クレヨンしんちゃん×Cyberpunk: Edgerunners 嵐を呼ぶ!春日部エッジランナーズ   作:stein0630

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第一話 家族まるごと、五十年先

 

 その日、野原ひろしは、家族を五十年後へ連れていく値段が、商店街の商品券三千円分だとは知らなかった。

 

「だから、違うって言ってるでしょ。商品券は参加賞。五十年後へ行くんじゃなくて、五十年後の暮らしを体験するの」

 

 みさえは受付でもらったパンフレットを丸め、ひろしの肩を叩いた。

 

 春日部の大型商業施設で開かれた「彩の国・未来防災フェア」。その一角に、銀色の壁で囲まれた家族用シェルターが展示されていた。

 

 買い物帰りに立ち寄っただけのはずが、みさえが「体験するだけで三千円分」という文字を見つけたため、野原一家は十分間のモニターに参加することになった。

 

「貴重な日曜を三千円で売ったようなもんだろ」

 

「何言ってんのよ。十分で三千円なら、時給換算で一万八千円よ」

 

「家族全員分を入れたら、ひとり四千五百円だぞ」

 

「細かい男ね」

 

「おまえが言うな」

 

 ひろしが畳んだベビーカーを担ぎ直す。その横を、しんのすけが尻を振りながら歩いていた。

 

「ほほーい。未来のオラは、きっときれいなおねいさんとラブラブですな」

 

「未来でも五歳のままのくせに」

 

「かーちゃんは五十年後だと、ひゃく――」

 

 みさえの拳が、しんのすけの頭上で止まった。

 

「その先を言ったら、あんたの未来が十分後になくなるわよ」

 

「まだ何も言ってないのに、未来を決めつけるのはよくないと思いまーす」

 

「口だけは未来人ね」

 

 抱かれていたひまわりが、受付係の胸元にある光るネームプレートへ手を伸ばした。

 

「たいやっ、たい!」

 

「あら、これが気になるの?」

 

 青いベストを着た若い係員が笑い、プレートを指で隠す。ひまわりは不満そうに頬を膨らませた。

 

 足元では、シロだけが笑っていなかった。

 

「クゥーン……」

 

「どうした、シロ」

 

 シロはシェルターの扉と床の継ぎ目を嗅ぎ、鼻先に皺を寄せた。

 

「新しい機械の匂いが気になるのかしら。ペット同伴対応なので、中へ入れて大丈夫ですよ」

 

 係員は端末を操作した。

 

「体験中、扉は自動でロックされます。外部の音や携帯電話の電波も遮断されますが、十分後にこちらで開けます。気分が悪くなった場合は、室内の赤い非常ボタンを押してください」

 

「赤いボタン!」

 

 しんのすけの目が輝いた。

 

「押すなよ。絶対に押すなよ、しんのすけ」

 

「とーちゃん、それは押してほしい人の言い方ですな」

 

「違う!」

 

 扉の内側は、外から想像するより広かった。

 

 壁一面のスクリーンには、春日部の青空と住宅街が映っている。中央には収納式のテーブル、壁際には簡易ベッドと非常食の棚。ペット用の給水口まで付いていた。

 

「へえ。思ったよりちゃんとしてるじゃない」

 

 みさえが非常食の価格表を探すような目で棚を見回した。

 

「これが庭付きだったら、うちより立派かもしれないな」

 

「聞こえたわよ」

 

「家のローンを払ってる人間の感想だよ」

 

 しんのすけは棚から銀色の袋を抜き取った。

 

「五十年保存カレー。いま食べたら、五十年ぶん損しますな」

 

「戻しなさい」

 

「じゃあ五十年後に食べる」

 

「いますぐ戻せ!」

 

 みさえが袋を奪った瞬間、背後で扉が閉まった。

 

 空気を押し出すような低い音がし、壁の風景が暗くなる。

 

『体験を開始します。登録されたご家族は、成人二名、未成年二名、伴侶動物一頭――』

 

「シロは伴侶なんだって」

 

 ひろしが笑う。

 

「アン」

 

「オラの伴侶はななこおねいさんですな」

 

「相手の承諾がないでしょ」

 

 明るい案内表示の下に、ひどく小さな文字列が走った。

 

 ひろしは目を細めた。

 

 BASELINE HOUSEHOLD:02/02/01

 

 COHERENCE:ACCEPTED

 

 ACQUISITION WINDOW――

 

「なんだ、これ」

 

「英語でしょ。あんた一応、商社勤めなんだから読めないの?」

 

「商社勤めなら何でも読めると思うな。だいたい最後のは、取得窓口……?」

 

 表示が一瞬だけ乱れた。

 

 白かった壁に、赤い三つ又の紋章が浮かぶ。

 

『同期先を確認。現地時刻――二〇七六年』

 

「ごじゅうねんごー」

 

 しんのすけが間延びした声を上げた。

 

「ずいぶん気の早い機械だな」

 

 ひろしが非常ボタンへ手を伸ばすより先に、シロが鋭く吠えた。

 

「アン! アンッ!」

 

 室内の照明が消えた。

 

 足元がなくなった。

 

 ひまわりが泣き、みさえが叫び、ひろしは咄嗟に家族へ腕を伸ばした。

 

「しんのすけ!」

 

「オラ、ボタン押してないゾ!」

 

 耳の奥で、巨大なガラスが割れるような音がした。

 

 次の瞬間、何も聞こえなくなった。

 

     *

 

「――ひろし! ねえ、起きて!」

 

 頬を叩かれ、ひろしは目を開けた。

 

 最初に見えたのは、みさえの青ざめた顔だった。

 

「しんのすけは」

 

「いる。ひまも、シロもいる」

 

 床では、しんのすけがシロを枕にして伸びている。ひまわりはみさえの膝の上で泣いていた。

 

「オラ、生きてますけど」

 

 しんのすけが目を閉じたまま言った。

 

「だったら起きなさい!」

 

「生きてるだけでは許されないとは、きびしい世の中ですな」

 

「頭は打ってないみたいね」

 

 みさえが安堵したように息を吐く。

 

 ひろしは身体を起こした。室内は先ほどまでとは違い、冷蔵庫の中のように冷えていた。壁のスクリーンは黒く沈み、天井の非常灯だけが赤く点滅している。

 

 携帯電話を取り出す。

 

 時刻は午前十一時十四分。圏外。

 

「十分経ってないな」

 

「外の人、何してるのよ。非常ボタンは?」

 

「反応しない」

 

 ひろしが何度押しても、ボタンは暗いままだった。

 

 扉脇の表示に、赤い文字が浮かんだ。

 

 外部環境との接続を喪失。

 

 生命維持電源、残り七分。

 

「七分って何よ」

 

「分からん。とにかく出るぞ」

 

 非常用の解除レバーは、化粧板の奥にあった。ひろしが両手で引いても動かない。

 

「ぬおおおお……!」

 

「とーちゃん、顔がトイレのときと同じですな」

 

「応援するか黙るか、どっちかにしろ!」

 

「がんばれ、がんばれ、お・じ・さ・ん」

 

「父ちゃんだ!」

 

 鈍い音とともにレバーが下がった。

 

 扉の隙間から入り込んだ空気は、油と焦げた金属、それに腐った生ごみの匂いがした。

 

「ずいぶんリアルな演出ね」

 

 みさえはひまわりを抱き直しながら言ったが、声に力がなかった。

 

 扉の向こうに、受付係はいなかった。

 

 そもそも商業施設の壁も、床も、天井もなかった。

 

 野原一家が出てきたのは、錆びた貨物コンテナが積み上がる巨大な倉庫だった。

 

 割れた屋根の向こうに、夜空が見える。

 

 ただし、その空は春日部のものではなかった。

 

 紫色の光をまとった高層ビルが、煙を吐く工場群の向こうに突き出している。ビルとビルの間では、車らしきものが空中を横切っていた。

 

 倉庫の外壁いっぱいに、銀色の顎を持つ女の立体広告が浮かんでいる。女は自分の頬を剥がし、その下から別の美しい顔を見せた。

 

『新しい自分を、月々九十九エディから』

 

「おおっ。未来のおねいさんは、お顔が取り外しできるんですな」

 

「しんのすけ、見ちゃダメ!」

 

 みさえが片手でしんのすけの目を塞ぐ。

 

「かーちゃんは取り外しても同じ顔?」

 

「帰ったら覚えてなさい」

 

「帰れるのか?」

 

 ひろしの呟きに、みさえが黙った。

 

 ひまわりだけは、空中広告の銀色の唇へ夢中で手を伸ばしていた。

 

「たい、たいっ!」

 

「おまえはブレないなあ……」

 

 倉庫の一角には、分解された機械や人体の一部らしきものが、透明な袋に詰められて積まれていた。

 

 ひろしはそれを機械部品だと思うことにした。

 

「まず、係の人を探そう。みんな、離れるなよ」

 

「アンッ!」

 

 シロが低く吠えた。

 

 暗い通路の奥から、靴音が近づいてくる。

 

「ほら、誰か来たぞ」

 

 ひろしが声をかけようとして、止まった。

 

 現れた四人の男たちは、係員には見えなかった。

 

 ひとりは顔の右半分が金属板で覆われていた。もうひとりの眼窩には、赤いレンズが三つ並んでいる。血の染みた医療用エプロンを着た男が、銃口をひろしたちへ向けた。

 

 彼らの言葉を、ひろしはほとんど聞き取れなかった。

 

「クレートが勝手に開いたぞ」

 

「中身は……何だ、こいつら?」

 

 眼球を赤く光らせた男が、ひろしの顔から足先までを眺める。視界に何かが表示されているらしく、何度も瞬きをした。

 

「インプラント、ゼロ。ニューロポートもバイオモニターもなし。全員、生身だ」

 

「ピュア・ガニック?」

 

「ガキまでクリーンだ。高く売れる」

 

 高く売れる。

 

 そこだけは、ひろしにも分かった。

 

「みさえ。子どもたちを連れて、後ろへ」

 

「あなたは?」

 

「いいから」

 

 ひろしは携帯電話を握り、男たちの前へ出た。

 

「あの、ここ、日本じゃないですよね。俺たち、事故に巻き込まれたみたいで――」

 

 男の喉元に埋め込まれた機械が点滅した。

 

 数秒遅れて、ひどく平板な日本語が流れる。

 

『言語を検出。日本語。翻訳開始』

 

「おっ、通じるのか。だったら警察を――」

 

『警察は不要。抵抗しなければ、損傷を抑えて運搬する』

 

「運搬?」

 

 赤い目の男が、ひまわりへ手を伸ばした。

 

 みさえがその手を叩き落とす。

 

「うちの子に触らないで!」

 

 相手の腕は金属だった。みさえは痛みに顔をしかめたが、一歩も引かなかった。

 

「素材を傷つけるな。特に小さいのは価値がある」

 

「素材って、誰のことよ」

 

「みさえ、下がれ!」

 

 ひろしは家族の前に立った。

 

 膝が震えていた。

 

 男がそれに気づき、笑った。銃口がひろしの額へ向く。

 

 しんのすけが、男の血まみれのエプロンを見上げた。

 

「おじさん、お医者さんごっこなら、ちゃんとお洗濯した方がいいゾ」

 

「しんのすけ、今は黙ってろ!」

 

 男の指が引き金にかかった。

 

 シロが何もない空間へ向かって吠えた。

 

     *

 

 倉庫二階の朽ちた足場から、デイビッド・マルティネスは照準を下げた。

 

「待て」

 

『待つ理由は?』

 

 キーウィの声が、頭の中へ直接響く。

 

『依頼品のタグは一致。スカヴは四。予定どおり排除して、箱を回収すれば終わり』

 

「箱の中に人がいる」

 

『見れば分かる』

 

 乾いた返事だった。

 

 ワカコから回された仕事は、単純な回収依頼のはずだった。

 

 サントドミンゴへ運ばれる途中で奪われた、登録外の低温保管ユニット。中身には触れず、箱を密閉したまま指定先へ運ぶ。それだけで一万八千エディ。

 

 デイビッドたちは二時間かけて信号を追い、この倉庫を突き止めた。

 

 箱が勝手に開き、中から赤ん坊と犬を連れた家族が出てくるまでは、予定どおりだった。

 

『デイビッド』

 

 別の回線から、レベッカの苛立った声が飛んでくる。

 

『あのデカいの、ガキごと撃つ気だ。やるなら早く決めろ』

 

 デイビッドは眼下を見た。

 

 スーツ姿の男が、明らかに役に立たない携帯端末を握りしめ、家族の前に立っている。

 

 怯えている。

 

 それでも、退かなかった。

 

 デイビッドがクルーの先頭に立つようになってから、数か月が過ぎていた。

 

 メインの死後、誰かが決めなければならなくなった。

 

 突入するか、引くか。

 

 撃つか、待つか。

 

 誰を連れて帰り、誰を置いていくか。

 

「キーウィ、照明を落とせ。レベッカは右。ファルコ、東口を塞いでくれ」

 

『了解したよ、ボス』

 

 車内で待機していたファルコが、落ち着いた声で答えた。

 

『で、その家族はどうする?』

 

「先に生かす。箱は後だ」

 

『やっぱそう言うと思ったぜ!』

 

 レベッカの笑い声が弾けた。

 

『三、二――』

 

 キーウィが数え終える前に、スカヴの銃口が火を噴いた。

 

 デイビッドの背骨で、軍用サンデヴィスタンが起動した。

 

 世界から、音が消えた。

 

 銃口を離れた弾丸が、濁った空気を押し分けて進んでいる。

 

 スーツの男は家族を庇おうと両腕を広げていた。だが、生身の身体が動くより、弾丸の方がはるかに速い。

 

 デイビッドは足場を蹴った。

 

 黄色いジャケットが、赤い残像を引く。

 

 かつてメインのものだった巨大な腕で銃身を掴み、弾道を天井へ逸らす。弾丸が鉄骨を砕いたところで、時間が戻った。

 

「な――」

 

 スカヴが声を上げるより先に、デイビッドは銃を握り潰した。そのまま胸元を掴み、積まれた廃材へ叩き込む。

 

 照明が消えた。

 

 暗闇の中で、レベッカのショットガンが二度、白く瞬いた。

 

「そこ動くな、クソども!」

 

 轟音。

 

 みさえが子どもたちを抱えて床へ伏せる。その頭上を弾丸が通り、背後から迫っていたスカヴの肩を吹き飛ばした。

 

 赤い眼の男は腕から刃を伸ばし、みさえたちへ突っ込んだ。

 

「させっかよ!」

 

 レベッカが次弾を装填する。

 

 間に合わない。

 

 再び時間が引き延ばされる。

 

 デイビッドは刃の根元を掴んだ。強引に軌道をずらし、男の身体をコンテナの壁へ投げつける。

 

 時間が戻ると同時に、レベッカの銃弾が男を撃ち抜いた。

 

 最後のひとりが裏口へ走る。

 

 外から、一発だけ乾いた銃声が響いた。

 

「出口は塞いだと言ったろう」

 

 口ひげを蓄えたファルコが、煙の上がる大型拳銃を片手に入ってきた。

 

 十秒もかからなかった。

 

 倉庫に静けさが戻る。

 

 遅れて、床へ血が広がっていった。

 

     *

 

 ひろしの耳には、何も聞こえなかった。

 

 ひどい耳鳴りの向こうで、みさえが何かを叫んでいる。

 

 ひろしは自分の胸や腹へ手を当てた。撃たれていない。家族も動いている。

 

 目の前には、ひろしより頭二つは大きな若者が立っていた。

 

 首から下の輪郭が、人間のものではない。

 

 肩と腕は異様なほど太く、皮膚の隙間から黒い金属が覗いている。それでも、顔だけを見れば、まだ少年と言ってもおかしくなかった。

 

 若者が何かを尋ねた。

 

「日本語、分かりますか!」

 

 ひろしが叫ぶ。

 

 若者は眉を寄せ、耳元へ触れた。

 

「キーウィ、日本語だ。翻訳できるか?」

 

『もうやってる。そこの整備ドローンを中継に使う』

 

 天井から掌ほどの機械が降りてきた。

 

 青い光が野原一家を順番に走査する。

 

『双方向翻訳、接続』

 

 機械から、抑揚の薄い日本語が流れた。

 

『怪我はあるか、と彼は聞いている』

 

「俺たちは大丈夫です。たぶん。でも、あの人たちは……」

 

 ひろしは倒れた男を見た。

 

 腹の底が冷たくなる。

 

 しんのすけも見ていた。

 

 いつもなら何か言うはずの口が、閉じている。

 

「しんのすけ。見るな」

 

 ひろしが抱き寄せようとすると、しんのすけは素直に従った。シロの首へ両腕を回し、倒れた男から目を逸らす。

 

「あのおじさん、起きないの?」

 

 デイビッドは、しんのすけを見下ろした。

 

 その質問に翻訳は必要なかったらしい。

 

「起きない」

 

「そっか」

 

 しんのすけは、それ以上聞かなかった。

 

 みさえはひまわりの耳や身体を確かめてから、緑色の髪をした小柄な少女へ向き直った。

 

「あの!」

 

「あ?」

 

「助けてくれて、ありがとう」

 

 レベッカが目を瞬いた。

 

「でも、赤ちゃんの耳のすぐそばで、そんなもの撃たないで!」

 

「はあ!? 撃たなきゃ、あの野郎の刃が赤ん坊ごと串刺しにしてたんだぞ!」

 

「分かってるわよ! だから、助けてくれてありがとうって言ったでしょ! でも次は、もう少し離れて撃って!」

 

「次を前提にすんな!」

 

「こっちだって、こんなの二度とごめんよ!」

 

「なら怒鳴る相手が違うだろーが!」

 

 レベッカが倒れたスカヴを蹴ろうとして、足を止めた。しんのすけが見ていたからだった。

 

 代わりにショットガンを肩へ担ぎ、家族と暗い通路の間へ立つ。

 

「小さいおねいさん」

 

「誰が小さいって?」

 

「おねいさん」

 

「……そこじゃねえ!」

 

「レベッカ」

 

 デイビッドが低く呼ぶ。

 

「分かってるよ。警戒してんだろ」

 

 レベッカは吐き捨てたが、その位置からは動かなかった。

 

 床を這っていたひまわりが、デイビッドの脚に映る光を見つけた。

 

「たいっ!」

 

「ひま、ダメ!」

 

 みさえが手を伸ばす。

 

 その前に、ひまわりはデイビッドの脚へしがみついた。磨かれた金属をぺちぺちと叩き、嬉しそうに笑う。

 

「たいやー!」

 

「おい」

 

 敵の銃弾を目で追えるデイビッドが、赤ん坊を前に固まった。

 

「離し方が分からない」

 

「持ち上げればいいでしょ」

 

 みさえが呆れて言う。

 

「首、ちゃんと支えて!」

 

「首?」

 

「赤ちゃん抱いたことないの?」

 

「ない」

 

 デイビッドは両腕の出力を最低まで落とし、壊れ物を扱うようにひまわりを持ち上げた。

 

 ひまわりは怖がるどころか、彼の首筋にある接続部へ手を伸ばした。

 

 デイビッドの視界に、一瞬だけ白い救急服の袖が重なった。

 

 母親の腕は、こんなに硬くなかった。

 

「はい、返して」

 

 みさえの声で、幻は消えた。

 

 デイビッドは黙ってひまわりを渡した。

 

 ひろしが深く頭を下げる。

 

「本当に、助かりました。俺は野原ひろし。妻のみさえと、息子のしんのすけ、娘のひまわり。犬はシロです」

 

「オラ、野原しんのすけ五歳。好きなものはチョコビときれいなおねいさんで、嫌いなものはピーマンと、かーちゃんの――」

 

 みさえがしんのすけの頬をつまんだ。

 

「余計な個人情報はいらないの」

 

「ほほが、ほほがのびる~」

 

『本当に普通の家族みたいね』

 

 キーウィの声がドローンから流れた。

 

「普通に決まってるでしょ」

 

 みさえが言い返す。

 

『この街じゃ、その普通がいちばん怪しいのよ』

 

 青い走査光が、ひろしの身体を再び往復した。

 

『全員、サイバーウェアなし。皮下装甲なし。神経ソケットなし。身元チップどころか、標準予防接種のナノマーカーも検出できない』

 

「さっきから、何の話をしてるんですか」

 

 ひろしは震える手で名刺入れを取り出した。

 

「これが俺の身分証明です。双葉商事、営業二課の野原ひろし。住所も電話番号も書いてある」

 

 ファルコが名刺を受け取り、片眉を上げる。

 

「紙か。こりゃまた懐かしい代物だ」

 

『スキャンした。企業登録、該当なし。電話網、形式不一致。住所も現行の日本国内データと接続できない』

 

「そんなはずあるか! 先週もその番号に得意先から電話が――」

 

 デイビッドが遮った。

 

「どこから来た」

 

「埼玉県春日部市です。買い物の途中で、未来の防災シェルターっていう展示に入って……」

 

「いつの話だ」

 

「いつって、今日ですよ。二〇二六年八月九日」

 

 翻訳ドローンが沈黙した。

 

 レベッカがデイビッドを見る。

 

 ファルコは手元の名刺を裏返した。

 

『聞き間違いではない。端末の日付も二〇二六年八月九日で固定されてる』

 

 キーウィの声から、初めて乾いた余裕が消えた。

 

「ねえ」

 

 みさえがデイビッドを見上げた。

 

「ここ、どこなの」

 

「ナイトシティ」

 

「国を聞いてるんじゃないわ。日本のどこ?」

 

「日本じゃない。北米だ」

 

「北米!?」

 

 ひろしとみさえの声が重なる。

 

「そして今は、二〇七六年だ」

 

「……はい?」

 

「五十年後だ」

 

 ひろしは笑おうとした。

 

「いやいや。そんなわけないだろ。テレビの撮影か何かですよね? ずいぶん金のかかったドッキリだなあ。はは……」

 

 誰も笑わなかった。

 

 床に倒れた男の傷口から、まだ血が流れている。

 

 火薬と肉の焼けた匂いが、演出ではあり得ない濃さで鼻に残っていた。

 

「じゃあオラ、五十五歳?」

 

 しんのすけが自分の指を折って数える。

 

「大人のおねいさんと、大人のお付き合いができますな」

 

「今はまだ五歳でしょ!」

 

 みさえの声は大きかったが、その手はひまわりを強く抱きしめたままだった。

 

 デイビッドは、野原一家が出てきたユニットへ近づいた。

 

「キーウィ、箱を調べろ」

 

『依頼では、ネットに接続するなと言われてる』

 

「もう開いてる」

 

『最悪の理屈ね。少し下がって』

 

 ドローンから細いケーブルが伸び、扉脇の端子へ接続された。

 

 黒かった表示板に、光が戻る。

 

 赤い三つ又の紋章。

 

 デイビッドの顔から表情が消えた。

 

「アラサカ……」

 

「そのマーク」

 

 みさえが言った。

 

「さっきも出たわ。暗くなる直前、シェルターの壁に」

 

『待って』

 

 キーウィの声が鋭くなる。

 

『切断する。こいつ、開封と同時にビーコンを起動してる』

 

「どこへ送ってる?」

 

『アラサカの専用回線。でも妙よ。送信元の時刻署名が五十年ずれてる。偽装にしては深すぎるし、経路の根がこの街のネットに存在しない』

 

 表示板に文字が並ぶ。

 

 BASELINE HOUSEHOLD ACQUISITION:COMPLETE

 

 ORIGIN ROUTE:UNRESOLVED

 

 RECOVERY PRIORITY:BLACK

 

 レベッカが舌打ちした。

 

「ワカコのクライアント、これがアラサカの箱だって言わなかったよな」

 

「企業が絡んでないとも言わなかった」

 

 ファルコが名刺をポケットへ入れる。

 

「一万八千じゃ安すぎる。家族四人と犬一匹、ついでにアラサカの回収部隊まで付いてくるとはな」

 

『デイビッド』

 

 キーウィが続ける。

 

『判断して。依頼どおり箱を渡すか、ここで捨てるか。人間まで運ぶ契約じゃない』

 

 みさえがしんのすけを引き寄せた。

 

 ひろしはデイビッドを見た。

 

 助けを求めることさえ、正しいのか分からない顔だった。

 

 デイビッドの右手が、かすかに震えた。

 

 サンデヴィスタンを二度使った反動。彼は拳を握り、震えを止める。

 

 ひろしだけがそれに気づいた。

 

「あんた、怪我してるのか」

 

「してない」

 

「でも、手が――」

 

「問題ない」

 

 短く答え、デイビッドは別の回線を開いた。

 

『誰にかけてるの?』

 

「ルーシー」

 

『休ませてるんじゃなかった?』

 

「アラサカなら、俺たちより詳しい」

 

 呼び出し音が二度鳴った。

 

『デイビッド?』

 

 ルーシーの声は低く、警戒していた。

 

「送ったデータを見てくれ」

 

 数秒の沈黙。

 

『これ、どこで手に入れたの』

 

「回収するはずだった箱だ」

 

『開けた?』

 

「勝手に開いた。中から家族が出てきた」

 

 さらに長い沈黙。

 

『冗談なら切る』

 

「冗談じゃない」

 

『キーウィ、まだ端子に繋いでる?』

 

『聞こえてる。もう切った』

 

『物理的に抜いて。通信切断だけじゃ足りない』

 

『言われなくてもやってる』

 

『聞かせるために言ったの』

 

 火花が散り、ドローンのケーブルが焼き切れた。

 

 表示板は消えなかった。

 

 赤い紋章の下で、数字が減っていく。

 

 RECOVERY:00:01:17

 

「ルーシー、この数字は?」

 

『回収部隊の到着予測』

 

 遠くで、重い風切り音がした。

 

 割れた屋根の隙間を、白い光が横切る。

 

『アラサカのセキュリティAVが二機。そっちへ一直線に向かってる。七十秒もない』

 

 倉庫のシャッターが振動した。

 

 レベッカがショットガンを構え直す。

 

「で、どうすんだ、デイビッド。箱を置いて逃げるか?」

 

「箱は置く」

 

 デイビッドは野原一家を見た。

 

「人は連れていく」

 

『契約違反ね』

 

「請求は後で聞く」

 

 デイビッドはファルコへ振り向いた。

 

「車を回せ。家族を乗せる」

 

「待ってくれ!」

 

 ひろしが声を上げる。

 

「何が何だか、まだ全然――」

 

「説明は車でする」

 

「信用していいのかも分からない!」

 

「正しい」

 

 デイビッドは否定しなかった。

 

「でも、ここに残れば、あいつらが来る」

 

 屋根の穴から、赤い照準光が差し込んだ。

 

 それがしんのすけの胸元を横切る。

 

 デイビッドの巨大な腕が、無言でその光を遮った。

 

「選ぶ時間はない」

 

 みさえが先に動いた。

 

「ひろし、行くわよ」

 

「みさえ」

 

「信用できるかなんて、あとで考える。今は子どもたちを守るの!」

 

 ひまわりを抱き、空いた手でしんのすけを掴む。

 

「シロも来なさい! しんのすけ、絶対に離れちゃダメよ!」

 

「オラ、さっきからずっと一緒ですけど」

 

「口答えしない!」

 

「ほほーい」

 

 いつもの返事だった。

 

 けれど、しんのすけはみさえの手を振りほどかなかった。

 

 ファルコの装甲車が東側の扉を突き破り、倉庫内へ滑り込む。

 

 その上空で、二機のAVが停止した。

 

 機体の腹部が開き、黒い装甲服の兵士たちが降下を始める。

 

 夜空に浮かんだ赤い三つ又の紋章が、野原一家を捉えた。

 

「キーウィ、奴らの視界を潰せ。レベッカ、家族の後ろにつけ。ファルコは東門を抜けろ」

 

「デイビッドは?」

 

 レベッカが聞く。

 

 デイビッドの背骨で、サンデヴィスタンが低く唸った。

 

「追いつく」

 

 ひろしは、装甲車へ乗り込む直前に振り返った。

 

 巨大な身体を持つ若者が、ひとりで空から降りてくる兵士たちを見上げている。

 

 その背中は、家族を守るにはあまりにも頼もしく――ひとりで立つには、あまりにも若かった。

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