから。

 

「——まあ」

 沈黙を破ったのは、ヴェスパーだった。

「御伽噺は、御伽噺よ」

 少し、いたずらっぽく、口の端を上げる。

「案外、本当に悪い子を懲らしめて回ってた、だけなのかもしれないわよ」

 その言葉には、軽さがあった。

 

 だが、本気でそう思っているようには、聞こえなかった。

 カイも、それが慰めにすらならないことを、分かっていた。

 

 それでも、何も言わず、静かに聞き流した。

 

       *

 

 キタツグミのタラップが、上がっていく。

 

 閉まる直前、ヴェスパーが、最後に一言だけ告げた。

「——ヴォル氏族について。こちらでも、調べておいてあげる」

 カイは、小さく頷いた。

「——お願いします!」

 ニナが、代わりに声を張った。大きく、手を振っている。

 

 ヴェスパーは、それに軽く手を上げて応えると、踵を返した。

 

       *

 

 二人を乗せたキタツグミが、惑星の重力から離れていく。

 窓の外、遠ざかっていく街の灯りを、カイはぼんやりと眺めていた。

 

 ——毒溝、か。

 ヴェスパーの言葉が、まだ頭の隅にこびりついている。

 

 考えても、答えは出ない。今は、それでいい。少しずつ、氏族の輪郭が見えてくればいい。

 

 そう自分に言い聞かせていた、その時。

 

「あの……」

 ニナが、口を開いた。とても言いにくそうに。

 

 思えば、彼女には何も説明していなかった。それでも空気を読んだのか、今まで何も言わないでくれたのだろう。

 それでも、まだ、自分でも整理がつけられた訳ではない。

 

「ニナ、ごめん。もう少し待ってほしい。説明は、今は少し——難しい」

 気遣いに対して、こんな回答しか返せない申し訳なさに、胃に鉛が落ちたような気分になる。

 

「いえ、それより確認したくて」

「それよりって——」

 少し剣呑な返答に、ニナは「違うんです!」と全力で否定しながら続ける。

 

「お腹とか、痛くなってたりしませんか……?ていうか、体調は大丈夫ですか!?」

「…………へ?」

 予想外の問いに、間の抜けた声が出た。

 ニナは、もじもじと視線を彷徨わせている。

「その、さっきの話。毒の溝、とか……」

 カイは、しばらく黙って、ニナの言わんとすることを考える。

 

 ——何も思い付かない。

「え……何の話だ?」

「あの、星(ここ)に来る前に、ナイフ、借りたじゃないですか」

「あー……」

 

 確か着陸前にニナが、切れ味の良いナイフが無いか、って聞きにきて——

「貸したな、これ」

 胸元の短剣に目を落とす。

 他に適当なナイフも思い当たらず、とりあえずまあいいか、と渡してしまった記憶がある。

 

「あの、それで私、パンを、ですね」

「パン?」

「あとハムも」

「ハム??」

「ちゃんと、使う前と使った後は洗ったんですけど」

 

 ——待った。

 頭の中で、嫌な点と点が繋がる。

 

 いつも新しい星に降りる前は、痛みやすい残り物を処理するつもりでまとめて調理していた。

 着陸前に、ニナが食べていたサンドイッチ。その前に自分も食った記憶が……。

 

「——ストップ」

 頭を抱えながら制止する。心なしか胃が痛い。

「あの、サンドイッチ……」

「だから、体調、大丈夫ですか、って」

「ニナは——」

「私は今は——」

 

 カイは、再び自分の胸元——短剣の位置に、視線を落とす。

 

 毒。血抜き溝ではない、という指摘。

 

 今の今まで、ただの便利な小型ナイフとして扱ってきたそれを、改めて見つめ直す。

 

「あの、大丈夫でしょうか」

 ニナの不安そうな声。

「——分からない」

 正直に、答えるしかなかった。

 

「代々受け継がれてきたものだ。今も、機能してるかどうかは——」

「え、ちょっと、待ってください」

 ニナの顔が、みるみる青ざめていく。

「じゃあ私、もしかして……!」

「——いや、待て。多分、大丈夫だ」

「多分ってどこからの自信ですか!?」

「——今のところ、ピンピンしてるだろう」

「それは、今のところじゃないですか!」

 二人のやり取りに、ドクちゃんが呆れたように電子音を鳴らした。

 

「だいたいカイさんは、多分とかきっととか、いっつも適当で!」

「仕事はきっちりやってるんだから別にいいだろ!」

「でも無茶苦茶するし報連相もないし!」

「ニナだって無茶する時あるだろ、さっきだって船一人で動かしたし」

「私の船ですからね、これ!報連相もなしに弄られましたけど!」

「それ今更持ち出すのはズルいんじゃないか!?」

 

 果てのない口論を続ける主人たちに呆れたドロイドは、とりあえず生命活動(バイタル)には二名とも異常がないことを確認してから、コンソールに勝手に接続する。

 航路を設定し、後は決定を押してもらうだけなのだが——

 

 モニターに映し出された『マンダロア』の行き先表示は、いつまでもいつまでも仮登録のままなのであった。

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