カイが操縦席に腰掛ける前、ニナはトリンとの技術談義に花を咲かせていた。
「あの、ここなんですけど。マニュアルだと配管を迂回させろってあるのに、実際にやってみたら余計に流量が落ちて——」
「ああ、それは書き足りてなかったな。迂回させる前に、この弁、一回抜いとかねえと詰まるんだよ」
そんな調子で、質問と答えが何度も往復する。
『よく
そう褒められる度、ニナは頬を染めて嬉しそうに笑う。
二人とも談議に集中していたため——
「あの——」
遠慮がちに傍らの人物に声をかけられて、ニナの肩は大きく跳ねた。
「お取り込み中のところ、大変失礼いたしました」
その人物は、二人の視線がこちらに向いたことを確認すると、深々と頭を下げる。
木の葉を
「わたくし、ティア=ソラ・サロウの使いで参りました。ニナ・マワリ様でいらっしゃいますでしょうか?」
「は、はい」
丁寧な名指しに背筋が伸びる。
「カイ・ヴォル様にも御用がございまして、どちらにおられますでしょうか?」
「え、カイさん……あれ?」
振り返ると、いつの間にかカイはいない。
——そういえば、船に戻る、とか言っていたような。
「今、呼びますね——カイさーん!」
呼ばれて少ししてから、カイはタラップに姿を表した。
再び深く頭を下げる使者の隣で、ニナはふと気付く。
——何だろう。何か。
ニナは胸元をそっと触わる。そこにはカイから貰ったペンダントがあった。
「あの——」
口を開きかけて、閉じる。
頭を持ち上げた使者は、先程ニナに名乗った件をカイにも繰り返すと物静かな口調で続けた。
「奥様よりお言葉を預かって参りました。『こちらから伺わない不作法を、どうかお許しください』とのことでございます」
カイは短く頭を下げるだけで、何も言わなかった。
その静かな仕草に、使者は少し目を細める。
「つきましては、お二人にお屋敷までお越しいただきたく——大変恐縮ではございますが」
ニナは、傍らのカイをちらりと見上げる。
やはり、いつもと少し違う。だが、こんな場で問い詰められるはずもなく、黙って頷くほかない。
「今は——」
カイの目線が、船へ、次いでトリンに泳ぐのが分かった。
だが、タラップの下から野太い声が飛んでくる。
「おう、行ってこいよ。船はこっちで進めとくから」
トリンが工具を片手に、ひらひらと手を振っていた。
「ありがとうございます、トリンさん!」
「嬢ちゃんの船だ。しっかり手ェ入れといてやるからよ。——それより」
油で汚れた手で顎をしゃくり、使者の方を見やる。
「いつの間にあの方とコネでも作ったんだ。失礼のねえようにすんだぞ、坊主」
「俺か? 分かってる」
使者は軽く一礼するのみで、それ以上取り合わなかった。手慣れた様子だった。
◆
館へ向かう途中、ニナが唐突に声を上げた。
とはいえ、この子がそういった反応を示すのは今に始まった事ではない。
「カイさん! カイさん! あそこ、すっごい大きい樹があります!!」
袖を引きながら彼方を指差す姿は、幼い子供とそう変わらない。カイは苦笑いしながら返す。
「ここに来るのは初めてじゃないだろ」
「でも、前は気付かなくって——」
そこまで言ってお互いに口をつぐむ。
——そう言えば、あの時はそれどころじゃなかった。
占い師の言葉に激昂して、脇目も振らずに退出した。息を切らして追いかけてきたニナも、周囲を見る余裕なんてなかったはずだ。
ニナは視線を落としている。
足元を軽く叩いて、カイはわざとらしく切り出した。
「こんな場所でも根を張れるものなんだな」
最初、きょとんとこちらを見上げていたニナも、ぱっと顔を輝かせる。
「——ですよね! 雲の上なのに、あんなに巨大な樹木があるなんて」
数瞬、二人で大樹を見上げる。本当に、心から大きいと思った。樹齢がどれ程のものか見当もつかない。
軽く息を吐くと、カイはニナの背を叩いた。
「行こう。待たせてる」
◇
謁見の間に通された瞬間に、また唐突な声が二人を出迎えた。今度はニナではない。
「あらあらあらあらまあまあまあまあ!」
両手を広げて椅子から降りた人物。
占い師、ティア=ソラ・サロウ。このサロウ・レイヤーの実質的支配者だ。
だがかつて見せた神秘的な姿とは裏腹に、気さくに、快活に、纏った飾りを騒がしく鳴らしながら駆け寄ってくる。
「いらっしゃい! 会いたかったわ!」
カイの両手を取り、ブンブンと上下に振ったと思いきや、今度はニナを力一杯抱きしめた。
「わ、わ——」
ニナは助けを求めるようにカイへ振り返るが、こちらとしてもその豹変ぶりに対応するので精一杯だ。
見れば使用人の態度がまるで変わらない辺り、こちらが素なのかもしれない。
ようやくニナを解放すると、占い師はカイの方へ視線を移す。
纏う飾りが、まだ小さく音を立てていた。
「あ、そうだ。この前は、私も悪かったわ。あんな踏み込み方したら、そりゃ怒るわよね」
あっさりと、まるで大したことでもないかのように。
——先を越された。
「……いや。俺の方こそ、悪かった。氏族のことで、あんな態度を取るべきじゃなかった」
カイは短く頭を下げる。硬い声だった。
「あらあら、律儀ねえ」
占い師はくすくすと笑って、それ以上は追及しなかった。
「さあさあ、座ってちょうだいな。お茶にしましょう! お茶菓子は——あるわね。あらやだ」
座卓とソファへ手招きする手が口元で止まる。占い師の視線はカイの方へ留まったまま。
「いや、俺は——」
「そうよね、無理よね。残念だけど、お持たせでいいかしら」
ぱしんぱしん、と遠慮なく背甲を叩かれながら座るように促される。釣られるようにソファへ進むニナは、まだ目が回っているらしい。
——が。
占い師が、長い裾のスカートを、両手でつまみながら腰掛ける。
布のはためきすら緩やかで、ふわりと漂う香りが、辺りを塗り替えた。
——空気を、支配している。
腰を下ろし終えた占い師が、静かに微笑むと同時に、香炉の煙が靡くのを止めた。
「さて——」
注がれたカップをゆっくりと手に取りながら、彼女は切り出す。
「——氏族について、何処まで辿れたか、聞いてもいいかしら?」
質問のはずだ。はずなのに、有無を言わさない響きがあった。
一瞬、喉に詰まった言葉を、息を吐いて誤魔化すと、カイはぽつりぽつりと答えた。
「"同族殺しのヴォル氏族"——って呼び名だけは。それも、随分昔の、誇張された言い伝えだと聞いてる。詳しいことは、何も」
「そう、あなたはそれについて、どう考えているのかしら」
「俺は——」
カイは自分の手をじっと見つめる。
「いや、俺の氏族は、きっとその言い伝えに添った生き方をしてきたんだと思う。三代前からウォッチに移ったとしても、今の任務が孤児を届けることだとしても——」
拳を強く握る。痛みが、現実だと実感させるために。
「伝えられた
いつの間にか、人払いがされていた。
部屋にいるのは、占い師と、カイと、手にしたカップに口をつけられないままのニナ。
琥珀色の茶は、湯気を立てるのをやめていた。
「そう、そこまで——」
占い師は軽く瞬きをして、紅茶を口にする。
「よく、辿り着いたわね ——って、ああもう、そんなことより!」
カップを置く手つきが、急に忙しなくなる。
「ねえニナちゃん、その髪、綺麗な色してるのに、いつも簡単に結んでるだけでしょう? 勿体ないわ」
「え、あの……?」
「今日は特別な日にするの。私に、ちょっとだけ貸してくれない?」
占い師が軽く手を叩くと、控えていた者が静かに現れる。
突然の話に戸惑うニナが、助けを求めるようにカイを見る。だが、カイの方も見当がつかず、そのまま視線を占い師へ移すことしかできない。
「ニナに何を——」
「可愛くするだけ! あなた、ニナちゃんにずっと着たきり雀で過ごさせてたでしょう?」
「……はあ」
「ニナちゃんもごめんなさいね! こっちもこっちで、話し合うことがあるから、彼氏さん借りるわね!」
「彼——っ! 違! えっと、カイさぁん」
ニナは赤面しながら否定するが、カイには見送ることしかできなかった。
半信半疑のそのまま、ニナは連れられて部屋を出て行く。
扉が閉まった途端、占い師はすっと居住まいを正した。
「——さて」
先程までの騒がしさが、そのまま音を立てて止んだかのようだった。
「話の続きをしましょうか」
居住まいを正した割に、口調はそう変わらない。
「氏族の話、大した中身はないのよ。本当に」
「……そうか」
「あなたたちがウォッチに移ったのは三代前——そこまでは、あなたも知っているのでしょう?」
「ああ」
「でも、それより前に一度、その仕事から離れていた時期があったこと——それは知らなかったんじゃない?」
カイは、言葉に詰まる。
考えたこともなかった。
「ウォッチに拾われる前から、あなたたちはもう、その道を歩いてなかったのよ。誰の下にも入らず、しばらく一人で在り続けた——そういう時代があったの」
「……なぜ、そんな時期があったんだ」
「そこまでは、私にも分からない。古い話ほど、伝わるうちに削れていくものでしょう? もうほとんど——闇に葬られたまま。誰も覚えていないの」
カイは黙って耳を傾ける。
拍子抜けするほど、何もなかった。
「そう。それだけか」
「それだけよ。ごめんなさいね、期待させたなら」
悪びれる様子もなく、占い師は肩をすくめる。
「——ああでも」
思い出したように、ふと目を細めた。
「気をつけておきなさいな。力なんて、持っているだけで狙われるものよ。あなたの氏族に、大した歴史があるのなら——欲しがる人も、いつか出てくるでしょうから」
どこか、遠くを見るような口調だった。
カイは、少し考える。
「……あんたの時と、同じか」
「あら」
占い師が、初めて意外そうな顔をした。
「子供の誘拐の一件、忘れてないぞ。散々世話になったからな」
「——律儀ねえ、本当に」
占い師はくすくすと笑うが、それ以上は何も言わなかった。