五月某日。
黒川あかねが所属する芸能事務所の一角にある小会議室は、西日の差し込む静けさに包まれていた。テーブルの上に置かれた数枚の企画書。そこには、近年若者の間で爆発的な人気を誇るインターネットTVの恋愛リアリティショー、『今からガチ恋始めます』――通称『今ガチ』のロゴが躍っていた。
「――というわけでね、あかね。これはチャンスなのよ」
正面に座る女性マネージャーが、身を乗り出して熱っぽく語りかける。
「年末の『HARU』くんの配信で、あなたの知名度は確かに上がった。ネットのコアな層には天才役者黒川あかねの名前が売れたわ。でも、一般層への浸透はまだまだ足りない。今の若者向けコンテンツで、一番手っ取り早く、かつ爆発的にファンを増やせるのがこの『今ガチ』なの」
あかねは、膝の上できゅっと手を握りしめ、困惑の混じった眼差しで企画書を見つめていた。
「でも……私は劇団ララライの役者ですし、こういうバラエティって、その……すごく苦手で。台本がない中で、咄嗟に面白いことを言ったり立ち回ったりなんて、私には……」
「だからこそよ。あかねの真面目なところは長所だけど、今の芸能界、お芝居が上手いだけじゃ次のステップに行けないの。それにね、これに出演すれば、今まであなたに見向きもしなかった層のティーン誌や、地上波のドラマのキャスティング枠にも食い込める可能性が跳ね上がるのよ。事務所としても、ここは勝負をかけたいところなの」
「それは、分かりますけど……」
あかねが言葉を濁らせた本当の理由は、別のところにあった。
番組のコンセプト上、同世代の男の子たちとカメラの前でデートをし、思わせぶりな態度を取り、最終的には〝告白〟というゴールへ向かって関係性を築かなければならない。
あかねの脳裏に、山吹色のひまわりのような瞳を持つ、一人の少年の顔が浮かぶ。
(……ハルトくん)
幼い頃からずっと焦がれ続け、ようやく年末に〝ハルトくん〟と名前で呼べる距離になった大切な存在。もし自分が別の男の子とカメラの前で恋人繋ぎをしたり、見つめ合ったりしたら、彼はどう思うだろうか。そう考えると、胸の奥がキュッと締め付けられるように痛んだ。
「……少しだけ、考えさせてください。急に言われて、心の準備が……」
「そうね。一週間待つわ。でも、前向きに考えて。これはあんたの役者人生を大きく変える転機になるはずだから」
マネージャーの熱意に押されるようにして、あかねは判断を保留することしかできなかった。
☆ ★ ☆
翌日、学校の昼休み。
五月の爽やかな五月晴れの空が広がる屋上には、心地よい風が吹き抜けていた。
フェンスに背を預け、購買で買った焼きそばパンを口に運んでいるハルトの隣で、あかねは手作りの弁当箱を開けたまま、箸を動かす手が止まっていた。
「――でさ、あの有馬かなの奴、『苺プロ』でアイドルデビューするらしいんだよ。それだけじゃなくて、YouTubeチャンネルも開設して動画投稿始めるんだと。子役時代のプライドをかなぐり捨てて、必死に今のトレンドに食らいつこうとしてる。どんな経緯でそんなことになったかは知らんけど、ビジネスの観点から見て正直かなり面白い動きだと思うんだよな」
ハルトは、アッシュグレーのウルフカットを風に揺らしながら、業界の最新動向を分析するように楽しげに語っていた。
「……あかね? 聞いてるか?」
「え? あ、うん……ごめんなさい、聞いてるよ。かなちゃんが、アイドル……」
あかねの返事は、明らかに上の空だった。いつもなら有馬かなの話題になれば、ライバル心を燃やすか、あるいはファンとしての複雑な表情を見せるはずの彼女が、今日はずっと自分の世界に閉じこもっている。
ハルトはあかね特製のおにぎりを飲み込むと、山吹色の瞳を細めてあかねの顔を覗き込んだ。
「お前、昨日からずっと様子がおかしいぞ。悩み事があるなら言え。俺とお前の仲だろ」
その真っ直ぐな視線に、あかねは胸が痛む。しかし、いつまでも隠し通せることではない。意を決して、あかねは小さく息を吸い込んだ。
「……あのね、ハルトくん。昨日、マネージャーさんから、新しいお仕事のオファーの話を聞かされたの」
「ほう? どんな仕事だ。映画か? 舞台か?」
「ううん……インターネットTVの、恋愛リアリティショー。……『今からガチ恋始めます』っていう番組なの」
その言葉を聞いた瞬間、ハルトの思考回路はまたたく間にトップ配信者『HARU』としての、そして冷静なビジネスマンとしての領域へとシフトした。
「『今ガチ』か。なるほど、あそこのスタッフは見る目があるな。今、女子中高生の間で一番数字を持ってるコンテンツだな。……うーん……少しリスキーか? ……いや、あかねのキャリアアップには受けたほうがいいな」
少し考えた様子のハルトの口から出たのは、躊躇いがちの肯定だった。
「……え?」
あかねの動きがピタリと止まる。
「ハルトくんは……私が、あの番組に出てもいいの?」
「いいの、じゃなくて出るべきだ。プロの目線から言わせてもらえば、メリットが多い。お前の今の課題は知名度の低さと、あとはアドリブ、バラエティでの対応力だろ? ああいう番組は台本がないフリをして、実際は出演者同士の高度な空気の読み合いとキャラ付けが求められる。そこに飛び込むことは、お前にとって最大のウィークポイントを克服する最高の修行場になる」
ハルトは熱弁を振るう。
「お前の〝憑依型演技〟をさらに磨くための、生きた教材だと思えばいい。ここで一般層の認知度を一気に跳ね上げれば、次に来る本業の役者の仕事の規模が二段階は変わる。ビジネスの戦略としては、これ以上ない完璧な一手だ。まあ、あの配信で目立ったのが懸念材料だが、そここそお前の立ち回り次第だろ」
「……そうだ、よね」
あかねは俯き、自分の爪を見つめた。
胸の奥が、冷たい氷水を流し込まれたように冷えていくのを感じていた。
(私は……何を期待してたんだろう)
ハルトが「他の男と恋愛するような番組なんて出るな」って、少しでも怒ってくれたり、嫉妬してくれたりすることをどこかで期待してしまっていた。
身内に対して過保護気味な彼だからこそ、少女としてのあかねは、ほんの少しの我が儘をぶつけてほしかったのだ。
しかし、ハルトの言葉はあまりにも合理的で、プロとして正論すぎた。彼はあかねの才能を誰よりも信じ、彼女が世界に羽ばたくことを願っている。だからこそ、彼女のキャリアにとってプラスになる選択を、一切の私情を挟まずに推奨したのだ。
決定的なすれ違い。ハルトの深い愛情の形が完璧なビジネス的サポートであるからこそ、あかねの恋心は静かに拒絶されたような寂しさを覚えてしまう。
「……分かった」
あかねは顔を上げ、寂しげな微笑みを無理に作った。しかし、その瞳の奥には、徐々に役者としての鋭い光が灯り始めていた。
「ハルトくんがそこまで言うなら、私、やってみる。バラエティは怖いし、上手くできるか分からないけど……役者として、プロとして、その番組を完璧にやりきってみせるよ」
「ああ、その意気だ。お前なら絶対にできる。俺も裏から、ネットの反応のコントロールとかで全力でサポートするからな」
ハルトは満足そうに微笑み、あかねの頭をぽんぽんと叩いた。その手の温もりを感じながらも、あかねは心の中で、これから始まる未知の戦場に向けて、自らの心を深く、深く沈めていくのだった。
☆ ★ ☆
それから数週間後。
都内にある撮影スタジオの特設ロビーにて、『今からガチ恋始めます』の出演者顔合わせが行われていた。
スタジオ内は独特の緊張感と、若者向けの華やかな熱気に包まれている。最新のトレンドファッションに身を包んだ同世代の芸能人たちが、カメラの回っていない場所で、互いに探りを入れるように挨拶を交わしていた。
あかねは、用意されたソファーの端に座り、緊張で強張る身体をどうにか落ち着かせようとしていた。
(みんな、キラキラしてる……。私なんかより、ずっとこういう場所に慣れてる……)
周囲を見渡せば、すでにSNSで何十万人ものフォロワーを持つ有名なファッションモデルの女の子や、今をときめく若手ダンサー、大人気YouTuber、才能溢れるバンドマン――いずれも世間を賑わすインフルエンサーたちが、いとも簡単にその場の空気に馴染んでいる。彼らは台本のない世界で、どうすれば自分が魅力的に映るかを本能的に理解している強者たちだった。
そんな中、一人の少年がロビーに入ってきた。
端正な顔立ちに、どこか冷めたような、しかしすべてを見透かすような独特の雰囲気をまとった金髪の少年――星野アクア。
彼が部屋に入ってきた瞬間、あかねは役者としての本能的なセンサーが、微かに危険を察知するのを感じた。彼は他の出演者のように、自分を良く見せようという過剰なアピールをしていない。むしろ、この番組そのものをどこか冷徹に観察しているような、そんな異質な空気を放っていた。
挨拶回りの最中、アクアの視線があかねへと向けられた。
その瞬間、あかねは背筋にゾクリとした寒気を覚えた。
アクアの瞳の奥にある光は、通常の初対面の共演者に対する挨拶のそれとは明らかに違っていた。それは、何かを激しく品定めし、探り当てようとする、執念に近い鋭利な視線だった。
(……なに見られているの? 私、何かしちゃったかな……)
あかねは思わず視線を泳がせそうになったが、劇団ララライで鍛え上げた役者としての意地で、どうにかその視線を受け止めた。
アクアが探っているもの。それは、黒川あかねという少女そのものではなかった。
アクアの頭の中には、明確な方程式が存在していた。
(黒川あかね……出演者に名前を見つけたときには驚いた。だが、これはチャンスだ。昨年末、あのトップYouTuber『HARU』の二十四時間配信に出演し、一躍話題になった舞台女優。そして俺の調べでは『HARU』――元天才子役日野ハルトの裏の顔は、アイの死に際してあの『アイドル』を作詞作曲した天才コンポーザー『ソレイユ』だ)
アクアは、ポケットの中で静かに拳を握りしめていた。
(『ソレイユ』は、アイの死の真相、あるいはアイが隠していた秘密について、何らかの深い繋がりを持っている可能性が極めて高い。日野ハルトの年齢から考えて直接関わっているとは考えづらいし、俺もアイから彼の名前を聞いた覚えもない。けど、例えば、『アイドル』を書いた人間が裏にいるって線は充分あり得る)
心中の奥底に封じ込めた昏い決意が、どろりとアクアマリンの瞳を黒く染める。
(だが、日野ハルトのガードは固すぎる。個人事務所の管理も完璧で、外部からの接触を完全に遮断している。俺の持ってるコネじゃどうにも接触できない。……なら、彼と最も近い距離にいる幼馴染、黒川あかね。彼女を通じてアプローチをかけるのが最善だ)
アクアの瞳の奥で、復讐の黒い星が微かに揺らめく。
(この番組を利用して、黒川あかねに近づく。彼女を起点にすれば、必ず日野ハルトの懐に潜り込めるはずだ……)
そんなアクアの、底知れない陰謀と執念の視線に晒されているとも知らず、あかねはただ、目の前の過酷なリアリティショーを生き抜くために、深く息を吐き出し、覚悟を決めるのだった。
ネタバレ:この後炎上します【残当】
ストーリーの展開上仕方なかったんや……。アクアとあかねがここで絡まないとお話が進まないからね。
最新話の更新時間は何時がいいですか?参考までに。
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