酒場を出てすぐ、カイはニナの方を振り返った。
「悪い、店を間違えた」
「大丈夫か?」
ニナは渡した菓子袋から一つ摘み出すと、口に含んで、ぽり、と小さく噛んだ。
「甘いです」
……そうか、聞いたのはそこじゃないんだが。
思わず失笑が漏れる。緊張していた肩の力が、少しだけ抜けた気がした。
「あの……」
ニナがおずおずと切り出した。
「すっっっごい、見てくる人、いませんでした?」
「いた」
俺は素直に頷いた。あれだけ露骨だと、気づかない方が難しい。
「すっっっごい、見られてた」
あの視線を思い出すと、地味に堪える。カイは無意識にヘルメットの後頭部を撫でていた。まだそこに視線がこびりついているような、妙な気持ち悪さが残っている。
「最初はベスカー狙いかと思ったんだが」
高価なベスカーを見れば、身の程知らずが目の色を変えて狙ってくることは珍しくない。実際そういう手合いに絡まれたんだろう、さっきのは。
——親父と二人でいる時は、こんな風にじろじろ見られることすらほとんどなかった。今思えば、あれは親父の存在そのものが抑止力になっていたんだろう。一人になった今、もっと気をつけるべきなのかもしれない。
考えても仕方のないことだ。カイは小さく息を吐いた。
「敵意はないみたいだから、放っておいたけど」
少し身震いする。
「はあ、気持ち悪かった……」
素直な気持ちが漏れた。
*
——半日ほど前。
ハイパースペースから飛び出したHWK-290が、実空間へと戻る。眩い光の帯が収束し、代わりに眼下へ広がったのは、白い縞模様をたたえたガス状惑星の姿だった。
カイはコンソールに視線を走らせる。速度、燃料残量、外部センサー──どの数値にも異常はない。予定通りの座標、予定通りの惑星。ひとまず、それだけで肩の力が少し抜けた。
操縦席を立ち、居住スペース代わりに使っている格納庫へ向かう。
ニナを起こしてやらないと。
格納庫の扉をくぐった瞬間、カイは足を止めた。
ニナは眠っていなかった。コンテナの陰に腰を下ろし、何かを膝の上で丁寧に磨いている。布切れを使って、表面の汚れを几帳面に拭い取るような手つきだった。
何をしているんだ、と近づきかけたカイの視界に、その形がはっきりと映った瞬間——全身の血が音を立てて引いた。
グラヴ・チャージ。
小型の粘着式爆弾だ。うっかり握りが緩めば、あるいは表面の起爆スイッチに指がかかれば、それだけで格納庫ごと吹き飛びかねない代物。
叫びそうになる喉を、カイは力任せに押さえ込んだ。ここで大声を出せば、驚いたニナの手が滑る。それこそが最悪の結果を招く。
「ニナ」
努めて静かに、それでいて有無を言わせない声で呼びかける。
「それ、そっと──ゆっくりでいい。床に置いてくれ」
ニナは不思議そうに小首を傾げながらも、言われた通りに従った。両手で包み込むように持ったまま、ゆっくりと床へ下ろしていく。
金属が硬い床に触れる、小さな音。
カイはその場に凍りついたまま、しばらく起爆の兆候がないことを確認し続けた。表示ランプは灯っていない。振動もない。異常なし。
詰めていた息を、一気に吐き出す。安堵で膝から力が抜けそうになるのを、なんとか堪えた。
「……ニナ。それは、爆弾だ」
ニナの肩が大きく跳ねた。
「え……ば、爆弾……!?」
両手を体から離すようにして、後ずさろうとする。カイは慌てて片手を上げ、それを制した。
「もう置いた後だ、大丈夫。動くな、そのまま」
落ち着かせるように言い聞かせてから、カイは改めてニナを見た。疑問の方が先に立つ。
「——何でこんなことしてたんだ」
ニナは俯いた。膝の上で指をもじもじと絡ませながら、しばらく言葉を探すように黙り込む。
「その……何か、役に立ちたくて」
小さな声だった。積み荷の点検も、食料の管理も、自分にできることは限られている。だから、コンテナの隅に転がっていたそれを見つけて、せめて綺麗にしておけば——そんな理屈だったのだろう。
カイは大きく息をついた。安堵と、脱力と、少しの呆れが入り混じったため息だった。
「気持ちはわかる。わかるが」
できるだけ声を荒げないよう、言葉を選ぶ。
「ああいうのは、まず俺に相談してからにしてくれ。何か手伝いたいことがあるなら、それでいい。でも、勝手に触るのは駄目だ」
ニナはきょとんとした顔で見上げてくる。
「……相談、ですか?」
その響きに、あまりピンときていないのが丸わかりの表情だった。誰かに何かを尋ねる、頼る——そういう習慣自体が、彼女の中には根付いていないのかもしれない。
カイはそのことに、一瞬だけ胸の奥が詰まるのを感じたが、顔には出さなかった。
「ああ、相談だ」
繰り返すと、ニナは少し考え込んでから、こくりと頷いた。
「わかりました。次からは、そうします」
素直な返事だった。カイはそれで十分だと思うことにした。
カイはグラヴ・チャージを手に取ると、腰のポーチに仕舞おうとして、ふと手を止めた。
——いや、まだ確認が終わってない状態だ。頼りにするには、少し、怖い。
それに、これは生体認証を通さなければ起動しない代物でもある。コンテナに転がしておいたところで、誰かが不用意に踏もうが振り回そうが、暴発する心配はない。
結局、元通りコンテナの中に戻す。ぞんざいな扱いに見えなくもないが、今はそれでいい。生体認証を通さなければ起動しない代物でもある。半端なものに頼るよりは、しかるべき時にきちんと向き合ってからだ。
*
二人はコックピットへ戻った。
「シートに座って、ベルトを」
カイが促すと、ニナは素直に腰を下ろし、ベルトを引き寄せる。窓の外に広がる惑星を見下ろして、その目が輝いた。
「あそこはどんな星なんですか?」
聞かれて、カイは一瞬答えに詰まった。
——そういえば、行き先のことをニナに何も話していなかった。さっき自分で「相談してくれ」と説教しておいて、これでは示しがつかない。
小さく咳払いをしてから、カイは説明を始める。
ベスピンは陸地を持たないガス巨星だが、大気の上層に「ライフ・ゾーン」と呼ばれる、人間が生身で過ごせる層がある。気圧も気温も重力も申し分なく、生命維持装置なしで暮らせるほどだ。
かつてこの惑星は、貴重なティバナ・ガスの採掘地として栄えた。ガス層を漂う巨大生物が排出するガスを集め、精製する採鉱コロニーがいくつも浮かんでいる。
中でもクラウド・シティは、贅を尽くした観光地としても名を馳せていた。住民の多くは人間とアグノート種族で、その数は数百万に及ぶという。
「浮いている街、ということですか?」
「ああ。雲の上に、丸ごと街が浮かんでる」
ニナは食い入るように窓へ顔を近づけた。閉じた世界で育った彼女にとって、それはにわかには信じがたい光景なのだろう。
「まずは、知り合いのメカニックに船を見せる。名前は、トリン、トリン・ヘイズ」
そう言ったきり、カイの声のトーンがどこか重くなった。
「……気乗りしないんですか?」
「いや、腕は良いんだ。腕は」
操縦桿を握る手に、無駄な力がこもる。
「そんじょそこらのメカニックに見せるぐらいなら、あいつに任せるのが一番なんだ……のは、分かってるんだが……」
言葉の途中で、カイはヘルメットの額を、こつん、と軽く操縦桿にぶつけた。
「人間性が……その……非常に」
「?」
「良くない」
短く言い切ると、カイは深いため息をついた。
「メカニックの腕前と、人間性、秤にかけたら、余裕で人間性の悪さが勝つ。あいつに任せるぐらいなら、ジャワ族に任せた方がマシまである」
ニナが小首を傾げているのも構わず、カイは続ける。半ば独り言のような調子だった。
「親父の尊敬できるところの一つが、あいつを一度も殴らなかったことだな。俺は……一回殴ってから、会わせてもらわずに済んでる」
「殴ったんですか⁉︎」
「……あ〜〜〜、会いたくねえええ」
質問には答えず、カイはヘルメットの中で唸るような声を漏らして、操縦桿に額を押し付けたまま動かなくなった。
*
大気圏へ突入すると、窓の外は瞬く間に色を変えた。
橙色と薄紫が入り混じる雲海が、どこまでも広がっている。時折その隙間から、巨大な生物の群れがゆっくりと漂っているのが見えた。
まるで空そのものが呼吸をしているような光景に、ニナは言葉を失って窓に張り付いている。
浮遊するプラットフォームや採掘施設が、雲の切れ間に姿を現し始めた頃だった。
コンソールの警告灯が、けたたましく点滅した。
「おいおいおい!?」
推力の出力が唐突に落ち込む。船体がガクン、と大きく傾いだ。
「掴まってろ!」
叫びながら、カイは操縦桿にしがみつくようにして機体を立て直しにかかる。高度計の数字が容赦なく減っていく。目的のプラットフォームまで、あと少し——もつのか、これは⁉︎
減速用のスラスターを無理やり噴かせ、機体を滑らせるようにしてプラットフォームへ突っ込む。金属同士が擦れる耳障りな音と、火花。
船体が跳ね、大きく揺れながら、なんとか停止した。
静寂。
「……着いた」
カイの声には、安堵と疲労がない交ぜになっていた。
だが、休む間もなかった。ハッチが開くより先に、外から怒声が飛んでくる。
「てめえ、ふざけた操縦しやがって! 目ん玉くり抜いて浮遊プラットフォームのボルトにしちまうぞ!」
工具箱を片手に駆けつけてきたのは、油まみれの作業着を着た初老の男だった。開口一番、罵声である。
だが、こちらの姿を認識するなり、口調が一変した。
「おいおい、マンドー! 何だおい、久しぶりだな! 息子は元気か? 下の毛生えたか? ……何だおい、黙っちまって。痩せちまってよう」
初老の男はそう言いながら、カイの肩を旧友のように遠慮なく叩いてくる。カイは何も言わず、ただ耐えていた。
「何だぁ? 口でも縫い付けられちまったかぁ? どれ脱いでみろや、診てやろか?」
握っていたスパナで、こつん、とヘルメットを叩かれる。カイは反論もせず、じっと耐え続けた。ニナはその隣で、ハラハラと二人を見比べている。
「トリン……」ようやく、カイが低く切り出す。
「俺は、息子の方だ」
「はーん?」
トリンはまるで気にした様子もない。
「おん? あのヘナチョコパンチのガキンチョか? フラップも踏まねえくせに、一丁前に図体ばっかりでかくなって、生意気にも呼び捨てか?お?……ん?親父さんどした?」
ひえ、とニナが小さく喉を鳴らして固まった。
青ざめたまま、そっとカイの表情を伺う。もちろんヘルメットの下は見えるはずもない。
少しの沈黙の後、
「おお、いねえって事はおっ死んだか!」
ただ純粋に、段取りの悪さを詰っているだけ。
「先に言えよ! 気まずいだろ、俺が!!」
ガハハ、とトリンは笑う。悪びれる様子など欠片もない。
「えええ……」
ニナはもうカイの方が怖くて見られない。
しばらく手の内側では、拳を、ぐっぱっ、と握っては開いていたカイだが、ようやく口を開く。
「……………………整備を頼みたいんだが」
感情を抑え込んだような、平坦な発音だった。ニナには、その抑えている感情すら読み取れなかった。
「いいけどよぉ」
トリンはボリボリと頭をかく。
「金ぇ、あんのか? 金はよぉ。こいつぁ結構するぜ?」
そして、ちらりとニナに視線を向けた。
「まさかその嬢ちゃんか? ガラボネじゃねぇか、そんなんじゃ足りねえなあ」
下品に笑いながら、右手の人差し指と親指で輪っかをつくり、そこに左手の人差し指を——。
すぱん!
ハゲ上がった頭に、カイの平手が炸裂した。小気味いい軽快な音がドックに響き渡る。
「てめえ!」
逆上するトリンを完全に無視して、カイはニナの手を取る。
「行くぞ、飯でも食おう」
そのまま足早に、その場を後にした。
「親父、やっぱ凄えわ……」
焦るニナの耳に、ボソリと呟く声が聞こえた気がした。