クレヨンしんちゃん×Cyberpunk: Edgerunners 嵐を呼ぶ!春日部エッジランナーズ 作:stein0630
ファルコの装甲車には、チャイルドシートがなかった。
「ちょっと! 赤ちゃんを乗せる車なのに、チャイルドシートもないの!?」
「悪いがお嬢さん、この車は赤ん坊を乗せる想定じゃない」
運転席へ滑り込んだファルコが、エンジンを始動させる。
「ロケット弾なら二発まで耐える。子どもの安全基準については保証外だ」
「そんなものよりチャイルドシートを付けなさいよ!」
「次の改装項目に入れとくさ」
みさえは文句を言いながらも、持っていた抱っこひもでひまわりを自分の胸へ固定した。
「ひろし、しんのすけにベルト!」
「分かってる!」
ひろしは後部座席の床から太い固定ベルトを引っ張り出し、しんのすけの腰へ回した。一般車のシートベルトとは違い、身体を座席へ縛り付けるためのものらしい。
「とーちゃん、オラを荷物にする気?」
「いまは荷物でも何でもいい! 座ってろ!」
「ワレモノ注意でお願いします」
「シロも伏せろ!」
「アン!」
シロはしんのすけの足元へ身体を丸めた。
最後に乗り込もうとしたレベッカを、みさえが慌てて引き寄せる。
「あなたも早く!」
「うわっ、引っ張んな! アタシはここで援護すんだよ!」
「子どもがそんな所に立ったら危ないでしょ!」
「誰が子どもだ、クソババ――」
レベッカはみさえの胸元に固定されたひまわりを見て、言葉を呑み込んだ。
「……とにかく放せ! 撃てねえだろ!」
屋根の穴から、黒い人影が次々と降りてくる。
アラサカの兵士たちは、着地と同時に散開した。銃口が一斉に装甲車へ向けられる。
『回収対象を確認。成人二、未成年二、動物一』
拡声器を通した声が倉庫内へ響く。
『対象は無傷で確保。傭兵は排除を許可する』
「ほらな」
レベッカが車外へ身を乗り出した。
「アタシらは殺していいってさ!」
「嬉しそうに言うこと!?」
「分かりやすくていいだろ!」
銃声が重なった。
レベッカのショットガンが火を噴き、前方の兵士を吹き飛ばす。直後、装甲車の外板を無数の弾丸が叩いた。
車内にいるひろしたちへ弾は届かない。
それでも、金属越しの衝撃は腹の底まで響いた。
ひまわりが泣き出す。
「大丈夫、大丈夫だからね」
みさえはひまわりの後頭部を胸へ押しつけ、耳を塞いだ。
しんのすけは窓の外を見ようとしなかった。
足元のシロを撫でながら、小さな声で言う。
「アクション仮面なら、こういうときワッハッハって出てくるんだけど」
「ああ」
ひろしはしんのすけの肩を抱いた。
「でも今日は撮影がお休みみたいだな」
「日曜なのに?」
「ヒーローだって休むんだよ。たぶん」
「とーちゃんは日曜でも連れ出されたけどね」
「言うな」
冗談にしては、ひろしの声はひどく震えていた。
車外では、デイビッドがひとりで兵士たちの前に立っている。
黄色いジャケットの背中へ、複数の照準光が集まった。
『デイビッド、スマートリンクを切って!』
ルーシーの声が回線へ割り込む。
『アラサカが照準補助から侵入しようとしてる!』
「キーウィ!」
『もう妨害してる。向こうのネットランナーが二人。少しは自分でも避けて』
「十分だ」
デイビッドの背骨が発光した。
世界が赤く引き延ばされる。
兵士たちの銃が火を噴いたとき、デイビッドはすでにその場から消えていた。
一人目の懐へ潜り込み、銃を上へ逸らす。肘で装甲マスクを砕き、倒れる前に二人目へ身体ごとぶつける。
背後から追尾弾が曲がってくる。
デイビッドは振り返らずに身を沈めた。弾丸は彼を追い越し、正面にいた兵士の胸へ突き刺さる。
速度が戻った瞬間、銃声と衝撃音がまとめて爆発した。
「ファルコ、出せ!」
デイビッドの声が回線に響く。
「まだあいつが乗ってないぞ!」
ひろしが叫んだ。
「だから出すんだよ!」
レベッカが後部扉に片足をかけ、外へ向かって撃ち続ける。
「デイビッドなら追いつく! ここにいたら、アタシらまで囲まれる!」
ファルコがアクセルを踏み込んだ。
装甲車が鉄骨や廃材を跳ね飛ばしながら、倉庫の東門へ突進する。
外から何かが後部扉を掴んだ。
黒い装甲腕が隙間から入り込み、強引に扉を開こうとする。
「うおおおっ!」
ひろしは反射的に取っ手へ飛びついた。
だが、生身の腕で張り合える相手ではなかった。扉が少しずつ開き、ひろしの身体が浮き上がる。
「あなた!」
「とーちゃん!」
「おとなしく乗ってろ!」
ひろしは歯を食いしばった。
扉の隙間から、無表情な装甲マスクが覗く。
銃口がひろしの腹へ向けられた。
「邪魔だ!」
レベッカが身を滑り込ませた。
「耳塞いでろ、サラリーマン!」
「え?」
ショットガンが至近距離で炸裂した。
装甲腕の兵士が車外へ消える。扉が閉まり、その反動でひろしとレベッカは車内へ転がった。
「痛てて……」
「ったく、ガニックがクロームと力比べしてんじゃねえよ。腕ごと持ってかれるぞ」
「俺だって好きでやったんじゃない!」
「でも逃げなかったじゃん」
「家族が後ろにいたんだよ!」
レベッカは起き上がりながら、ひろしを横目で見た。
「ふうん」
「何だよ」
「別に」
装甲車が門を突き破り、夜の幹線道路へ飛び出した。
頭上では、二機のAVが旋回している。
『追跡機、来る!』
ルーシーの警告と同時に、車体が大きく揺れた。
一機のAVが道路すれすれまで降下し、装甲車の側面へ体当たりしたのだ。
みさえたちの身体が横へ投げ出される。
「しんのすけ!」
「ベルトしてるゾ!」
「ならいい!」
「オラへの心配、終わるの早くない?」
ファルコは車体を立て直し、対向車線へ突っ込んだ。
無人配送トラックが急停止する。荷台から色鮮やかな包装食品が道路へ散乱した。
「どいてくれよ、チューマ!」
ファルコがハンドルを切る。
巨大なタイヤが歩道へ乗り上げた。ホログラム広告の支柱をなぎ倒し、そのまま路地へ突入する。
窓の外を、ナイトシティが流れていく。
けばけばしい照明に照らされた屋台。
身体の半分以上を機械へ置き換えた男。
路上で動かなくなった人間の隣を、誰も足を止めずに歩いている。
燃えている車の上では、巨大な企業広告が笑顔で医療保険を勧めていた。
ひろしは、しんのすけの頭を抱き寄せた。
「見るな」
「さっきも言ってたけど、どこを見てもだいたい同じだゾ」
「だから見るなって言ってるんだ」
「とーちゃんは見ていいの?」
「俺は……父ちゃんだからな」
答えになっていなかった。
しんのすけはそれを指摘せず、ひろしのシャツを掴んだ。
『次の交差点を左』
キーウィが指示する。
『その先の交通網を落とした。自動運転車が止まるまで十五秒』
「了解」
『待って、左はダメ』
ルーシーが割り込んだ。
『アラサカが先回りしてる。右の高架下へ。そこならAVは高度を下げられない』
『私のスキャンには何も出てないけど』
『だから待ち伏せなの』
一拍置いて、キーウィが答える。
『……右よ、ファルコ』
ファルコは迷わずハンドルを右へ切った。
直後、左側の道路へ対車両用バリケードがせり上がる。物陰に伏せていた兵士たちが一斉に姿を現した。
「助かったぜ、ルーシー」
『まだ。後ろの一機がついてきてる』
シロが突然、後部座席へ向かって吠えた。
「アン! アンッ!」
「どうした、シロ」
しんのすけが覗き込む。
装甲板の継ぎ目に、針ほどの赤い光が点滅していた。
「何か光ってるゾ」
レベッカの顔色が変わる。
「伏せろ!」
彼女はしんのすけの襟首を掴み、床へ引き倒した。
同時に赤い光が車内へ細い走査線を放つ。
「追跡ダートだ!」
レベッカが銃床で装甲板を殴る。
「外側から刺さってやがる!」
『破壊しないで。発信が途絶えた位置を調べられる』
ルーシーが言った。
『信号を複製する。十秒ちょうだい』
「その十秒で追いつかれるぞ!」
『デイビッドがいる』
「どこに――」
AVの上部で爆発が起きた。
赤い残光とともに、デイビッドが追跡機の機体へ着地している。
腕に内蔵された発射装置から、二発目の弾頭が飛び出す。AVの推進器が吹き飛び、機体が大きく傾いた。
デイビッドは墜落する直前に跳躍した。
装甲車の屋根が轟音とともにへこむ。
「うわっ、何!?」
「デイビッドだ!」
レベッカが天井を叩く。
「屋根壊すんじゃねえ!」
返事の代わりに、後部扉が開いた。
デイビッドが車内へ転がり込む。ファルコは速度を落とさなかった。
その鼻から、細い血の筋が流れている。
「お兄さん、鼻血」
しんのすけが言った。
「平気だ」
「オラもチョコビ食べすぎると、たまに出るゾ」
「関係ない」
「じゃあ、きれいなおねいさんを見すぎた?」
「しんのすけ!」
みさえの拳が飛ぶ前に、装甲車が急降下した。
高架下の保守用トンネルへ入り込み、外の光が途絶える。
『複製完了』
ルーシーの声が響く。
『ダートの信号を、さっきの配送トラックへ移した。追跡機はそっちを追ってる』
後部装甲板の赤い点滅が消えた。
しばらくして、AVの飛行音も遠ざかっていく。
誰もすぐには口を開かなかった。
聞こえるのは、装甲車のエンジン音と、ひまわりのすすり泣きだけだった。
デイビッドは血を拭い、壁へ背中を預けた。
「キーウィ、ここから先のカメラは?」
『死んでる。正確には、三年前から修理されてない』
「追跡は切れたか」
『いまのところは』
ファルコがバックミラー越しにデイビッドを見る。
「行き先は?」
「ランチョのセーフハウス」
『あそこを使うの?』
キーウィが聞いた。
「俺の家には連れていけない。アラサカが何を追ってるか分からない」
『懸命ね』
ルーシーの声が少しだけ柔らかくなった。
「ルーシーも来られるか」
回線の向こうで、沈黙が落ちた。
『……データを直接見たい。裏口から行く』
通信が切れる。
レベッカはデイビッドの横顔を見たが、何も言わなかった。
*
セーフハウスは、閉店したコインランドリーの地下にあった。
地上の看板は半分落ち、残った文字が青白く明滅している。ファルコは建物裏の貨物用昇降機へ装甲車を乗せ、そのまま地下へ下りた。
厚い扉が閉まり、外界の音が遮断される。
「着いたぞ」
「ここが安全なの?」
みさえが薄暗い室内を見回した。
壁には銃や弾薬が並び、中央のテーブルには分解途中の武器が置かれている。隅には古いソファと簡易キッチンがあった。
「さっきの倉庫よりはな」
レベッカが答える。
「比較対象が低すぎるわよ」
「注文多いな、アンタ」
「赤ちゃんがいるんだから当然でしょ。お湯は出る?」
「銃撃された直後に最初に聞くことがそれかよ」
「ミルクを作るの!」
みさえはテーブルへ近づき、置かれていた拳銃を指差した。
「これ、どけて」
「は?」
「ひまのオムツを替えるから。早く」
「ここは武器の整備台だぞ!」
「いまからオムツ交換台よ」
レベッカとみさえが睨み合う。
先に折れたのはレベッカだった。
「チッ。デイビッド、そっち持て」
「俺が?」
「アンタが連れてきた家族だろ!」
デイビッドは何も言わず、テーブルの上の銃をまとめて箱へ移した。
ファルコは帽子のつばを下げ、壁の方を向く。
「終わったら教えてくれ、お嬢さん」
「あら、あなたは気が利くのね」
「長く生きるには、見なくていいものを見ないことさ」
ひろしは腕にできた切り傷を確かめていた。倉庫を出る際、飛び散った金属片で切ったらしい。
「あなた、血が出てるじゃない!」
「こんなの、かすり傷だよ」
「見せなさい!」
「だから平気だって――痛い痛い! そこ押すな!」
みさえが傷口へ消毒用のウェットシートを押し当てる。
「ケガしてるなら早く言いなさいよ!」
「言う暇があったか!?」
「バイ菌が入ったらどうするの!」
「銃弾が飛んでるときに、バイ菌の心配までできるか!」
「オラもお腹すいた」
しんのすけが割って入った。
「いま、その話してないでしょ」
「お腹は話が終わるまで待ってくれませんな」
レベッカが棚から包装された棒状の食品を投げる。
「ほら。食えるぞ」
しんのすけは受け取り、袋の匂いを嗅いだ。
「これは?」
「プロテイン入り合成食品」
「お菓子?」
「味は保証しねえ」
ひと口齧ったしんのすけの動きが止まった。
「……粘土?」
「だろ?」
レベッカが笑う。
「食べ物を無駄にしない!」
みさえに叱られ、しんのすけは渋い顔で二口目を齧った。
「未来の人は、これを食べてまで長生きしたいの?」
「長生きできるとは言ってねえよ」
レベッカが答えた。
その言葉に、ひろしが顔を上げる。
レベッカはもう笑っていなかった。
みさえはしんのすけから合成食品を半分受け取り、自分で味を確かめた。
「……本当に粘土みたい」
「かーちゃんも食べ物を悪く言った」
「これは感想よ」
残りをひろしへ渡す。
「あなたも食べる?」
「いや、俺はいい」
「次いつ食べられるか分からないでしょ」
「じゃあ少し」
ひろしが齧り、顔をしかめる。
しんのすけがそれを見て、少しだけ笑った。
ひまわりのオムツを替え、ミルクを飲ませ終えるころには、銃声の余韻も遠くなっていた。
だが、状況は何も好転していない。
テーブルの中央に、銀色の翻訳端末が置かれた。今後はそれを介し、全員の言葉が日本語として聞こえる。
ひろしとみさえはソファへ並んで座った。しんのすけは二人の間。ひまわりはみさえの膝。シロはその足元から離れない。
向かい側には、デイビッドとレベッカ。
ファルコは入口近くの椅子に座り、帽子を脱いだ。
「まず確認したい」
ひろしが言った。
「あなたたちは何者なんだ」
「エッジランナー」
デイビッドが答える。
「道路の端っこを走る人?」
しんのすけが首を傾げる。
「違う。金をもらって、企業やギャング相手の仕事をする」
「警察みたいなものか?」
「正反対」
「じゃあ犯罪者じゃない!」
みさえが声を上げた。
「否定はしない」
「否定しなさいよ、そこは!」
「嘘をついても仕方ない」
みさえは言葉を失った。
ひろしが慎重に尋ねる。
「さっきの連中は?」
「最初にいたのはスカヴ。人間を襲って、クロームや臓器を売る。後から来たのはアラサカの企業兵」
「アラサカってのは、会社なのか」
「世界でも最大級の企業だ」
ファルコが答えた。
「銀行、警備、兵器、ネット、サイバーウェア。国より力を持ってると思った方が早い」
「そんな会社、聞いたこともないぞ」
「だから、あんたたちの話が本当なら妙なんだ」
ひろしは顔を覆った。
「頭がおかしくなりそうだ……」
「私だってそうよ」
みさえが言う。
「でも、考えるのをやめたって帰れないでしょ」
「帰る方法があるのか?」
デイビッドは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「俺たちを助けて、これからどうするつもりなんだ」
「調べる」
「分からなかったら?」
「そのとき考える」
「ずいぶん無責任だな」
ひろしの声が強くなった。
「俺たちには帰る家があるんだ。仕事だってある。しんのすけには幼稚園があるし、ひまはまだ赤ん坊だ。いきなり五十年後だか外国だかに連れてこられて、そのとき考えるじゃ困るんだよ!」
「とーちゃん」
しんのすけがひろしの袖を引いた。
デイビッドは怒らなかった。
「俺が連れてきたんじゃない」
「分かってる!」
「でも、あそこに置いてくることはできなかった」
ひろしは口を閉じた。
倉庫で、自分の前へ立った黄色い背中を思い出す。
「……そうだな」
ひろしは両膝へ肘をついた。
「悪かった。助けてもらったのに」
「別に」
「デイビッドはそういう奴なんだよ」
レベッカが壁へ寄りかかる。
「ヤバいもん拾って、あとからどうにかすりゃいいって思ってんの。昔っからな」
「うるさい」
「今回は家族まるごとだぞ。犬付き。新記録じゃん」
「オラ、拾われたの?」
しんのすけがデイビッドを見る。
「捨てた覚えはないけど」
「捨てません!」
みさえが即座に否定した。
「そういえば」
レベッカがひろしの名刺を指で弾いた。
「普通の会社員って言ってたよな。毎日何してんだ?」
「営業だよ。取引先を回ったり、見積もりを作ったり、上司に怒られたり」
「銃は?」
「持たない」
「護衛は?」
「いない」
「そんなので、よく毎日帰ってこられるな」
「普通は帰ってくるんだよ」
ひろしは少し考えた。
「終電を逃すことはあるけど」
「それは帰ってきたって言わないわよ」
みさえが睨む。
「その話は今しなくてもいいだろ」
「家は持ち家?」
ファルコが尋ねた。
「ああ。まだローンがある」
「どのくらいだ」
「残り三十四年」
「三十四年!?」
レベッカが目を見開いた。
「三十四年も先まで払うつもりで家買ったのかよ」
「買うときは三十五年だったわよ」
「増やすな、みさえ!」
「だって事実でしょ」
レベッカは信じられないという顔で二人を見た。
「三十五年後まで生きてる前提かよ」
ひろしは答えに困った。
みさえが代わりに言う。
「そりゃ、そのつもりで買うでしょ。途中で死ぬつもりで家なんか買わないわよ」
「ガキがいるから?」
「子どももいるし、シロもいるし。家族で住むためよ」
みさえにとっては、説明するほどのことでもないらしかった。
レベッカは何も言わず、目を逸らした。
デイビッドも黙っていた。
三十五年。
そんな長さを、自分の人生として考えたことはなかった。
明日の仕事。
次の報酬。
次に入れるクローム。
ルーシーを月へ送るための金。
未来とは、いつも誰かから受け取った夢の先にあった。
自分が三十五年後にどこで何をしているかなど、想像しようとしたこともない。
「デイビッド」
ひろしの声で、思考が途切れた。
「その身体は……サイバーウェアってやつなのか」
「そうだ」
「自分で選んだのか?」
デイビッドの眉が、わずかに動いた。
「必要だった」
「そうか」
ひろしはそれ以上聞かなかった。
否定も、説教もしなかった。
ただ、デイビッドの震えが止まった右手を一度見てから、しんのすけの乱れた髪を直した。
地下入口のランプが三度、短く点滅した。
全員の視線が扉へ向く。
「合図は合ってる」
デイビッドが立ち上がった。
扉を細く開ける。
白い髪の女が、フードを深く被って立っていた。
ルーシーは室内へ入ると、まず入口を閉め、次に銃の位置を確認し、最後に野原一家を見た。
青紫の瞳が、ひろし、みさえ、しんのすけ、ひまわり、シロの順に動く。
「本当に家族」
「言っただろ」
「あなたの説明だけじゃ、五割は疑う」
「残りの五割は?」
「家族を拾うなら、あなたらしいと思った」
レベッカが鼻を鳴らした。
「はいはい。再会の挨拶はあとにしてくれ」
ルーシーはレベッカを一瞥し、デイビッドの鼻元に残った血へ目を止めた。
「何回使ったの」
「三回」
「四回」
「最後は追いつくために必要だった」
「回数を聞いた。理由は聞いてない」
「まだ平気だ」
「それも聞いてない」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
みさえはそのやり取りをじっと見ていたが、口は挟まなかった。
「おお」
しんのすけがソファから降りる。
「白い髪のきれいなおねいさーん」
ルーシーの右手が反射的に腰へ動いた。
みさえがしんのすけの襟を掴み、引き戻す。
「いきなり近づかない!」
「ご挨拶しようとしただけなのに」
「この街では、その母親の方が正しい」
ルーシーは警戒を解かなかった。
「名前は?」
「野原しんのすけ。五歳です。おねいさんは、デイビッドお兄さんの恋人?」
デイビッドが咳き込んだ。
レベッカの眉が吊り上がる。
ルーシーだけは、表情をほとんど変えなかった。
「どうしてそう思ったの」
「お話しするとき、お顔は怒ってたけど、おめめは心配してたから」
今度こそ、ルーシーは言葉に詰まった。
「しんのすけ、余計なこと言わないの!」
「余計かどうかは、おねいさんが決めることですな」
「黙りなさい!」
ルーシーは視線を逸らし、テーブルへ向かった。
「端末を見せて」
ひろしが携帯電話を差し出す。
ルーシーは直接触れず、透明なシートの上へ置かせた。
「ずいぶん古い型ね」
「買って一年も経ってないぞ」
「私たちの基準では、ネットに接続できない骨董品」
ルーシーの指先から細いケーブルが伸びる。だが、端末へ挿すことはせず、非接触の走査機をかざした。
キーウィの映像が壁のモニターへ現れる。口元を覆うフェイスプレートの向こうから、冷静な目がデータを追っていた。
『端末の内部時計は進んでる。午前十一時四十七分』
「こっちは夜なのに?」
みさえが尋ねる。
「時差でしょ」
ひろしが言う。
「そういう問題じゃない」
ルーシーが画面を拡大した。
「通信規格、地図、通貨、企業名。どれも、私たちの二〇二六年と一致しない」
「五十年前なら、違って当然じゃないのか?」
「違いすぎる」
ルーシーは、ひろしの名刺を隣へ置いた。
「私たちの歴史では、二〇二六年の時点でアラサカは世界中に拠点を持ってた。日本に住んでいて、名前さえ知らないなんてあり得ない」
「本当に知らないわよ」
「この端末が使ってるネットも、私たちの世界では成立してない。通ってきた歴史そのものが違う」
ひろしは理解できず、黙り込んだ。
みさえが慎重に聞く。
「つまり、どういうこと?」
ルーシーは五人を見た。
「あなたたちは、私たちの五十年前から来たんじゃない」
しんのすけが首を傾げる。
「じゃあ、どこから来たの?」
「別の二〇二六年」
地下室の機械音だけが聞こえた。
「歴史の違う、別の世界」
「そんなの……」
みさえがひまわりを抱く手に力を込める。
「そんなの、もっと意味分かんないじゃない」
「私にも分からない。物質を別の世界へ移す技術なんて、少なくとも公には存在しない」
「帰れるのか?」
ひろしが尋ねる。
ルーシーは安易に頷かなかった。
「分からない」
「でも、あの箱は俺たちをここへ――」
「だから、経路は存在する。ただし、装置はアラサカに回収された。残っているのは、キーウィが抜いた断片と、この端末だけ」
「なら、調べて」
みさえが言った。
「危険よ」
「もう十分危険な目に遭ってるわ」
「深く触れば、アラサカに見つかるかもしれない」
「でも、私たちには他に頼れる人がいないの」
ルーシーは、みさえを見つめた。
怯えているはずなのに、目を逸らさない。
膝では赤ん坊が眠り、右手は息子の肩に置かれている。夫はその隣で、何もできない自分を責めるように拳を握っていた。
シロまでが、家族の足元でルーシーを見上げている。
ひとつの塊のようだった。
「今夜だけ」
ルーシーが言った。
「オフラインで調べる。帰れるとは約束しない」
「それでいいわ」
「よくねえよ」
ひろしが小さく言う。
「帰れなきゃ困る」
「あなた!」
「でも、調べてもらうしかない。お願いします」
ひろしは頭を下げた。
ルーシーは答える代わりに、携帯電話の走査を再開した。
突然、端末が震えた。
全員が動きを止める。
黒かった画面に、着信表示が浮かんでいる。
電話番号は表示されていなかった。
代わりに、日本語で一行だけ書かれていた。
発信地域――埼玉県春日部市。
「春日部……」
ひろしが端末を掴もうとする。
「待って」
ルーシーが手首を押さえた。
「この端末は、こっちの通信網には繋がってない」
「じゃあ、これ何なのよ」
「分からないから待って」
着信音が鳴り続ける。
野原家で聞き慣れた、ごく普通の電子音だった。
「切れちゃう!」
みさえが言う。
「向こうからかもしれないのよ!」
「罠かもしれない」
「それでも出る」
ひろしはルーシーの手を外した。
「俺たちの世界からなら、これが最初で最後かもしれない」
ルーシーは数秒考え、端末を銀色の遮蔽ケースへ入れた。
「スピーカーにして。十秒で切る」
ひろしが通話ボタンを押す。
「もしもし!」
激しい雑音。
遠くで誰かが叫んでいる。
『――らさん……野原さん!?』
ひろしとみさえが同時に立ち上がった。
「あのときの係員さん?」
『聞こえますか! 未来防災フェアの佐伯です! いま、どこにいるんですか!?』
「春日部なんですか!」
『春日部です! 扉を開けたら、中が別の部屋に変わっていて……警察も消防も来ています! 野原さんたちはどこに――』
「ナイトシティ」
しんのすけが電話へ顔を寄せる。
「五十年後の外国だゾ」
『え?』
「しんのすけ、ちょっと黙って!」
「そっちの日付は!」
ひろしが叫んだ。
「何年何月何日ですか!」
『二〇二六年八月九日です! 何を言って――』
通信に別の音が混じった。
低い機械音。
ルーシーの瞳が細くなる。
「切って」
「まだだ!」
「誰かが回線へ入った」
係員の声が途切れ、代わりに感情のない日本語が流れた。
『基準世帯、四名および伴侶動物一頭との双方向接続を確認』
携帯電話の画面に、赤い三つ又の紋章が浮かぶ。
『帰還経路の再構成を開始します』
「帰還……?」
みさえが息を呑んだ。
『次回同期窓を算出』
画面が切り替わる。
七十一時間五十九分五十九秒。
数字が一秒ずつ減り始めた。
「三日後」
デイビッドが呟く。
電話の向こうで、係員が必死に何かを叫んでいる。
その背後から、別の声が聞こえた。
英語だった。
ルーシーとキーウィの表情が同時に変わる。
『接続経路を捕捉。回収対象の現在座標を照合する』
ルーシーは携帯電話から電池を引き抜いた。
それでも画面は消えなかった。
赤い紋章と、減り続ける数字だけが残っている。
「いまのも、アラサカ?」
ひろしが聞いた。
「ええ」
ルーシーは端末を見つめたまま答えた。
「帰る道があることを、向こうも知った」