一月一日、元旦。
新しい一年の始まりを告げる空気は、痛いほどに冷たく澄み渡っていた。
古都・鎌倉の象徴である鶴岡八幡宮は、新春の陽光を浴びる朱色の本殿を背に、途切れることのない参拝客の熱気で満ち満ちている。玉砂利を踏みしめる無数の足音、新春の風に揺れる木々のざわめき、そして破魔矢や絵馬を手にした人々の談笑が、厳かな境内に独特のにぎわいをもたらしていた。
そんな喧騒のなかにあって、ひときわ周囲の目を引く一組の男女がいた。
黒川あかねは、新春の風にショートボブの青髪を軽く揺らしながら、おどおどとした様子で隣を歩く少年の顔を盗み見ていた。今日の彼女は、いつもとは違う。普段の落ち着いた私服姿も魅力的だが、元旦の今日、彼女が身にまとっているのは鮮やかな藍色の振袖だった。裾に広がる大輪の牡丹と、繊細な金糸の刺繍が、彼女の清楚な顔立ちをいっそう引き立てている。慣れない草履の歩調に合わせるようにゆっくりと歩く彼女の姿は、周囲の参拝客が思わず振り返るほどの瑞々しい美しさを放っていた。
その隣を歩くのは、日野ハルト。百八十六センチという恵まれた体躯に、仕立ての良い黒のロングコートを羽織った姿は、雑踏のなかでも否応なしに目立つ。アッシュグレーのウルフカットから覗く山吹色の色の瞳が、周囲の喧騒をどこか冷めた、しかし確かな観察眼で見つめていた。
そしてハルトの首元には、シックなコートの印象とは少し毛色の違う、しかし丁寧に編み込まれたマフラーが巻かれている。赤と山吹色、そして鮮やかなオレンジ色が混ざり合ったボーダー柄。それは数日前、あの怒濤のクリスマス二四時間生配信の夜に、あかねが彼に手渡した手編みのマフラーだった。
「……本当に、つけてきてくれたんだね、ハルトくん」
あかねは、白い息を吐き出しながら、少しはにかむように微笑んだ。昨年末の配信を境に、彼女はハルトを「ハルトくん」と呼ぶようになっていた。まだその響きに自分自身が照れてしまうところはあるものの、口にするたびに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じている。
「当たり前だろ。せっかくもらったんだから、こういう特別な日に使わなくてどうするんだよ」
ハルトはマフラーの端に軽く触れ、ふっと表情を和らげた。普段の、ビジネスライクでどこか冷徹さすら感じさせるYouTuber『HARU』の仮面は、彼女の前では綺麗に剥がれ落ちている。
「色合いも俺の目の色に合ってるし、何よりめちゃくちゃ温かい。あかねの器用さがよく分かるよ」
「よかった……。ちょっと派手すぎたかなって、後から少し心配になってたから」
あかねはほっと胸をなでおろし、自らの両手を振袖の袂のなかでぎゅっと握りしめた。
本殿への参拝を終え、二人は少し人混みを外れた境内の一角へと移動した。古い巨木の木陰からは、色鮮やかな着物を着た参拝客たちが楽しげに行き交う様子が見える。しかし、あかねの表情は、参拝を終えた安堵感からか、徐々に陰りを帯び始めていた。
ハルトはその変化を見逃さない。彼女の視線が、時折ポケットの中のスマートフォンに向かいそうになり、それを自制するように躊躇う動きを、完璧に察知していた。
「……配信の後、やっぱりいろいろ言われてるか」
ハルトの静かな声に、あかねは肩をびくりと揺らした。隠し通せるわけがないと分かってはいたが、自分の心の揺れがこうも簡単に読まれてしまうことに、少しだけ気恥ずかしさと、それ以上の救いを感じてしまう。
「うん……。あの、ね。本当に、すごい影響力だったから」
あかねはぽつりぽつりと、自分の胸の内に溜まっていた澱を吐き出すように語り始めた。
クリスマス二十四時間生配信。ハルトが仕掛けたその一大イベントは、同接十万人を超える大爆発を見せ、大成功のうちに幕を閉じた。しかし、それは同時に、劇団ララライの一役者に過ぎなかった〝黒川あかね〟という存在を、濁流のようなネット社会の真ん中へと引きずり出すことでもあった。
特に、深夜二時のカラオケ雑談中にあかねがやらかした「ハルトくん」という誤爆。そして、その後に行われた、背筋が凍るような
「『HARUの幼馴染枠、あざとすぎて無理』とか、『天才役者って自称してる割に、男の配信で売名かよ』って……。もちろん、応援してくれる人もたくさん増えたのは分かってるの。インスタのフォロワーも信じられないくらい増えたし、劇団のHPにも私の名前でアクセスがたくさんあったってマネージャーさんが喜んでた。でも……」
あかねの言葉が途切れる。彼女の端正な顔が、苦しげに歪んでいた。
「どうしても、一割か二割くらいある、すごく鋭い刃物みたいな言葉が、頭から離れなくて。文字として網膜に焼き付いちゃうの。私は、ただハルトくんと……、ううん、役者として良いものを見せたくて必死だっただけなのに、ネットの人たちから見たら、私はただの『男に媚を売る生意気な女』なのかなって」
彼女は真面目すぎた。名門中学のお受験を突破し、高い偏差値を誇るその頭脳は、他者の悪意すらも精緻に分析しようとしてしまう。劇団のララライで培った高い共感能力とプロファイリング能力が、皮肉にも、ネットの向こう側にいる顔も見えない有象無象の悪意の背景まで想像させ、彼女の心を自傷的に蝕んでいた。
「あかね」
ハルトの低く、しかし驚くほどに優しい声が、あかねの思考の連鎖を断ち切った。
気がつくと、ハルトの大きな手が、彼女の細い肩にそっと置かれていた。ハルトのひまわりのような瞳が、まっすぐにあかねを見つめている。そこには同情ではなく、揺るぎない確信と、彼女を全肯定する強い意志が宿っていた。
「真面目に受け取るな、とは言わない。お前のその繊細さと真面目さがあるからこそ、お前は誰も真似できない最高の演技ができるんだからな。でもな、あかね。ネットの叩きなんてものは、天気予報の明日は雨が降るでしょうくらいのノイズだと思え」
「ノイズ……?」
「そう。あいつらは、お前という人間を見て叩いてるんじゃない。画面の向こう側に映った、自分たちが叩きやすいように解釈した黒川あかねというキャラクターを叩いて、ストレスを解消してるだけだ。一億総総表現者時代なんて言われてるけど、その実態は、ただの便所の落書きのデジタル化だよ。そんなものにお前の綺麗な心を割く価値は一ミリもない」
ハルトは一呼吸置き、あかねの目をじっと見つめたまま、言葉を続けた。
「それに、知名度が上がるっていうのは、そういう毒を飲むこととイコールなんだ。悪名だろうが何だろうが、今の世の中、認知されない存在はいないのと同じ。お前の演技の凄さは、あの配信を観た人間なら絶対に理解してる。実際、業界の人間からの注目度は跳ね上がってるはずだ。あかねの事務所の社長さんだって、この数字を見て内心ガッツポーズしてるはずだよ」
ハルトの現実的でありながらも、自分を信じ切ってくれている言葉の数々に、あかねの胸の奥の支えが少しずつ軽くなっていく。
「俺がついてる。お前がどんなに叩かれようが、炎上しようが、俺がいつでもお前を泥沼から引き上げてやれる。だから、お前はただ、自分の信じる役者としての道を真っ直ぐに進めばいいんだ」
「ハルトくん……」
あかねの瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。しかし、それは先ほどまでの絶望の涙ではなく、救われたことへの感謝と、目の前の少年に対する、抑えきれない愛おしさゆえの情緒だった。
「……ありがとう。私、やっぱりハルトくんがいてくれないとダメみたい」
「弱気になるな。お前は俺の自慢の幼馴染で、俺が世界で一番才能を認めてる役者なんだからな。ほら、冷えないうちに甘酒でも飲みに行こうぜ。草履、足痛くないか?」
「うん、大丈夫。ハルトくんの歩幅に合わせて歩くから」
あかねは少しだけ大胆に、ハルトのコートの袖をきゅっと掴んだ。ハルトは照れ臭そうに視線を逸らしながらも、彼女が歩きやすいように、さらに歩調を緩めて歩き出すのだった。
☆ ★ ☆
季節は巡り、凍てつくような冬の寒さは、柔らかく暖かな春の陽気へと移り変わっていた。
四月。新学期を迎え、ハルトとあかねは高校二年生へと進級していた。クラス替えというイベントを経て、二人は運良く同じクラスの、それも窓際の席で前後になるという奇跡的な配置を勝ち取っていた。
学校の放課後。春の柔らかな西日が差し込む通学路を、二人は並んで歩いていた。制服のブレザーを軽く着崩したハルトと、真面目にボタンを留め、スクールバッグを両手で持ったあかね。その対照的な二人の姿は、すでに学校内でも実体はどうあれお似合いの美男美女カップルとして、半ば公認の扱いを受けている。
「あかね、最近劇団のほうはどうなんだ? 新しい舞台のオーディションとかさ」
ハルトが、頭の後ろで手を組みながら気怠げに尋ねた。
「うーん、いくつかお話はもらってるんだけど、マネージャーさんが『今は焦って小さな役をやるより、もっと知名度を一気に上げられる大きな仕事を狙おう』って言ってて。少し足踏み状態かな」
あかねは少し眉をひそめながら答えた。年末の配信以来、彼女の知名度は確かに上がったが、それがかえって事務所の売り出し方を慎重にさせている側面もあった。
「まぁ、あの出来る社長のところだしな。ブランディングを気にするのは分かる。あ、そういえばさ、『今日は甘くちで』の最終話観たか?」
ハルトの言葉に、あかねの目がぴくりと反応した。
「『今日あま』……うん、もちろん観たよ」
「そうそう。あのドラマ、相変わらずネットじゃボロクソに叩かれてるよな。、下手な演技だの、オリキャラいらねーだの、超展開すぎるだのってさ。でも最終回はよかったと思わね?」
「うん。そうだね。星野アクアくん、だっけ? 彼のけっこう良かったよね。目を惹くっていうか、
「だよな。ネットでも「最終話だけ神回」って評判みたいだぜ。……まあ、あのザマじゃ明らかに収益は厳しいだろうけど」
「そうなんだ。ハルトくんって、ときどき製作の人みたいなこと言うよね」
「まー、これでもクリエイターなんでね」
戯けた態度のハルトにあかねがくすくすと笑みをこぼす。ふとハルトが表情を改める。
「でさ、久々に有馬かなの演技通しで観たけどさ、なんか妙に浮いてるっていうか……変に悪目立ちしないように抑えてる感じがして、逆に気になったんだよな。お前はどう見た?」
ハルトの問いかけは、役者としての純粋な興味だった。彼は子役時代、五歳の頃に『モルモのやくそく』というドラマで有馬かなと兄妹役を演じ、大ヒットさせた経験がある。彼女の本来のポテンシャルを誰よりも知っている一人だからこその、冷徹な分析だった。
あかねは、通学路の端に咲く菜の花を見つめながら、複雑な表情を浮かべた。
「かなちゃん……。彼女、周りの大根役者たちのレベルに、自分の演技をわざと合わせてるんだと思う」
「合わせてる? あいつが?」
「うん。かなちゃんは、自分が目立ちすぎると作品全体のバランスが崩れるって分かってるの。作品を壊さないために、自分の才能を押し殺して、引き立て役に徹してる……。きっと、
あかねの声に、微かな熱がこもる。それは、幼い頃に憧れ、そして現在は激しくライバル視している「有馬かな」という存在に対する、彼女なりの深い洞察だった。
「私だったら、絶対にそんな妥協はしない。周りがどんなに下手くそでも、私は私の正しいと思う演技で、世界を捻じ伏せる。かなちゃんのやってることはプロとして器用かもしれないけど、私には……自分の才能に対する裏切りに見えちゃうんだ。だから、今のかなちゃんを見てると、すごくもどかしいし……少し、悔しい」
髪の色も、性格も、演技へのアプローチも正反対の二人。顔を合わせればいつも喧嘩ばかりの二人だが、あかねの根底にあるのは、かつて天才子役として君臨していた有馬かなへの、強烈な憧れとリスペクトの裏返しだった。
「なるほどな。周囲に合わせるセルフプロデュースか、それとも己を貫く憑依か。役者っていうのは本当に業が深い生き物だな」
ハルトは感心したように顎をさすり、それから不敵に微笑んだ。
「でも、俺はやっぱり、周囲を凍りつかせるようなお前の独善的な演技のほうが好きだけどな。そのほうが観ていてゾクゾクする」
「もう、ハルトくんはすぐそうやってからかう……」
あかねは顔を赤くしながら、ぷいと横を向いた。しかし、その足取りはどこか軽やかだった。
二人がそんな雑談を交わしながら坂道を登りきると、住宅街の一角に、新しく改装されたモダンな一軒家が見えてきた。
周囲の古風な住宅のなかで、コンクリート打ちっぱなしの外壁と、大きなガラス窓が目を引くその建物こそが、ハルトの現在の「スタジオ兼自宅」だった。ハルトが日夜、動画編集や「ソレイユ」としての楽曲制作に没頭する城である。
「よし、到着。あかね、今日は久しぶりにうちで夕飯食べてくだろ? 新しい機材のテストを手伝ってほしいんだ」
ハルトがポケットからカラビナのキーホルダーを取り出しながら言った。
あかねは、その見慣れた、しかし入るたびに少しだけ緊張する彼の家の扉を見つめ、満面の笑みを浮かべた。
「うん! 私、今日のために新しいレシピ覚えてきたんだから。ハルトくんの胃袋、びっくりさせてあげるね」
「そいつは楽しみだ。プロ並みのメシを期待してるぜ」
ハルトが扉を開け、あかねを中へと促す。二人の新しい季節、そしてこれから始まる芸能界という荒波への挑戦を予期させるように、春の心地よい風が、二人の背中を優しく押し出すのだった。
そろそろ予定の回まで到達しそうなので明日からは二話更新です。
更新時間についてはアンケートを用意したのでよければ答えてね。
最新話の更新時間は何時がいいですか?参考までに。
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