あかねのたいよう   作:かぜのこ

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第2章『ファーストステージ編』
第16回:『星野アクア 1』


 

 冷房の効いた斉藤家のリビングダイニングには、いつもと変わらない夜の匂いが満ちていた。

 大皿に盛られたハンバーグから立ち上るデミグラスソースの香ばしい匂いと、炊きたてのご飯の湯気。本来であれば、一日の疲れを癒やすための穏やかな食卓になるはずだった。しかし、今夜のそこには、一人の少女が放つ凄まじい負のオーラが渦巻いていた。

 星野(ほしの)瑠美衣(ルビー)は、箸を持ったまま皿の上のブロッコリーをこれでもかと突き回し、頬をリスのように限界まで膨らませている。その表情は、文字通りプリプリと憤懣やる方ないといった様子で、怒りのあまり結った髪が小刻みに震えているようでもあった。

「もう! 信じらんない! なんなのアイツら、本当にムカつくーー!!」

 ルビーはついに箸をテーブルに叩きつけるようにして置き、背もたれにドサリと体重を預けた。食事もそこそこに、彼女の口から飛び出してきたのは、先ほど終了したばかりの『今からガチ恋始めます』最終回――の、直後にネットを大炎上させた、ネットアーティスト『HARU』のサプライズ生配信に対する呪詛だった。

「最終回の余韻が台無しじゃん! 何が『ビジネスはあっち、本物はこっち』よ! 黒川あかねも黒川あかねだよ! アクアとあんなに良い雰囲気で、最後は情熱的なキスまでしといてさあ! 終わった瞬間に別の男の腕に抱きついて『本当の彼氏はハルトくんでーす☆』って、全方位に対して失礼すぎでしょ! 特にうちのお兄ちゃんが、完全に引き立て役の踏み台にされたみたいじゃん!」

 ルビーの怒りはもっともだった。世間があかねと彼女の兄の劇的なビジネスカップル成立に沸き、感動に浸っていたその刹那、幼馴染という強力なカードを引っ提げた日野ハルトによって、その熱狂をすべて強奪されたのだ。妹として、兄のプライドが公衆の面前でズタズタにされた(ように見える)ことが、ルビーにはどうしても許せないらしかった。

 一方の兄、アクアこと星野(ほしの)愛久愛海(あくあまりん)は、そんな妹の猛り狂う様子を、冷めたスープをスプーンで静かに掬いながら、酷く冷静に見つめていた。

「ルビー。箸をそんな風に置くな。行儀が悪いぞ」

「ちょっとアクア! なんでそんなに冷静でいられるわけ!? 悔しくないの!? 自分の男としてのプライドとか、そういうのないの!?」

 身を乗り出して詰め寄ってくるルビーに、アクアは視線すら動かさず、淡々とご飯を口に運んだ。

「悔しいも何も、もともと番組内だけの関係だ。最初からビジネス、ただのお仕事として割り切ってやってたんだから、黒川あかねがプライベートで誰と付き合おうが俺の知ったことじゃない。むしろ、番組の注目度を最後まで維持したまま終われたんだから、演者としては及第点だろ。聞き分けよく受け入れるのがプロだ」

「な、なによその冷めきった正論! プロとかビジネスとか、そういうロボットみたいなことばっかり言って!」

 自分の熱量との温度差に絶望したルビーは、今度は救いを求めるように、食卓の対面に座る苺プロダクションの社長、斉藤ミヤコへと視線を向けた。

「ねえ、ミヤコさん! ミヤコさんからも言ってよ! 黒川あかねとあのHARUって奴のやり方、いくら何でも悪趣味だよね!?」

 しかし、ルビーの期待に反して、ミヤコはグラスの白ワインを上品に傾けながら、どこか遠い目をして、うっとりとした笑みを浮かべていた。

「え~? そうかしら? 私はむしろ、画面の前で『きゃあー!』って叫んじゃったわよ。HARUくんと黒川あかねちゃん……うーん、やっぱり最高にお似合いの二人じゃない?」

「ええっ!? ミヤコさんまであっちの味方なの!?」

 裏切られたショックで頭を抱えるルビーに、ミヤコは人差し指をチチチと振ってみせる。

「ルビー、あんた分かってないわね。あの二人がどれだけ特別な関係か。……あんたたち、十年前の朝ドラ『ひまわりの日』を覚えてないの?」

「ひまわりの、ひ……?」

 ルビーが小首をかしげる。アクアも、その単語に僅かに眉を動かした。

「ほら、あかねちゃんが子役時代に出てたやつよ。その時の彼女の相手役、芸能界に彗星のように現れて日本中の主婦のハートを鷲掴みにした伝説の天才子役、それが今をときめくネットアーティスト『HARU』の本名――日野ハルトくんなのよ!」

 ミヤコは熱弁を振るう。彼女は当時、その朝ドラに寝食を忘れるほどどハマりしており、画面の中で初々しい恋模様を演じていたハルトとあかねの、文字通り潜在的なファンの第一人者だったのだ。

「あのドラマの最終回、父親の転勤で引っ越してしまう二人の別れのシーン……私は何リットルの涙を流したか……! ハルトくんが芸能界を急に引退しちゃった時は、本気でロスになって寝込んだんだから。それがまさか、十年の時を経て、リアリティショーの裏側で本当に愛を育んで、リアルで結ばれるなんて……! あかねちゃんの『本物はこっち』っていうセリフ、朝ドラの文脈から見たら、これ以上ない最高の伏線回収でエモすぎるわよ!!」

「エモいとかどうでもいいよ! じゃあ何、うちのお兄ちゃんは、その十年越しの純愛ロードだかの単なる障害物Aにされたってこと!?」

「いいじゃない、アクアなんて顔だけなんだから、今回は引き立て役に徹しなさい。あ~、それにしてもハルトくん、相変わらずイケメンに育ってくれてママは嬉しいわ……」

「ミヤコさんのバカーー!!」

 味方が一人もいない現実に、ルビーはついに絶望し、食卓の上に見事な突っ伏しを決めた。

 

 ☆ ★ ☆

 

 そんな賑やかな――あるいは騒々しい妹と義母のやり取りを横目に、アクアは最後の一口のハンバーグを咀嚼し、静かに飲み込んだ。

(面白くないに決まってるだろ……!)

 胸の奥底で、ドス黒い感情の澱が、冷ややかに渦巻いていた。

 男としてのプライド? そんな安っぽいものは、アイを失ったあの日にすべて捨て去ったつもりだった。だが、今回の件に関して言えば、日野ハルトという男の立ち回りは、アクアの想定を遥かに超えて、徹底的に不愉快だった。

 黒川あかねという、自分たちの母親である星野アイの完璧な仮面を被った少女。アクアはその仮面の裏にある、かつての〝最推し〟の面影に、理性を狂わされるほどの執着を抱いていた。あかねがアイとして微笑むたび、あかねがアイとして自分を見つめるたび、アクアの無意識は、その疑似恋愛の甘美な毒に深く、深く溺れかけていたのだ。

 それを、あのハルトという男は、最終回の放送が終わった瞬間に、まるで「お前が見ていたものはすべて偽物だ」と言わんばかりに、あかねを自分の腕の中に引き戻し、現実という冷水を浴びせてきた。アクアがアイの幻影を見ていたその場所を、日野ハルトという現実の存在が、暴力的なまでの独占欲で塗りつぶしたのだ。

 それが、面白いはずがなかった。

(……だが、お仕事(ビジネス)として見れば、これ以上ない最高の結果だ)

 アクアはグラスの水を飲み干し、口元を拭った。

 黒川あかねの背後に、確実に日野ハルトがいる。そしてその日野ハルトこそが、自分がずっと追い求めていた、アイの隠された楽曲『アイドル』の創り手であり、芸能界の裏事情に異常なまでに精通している天才コンポーザー『ソレイユ』である可能性は、今夜の配信で100%の確信へと変わった。

 あかねがあれほどの精度でアイをプロファイリングできたのは、ハルトの持つデータがあったからだ。そしてハルトがそれほどのデータを集められたということは、彼はアイの生前、彼女の周囲にいた人間や、あるいはアイ本人と、極めて深い繋がりを持っていたことに他ならない。

 アイの過去を知る男。

 それは、アクアが人生のすべてを賭けて行っている〝復讐〟の、大いなる手がかりになる。

(これまでは、どこに潜んでいるかも分からない幻を追っている状態だった。だが……あかねがハルトと正式に交際を発表したことで、明確なルートが繋がった。あかねを経由すれば、俺はいつでも、日野ハルト=『ソレイユ』の懐へと踏み込むことができる)

 アクアの瞳の奥で、復讐の黒い星が、静かに、しかし凶悪な輝きを増していく。ルビーの言う通り、自分は踏み台にされたのかもしれない。だが、その踏み台を踏み越えて、最後に真実に辿り着くのが自分であれば、プロセスなどどうでもよかった。

 

 ☆ ★ ☆

 

 食事が終わり、各自が部屋へと引き上げた後の自室。

 アクアは机の前の椅子に深く腰掛け、部屋の明かりを消した暗闇の中で、パソコンの大型モニターの光だけを浴びていた。

 画面に映し出されているのは、先ほどアーカイブ化された『HARU』の生配信の映像だ。何度も巻き戻し、ハルトとあかねのやり取りを観察する。あかねがハルトの腕に絡みつき、素の表情で幸せそうに笑っている姿。その一挙手一投足に、演技の嘘は一切含まれていなかった。あかねは心から日野ハルトを愛しており、ハルトもまた、彼女を自分の世界の中心に据えている。

「……徹底してるな」

 アクアはぽつりと呟いた。

 ハルトの立ち回りは、ネットの炎上を鎮火させるだけでなく、あかねのタレントとしての価値を悲劇のヒロインから一途な純愛を貫いたヒロインへと昇華させた。この一晩で、あかねに対する世間のバッシングは完全に消失し、むしろ若い世代の憧れのカップルとして、二人の知名度は爆発的に跳ね上がっている。クリエイターとしても、プロデューサーとしても、日野ハルトの手腕は恐ろしいほどに確かだった。自分が踏み台にされている、という一点を除けば。

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 アクアは、手元にあるスマートフォンを、ベッドの上に放り出した。

 画面が点灯し、メッセージアプリの画面が表示される。

 『今ガチ』の収録がすべて終わった後、メンバー全員でグループを作り、個人の連絡先も交換し合っていた。そのアドレス帳のリストの中には、当然のように〝黒川あかね〟の名前が存在している。

 今すぐ、あかねに「最終回お疲れ様。配信見たよ」と、当たり障りのないメッセージを送ることもできた。彼女の性格なら、すぐに「アクアくん、番組のことでは色々と巻き込んじゃってごめんなさい」といった、生真面目で申し訳なさそうな返信が返ってくるだろう。

 だが、アクアはすぐに指を動かすことはしなかった。

 今、焦って動けば、あの洞察力の塊のような日野ハルトに、自分の意図を察知される危険性がある。ハルトはあかねを過保護なまでに守っている。アクアがあかねに不自然に近づけば、ハルトは即座に防壁を築き、アクアを自分の世界から完全にシャットアウトするだろう。

 だからこそ、慎重に、蜘蛛が網を張るように、向こうからこちらに近づいてくる理由を作る必要がある。

「焦る必要はない……」

 アクアはモニターの中で、楽しそうに笑うハルトの山吹色の瞳を、じっと見つめ返した。

「お前が黒川あかねの隣にいる限り、俺たちの線は、必ずどこかで交わる」

 暗闇の中、スマートフォンの画面が静かに消灯し、部屋は再び、パソコンの青白い光だけが支配する空間へと戻っていった。アクアの胸の中で、冷徹な計算と、アイの幻影に対する割り切れない想いが、夜の静寂と共に深く、深く沈み込んでいくのだった。

 

 『今からガチ恋始めます』の劇的な最終回から数日。ネットのトレンドは未だに『HARU』と『黒川あかね』の電撃的な交際宣言の余韻で揺れ動いていた。番組で生まれたビジネスカップルという「完璧な偶像(ビジネス)」を、現実の純愛という「唯一無二の真実(リアル)」が塗り替えた衝撃は、あかねのタレント価値を爆発的に跳ね上げさせている。

 だが、そのまばゆい光の裏で、一人の男がただの()()()として世間からおもちゃにされている事実を、星野アクアは冷徹に見つめていた。

 自室の机に向かい、スマートフォンの画面に表示された黒川あかねからの長文のメッセージを眺める。そこには、事前に相談もなくサプライズ配信を行い、アクアをピエロのような立ち位置に追い込んでしまったことへの、痛々しいほどの平身低頭な謝罪が綴られていた。

 『どんな埋め合わせでもするから、一度直接会って謝らせてほしい』

 画面を見つめるアクアの瞳の奥で、冷たい光が静かに蠢く。あかねの生真面目さと義理堅さは、これ以上ないほど利用しやすい。アクアは感情を一切排した手つきで、簡潔に、しかし明確な罠を仕込んだ返信を打ち込んだ。

 『分かった。黒川とはビジネスの関係だとは理解しているが、一人の男として、あそこまでピエロにされて面白くないのも事実だ。近いうちに直接話そう。場所は任せる』

 文面を送ると、アクアの口元が小さく歪んだ。

 

 




【登場人物・設定紹介】
 星野アクア:原作主人公。兄。このお話でも裏主人公として活躍する。
 星野ルビー:原作ヒロイン。妹。アイドルの卵。
 斉藤ミヤコ:苺プロダクション現社長。聖母。

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