夜の静寂に包まれた住宅街を進み、ハルトの自宅兼スタジオであるモダンな一軒家へと到着した。
バイクのエンジンが切られると、それまで耳を支配していた重低音の代わりに、虫の声と遠くを走る車の音が静かに響き渡る。ハルトに促されるようにして玄関をくぐり、広々としたリビングダイニングへと案内されたあかねは、慣れ親しんだはずの空間にどこか緊張しながらも、ソファの端にそっと腰を下ろした。
「……座ってろ。まずは腹拵えだ。そんなザマじゃ、まともな思考もできねえだろ」
ハルトはコートをハンガーに掛けながらそう言い残し、手際よくキッチンへと向かった。
しばらくして、静かな部屋に小気味よい包丁の音と、にんにくがオリーブオイルで弾ける芳醇な香りが漂い始める。その暖かな香りに鼻をくすぐられているだけで、あかねの張り詰めていた心が、じんわりと紐解かれていくようだった。
「ほら、食え。遅めの夕食にしちゃちょっと重いかもしれないけど、エネルギー補給だ」
ハルトがテーブルに並べたのは、見るからに食欲をそそる三品だった。
にんにくと唐辛子の香りが鮮烈な、アルデンテに茹で上げられたペペロンチーノ。新鮮なサーモンに色とりどりのパプリカやハーブをあしらった、具沢山のカルパッチョ。そして、じっくりと煮込まれて湯気を立てている、真っ赤なミネストローネ。
「おいしそう……。ハルトくん、本当に料理上手だね」
「料理配信はコスパがいいからな。それより、いいからスープが温かいうちに飲め」
あかねはスプーンを取り、ミネストローネをそっと口に運んだ。
野菜の甘みとトマトの酸味が凝縮された温かい液体が、冷え切っていた胃腑に染み渡っていく。その優しさと、ハルトが自分のために作ってくれたという圧倒的な安心感に包まれた瞬間、あかねの目元に視界を滲ませる熱いものが込み上げてきた。
「……っ、おいしい。すごく、温かい……」
「泣きながら食うなよ、行儀悪いぞ」
ハルトは呆れたように言いながらも、あかねの前にそっとティッシュの箱を差し出した。
温かい食事でお腹を満たし、ようやく落ち着きを取り戻したあかねを見届けると、ハルトは対面の席で腕を組み、山吹色の瞳を真剣なものへと変化させた。
「さて、本題だ。放送を観てるだけじゃ分からない、現場の実際の空気感を聞かせてくれ。お前、スタッフから何か言われただろ」
あかねはスープの余韻に浸りながらも、小さく息を吐き出して答えた。
「……うん。現場ではね、ゆきちゃんを中心に話が回ってて。私は影が薄いからって……スタッフさんから『黒川さんを悪女の立場に据えたら面白いだろう』って、そういう役割を求められてる空気があるの。台本はないけど、そういう風に動くことを、周りの大人の人たちから期待されてるのが分かって……」
その言葉を聞いた瞬間、ハルトの表情が目に見えて不機嫌そうに歪んだ。
「チッ、つまんねーことするな、大人どもは」
ハルトは吐き捨てるように言い、椅子の背もたれに体重を預けて天井を睨みつけた。
「リアリティショーなんて銘打っておきながら、結局は素人のガキを自分たちの都合の良い枠に嵌めて、ネットの玩具にしたいだけだ。クリエイティブの欠片もねえな」
ハルトの容赦のない辛辣な言葉に、あかねはハラハラしながら彼を見守った。ハルトが怒っているのは、自分を追い詰めた現場の大人たちに対してだ。その過保護なまでの怒りが嬉しくもあり、同時に彼が次にどんな決断を下すのか、息を呑んで待った。
やがて、ハルトが視線を天井からあかねへと戻した。その顔は、先ほどよりもさらに苦々しいものに変わっていた。
「……クソ、スタッフ連中のくだらねー思い付きに乗るのは反吐が出るほど癪だが。……ほんとーに癪だが、冷静にビジネスとして分析するなら、『悪女』ってのは悪くない観点だ」
「え……? どういうこと?」
話の見えないあかねは、小首をかしげた。ハルトは身を乗り出し、机を軽く指で叩く。
「つまり、
「別の、誰か……?」
「口で説明するより見せた方が早い。来い、スタジオに行くぞ」
ハルトは立ち上がり、家の奥にある、防音扉で仕切られた個人スタジオへとあかねを促した。
機材のLEDランプが暗がりに浮かび上がるスタジオ。ハルトは壁一面に据え付けられた棚に歩み寄り、いくつかのファイルをかき分けた後、数冊の古びた大学ノートを取り出した。
「これを見ろ」
あかねの前に差し出されたノートには、題名すら書かれていなかった。表紙をめくると、そこにはハルトのものと思われる、今よりも少し幼い、しかし均整の取れた文字でびっしりと文字列が書き込まれていた。
ページの一角には、鉛筆で描かれた一人の女性の似顔絵。六芒星の〝星〟を瞳を持つ、圧倒的な美貌のアイドル――。
「ハルトくん、これって……」
「昔、『アイドル』を作詞作曲するために、俺なりに『アイ』を分析したノートだ。まだ俺が芸能界にいた頃だからな、テレビや映画の映像からだけじゃねえ。当時、現場で『アイ』と関わった共演者、裏方のスタッフ、マネージャー連中……ありとあらゆる人間に片っ端から聞き取りを行って、その情報を統合してプロファイリングした資料だ」
あかねはノートの文字とハルトの顔を交互に見つめ、衝撃のあまり息を呑んだ。
「『アイドル』……えっ、じゃあ、『ソレイユ』って、ハルトくんだったの!?」
「あん? 言ってなかったっけ? ……あー、そうか。別に秘密にしてるつもりはなかったけど、公言もしてねえしな。つーか、ウチの個人事務所は『HARU』と『ソレイユ』しか所属してねーんだから、登記簿とか調べれば一発で分かることだぞ?」
「そ、そうなんだ……」
あかねは呆気にとられた。以前、ハルトが「ソレイユPの『アイドル』って曲、マジで神だよな」と熱弁していたのを思い出す。
(ハルトくんって、実は結構ナルシストなのかな……? 自分の曲を自分で神って言ってたんだ……)
そんな小さな雑念が脳裏をよぎったが、あかねはすぐに表情を引き締めた。
「でも、これを私に見せたってことは……私に、この『アイ』さんのキャラ付けをしろってことだよね?」
「ああ。お前が『アイ』という偶像を完璧に演じきれれば、間違いなく『今ガチ』の現場を支配できる。それだけの、万人を無条件で狂わせるカリスマが、あの女にはあったんだ」
ハルトは力説する。その山吹色の瞳には、一人のクリエイターとして、かつて存在した不世出のアイドルに対する純粋な敬意と熱がこもっていた。
しかし、その熱を帯びた彼の態度を見て、あかねの胸の奥に、じわりとした小さな嫉妬心が鎌首をもたげた。
「……ハルトくん、そんなに『アイ』さんのこと、好きなんだ」
少しだけ声音を低くし、探るように尋ねる。ハルトは意外そうな顔をして肩をすくめた。
「いや、別に? ファンではあったけど、恋愛感情推しとかそういうんじゃねえよ。ただ、惜しい人間が亡くなったなぁって思ったし、俺なりの追悼の気持ちと、クリエイターとしての滾るパッションを込めて『アイドル』を作っただけだ」
「じゃあ、実際に会ったこととかは……?」
「一度も会ったことねー、つか、俺が芸能界に飛び込んだその年に『アイ』は亡くなったんだよ。デビューしてすぐのガキに当時売れに売れてたアイドルと縁なんか出来るわけないしな。だからこそ、執念でこれだけのデータを集めたんだ」
ハルトが事も無げに言った言葉に、あかねは再びノートに目を落とし、今度は恐怖に似た戦慄を覚えた。
一度も会ったことがない。それなのに、このノートに記されているプロファイルの密度は異常だった。
彼女の好む仕草、視線の動かし方、笑う時の口元の角度といった外見的な特徴に留まらず、思考の癖、成育環境から推測される精神的脆弱さ、さらには――彼女のプライベートについて。極秘の妊娠、及び隠し子がいたのではないかという考察と、その時期の整合性といった、芸能界の闇の深淵に触れるようなドス黒い推測までが、緻密な論理で書き連ねられていた。
(一度も会わずに、ここまでの真実に肉薄するなんて……。ハルトくんの頭脳、本当に恐ろしい……)
あかねの背筋を冷たい汗が伝う。棚から星野アイ関連のライブ映像やバラエティのアーカイブメディアを探し始めながら、ハルトは淡々と言葉を続けた。
「『アイ』の素の人間性について言えば、俺の分析データから見る限り、正直言ってロクなもんじゃない。嘘つきで、愛を知らなくて、精神的にもかなり歪んでる。だが、だからこそ、人を惹きつけるカリスマと魅力は半端じゃなかった。お前も聴いたろ? 『アイドル』の詞にもある通り、〝完璧で究極のアイドル〟――嘘で塗り固められたとびきりの偶像なんだよ、アレは」
ハルトは一通りの資料と映像ディスクを机に積み上げると、あかねの目をまっすぐに見つめた。
「じゃあ、これからあかねには、この膨大な資料を元に『アイ』を徹底的にプロファイリングしてもらう」
「う、うん……!」
「言っておくが、普段の舞台の演技とはワケが違うぞ。お前がやるのは台本のないリアリティショーだ。カメラの前で、咄嗟の受け答えや一瞬の所作まで、すべて『アイ』として出力しなきゃなんねーんだからな」
「うう……気が遠くなりそう……」
あかねが思わず頭を抱えると、ハルトはその頭にぽんと手を置き、不敵に笑った。
「大丈夫だ。俺がついてる。……で、次の撮影はいつだ?」
「ええと……明日、だよ」
「さすがに一晩じゃ無理だな。……よし、お前んとこの事務所に俺から言って、体調不良って名目で、出演を数回分取り止めさせてもらおう。ちょうどネットのバッシングも酷いしな、一回戦線から離脱して、世間の炎上を少しでも鎮火させた方がビジネス的にも都合がいい」
にわかにやる気を出したハルトの山吹色の瞳を見て、あかねの心に、ある種の嫌な予感が過り始めた。
「お前を完璧に、本物以上の『アイ』として仕上げてやるからな。覚悟しろよ、これから地獄の特訓だぞ、あかね!」
「が、がんばるぞー……」
あかねはハルトの凄まじいクリエイター魂に圧倒されながらも、引きつった拳を小さく突き上げるのだった。
☆ ★ ☆
それから数日間。ハルトの自宅兼スタジオの地下にある、一面に鏡が張られた防音ダンススタジオは、二人の限界を超える熱気で満たされていた。
「違う! あかね、今のはただの黒川あかねが無理して作った笑顔だ! アイの笑顔はもっと独善的で、世界中の愛を一人で貪るような、底知れない嘘の輝きがあるんだよ!」
スピーカーから大音量で流れる『アイドル』の重低音の中、ハルトの厳しい声が響く。
あかねは汗だくになりながら、鏡に映る自分の姿を凝視していた。
ハルトから叩き込まれているのは、単なる口調や仕草の模倣ではなかった。『アイ』という人間の、精神の根底にある歪みと、それを覆い隠すための「嘘の愛」という思考回路そのもののトレースだった。
「レッスン外の時間も、絶対にその仮面を外すな。飯を食う時も、俺と話す時も、お前は『アイ』だ」
その言葉通り、特訓は苛烈を極めた。あかねの集中力を極限まで高めるため、ハルトは時に自らマイクを握り、クリエイターとして、そして元天才子役としての感情のすべてを込めて『アイドル』を歌唱した。
ハルトの生歌による『アイドル』は、本家ボカロ版とは異なる、生の人間が持つ圧倒的な熱量と、亡きアイへの哀悼の想いが綯い交ぜになった、聴く者の魂を震わせるものだった。ハルトの発した男声が込められた感情により、まるでアイ本人が歌っているかのように聞こえてくる。『真に迫る』ハルトの演技の真骨頂だった。
(この歌……この、ハルトくんの執念に、私は応えなきゃいけない……!)
あかねはハルトの創り出した世界観に深く、深く没入していく。彼女の高い憑依型演技の才能が、ハルトの狂気的なディレクションによって、限界を超えて覚醒しようとしていた。
そんな特訓の最中、休憩を入れていたハルトが、手元のタブレットを見ながら「あ」と声を上げた。
「あかね、ちょっとこれ見てみろよ」
床に座り込んで息を整えていたあかねが近づくと、ハルトは画面を提示した。
それは、ネットの動画サイトにアップロードされたばかりの一本の動画だった。
「これって……『今ガチ』の?」
動画の内容は、番組の本編では一切使用されていない、舞台裏の映像や写真の数々だった。そこには、あかねがゆきやMEMちょと笑い合っている姿や、メンバー全員で仲良くお弁当を食べている日常の風景が、ポップな音楽と共にテンポよく編集されていた。
「スタッフさんが、私のために作ってくれたのかな……?」
あかねが呟くと、ハルトは腕を組み、感心したように顎をさすった。
「いや、これはスタッフじゃねえ。出演者側の誰か、もしくは全員の仕業だな。お前がネットで過度にバッシングされてるのを見て、見かねたメンバーが、あかねは本当は良い奴なんだって世間にアピールするために、勝手に作って流した名誉挽回ムービーだ」
「みんなが……私のために?」
あかねの胸が、じんと熱くなる。現場で孤独だと思っていたのは自分だけで、共演者たちは確かに自分を仲間として想ってくれていたのだ。
「それにしても」と、ハルトはプロの視点で画面を凝視した。
「この動画を作った奴、動画畑の人間だな。素材の繋ぎ方、カラーグレーディング、テンポ感……ちゃんとプロの技法を学んでやがる。どこのどいつだかは知らないが、なかなか粋な真似するじゃねーか」
ハルトは満足そうに微笑んだ。
「みんなもお前の帰りを待ってる。……よし、特訓の仕上げだ。完璧にハックしに行くぞ」
「うん……!」
あかねの瞳に、今度は迷いのない、強固な決意の光が宿っていた。
☆ ★ ☆
そして、さらに時間が経ち、黒川あかねは『今からガチ恋始めます』の収録現場へと復帰した。
「皆さん、私の都合で撮影を休んでしまって、本当にご迷惑をおかけしました……!」
スタジオに入るなり、あかねはスタッフや出演者たちに向けて、深く、深く頭を下げた。
「全然気にしてないよー! あかねちゃん、元気になってよかった!」
ゆきがいつも通りの花咲くような笑顔で駆け寄り、MEMちょも「心配したんだからねー!」と肩を叩く。あかねは彼女たちの優しさに心の底から感謝しながら、心の中で、ハルトと共に創り上げた「あの人格」のパズルを、最後のピースまでカチリと嵌め込んだ。
「――それでは、本日の第〇回、収録スタートします! カメラ回ります、3、2、1……」
スタッフのカウントダウンと共に、カメラの赤いランプが一斉に点灯する。
その瞬間、黒川あかねの全細胞が変貌した。
すう、と息を吸い込み、顔を上げた彼女の表情に、スタジオにいた全員が息を呑んだ。
そこにあったのは、今までの引っ込み思案でおどおどした黒川あかねではなかった。
長い髪を軽く払い、カメラを真っ直ぐに見つめるその瞳。両目の奥には、まるで夜空に輝く一等星のような、圧倒的な
唇の両端をきゅっと上げ、世界中のすべての愛を当然のように味方につける、無敵の笑顔。その一瞬の所作、空気の支配力、放たれるオーラは、あまりにも暴力的で、あまりにも魅惑的だった。
「――皆さん、お待たせしましたっ☆」
弾けるような声。その場にいたスタッフの手が止まり、ゆきやMEMちょの目が驚愕に見開かれる。
そして、スタジオの壁際にいた金髪の少年――星野アクアは、そのあかねの姿を目にした瞬間、心臓を鋭い楔で打ち抜かれたような激しい衝撃に襲われていた。
(……アイ……!?)
アクアの脳裏に、かつて自分たちの前で輝き、そして最期に血を流して倒れた、最愛の母親の姿がフラッシュバックする。
一瞬の錯覚。だが、アクアの目から見ても、今目の前にいる黒川あかねは、星野アイそのものだった。彼女の歩き方、手の添え方、視線の外し方、そのすべてが、記憶の中の〝推し〟であり〝母〟であるアイと完全に一致していた。
(まさか……これほどのクオリティで、
アクアが驚愕と戦慄で硬直する中、あかね――いや、あかねの被った『アイ』のペルソナは、圧倒的なカリスマ性をもって、瞬く間に『今ガチ』の現場の空気を自らの色へと染め上げていく。
ハルトと共に地獄の特訓を経て磨き上げた、嘘という名の至高の偶像。
その圧倒的な光が、これから芸能界という巨大な舞台を完全に席巻していくことを、その場にいる誰もが確信する瞬間だった。
自分が読みたいものを書いてるんだ、の精神。
感想はありがたく読ませていただいております。
最新話の更新時間は何時がいいですか?参考までに。
-
AM6時
-
PM12時
-
PM8時
-
AM12時