あかねのたいよう   作:かぜのこ

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幕間 『ふつう』

 

 熱気を孕んだ夏空が、都内の街並みを鮮やかな群青と溶けるような金色に染め上げていた。アストロチタンのような強い陽光が容赦なく照りつけ、アスファルトからは歪んだ蜃気楼が立ち上っている。

 世間を未曾有の大炎上と、それを上回る大熱狂の渦へと叩き落としたあの夜――交際発表を行った怒涛の『今ガチ』感想配信から、一夜が明けた。当事者である二人、黒川あかねと日野ハルトは、いつものように並んで最寄り駅のホームへと向かっていた。

 朝の通勤・通学ラッシュを迎えた満員電車の中。

 プラットホームへ滑り込んできた車内は、乗客たちのすし詰め状態によって、逃げ場のない湿った熱気と息苦しい圧力に満ち満ちていた。扉が開いた瞬間、うねるように押し寄せてきた人の波。それに呑まれそうになったあかねの華奢な肩を、ハルトは大きな背中で庇うようにして抱え込み、ドア付近の僅かなスペースへと自然な動作で滑り込ませた。

「……大丈夫か、あかね」

「う、うん。ありがとう、ハルトくん……っ」

 あかねの声は、緊張と圧迫感で微かに震えていた。

 ハルトはすっと長い両腕を伸ばし、あかねの頭の左右、ドアの強化ガラス面へと突いた。完璧な「壁ドン」の体勢。背後から押し寄せる通勤客たちの容赦ない圧力を自らの背中で受け止め、彼女だけの安全な空間を死守している。

 だがその結果として、二人の身体は物理的に一切の隙間がないほどに密着していた。

 揺れる電車。制服の薄い生地越しに直に伝わってくる、ハルトの体温と引き締まった肉体の確かな厚み。あかねの胸元が、彼の胸板にピタリと押し付けられる。ハルトの胸元から漂う、爽やかで少しだけスパイシーなシトラスの香水の匂いが、あかねの鼻腔をダイレクトに刺激した。ふと顔を上げれば、息がかかるほどの至近距離にハルトの彫りの深い整った顔立ちがあり、その山吹色の瞳が、どこか心配そうにあかねの表情を覗き込んでいた。

(ど、どうしよう……っ。私の心臓の音……こんなにバクバク鳴ってたら、ハルトくに聴こえちゃいそう……!)

 ガタン、ゴトン、と線路の継ぎ目を越えるたび、車体が大きく揺れ、互いの太ももや体幹が擦れ合う。その度に、あかねの体温はぐんぐんと上昇していった。耳の奥で自分の血流が脈打つ音が聞こえる。満員の車内という本来なら不快で窮屈なはずの空間が、今や世界で二人きりしか存在しない、あまりにも濃密で甘やかな密室へと変貌を遂げていた。

 守っている側のハルトもまた、決して平然としていたわけではない。手繰り寄せたあかねの柔らかい体温と、彼女の髪から立ち上る桃とシャンプーの甘い香りを至近距離で浴び続け、アッシュグレーの毛足に隠れた耳の裏を、静かに赤く染めていたのだった。

 

 最寄り駅の改札を抜け、駅から学校へと続く一直線の通学路。

 普段なら、朝の爽やかな光の中で生徒たちが欠伸をしながら歩く穏やかな風景が広がっているはずのその道は、今日に限ってはあからさまな異彩を放っていた。

「……ねえ、あれって……」

「マジだ、本物じゃん……! 『今ガチ』の……!」

「昨日見た!? HARUの緊急配信! マジで付き合ってたんだ……」

 前を歩く同じ制服の生徒も、後ろを歩く他校の女子生徒たちも、誰も彼もがスマートフォンを手に握りしめ、チラチラと露骨に二人の背中に視線を送っている。隠す気すら感じられないひそひそ話の群れが、温かい夏の風に乗って幾重にも重なり、あかねの鼓膜を不躾に揺らした。

 世界的な注目を集める大人気配信者の『HARU』と、劇団ララライの若手実力派女優『黒川あかね』。昨日まで「芸能科のちょっと目立つ二人」でしかなかった存在が、昨夜の衝撃的な配信によって、完全な時代の中心としてクラスメイトや見知らぬ他人に認識されてしまったのだ。

(みんな、私達のこと見てる……。当たり前だよね、あんな大騒ぎを起こしちゃったんだから……)

 あかねは周囲からの無遠慮な熱量に気圧され、居心地悪そうに肩をすくめると、無意識のうちにハルトの制服の裾を指先でそっとつまんだ。

 指先から伝わる小さな震え。ハルトはそれにすぐ気づくと、歩調をすっと緩め、あかねの歩幅に合わせて彼女の隣に寄り添うようにして歩を進めた。

 教室の重い木枠の扉を開けた瞬間、それまでガヤガヤと騒がしかった室内が一瞬にして静まり返った。

 しかし、その静寂もほんの束の間。あかねが逃げるように自分の席へ向かい、鞄を机に置くやいなや、クラスの女子生徒たちがドッと津波のような勢いで彼女のデスクを取り囲んだ。

「ちょっとあかねちゃん!? 昨日の配信見たよーっ!!」

「本当に日野くんと付き合ってたの!? いつから!? どこから!?」

「『今ガチ』のあの感動的なキスシーンの裏で、あんなことになってたなんて信じられないんだけど!」

「ねえねえ、告白はどっちから!? どっちから言ったの!?」

 至近距離から浴びせられる弾丸のような質問の数々に、あかねは苦笑いを浮かべるしかなかった。

「ええと……その……あのね、みんな……」

 顔を真っ赤にしながら両手を胸の前でパタパタと振り、完全にパニックに陥っている。

 その大騒ぎの光景を、教室の窓際の席から、肘を机につけて頬杖をつきながら眺めている少年がいた。

 ハルトは、女子生徒たちに揉みくちゃにされて目を白黒させているあかねの姿を、どこか可笑しそうに、けれど深く愛おしそうな山吹色の瞳で見つめていた。

「おい日野ー、お前マジでやったな」「あかねちゃん寝取ったとか前に茶化して悪かったわ」「手際良すぎだろ」

 周囲の男子生徒たちからもニヤニヤとした冷やかしの言葉が飛んでくるが、ハルトは「はいはい、ビジネスとリアルは別物だっつーの」と呆れ顔で適当にあしらい、視線を再び窓外の夏空へと向けたのだった。

 

 ☆ ★ ☆

 

 キーンコーンカーンコーン――。

 四限目の終了と昼休みを告げるチャイムが校舎中に響き渡ると、ハルトとあかねは申し合わせたように喧騒を抜け出し、いつもの「避難場所」である校舎の屋上へと向かった。

 重い鉄の扉を開けると、そこには澄み切った青空と、心地よく吹き抜ける夏の風が待っていた。フェンス越しに広がる街並みを眼下に見下ろしながら、二人は日陰になったベンチへ並んで腰を下ろし、購買で買ってきたパンとジュースを広げた。

「ふぅ……。なんか、朝から凄く疲れちゃったね……」

 あかねは紙パックのストローを咥え、小さく肩を落として息を吐き出した。額に張り付いた前髪を風がやさしく揺らす。

「相変わらず、俺ら学校では浮いてるよな」

 ハルトは焼きそばパンを豪快に口に含み、モグモグと頬張りながら呆れたように、けれどどこか他人事のように呟いた。

「そうだね。……でも、昨日あんな配信しちゃったんだから、自業自得かな」

「まあ、仕方ねーけどな。有名税ってやつだろ」

 ハルトはジュースの缶を傾けて喉を鳴らすと、遠くに見えるビルの影をぼんやりと眺めた。

 沈黙が二人の間に心地よく流れる。風がフェンスを鳴らす音だけが響く中、あかねは膝の上で自分の手を見つめ、ふと胸の奥にずっと燻っていた疑問を口にした。

「……ハルトくんは、()()()()()()()()()()()()()()って思ったこと、ある?」

 幼い頃から天才と謳われ、大人たちの欲望が渦巻く芸能界の歪みに触れ、今はたった一人で大人たちと渡り歩いているハルト。彼のあまりにも圧倒的な才能と、その背後に隠された深い孤独に想いを馳せながらの問いかけだった。

 だが、ハルトは迷う素振りすら見せず、即座に首を横に振った。

「ないな。俺は今の俺に満足してるし、普通じゃない俺は俺じゃないからな」

 ハルトはその力強い山吹色の瞳であかねの目を真っ直ぐに見つめ返し、逆に静かな声で問いかけた。

「あかねはどうなんだ?」

 あかねは少し視線を泳がせ、膝の上のスカートの生地をギュッと握りしめながら、穏やかな笑みを浮かべて告白した。

「私はね……普通の女の子に生まれたかった……そう思ってたこともあるよ。周りの女の子たちみたいに、普通に恋をして、普通に部活をして、お芝居の重圧とかネットのノイズに悩まされない世界に行きたいなって」

 あかねの呟くような言葉には、SNSの大炎上で追い詰められ、一人で暗闇の中を彷徨っていた頃の切ない記憶が滲んでいた。しかし、彼女はすぐにハルトの目をしっかりと見つめ直し、凛とした力強い声で言葉を続けた。

「でも、今は違うの」

「ん?」

「だって……私がもし普通の女の子だったら……ハルトくんは私のこと、見つけてくれなかったでしょう?」

 あかねの迷いのない真っ直ぐな言葉に、ハルトは一瞬、驚いたように目を見開いた。そして、どこか照れくさそうにアッシュグレーの髪をガリガリと掻くと、ふっと柔らかく、今日一番の笑みを零した。

「そうだな」

「ふふ、はっきり言うんだから」

「本当のことだからな」

 ハルトはベンチの上で、あかねの小さな手を、優しく、けれど絶対に離さないという強い力で包み込んだ。指と指がしっかりと深く絡み合う。

「俺は、あかねが普通じゃないから好きなんだ。ただの可愛い女の子なら、世の中に腐るほどいる。だけど、お前みたいに泥臭く役に没入して、俺と同じ目線に立ってくれた人間は他にいない。俺と同じ目線に立ってくれた初めての友達で……初恋の女の子。それが、お前なんだ」

 何気なく放たれた、けれどこれ以上ないほど決定的な愛の告白。

 あかねの胸の奥が、目頭が熱くなるほどの圧倒的な幸福感でじんわりと満たされていく。溢れ出そうになる涙を必死に堪えながら、あかねはハルトの手をぎゅっと、強く握り返した。

「うん……ありがとね、ハルトくん。……だから私は、もう普通じゃなくていい。普通じゃないあなたと、ずっと一緒にいたいから」

 二人の視線が重なり合い、夏の風が二人の髪を心地よく揺らしていった。

 

 ☆ ★ ☆

 

 放課後。

 夕暮れ時までの短い時間、二人は制服のまま、ちょっとした放課後デートを楽しんだ。

 駅前の路地裏にある静かな古本屋の香りに包まれながら並んで棚を覗いたり、冷たいジェラートを一口ずつ分け合って食べたり。『今ガチ』の交際を発表したことで、もう周囲の目を隠す必要のなくなった二人は、公然と手をつないで街を歩くその感覚を、噛み締めるように味わっていた。

 太陽が西の空へと没し、空が橙色から深い紫色の美しいグラデーションへと移り変わる頃。二人はハルトの自宅へ戻る途中で、最寄りのスーパーと活気ある商店街へと立ち寄った。

「今夜は何にする、あかね?」

「んー、ハルトくんが最近配信とか曲作りで忙しかったから、栄養のつくスタミナ料理がいいかな。豚肉とニンニクの芽の炒め物とか、どう?」

「いいね、乗った。じゃあ、あっちの肉屋でいい豚バラ買ってくか」

 スーパーの明るく賑やかな店内を、買い物カートを押しながら並んで歩く。惣菜を選び、新鮮な野菜を手にとり、レジで一緒に財布を出して会計を済ませる。

 その一挙手一投足が、まるで長年連れ添った夫婦のようであり、同時に甘い恋人同士のそれだった。パンパンに膨らんだビニール袋をハルトが持ち、あかねがその隣に寄り添うように並んで歩く。

 夕暮れの帰り道。

 オレンジ色のグラデーションに染まる住宅街の静かな坂道を、二人の影が長く地面に伸びていた。

「ねえ、ハルトくん。今日の夕飯、私も手伝うね」

「おう。あかねの切るタマネギ、楽しみにしてるわ」

「もう、私の包丁さばきを馬鹿にしてるでしょー!」

 楽しそうに笑い合いながら、坂道を一歩一歩上っていく。

 手に伝わるハルトの温かい体温と、夕渡る風の心地よさ。

 ()()()()()()二人が見つけた、世界で一番特別で、世界で一番温かい日常が、夕暮れの街並みの中にどこまでも続いていた。

 

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