タービンの主軸部分──そこだけ、ほんの少し他より広い空間になっていた。錆びついた配管がむき出しのまま張り巡らされ、非常灯の赤い光が壁を淡く照らしている。
ニナは、床に座り込んだまま、隣で膝を抱える子供の背中をさすっていた。
「大丈夫。大丈夫だから」
繰り返す言葉に、あまり効果はない。子供はしゃくり上げながら、時折、聞き取れない言葉を小さく呟いている。ニナはその度に、何と声をかければいいのか分からず、ただ背中をさするしかできなかった。
——カイさんなら、きっともっと上手にできたんだろうな。
昼間、あんなに手際よく子供の涙を止めてしまった横顔が、頭の片隅をよぎる。自分にはまだ、あの余裕も、あの対応も思いつけない。
見張りは、部屋の入口に一人だけ。手持ち無沙汰そうに壁にもたれ、欠伸を噛み殺している。緊張感は薄い。ここまで来れば、もう誰も逃げも助けも来ないと高を括っているのだろう。
「なあ、静かにさせろよ。うるせえな」
見張りが苛立たしげに言う。ニナは咄嗟に子供を抱き寄せ、庇うように体を寄せた。
「……ごめんなさい」
謝りながらも、頭の中は必死に働いていた。今できることは何か。逃げ道は。時間はどれくらい経った。カイは──
そこまで考えて、ニナは唇を噛んだ。
粉々の菓子袋を握りしめる。
自分で砕いて、隙を見て撒いた、カラフルなお菓子。
きっと、来てくれる。
根拠のない確信だったが、それでも、今のニナにはそれしか縋るものがなかった。
見張りの男が、ふと通路の方に視線をやった。何かの物音に気づいたのか、片眉を上げる。
「……おい、お前らか?」
返事はない。
男の顔から、少しずつ余裕が消えていった。
ニナも気付いた。
ドアの外の気配が、どこかおかしい。
物音は聞こえない。声も、届かない。それでも、皮膚の下がざわつくような違和感があった。何かが起きている──根拠はないのに、そう確信していた。
ニナは意を決して、大きく息を吸い込んだ。
「私と、子供は、ここです!!」
声を限界まで張り上げる。
ドアの向こうで、見張りの男が飛び上がるように反応した。
「てめえ!」
構わず、ニナはもう一度叫んだ。
「私と、子供はここに──」
「黙っ──」
男の声が、途中で消えた。
ぱしゅ、と短い発射音。それに続いて、何か重いものが崩れ落ちるような音。
ず、と濡れた布を、刺す様な音。
ニナは息を呑んだまま、動けなかった。何が起きたのか、ドア越しでは分からない。分からないが──確信だけが胸の中で膨らんでいく。
きっと、カイさんだ。
子供を強く抱き寄せ、ニナは開いたままの入口を見据えた。警戒を解かないまま、じっと。
やがて、鍵を回すような微かな音。硬く重いドアが、軋みながらゆっくりと開いていく。
差し込む赤い非常灯の光を背に、そこには影が立っていた。
音もなく、まるで最初からそこにいたかのように。
まだ、何かが——ヘルメットの奥に灯る気配のようなものが、完全には静まりきっていなかった。
見知った姿だと、頭では分かっている。
それなのに、体が動かなかった。まとわりつくような気配——張り詰めた空気と、微かに鉄錆に似た血の匂いが、ニナの喉から言葉を奪っていった。
「……あ」
声にならない声が漏れる。
その様子に気づいたのだろう。カイは戸口で立ち止まったまま、一度、大きく息を吐いた。深呼吸するように、肩の力を意識的に抜くように。
「……怪我は、ないか?」
まだ少し硬さの残る声だった。それでも、聞き慣れた響きだった。
ああ、いつものカイさんだ。
ニナの中で、張り詰めていた何かが一気に緩んでいく。目の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、ニナは小さく頷いた。
「行くぞ」
短く言うと、カイは子供を抱き上げた。片腕でしっかりと支えながら、もう一方の腕で、子供の顔がちょうど自分の肩に埋まるように向きを調整する。
視界に、あの通路の光景が入らないように。
それから、ニナの方へ手を伸ばした。何も言わず、フードの縁を摘むと、目深に、しっかりと被せ直す。
「……前だけ見てろ」
短い一言だけが添えられた。
ニナは素直に頷いた。何のためかは、聞かなくても分かった。
カイは先に立って歩き出す。通路の壁際に沿うように、進むべきでない方向を体で塞ぐように。足取りは急いていたが、乱暴さはなかった。
やがて、外へと続く扉が見えてくる。
その先に広がる、強風と雲海。
三人は、無言のまま、それぞれの歩幅で外を目指した。
*
酒瓶の並んだ簡素な卓を囲んで、男たちが浮かれた声を上げていた。
「いやァ、こんな楽な仕事もねえな」
杯を掲げているのは、酒場のカウンターで、部下の目の前であっけなく組み伏せられたばかりの、あの男だった。あの時の屈辱──床に押さえつけられ、声も出せなかった惨めさ──は、今この瞬間、綺麗さっぱり帳消しになった気がしていた。あの生意気なマンダロリアンの連れを、まんまと手に入れてやったのだ。これでどちらが上か、はっきりする。
「ガキ攫って、あとは依頼人に引き渡すだけ。楽勝、楽勝」
隣に座る別グループの男が、面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「手ぇ出したのはお前んとこじゃねえか。分け前の話、まだちゃんとしてねえぞ」
「うるせえな、後で話し合うっつってんだろ」
険悪な空気が漂いかけたその時、扉が勢いよく開いた。
転がり込むように現れたのは、監禁場所の見張りをしていたはずの男だった。顔面は蒼白を通り越して、土気色に近い。
「ぼ、ボス……!」
言葉にならない声。杯を掲げていたボスは、片眉を上げて男を見た。
「なんだ、辛気臭え顔しやがって。飲みてえのか?」
軽口のつもりだった。だが、返ってきたのは声にならない呻きだけだった。
「ち、違う……! 全滅です……! みんな、みんなやられて……!」
酒場の喧騒が、一瞬にして静まり返る。
「……は?」
ボスは杯を持ったまま、動きを止めた。
「ふざけんな。たかがガキ一人攫っただけの仕事だぞ。どこの誰が、わざわざ助けなんぞ寄越すってんだ」
「違うんです、あれは……あれは、化け物だ」
男の声が震えている。額から流れる汗が、床に小さな染みを作っていた。
「気づいたら、隣にいた奴が消えてて。振り向いたら、床に……いや、床にすらいなかった。血の跡だけ、点々と……」
誰も言葉を発さない。ただ、卓を囲んでいた男たちの視線が、じわりと部屋の四隅へ這うように動いていく。
「灯りが……全部、消されて。何も見えなくて。誰かが、名前を呼ばれるみたいに、一人ずつ……」
ボスの手の中で、杯がかたかたと小さく音を立て始めた。
外で、風がひときわ強く唸った。
まるで、それに応えるかのように。
「手練れをよこす様な、仕事じゃねえはずだぞ……」
言い放った瞬間、自分の言葉が喉に引っかかった。
——手練れ。
酒場のカウンターで、あっけなく組み伏せられた感触が、唐突に蘇る。抵抗する暇すらなかった、あの一瞬。
「……いや、待て」
ボスの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「あのマンドーか……!」
そこまで考えて、頭の奥がじわりと冷えた。
——あのガリガリ女……!
酒場でつけられた恥の仕返しにと、腹いせ半分で連れてきたあの女。ガキ渡したら、あとはどっかその辺に転がしとくつもりだった。
まずい。まずいまずいまずい。
——俺のせいで、あの化け物、呼び寄せちまったのか。
杯を叩きつけるように置くと、勢いよく立ち上がる。
「おい、聞いてる奴全員動け! 出せる戦力全部出せ、今すぐだ!」
怒鳴り声に、周囲がにわかに慌ただしくなる。だが、それだけでは足りない。ボスは苛立たしげに、隣の卓で成り行きを見守っていた別グループの男を睨みつけた。
「お前んとこの連中も出せ。数がいる」
「はァ? 何でこっちが尻拭いしなきゃならねえんだよ、そもそも──」
「うるせえ! ガキ一匹逃がして依頼金パアになったら、お前らの分け前もパアだぞ!」
しばらく睨み合いが続いたが、金の話を出されては黙るしかない。舌打ちと共に、渋々といった様子で別グループの男も腰を上げた。
「ちっ……わかったよ。行くぞ、お前ら!」
慌ただしい足音と怒声が、アジトのあちこちに広がっていく。
*
アクセスシャフトを抜け、プラットフォームの接続口までたどり着いた。
子供は片腕にしっかりと抱え、もう片方の手でニナの手を引いている。強風が吹き荒れる外縁から、少しずつ人の気配のある区画へと近づいていく。
「親父——」
無意識に、口が動いていた。
呼びかけかけて、カイは自分の言葉に気づき、口をつぐんだ。
子供は助けた。あとは任せればいい。いつもならそれで十分だった。任せて、先行して、追手を蹴散らして、自分はただ退路を確保するだけ──そういう役割分担だった。
だが、任せる相手は。
「……いないだろうがよ」
誰にともなく、低く呟いた。
*
再び手を引いて、駆け出す。
だが、いくらもいかないうちに、後ろで小さな悲鳴が上がった。振り返ると、ニナが膝をついている。疲労で足がもつれたのだろう。
「悪い、大丈夫か」
慌てて助け起こそうとするカイに、ニナは息を切らせながら首を振った。
「置いていってください……後から、追いかけますから」
「できるわけないだろ」
即座に切り捨てる。躊躇う間もなく、ニナの体を抱え上げた。
——くそ、両手が塞がる。
子供とニナ、両方を抱えたままでは、満足に武器も構えられない。分かってはいたが、他に選択肢などなかった。
少し走った先、離れた場所から怒声が幾重にも重なって響いてきた。増援か。
舌打ちを噛み殺し、カイは近くのコンテナの陰にニナと子供を下ろす。
「ここで待ってろ、動くな」
短く言い残し、ブラスターを構えて周囲を警戒する。ヘルメットのセンサーを起動させた。
熱源反応が、次々と浮かび上がってくる。
……増えている。
想定していた数を、明らかに上回っていた。
*
「行け行け! 見つけたら囲んじまえ!」
誰かの怒声を合図に、男たちは我先にと駆け出した。
統率などない。誰が指揮を執っているのかも曖昧なまま、ただ声の大きい者に釣られるように、右へ左へと散らばっていく。連携も、作戦も、まともに交わされた言葉すらない。
だが、数だけは異様に多かった。
「あっちだ、こっちに逃げたぞ!」
「囲め、囲んじまえば向こうも動けねえ!」
各々が好き勝手に叫びながら、狭い足場を我が物顔で埋め尽くしていく。一人一人の腕前などたかが知れている。だが、これだけの人数が一斉に押し寄せれば、話は変わってくる。
飛び道具も、白兵の腕も関係ない。ただ物量だけで、獲物を追い詰めていく──そういう類の恐怖だった。
*
一人目は、あっけないほど簡単に沈んだ。物陰から飛び出しざま、喉を貫く。二人目は、ろくに武器を構える間もなく崩れ落ちた。
だが、数はまるで減った気がしない。
「おい、無事か!」
コンテナの裏に声だけを投げて、返事を確かめる暇もなく、また別の反応に向かって駆け出す。安否確認、各個撃破、また安否確認──その往復のたびに、行動範囲がじわじわと広がっていく。
本来なら、こんな広い範囲を一人で守り切るような戦い方はしない。分かっていても、他に選択肢がなかった。
息が上がる。腕が、少しずつ重くなっていくのが分かった。ブレードを振る動きに、わずかに鈍さが出てきている。集中しないと、ブラスターの狙いが逸れる。
「……はは、なんだよ、これ」
誰にともなく、乾いた笑いが漏れた。
「今度こそは、ってリベンジ狙ってたのにな……」
今は完治したはずの、脇腹がぢくりと痛む。
軽口を叩く余裕があるうちはまだいい──そう自分に言い聞かせているだけだと、カイ自身が一番よくわかっていた。
また新たな反応が、ニナたちのいる方向へ近づいていく。
舌打ちして、疲れた体を叱咤し、再び駆け出す。
*
「くそが、何しやがってんだ、あいつら!」
ボスは苛立ちを隠しもせず、通信機に向かって怒鳴り散らしていた。
一人、また一人。部下から入る報告は、ろくなものがない。「やられました」「動かなくなりました」「見失いました」──そんな言葉ばかりが繰り返される。
追い詰めてる、はずなんだ。
そう思う端から、また誰かが黙る。応答がなくなる。
「おい、何人でかかってんだよ、こっちは!」
数の上では圧倒的に有利なはずだった。それなのに、まるで手応えが噛み合わない。
「たった一人だぞ! なんで手こずってんだよ!」
怒鳴りながらも、頭の芯がじわじわと冷えていくのを感じる。まさか、まさかな。
一人しかいないはずの敵の姿が、あちこちから同時に報告される。北で見た、南でもやられた、今度は西だと。
「あいつ、一体何人いやがるんだ……!?」
叫んだ声は、誰にも答えられないまま、風にかき消されていった。
脇腹の話題は続きに出ますが、違和感ないように書けてるといいなあ