数日後、都内の喧騒から切り離された、芸能人御用達の高級カフェの個室。
遮音性の高い扉の向こう側は、外の雑音が嘘のように静まり返っていた。テーブルを挟んでアクアの対面に座る黒川あかねは、運ばれてきたアイスティーのグラスに触れることもできず、膝の上で両手をきつく握りしめていた。
「本当に、本当にごめんなさい、アクアくん……!」
あかねはアクアの顔を見るなり、今にも泣き出しそうな表情で頭を下げた。
「ハルトくんは、悪気はなかったの。ネットでの騒ぎを収めるには、あのタイミングで全部曝け出すのが一番効果的だからって……。でも、アクアくんのプライドを傷つけていい理由にはならないよね。本当に、私たちが浅はかだった」
アクアは椅子の背もたれに深く寄りかかり、終始ポーカーフェイスのまま、あかねの様子を観察していた。
「……終わったことを今更責めるつもりはない。演者としては最高の演出だった。ただ、俺個人として面白くないのは事実だ。だから、この精神的な実害の埋め合わせは、きっちりともらうぞ」
「うん……! 私にできることなら、何でも言って」
あかねはすがるように目を見開いた。完全に主導権を握ったことを確認し、アクアは懐から本題を取り出した。
「なら、『HARU』……日野ハルトに会わせろ。彼と直接、ビジネスの話をしたい」
「え……ハルトくんに?」
「ああ。妹のルビーと有馬かな、そしてお前も知ってるMEMちょの三人で、新生『B小町』として八月の
アクアは淡々としたトーンで続ける。
「ネットで圧倒的な影響力を持つ『HARU』のマーケティングの力、そして――謎の天才コンポーザー『ソレイユ』としての彼の音楽の力を借りたい。JIFに向けたコラボか、あるいは何らかの企画の足掛かりを、俺たちのグループにトスしてほしい。それが、今回の件の埋め合わせだ」
「えっ?」
あかねは、アクアの口から飛び出した名前に目を丸くした。
「アクアくん、『ソレイユ』のこと調べたの?」
「ああ。『サン・マネージメント』のホームページを見れば、所属タレントなんて『HARU』と『ソレイユ』の二人だけだってすぐに分かる。あとは法人登記簿なんかの公開情報を少し調べれば、両者が同一人物であることくらい、ちょっと推理すれば誰でも行き着く話だろ」
「そ、そうみたいだね」
「法人登記簿を入手するのは難しくないからな。まあ、『HARU』本人が言及しているって話は聞かないが……その様子だと、黒川は最近まで知らなかったって顔だな」
「あ、あはは……うん」
アクアの淡々とした指摘を笑って誤魔化そうとするあかね。呆れたような視線に自分の世間知らずを改めて思い知らされ、恥ずかしさにあかねは突っ伏したい衝動をこらえながら、アクアを上目遣いに見つめた。
「……ごめんなさい。私、本当に物を知らなくて……。でも、そっか……アクアくんは、ルビーちゃんや有馬さんのために……それに、私の大切な友達のMEMちょのために、頭を下げてチャンスを作ろうとしてるんだよね」
気を取り直したあかねの胸を満たしたのは、純粋な安堵だった。
『今ガチ』を共に生き抜いたMEMちょの、人生を賭けたリスタート。そして役者として密かにその才能を認め、ライバル視している有馬かな。彼女たちの初舞台を成功させるために、アクアは自分のプライドを横に置いて、ハルトの力を借りに来たのだ。あかねにとって、この商談は全員がハッピーになる、断る理由のない最高の提案に映った。
「分かったわ」あかねは小さく息を吐き、赤みを帯びた顔のまま頷いた。「ハルトくんに話してみる。ハルトくんも、私たちがあれだけ派手にやっちゃった手前、筋を通さなきゃいけないって思ってるはずだから。……何より、MEMちょや有馬さんのためなら、私も喜んで仲立ちするよ」
あかねは嬉しそうに微笑み、すぐにハルトへメッセージを送り始めた。その様子を見つめながら、アクアは心の奥底で、冷酷な計算を静かに進めていた。
☆ ★ ☆
数日後、都内某所にある雑居ビルの一室。
そこが、日野ハルトが代表を務める個人事務所『サン・マネージメント』のオフィスだった。広くはないが、洗練されたモノトーンの家具で統一され、壁にはハルトがこれまでに手がけた楽曲のディスクがいくつか飾られている。
オフィスを訪れたアクアは、あかねに案内されて応接スペースのソファへと腰掛けた。目の前には、スタッフの入れた緑茶が湯気を立てている。少し遅れて扉が開き、ワークシャツの袖をまくったハルトが入ってきた。
アクアの対面、あかねの隣に座るとハルトは開口一番、謝罪の言葉から入る。見事としか言えないフォームで頭を下げた。
「まずは謝罪からさせてもらう。星野アクアくん、俺たちの都合で迷惑をかけて本当に申し訳ない」
「いや……顔を上げてください。調子に乗って黒川にアプローチした俺も悪いので」
心にもないことを言いつつ、アクアはまずはジャブの応酬とばかりに言葉を続ける。
「『今ガチ』での黒川のプランはあくまでもバランサー、人間関係を引っ掻き回しつつ番組を盛り上げるつもりだった、違うか?」
「うん、そうだよ。ただ番組の流れで、その……最後はああなったけど。アクアくんはどうして私に、あんなに距離を縮めてきたの?」
「そうだな……
「えっ!? そ、そうなんだ」
「へぇ……?」
アクアの含みのある言葉にあかね、ハルトがそれぞれ反応する。言葉に込められた意味――『アイ』について感づいたようで、日野ハルトの興味は引けたようだ、とアクアは無感情な表情の下でほくそ笑む。
「前置きはこれくらいにして。あかねからも事前に聞いてるが、わざわざ事務所の登記まで調べて俺を直接ご指名なんだ。本題を聞こうか、星野アクアくん」
ハルトはデスクを挟んだ対面のチェアーに深く腰掛けた。その山吹色の瞳が、品定めをするようにアクアを真っ直ぐに見据える。
目の前の男が纏う、圧倒的な自信。同世代でありながら、すでに自分の力だけで事務所を構え、世間をその手で転がしている、光の世界の住人としての圧倒的な存在感。それを間近で突きつけられ、アクアは胸の奥が微かに疼くような、息の詰まる感覚を覚えていた。
(……これが、日野ハルト)
自分が『アイ』の死という底なしの闇に囚われ、復讐のためだけに生きているのに対し、目の前の男はどこまでも堂々と、自分の足で光の中に立っている。その圧倒的な〝持てる者〟の輝きに、アクアは無意識のうちに激しいコンプレックスを抱かずにはいられなかった。
アクアは小さく息を吸い込み、ポーカーフェイスを維持したまま、用意していた探りの言葉を口にした。
「先日のあかねとの交渉でも言ったことだが、ウチの事務所の新生『B小町』へのプロデュース協力をお願いしたい。だが……俺があなたにどうしても会いたかった理由は、それだけじゃない」
「というと?」
「さっき言ったよな、俺の〝推し〟の話……俺は、いちファンとして、アイドル『アイ』の死にずっと割り切れない疑問を抱いている。そして『今ガチ』の最終回で、あかねが見せたあの完璧な『アイ』の仮面に、強い衝撃を受けた。……あの恐るべきプロファイリングの仕掛け人は、あなた……『ソレイユ』ではないか、とな」
ハルトは何も言わず、ただ楽しそうにアクアの言葉を促す。
「『ソレイユ』。あなたは、アイを題材にしたと思わしき、あの『アイドル』という神曲の製作者だ。アイの死を誰よりも解剖し、楽曲へと昇華させたあなたなら、あかねにあそこまでの演技を仕込むデータを持っていてもおかしくない。……俺は、あなたがアイについて何を知っているのか、それを確かめたかった」
アクアの瞳の奥で、鋭い光がハルトを射抜く。それは、アイの過去を追うための、執念の詰まった問い詰めだった。ハルトがアイの生前に深い繋がりを持っていたという前提の元、その秘密の核心に触れようとするアクアの、渾身のブラフ。
だが、その言葉を聞いたハルトは、一瞬の静寂の後――クスクスと、呆れたような、しかしどこか愉快そうな笑い声を漏らした。
「ハハッ、なるほどな。大層な推理をご苦労様。……だけどさ、星野アクアくん。お前のその推理、前提から大外れだぜ」
ハルトは椅子の背もたれに寄りかかり、平然と言い放った。
「俺はさ、『アイ』なんて人間に、一度も会ったことねえよ。なんせ、俺が芸能界デビューした時にはもう亡くなってたんだからな」
「なっ……! いや、確かに経歴では……! じゃ、じゃあ、『ソレイユ』はユニットで、アンタ以外がアイと面識があるとか」
「ないな。『アイドル』は正真正銘、俺が子役時代に『B小町』と『アイ』のことを自分で調べて、プロファイルした情報から書き上げたもんだ。それでいいなら教えてやれるが?」
アクアの脳裏に、冷や水が浴びせられたような衝撃が走った。
(……会ったことがない? 『ソレイユ』が、アイに?)
自分の復讐劇の大きな手がかりだと思っていた男は、ただの部外者の天才だった。ハルトがアイの生前に深い繋がりを持っていたというアクアの推理は、この瞬間に根底から完全に崩れ去った。
アクアがポーカーフェイスの裏で激しい動揺を押し殺していると、隣に同席していたあかねが、アクアの言葉にじっと耳を傾けたまま、小さな声を漏らした。
「……アクアくん。さっき、『アイ』さんの死にずっと割り切れない疑問を抱いてるって言ったよね」
あかねのその青い瞳には、先ほどまでの恥じらいは綺麗に消え去り、役者としての、そして一人の聡明な少女としての純粋な探求心が宿っていた。
「それって、どういうこと……? 『アイ』さんの死に疑問って?」
あかねからの予期せぬ問いかけに、アクアはハルトに向けていた視線をゆっくりと彼女へと移した。自分がアイの子供であるという絶対の真実は、決して明かすわけにはいかない。アクアは息を吸い込み、いちファンとしての客観的な視点を装いながら、彼がずっと胸に抱き続けてきた一番の疑問を静かに口にした。
「……当時、引っ越したばかりのアイが、ストーカーに自宅で刺されるなんて、普通に考えておかしいと思わないか?」
「え……?」
「彼女が殺害されたのは、新築の高級マンションだ。セキュリティも厳重で、引っ越したばかりの芸能人の住所なんて、一般のファンが簡単に特定できるはずがない。ストーカーが単独でそこに辿り着くには、あまりにも不自然すぎる」
アクアは血眼になって調べ上げた事実から、ロジックを組み立てる。胸の底から湧き上がる不快感を押し殺し、言葉を吐く。
「警察の調べでは、アイを殺害した『菅野良介』は当時二十二歳の大学生で、特別なスキルを持っていたという事実もなかった。……つまり、彼女の新しい住所をストーカーに意図的に漏らした〝黒幕〟が、芸能界の裏側に確実に存在するはずなんだ」
アクアの言葉は、熱烈なファンの妄想を装ってはいたが、その声の端々には隠しきれない冷徹な憎悪が滲んでいた。
あかねはその言葉を聞いた瞬間、ハッと息を呑んだ。
(引っ越したばかりの、住所……。確かに、言われてみれば……どうしてストーカーがそれを知ることができたの?)
『今ガチ』の最終回でアイに深く憑依し、彼女の行動論理や思考を徹底的にトレースしたあかねだからこそ、アクアの指摘した違和感がどれほど鋭く、そして恐ろしいものであるかが本能的に理解できた。『アイ』という完璧な偶像が破られたあの悲劇の裏に、生々しい人間の
「……確かに、それはおかしいかも」あかねは自分の顎に手を当て、真剣な表情で呟いた。「ストーカーが一人で調べるには限界がある。もし本当に誰かが裏で手引きしていたとしたら……それは、『アイ』さんの身近にいた人間、あるいは……」
あかねの瞳に、役者としてのプロファイリングの炎が再び灯り始めるのを見て、それまで黙って緑茶を啜りながら話を聞いていたハルトが、わずかに表情を険しくした。
「おいおい、あかね」ハルトはお茶のカップをテーブルに置き、あかねの肩を軽く叩いて我に返らせた。「俺は完成されたアートとしての『アイ』にしか興味はねえ。その裏にある生々しい汚れ仕事だの、陰謀論だのには一ミリも首を突っ込む気はねえよ。お前もあんまり深入りするな」
「う、うん……」
ハルトはそう言ってあかねを制したが、その山吹色の瞳は、椅子の背もたれに深く腰掛けたまま、じっとアクアの様子を観察していた。
(星野アクア……お前、やっぱりただのファンじゃねえな。その『疑問』に辿り着くまでの執念、そしてその目の奥にある真っ黒な塊……。俺の仕掛けた配信のせいで、ウチのあかねがこんなドロドロした事件の謎解きに首を突っ込み始めちまったじゃねえか)
ハルトは内心で毒づいた。アイの死の真相など、ハルトにとっては知ったことではない。だが、あかねがアクアの提示した謎に強い興味を抱いてしまった以上、このまま彼女を一人でアクアに関わらせるのは危険すぎると、ハルトの直感が告げていた。あかねをリアルな世界の汚れから守るため、そして何より、自分が仕掛けたサプライズ配信であかねとアクアのビジネスに迷惑をかけた分の『筋』を通すため、アクアの求めに協力する必要があった。
ハルトは小さくため息を吐くと、不敵な笑みを浮かべてアクアを見据えた。
「まあ、お前がその死んだ目の奥にどんな執念を隠してようが、俺には関係ねえ。だがお前に『貸し』を作っちまった以上、話は別だ。埋め合わせとして出来ることは何でもやってやるよ。新生『B小町』のJIFまでの特訓、俺とあかねで全面的に協力してやる」
ハルトは立ち上がり、アクアに向かって手を差し伸べた。
「ネットアーティスト『HARU』のマーケティングと、ウチの個人事務所のツテをフルに使って、お前らのグループを八月のステージで最高の形で化けさせる。豪華客船に乗ったつもりで俺にどーんと任せな!」
アクアはハルトの差し出してきた手を見つめ、それからゆっくりとその手を握り返した。
『ソレイユ』がアイの過去を知る男であるという推理は大外れした。しかし、ハルトという光の才能は、あかねを守るため、そして自身のプライドのために、自らこの泥沼へと足を踏み入れることを選んだのだ。
こうして、復讐を胸に秘めた少年と、その闇を見抜く男、そして役者としての探求心に火がついた少女の、奇妙な取引関係とJIFへ向けた特訓の日々が、静かに幕を開けるのだった。
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