六月末。長く鬱陶しかった梅雨が明けて間もない宵の口は、昼間の焦げ付くような酷暑に比べれば、いくらか過ごしやすい優しさに満ちていた。
空は深い藍色のグラデーションに染まり、街灯の光がぽつぽつと灯り始める。昼間の熱気を吸い込んだアスファルトからは微かな熱が立ち上っていたが、時折吹き抜ける夜風が、夏の始まりを告げるようにあかねの青髪を心地よく揺らしていた。
都内にある、緑豊かな広い公園の入り口。あかねは一本の街灯の下で、スマートフォンの画面を何度も点けては消し、落ち着かない様子で足元を見つめていた。
(……私、本当に何てことを頼んじゃったんだろう……)
控え室でパニックになっていた時は、これしか解決策がないと本気で信じ込んでいた。ハルトくんにキスの予行練習を頼めばいい。文字にしてしまえばあまりにも破廉恥で、あまりにも支離滅裂なその思考は、涼しい夜風に吹かれて頭が冷えていくにつれて、恐ろしいほどの羞恥心となってあかねに襲いかかっていた。
冷静になればなるほど、自分の仕出かそうとしていることの重大さに遅まきながら気付き始める。幼馴染とはいえ、十七歳の健全な男子高校生に対して「キスの相手をしてほしい」と頼むなど、正気の沙汰ではない。もし嫌悪感を抱かれたら、もし軽蔑されたら――そう考えると、今すぐこの場から逃げ出して、自宅のベッドに潜り込みたい衝動に駆られた。
だが、後の祭りだった。すでにハルトには連絡を入れてしまっているし、彼は「すぐ行く」と短く答えてくれたのだ。あかねに遺された道は、このまま自分の暴走気味なプランを決行するほかに選択肢はなかった。心臓が、まるでドラムの連打のように胸の奥で激しく暴れている。
その時、夜の静寂を切り裂くように、あの聞き慣れた重厚なエキゾーストノートが遠くから響いてきた。
街灯の光を反射させながら、鮮烈なオレンジ色のカラーリングが施されたスポーツバイクが滑り込んでくる。ハルトは公園の入り口の脇にバイクを止めると、ヘルメットを脱いで、アッシュグレーのウルフカットを軽く手で払った。
「よう、あかね! 待たせたな。いやー、この時間は昼間に比べて涼しくて過ごしやすくて最高だな」
ハルトはいつぞやのように、オレンジ色の愛車を流してやってきた。その表情はいつも以上に呑気で、これから自分がどんな突拍子もない話を聞かされるのか、全く予想もしていないようだった。
「あ、ハルトくん……ううん、お疲れ様。急に呼び出しちゃって、ごめんなさい」
あかねの声は、緊張のあまり微かに震えていた。顔が赤くなっているのを隠すように、少し俯き加減になる。
「別にいいって。ちょうど動画の編集も一段落したところだったしな。で、どうしたんだよ? こんな夜にわざわざ呼び出すなんて。もしかして『今ガチ』の件でまた何かあったか?」
ハルトはバイクのエンジンを切り、ハンドルを握ったまま、バイクを押して歩き始めた。あかねは彼の隣に並び、公園の奥へと歩みを進める。
この場所は、『今からガチ恋始めます』の撮影でも何度か使われている馴染みのある公園だった。昼間は家族連れやカップルでにぎわう場所だが、夜のこの時間帯になると人通りはほとんどなく、まばらな街灯が木々の影を地面に長く落としている。二人の足音と、草むらから聞こえる虫の音が、静かに夜の空気に溶けていった。
「あのね、ハルトくん……」
あかねは自分の両手を胸の前できゅっと握りしめ、意を決して言葉を紡ぎ始めた。たどたどしく、けれど言葉を一つずつ選ぶように、現在の『今ガチ』の進行状況について説明していく。
「番組の、収録がね、もう終盤に入っていて……。それで、ゆきちゃんたちの関係とは別に、私とアクアくんのカップリングも、世間ですごく注目されてるみたいで……」
「ああ、知ってるぜ。ネットの反応も概ね良好だし、お前の『アイ』の演技が完全にハマってる証拠だな。ビジネスとしては大成功だ」
ハルトは前を向いたまま、満足そうに頷いた。だが、あかねの次の言葉が、彼の歩みを完全に止めることになる。
「それでね、今日の休憩時間に、MEMちょたちから言われたの。……このまま最終回に向かうと、番組の流れとして、私……アクアくんと、その……キスを、することになるかもしれないって」
ピキリ、と。
ハルトの身体が一瞬で強張ったのを、あかねは気が動転していたせいで見落としていた。
ハルトの山吹色の“ひまわり”のような瞳が、冷徹な不快感によって僅かに細められる。ハンドルを握る彼の手のひらに、グッと力がこもる。ネットのコントロールやビジネスとしての戦略を語る時の彼ではなく、一人の男としてのプライドと独占欲が、その胸の奥で激しく牙を剥いた瞬間だった。しかし、あかねは自分の恥ずかしさを誤魔化すことに必死で、彼のその僅かな変化に気付く余裕はなかった。
「だから、その……私、舞台でもそんなシーンやったことないし、本番で緊張して『アイ』さんの仮面が外れちゃったら困るから。……ハルトくんに、『今ガチ』の出演者になりきって、えっと……私の相手役をしてほしいっていうか……」
あかねはそこまで一気にまくし立てると、完全に顔を真っ赤にして黙り込んだ。恥ずかしさのあまり、涙がじんわりと目に浮かぶ。
沈黙が、二人の間に重くのしかかった。
「……つまり、」
ハルトの声が、驚くほど低く、そしてどこか冷めた響きを帯びて響いた。彼はバイクをスタンドで固定すると、ゆっくりとあかねの方を振り返った。街灯の逆光になって、彼の表情はよく見えない。
「俺に、星野アクアの役を
その言葉のトーンに含まれた冷徹さに、あかねはハッと息を呑んだ。
その瞬間、彼女の頭の中に冷水が浴びせられたように、自分がどれほどハルトの心を傷つけ、どれほど破廉恥な願い事を口にしていたのかを、本当の意味で思い知らされた。ハルトにアクアの代わりをさせる? そんなの、彼に対してあまりにも失礼だし、何より――それは、自分の心の底にある本当の願いとは、決定的に違っていた。
(違う……。私は、アクアくんと上手くやるために練習がしたいんじゃない。私は……)
パズルがカチリと嵌まるように、あかねは自分の本当の望みに気がついた。他の男の子とキスをするかもしれないという現実に直面した時、彼女の心が本当に叫んでいたのは、仕事の心配ではなく、ハルトに対する一途な恋心だったのだ。
「違うよ!」
あかねは大きな声を上げ、真っ直ぐにハルトの胸元を見上げた。
「えっと……最初はそう、ハルトくんに収録の予行練習を頼もうと思ったの! パニックになっちゃって、どうしたらいいか分からなくて……。――でもそうじゃない、私が本当にしてほしいことは……!」
意を決して、あるいは胸の奥から溢れ出る感情の勢いにすべてを任せて、あかねは叫ぶように言葉を紡いだ。
「他の誰でもない、
仮面なんか要らない。役柄の模倣でもない。仕事の延長としての練習などという建前をすべてかなぐり捨てて、一人の少女として、一人の少年に、真っ直ぐな想いをぶつけたのだ。
その言葉を聞いた瞬間、ハルトは山吹色のひまわりの瞳を、大きく見開いた。
夜風が、二人の間を悪戯っぽく吹き抜けていく。ハルトの髪が揺れ、彼の瞳の奥にあった冷徹な光が、瞬く間にいつもの、そしてそれ以上の深い優しさと熱を帯びたものへと変化していく。
ハルトは少し呆れたように、けれど愛おしくて堪らないといった様子で、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……そういうことなら。最初からそう言えよ。そんな面倒な回り道しやがって」
彼は一歩、あかねとの距離を詰めた。
「他の誰でもない俺として、お前と向き合うなんてこと……俺にしか出来ないよな」
その言葉の優しさに、あかねの緊張が少しだけ解けていく。けれど、心臓の高鳴りはさらに加速していた。
二人は公園のベンチへと移動し、並んで腰掛けた。少し離れた場所には、ハルトのオレンジ色の愛車が佇んでいる。
見上げれば、都会の夜空には数えるほどしか星が見えなかったが、梅雨明けの澄んだ空気のおかげで、月が驚くほど綺麗に輝いていた。周囲の静寂に身を委ねながら、二人は自然と、これまでの長い旅路――自分たちの思い出を語り合い始めていた。
「あかね……俺らが出逢った時のこと、覚えてるか?」
ハルトが、夜空を見上げながらぽつりと言った。その横顔は、いつになく穏やかだった。
「うん……もちろん覚えてるよ。忘れるわけないもん」
あかねは膝の上で手を組み、懐かしい記憶の扉を開けた。
「九年前……朝ドラの『ひまわりの日』の現場。初めてのテレビのお芝居で、周りの大人たちの視線が怖くて、私、完全に頭が真っ白になってセリフに詰まっちゃって……。あの時、ハルトくんが完璧なアドリブで、私を助けてくれたんだよね」
「ククッ、あの時のお前、本当にすっげー緊張してたもんなぁ。目が泳ぎまくってて、今にも泣き出しそうだった」
「しょうがないよ、朝ドラなんて大舞台だもん! 私ね、芸能界にデビューしてまだ一年くらいだったんだよ? 右も左も分からない子供だったんだから」
「マジか。そりゃあ、セリフも飛ぶわけだ」
ハルトは懐かしそうに目を細めた。
「でも、あの時のハルトくんは、本当にすごかった。年の頃は同じなのに、太陽みたいにキラキラしてて、堂々としてて……。私、一瞬で目を奪われちゃったんだから」
あかねが少し恥ずかしそうに言うと、ハルトは視線を少し落とした。
「……あのあと、ハルトくん、急にお仕事やめちゃうんだもん。私、本当にすごく驚いたし、悲しかったんだよ? また一緒に演技ができるって、ずっと信じてたから」
「あー……それについては、悪いな」
ハルトは苦笑いを浮かべ、アッシュグレーの髪を気恥ずかしそうに掻いた。
「もともと、あのドラマが終わったら辞めるつもりだったんだよ」
「そうだったんだ。でも、どうして? あんなに才能があって、みんなから天才ってチヤホヤされてたのに」
「なんかなぁ……。演技すること自体は、今でも嫌いじゃないんだ。役に没入して、自分じゃない誰かになる瞬間は面白いと思う。だけどさ……芸能界のあの独特の空気感というか、大人の事情ビジネスが生々しく交錯する世界が、どうしても水に合わなかったんだよな、俺には」
ハルトは自分の大きな手のひらを見つめ、静かに言葉を続けた。
「俺が役者の世界に飛び込んだのは、特撮番組のヒーローになりたかったからなんだ。子供の単純な憧れだよな。でも、実際に業界に入って分かったのは、画面の向こうのヒーロー役にはなれても、現実の歪みを正すような本物のヒーローにはなれないって事実だ。理想と現実のギャップに、当時の俺は完全に興味を失くしちまったんだよ」
冷徹な合理主義を持つ彼らしい、現実的な挫折だった。だが、あかねはそのハルトの言葉を、強い口調で否定した。
「そんなことない!」
「あかね?」
あかねはベンチの上でハルトの方へ身体を向け、彼の山吹色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ハルトくんは、私のヒーローだよ。あのとき、絶望してた私をアドリブで救ってくれたときからずっと……。そして、この前のクリスマス配信の時も、今ガチで私が炎上して潰れそうになってた時も、いつだってバイクで私を泥沼から連れ出してくれた。……今までずっと、ハルトくんは私の、私だけの本物のヒーローなんだよ」
その真っ直ぐで、あまりにも純粋な肯定の言葉は、ハルトの胸の奥にある、かつて諦めた幼い日の理想を優しく包み込んでいくようだった。
ハルトは一瞬、言葉を失ったようにあかねを見つめ、それから観念したように、目元を和らげて呟いた。
「……ありがとな、あかね」
「ううん。本当のことだもん」あかねは少し照れくさそうに微笑み、話を続けた。「そういえばハルトくん、前に私が中学生の時、劇団ララライの舞台の楽屋まで、私に会いに来てくれたよね。あれはどうしてだったの?」
「あ? あれは……偶然だよ」
「偶然? 本当に?」あかねはジト目でハルトの顔を覗き込んだ。「本当に偶然だったら、あんな警備の厳しい楽屋裏まで入ってこられないと思うんだけどな」
「…………いや」ハルトは視線を泳がせ、耳の裏を赤くしながら白状した。「……俺も、あかねのことずっと覚えてたからな。ララライの舞台を観に行ったのは本当に偶然だけど、パンフレットに黒川あかねの名前を見つけて……もしかしてって思ったら、居ても立っても居られなくなって、気がついたら関係者のフリして楽屋裏に忍び込んでたんだよ」
「そっか……ふふっ、ハルトくんも私のこと、探してくれてたんだね」
あかねは胸の奥が温かい幸福感で満たされていくのを感じ、愛おしそうに声を立てて笑った。
その時、ハルトがふっと笑みを消し、ベンチの上で居住まいを正した。
彼の全身から、いつもの軽妙さや、ビジネスライクな冷徹さが完全に消え去る。放たれるのは、一人の男としての、圧倒的な真剣さと熱量だった。
ハルトの山吹色の瞳が、街灯の光を反射して、まるで本物のひまわりのように激しく、そして深くあかねの瞳を射抜く。その真剣な眼差しに、あかねの心臓がドクン、と大きく跳ね上がった。全身の血流が速くなり、息をすることすら忘れてしまうほどの緊張感が、二人の間に張り詰める。
「あかね。……舞台の楽屋でお前に訪ねて、再会してからすぐのこと、覚えてるか?」
「え、あ……うん。中学の、ときだよね」
「ああ。あの時、俺はお前に告白して、見事に玉砕した訳だけど」
「えっ!? あ、いや、あれはね、その……っ!」
あかねの顔が一気に引きつった。当時、あまりにも突然の告白にパニックになり、また役者としての活動に必死だったこともあって、その場の勢いで彼の想いを突っぱねてしまったのだ。今でも思い出すたびに「どうしてあの時、あんな酷い振り方合をしちゃったんだろう」と激しく後悔している、彼女にとって最大の黒歴史だった。
気まずそうにモジモジとするあかねだったが、ハルトはそれを気にする風もなく、言葉を続けた。普段のトーク力豊かな彼とは思えないほど、その言葉は不器用で、けれど、だからこそ剥き出しの、必死な本心がこもっていた。
「あかね。俺、やっぱりお前のこと、好きだよ」
「ふぇ……?」
あかねの口から、情けない声が漏れた。
「前に振られて、俺には脈がねえんだなってのは、頭じゃ分かってる。……だけどさ、諦められないんだよ、どうしても。お前が他の男と仕事だろうが何だろうが、関係を持つのを想像するだけで胸の奥がめちゃくちゃに掻き乱される。合理主義だのビジネスだの、そんなもん全部吹き飛ぶくらい、俺はお前を、一人の女として欲してるんだ」
あまりにもストレートで、あまりにも濃密な愛の告白。
あかねの頭脳は、その圧倒的な現実の前に一時的にフリーズしてしまった。理解が及ばず、呆然としたまま、彼女は半ば自動的に、心の中に浮かんだ疑問を口にしていた。
「それは……『今ガチ』の出演者役になりきっての、演技……じゃなく、て?」
ハルトは、そのあまりにも鈍すぎるあかねの反応に、呆れたように深く、長いため息をこぼした。
「……おい。他の誰でもない日野ハルトとして黒川あかねと向き合ってほしい、そう言ったのはお前だろ。これのどこが演技に見えるんだよ、この大馬鹿」
ハルトはベンチから立ち上がり、あかねの目の前に立った。そして、彼女の両肩をがっしりと掴み、逃げられないように固定する。
「もう一度言うぞ。よく聞け」
ハルトの山吹色の瞳が、あかねの視線を完全にロックする。
「黒川あかね。俺は、お前が好きだ。世界中の誰よりも、お前を愛してる」
その言葉が、あかねの心の鼓膜を震わせた瞬間、すべての霧が完全に晴れ渡った。
演技じゃない。建前でもない。これは、九年間ずっと自分が待ち望んでいた、最愛の少年からの、本物のガチ告白なのだと。
「――っ!」
ハルトはそのまま、あかねの華奢な身体を、壊れ物を扱うように優しく、けれど絶対に離さないという強い意志を込めて、力強く抱きすくめた。
ハルトの広い胸の中に閉じ込められた瞬間、彼のジャケットから香る懐かしい匂いと、力強い心臓の鼓動が、あかねの全身に伝わってきた。現実を完全に理解し、胸の奥から爆発的な感情が込み上げてくる。
あかねは感極まったように、ハルトの背中に両腕を回し、折れそうなほど強く抱き返した。
「私も……! 私も、ハルトくんが好き! 大好き!! あの時、朝ドラの現場で私を助けてくれたときから、ずっと、ずーーっとハルトくんのことが好きだったんだよ……!!」
ハルトの胸に顔を埋め、涙をボロボロと流しながら、あかねは自分のすべての恋心を叫んだ。ずっと言えなかった、ずっと届かなかった想いが、ようやく彼の元へと届いたのだ。
ハルトはあかねを抱きしめたまま、彼女の耳元で、少しホッとしたような、けれど少し恨めしそうな声を漏らした。
「……やっぱ、脈無しじゃなかったんだな」
「っ!? ハルトくん、私の気持ち、わかってたの!?」
あかねはハルトの胸の中で、涙で濡れた顔を跳ね上げて彼を見上げた。
「当たり前だろ。お前、どんだけ俺と一緒にいると思ってるんだ。普段の態度とか、クリスマス配信の時の様子とか、見てりゃ嫌でも分かるっての。だいいち、俺はそんなに恋愛に関して鈍くないぞ」
「じゃあ、じゃあどうして、もっと早く言ってくれなかったの!?」
「いや、ふつーは一回告って完全に玉砕したら、様子見ぐらいするもんだろ! またすぐ告白してストーカー扱いされたら堪らねえし!」
「もう一回、ちゃんと告白してくれればよかったのに! 私、ずっと待ってたんだから!」
「簡単に言うなよ。つーか、そもそもなんで俺は中学の時振られたんだよ。あの理由だけはずっと納得いってねえんだけど」
「……それは、その……その場の、勢い、かな……?」
あかねが気まずそうに視線を逸らすと、ハルトは信じられないといった様子で目を見開いた。
「勢いで振られたとか、そんなのアリ!? 俺の数年間の苦悩を返せよ!」
「もう、終わったこと言わないでよー!」
抱き合いながら、子供のように言い合う二人。けれど、その表情には、これまでにない最高の幸福の笑みが浮かんでいた。
互いの顔を見合わせ、どちらからともなく、声を上げて笑い合う。その笑い声が夜の公園に優しく響き、そして――波が引くように、自然と二人の距離が近づいていった。
笑い声が止まり、見つめ合う二人の視線が交わされる。
ハルトの顔が、ゆっくりと近づいてくる。あかねは拒むことなく、そっと瞳を閉じた。
どちらからともなく、自然な動きで、二人の唇が静かに重なり合った。
それは、柔らかく、けれど互いの存在を確かめ合うような、深く熱いキスだった。
瞑ったあかねの瞳から、嬉し涙が静かに零れ落ち、ハルトの頬を濡らす。十年間のすれ違いと、お互いへの一途な想いが、今この瞬間に完全に一つに溶け合っていく。
十年の恋――
夜風が周囲の木々を優しく揺らし、月が二人を祝福するように、静かな光を注ぎ続けていた。
――どれだけの時間、そうしていたろうか。
ゆっくりと唇が離れると、あかねは真っ赤になった顔を隠すように、再びハルトの胸元に額を押し付けた。ハルトはそんな彼女の愛らしい姿に笑みをこぼしながら、彼女の背中を優しく撫で続けている。
「……これで、予行練習は完璧だな」
ハルトが少し意地悪なトーンで囁いた。
「もう、からかわないでよ……。練習なんかじゃないって、言ったでしょ」
あかねはハルトのシャツの裾をぎゅっと握りしめ、小さく膨れてみせた。
「分かってるよ。……あかね、『今ガチ』の最終回、仕事として完璧にやり切ってこい」
ハルトの声には、先ほどまでの嫉妬や不快感は一切なかった。想いが通じ合った今、彼の心には絶対的な余裕と、彼女への無限の信頼が宿っていた。
「ビジネスはあっち。本物はこっち、だろ? カメラの前でどんな演出があろうが、お前の本当の全部は、俺のもんだからな」
「……うん。ビジネスはあっち。本物は、ハルトくんだけ」
あかねは力強く頷いた。ハルトの絶対的な愛という最強の盾を手に入れた今の彼女には、もう芸能界のどんな荒波も、ネットのどんなノイズも怖くはなかった。
「よし、じゃあ冷めないうちに帰るぞ。俺の家で、最終回をハックするための本当の最終調整だ」
「うん! 私、世界で一番の『星野アイ』になって、番組を最高に盛り上げてくるね!」
ハルトがバイクのスタンドを上げ、あかねにヘルメットを渡す。二人は再びオレンジ色の愛車に跨り、夜の都会へと走り出した。
☆ ★ ☆
『今からガチ恋始めます』の最終回が地上波でオンエアされている、まさにその時。
ハルトの自宅のリビングダイニングには、いつもと変わらない穏やかな光が満ちていた。壁際の機材のLEDランプが静かに明滅する中、いつもの白いソファに、ハルトとあかねは寄り添うようにして並んで座っていた。二人の視線の先にある大きなモニターには、数々のドラマを生み出してきたリアリティショーの、まさにクライマックスのシーンが映し出されている。
画面の中では、番組の順当な流れの通り、あかねとアクアが夕暮れの美しいロケーションの中で向かい合っていた。視聴者の期待を最高潮に煽る演出、完璧なカメラワーク、そして――。
「……っ!」
アクアがゆっくりとあかねの肩を引き寄せ、その唇を重ねる。
その瞬間、画面の中のあかねの瞳から、それまで完璧に維持されていた『アイ』のあの底知れない星の光が、綺麗さっぱりと消失した。それどころか、あまりの動揺に完全に素の黒川あかねに戻ってしまい、耳の付け根まで盛大に赤面して、カメラの前で完全にフリーズしている姿が、これ以上ないほど鮮明な高画質で全国にお茶の間へと流されていた。
「う、うわあああああ……っ!!」
モニターの前にいる本物のあかねは、画面の中の自分の無様な姿を見て、全く同じように顔を真っ赤に染め上げ、クッションに顔を思い切り埋めて悶絶した。
「消して! ハルトくん、今すぐテレビ消してえぇぇ……!!」
「おいおい、何言ってんだよあかね。こちとら毎週欠かさずやってる『今ガチ感想配信』の最終回前なんだぞ? しっかり目に焼き付けねえと、この後の生配信で語るネタがなくなっちまうだろ」
あかねの隣で、ハルトはニヤニヤとした意地悪な笑みを浮かべていた――が、キスシーンが完全に終了した直後、彼は突如としてソファの上でのけ反り、大げさに胸を押さえて苦しみ始めた。
「――って、グワァー!? クソッ、わかっちゃいたが、いざ映像で観るとこの凄まじいNTR感ッ……! これが巷で噂のBSS(僕が先に好きだったのに)ってやつかッ……! 脳が、俺の天才的な脳がメキメキと破壊される感覚ッ……! くぅ~、キツイ、キツイぜこれは……! だが、このドロドロとした怨嗟の感情から、めちゃくちゃダークでヘヴィな新曲のインスピレーションが滾々と湧いてきそうだぜ……ッ!」
「……ハルトくん」
クッションから顔を上げたあかねは、胸を掻きむしりながら天才コンポーザーとしての業を爆発させている幼馴染を、急に冷めたような、極めて冷静な目で見つめた。
(……案外、余裕そうだな、この人。本当に脳が破壊されてる人は、自分で『脳破壊されるッ』なんて実況しないと思うんだけど……)
数日前、夜の公園であれほど真剣に、必死に自分への愛を叫んでくれた彼である。最初こそ「ハルトくんが怒っちゃうかも」とハラハラしていたあかねだったが、このお調子者特有のオーバーリアクションを見せつけられては、緊張感もどこかへ吹き飛んでしまうというものだった。
一通り大騒ぎして満足したのか、ハルトはすっと素面に戻ると、手元のスマートフォンを操作し始めた。その山吹色の瞳が、素早く画面の文字列を追っていく。
「まあ、冗談はさておきだ。……なあ、ちょっとSNSのタイムラインを見てみろよ、あかね。反響がすっげーことになってるぞ。……主に、悪い意味でな」
「悪い意味で……?」
あかねはソファの上でハルトにすり寄り、彼の差し出してきたスマートフォンの画面を覗き込んだ。そこには、番組の終了を目前にして、爆発的な勢いで更新され続けるSNSのリアルタイムトレンドの書き込みが並んでいた。
しかし、その内容は、あかねが想像していた『アクあか最高!』といった純粋な番組への称賛とは、少し毛色が異なっていた。
『【悲報】HARU、完全に寝取られる』
『おい、HARU息してるか? お前の幼馴染、星野アクアに持ってかれたぞwww』
『今ガチのあかねちゃんのキスシーン、完全にHARUに対する公開処刑で草』
『散々配信で「ウチのあかねがー」って自慢してたHARUの脳破壊されてそう』
要約すると、ネット民たちは、あかねを寝取られたとする旨で、ハルトを面白おかしく煽り、おもちゃにしている文面ばかりだったのだ。かつてハルトが自身の配信で、あかねを過保護なまでに甘やかし、応援していたがために、ネットの住人たちは幼馴染を別の男に奪われた哀れな男として、ハルトを格好のいじりネタに仕立て上げていた。
「……なにこれ」
画面をスクロールしていくうちに、あかねの綺麗な眉がピキリと不機嫌そうに跳ね上がった。その瞳に、じわじわと怒りの炎が灯っていく。
「ちょっと、酷いよこれ! なんでハルトくんがこんな風に言われなきゃいけないの!? 私、寝取られたなんて言われる覚え、一ミリもないんだけど!」
あかねは憤慨したように頬をプクーッと膨らませ、ハルトの腕を掴んでブンブンと揺さぶった。
本人の言う通り、あかねにとっては全くの濡れ衣であり、不名誉極まりない話だ。そもそも、画面の中でのアクアとのカップリングは、番組を盛り上げるためのビジネスであり演技である。その点については、アクア本人とも事前に「これは演出上のことだ」とコンセンサスは取れており、お互いに割り切って握り合っているビジネスライクな関係に過ぎないのだ。
それなのに、まるで自分がハルトを裏切って別の男に乗り換えたかのような言われ方をされているのが、あかねにはどうしても我慢ならなかった。何より、自分の大好きな恋人が、ネットの玩具にされている現状が許せない。
「まあまあ、落ち着けってあかね。ネットの有象無象なんて、面白そうなストーリーを見つけては群がるイナゴみたいなもんだからな。俺は別に、これくらいじゃ傷つかねえよ。むしろビジネスの燃料として、おいしいとすら思ってる」
憤懣やる方ないといった様子で肩を怒らせるあかねを、ハルトはぽんぽんと優しく頭を撫でてなだめた。その山吹色の瞳には、冷徹なクリエイターとしての、そしてすべてを裏で計算通りに進めてきた策士としての不敵な光が宿っている。
やがて、壁の時計が番組の完全な放送終了時刻を告げると同時に、モニターの画面が通常のCMへと切り替わった。
『今からガチ恋始めます』最終回、これにて無事に全面終了である。
ハルトはスマートフォンの画面を閉じ、ソファから立ち上がると、リビングの中央に設置された配信用のカメラとマイクの電源を入れた。スタジオの機材が、出番を待つように静かな駆動音を立て始める。
ハルトは振り返り、あかねに向かって、悪戯っぽい、けれど最高に頼もしいヒーローの笑みを向けた。
「さあ、お膳立ては完全に整った。ネットの馬鹿どもが、俺の脳が破壊されたって大盛り上がりしてる今この瞬間が、一番の
ハルトの言葉に、あかねは小さく息を吸い込み、それから自分の顔にかすかに残っていた羞恥心を、完全に吹き飛ばすような強い笑みを浮かべた。
「……うん。じゃあ、やろうか、ハルトくん」
「おう。世間の奴らのひっくり返る顔が、今から楽しみで仕方がねえな」
☆ ★ ☆
「――はい、どーも皆さんこんばんは! 天才美少年ネットアーティストの『HARU』です! さあさあ、今週もやってまいりました、『今ガチ』最終回、最速感想生配信のお時間だぜー!」
ハルトが配信開始ボタンを押した瞬間、待機していた数万人、数十万人の視聴者が一斉に配信枠へと流れ込んできた。
チャット欄は、すさまじい速度のコメントで埋め尽くされていく。
『HARU生きてたか!www』
『脳破壊配信の始まりだあああああ』
『お前のお姫様、アクアに奪われちゃったねえ、どんな気持ち?』
『今夜のHARUは、いつもより声が空元気に見えるぞwww』
画面の向こうの視聴者たちは、傷心のハルトがどんな泣き言を言うのか、あるいはどんな強がりを見せるのかを、今か今かとワクワクしながら見守っていた。
ハルトはカメラに向かって、わざとらしくフッと力ない笑みを浮かべてみせる。
「いやー、みんなさ、SNSでも配信のコメントでも、俺の心配ばっかりしてくれてありがとな。BSSだのNTRだの、散々な言われようだけどさ。……まあ、確かに画面の中のあかねは、アクアの奴といい雰囲気になってたし、最後の最後でキスまでしちゃってたよな。うん、役者として、黒川あかねの演技プランとしては、あれは完璧な仕事だったと思うぜ。百点満点だ」
ハルトはそこで一度言葉を切り、顎をさすった。
『お、強がってる強がってる』
『心がボロボロなのが伝わってくるぜ……』
そんなコメントが流れる中、ハルトはニヤリと、カメラのレンズを真っ直ぐに見据えて言い放った。
「でもさあ……みんな、一つだけ、重大な勘違いをしてるんだよな」
『勘違い?』
『何がだよ』
「画面の中のあかねは、確かに仕事として、ビジネスとして、最高のパフォーマンスをした。だけどさ――」
ハルトは横を向き、画面の外に向かって手を差し伸べた。
「ビジネスはあっち。……本物は、こっちだろ?」
その瞬間、ハルトの合図を受けて、画面のフレーム外から一人の少女が姿を現した。
すらりとした体躯に、綺麗な青髪。つい数分前までテレビの画面の中で、全国の視聴者を熱狂させていた『今ガチ』のヒロイン――黒川あかねが、ハルトの隣へと滑り込んできたのだ。ハルトとの特訓を経て会得した『アイ』のペルソナを被り、カメラの向こう側へと愛想を振りまく。
しかも、その距離は異常だった。あかねはハルトの隣に座るなり、躊躇うことなく彼の左腕を自分の両手でぎゅっと抱きしめ、その逞しい肩に、こてん、と自分の頭を乗せた。
「皆さん、こんばんは。黒川あかねです。……今ガチ最終回、観てくれて本当にありがとうございました」
あかねはカメラに向かって、おっとりとした、けれどどこか独占欲を滲ませた、最高に幸せそうな笑みを浮かべた。
一瞬、チャット欄の動きが物理的に停止した。あまりの予想外の展開に、数万人の視聴者の思考が完全にフリーズしたのだ。そして次の瞬間、サーバーが落ちんばかりの勢いで、怒涛のコメントが再爆発した。
『は!?!?!?!?!?』
『え、ちょっと待って、なんであかねちゃんがまたHARUの部屋にいるの!?』
『距離感おかしくない!? 腕絡めてるんだけど!!』
『アクアは!? 今ガチの結末は何だったんだよ!!』
大混乱に陥るネットの住人たちを、ハルトとあかねは、楽しそうに見つめ合った。
「というわけでね」ハルトはあかねに抱きつかれたまま、カメラに向かって勝ち誇ったような大笑いを決めた。「番組の中じゃ星野アクアとキスしてたけどさ、そんなのただのビジネス、お仕事のお芝居なんだよなー! 本物の黒川あかねが、心の底から大好きで、付き合ってる本命の彼氏は――この俺、日野ハルトくんでしたー!!」
「うん」あかねもハルトの腕にさらに力を込め、カメラを真っ直ぐに見つめて、少し悪戯っぽく微笑んだ。「私の本物は、ハルトくんだけだよ。だから皆さん、ハルトくんをいじめるような書き込みは、もう絶対にしないでくださいね?」
それは、世間のNTRだの脳破壊だのといったくだらない下馬評を、一瞬にして消し飛ばす、あまりにも鮮烈で熱烈な、本物の恋人宣言だった。
画面の向こうで、アクアが、MEMちょが、そして世界中の視聴者がどんな顔をしてこの配信を観ているか、想像するだけで痛快だった。
ネットの海を再び自分たちの色で大炎上させ、熱烈な仲をこれでもかと見せつけながら、二人の新しい物語――完璧な
最新話の更新時間は何時がいいですか?参考までに。
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AM6時
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PM12時
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PM8時
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AM12時