あかねのたいよう   作:かぜのこ

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第2回:『天才同士の恋愛頭脳戦?』

 

 この世には、凡庸な秀才たちがおよそ生涯をかけても辿り着けない、二種類の〝天才〟が存在する。

 一方は、徹底的なプロファイリングと超人的な共感能力によって、対象の過去、傷、呼吸、ひいては思考の癖に至るまでを精緻にトレースし、その他者を自身の肉体に〝憑依〟させる天才。劇団ララライの若きエース、黒川あかねがまさにその体現者だった。彼女が役を纏う時、そこには本物の魂の叫びが宿り、観客の心を暴力的なまでに揺さぶる。

 そしてもう一方は、自身の脳内に網膜の如く焼き付く完全記憶能力と、ミリ単位の誤差すら許さない精密な身体操作を組み合わせることで、感情の出力を一ピクセル単位で完璧にコントロールする天才だ。内面から湧き上がる衝動に頼るのではなく、筋肉の弛緩、視線の角度、声帯の震わせ方を完璧に計算し尽くし、その身に〝真実〟を顕現させる()()()()()()()()()――それが、日野ハルトだった。

 もしも演劇界の重鎮たちが彼らの本質を見せつけられれば、次世代の怪物の誕生に慄き、畏怖の念を抱くに違いない。

 だが、そんな規格外の神童二人であっても、ひとたび母校の指定ブレザーに身を包み、校舎の喧騒に紛れてしまえば、話は全く別だった。周囲の生徒たちから見れば、彼らはただの〝付き合っているのかいないのかよく分からない、やたらとジレジレした距離感を保ち続けている美男美女〟という、格好の噂の種に過ぎなかった。

「……ねえ、日野くん。次の時限の数学の小テスト、本当に、本当に大丈夫なの?」

 五月中旬。窓の外からは、初夏の訪れを予感させる青臭い若葉の匂いと、体育の授業で誰かが蹴り上げたサッカーボールの鈍い音が響いていた。

 次の移動教室へ向かうため、人混みでごった返す廊下を並んで歩きながら、あかねは小脇に抱えた重い教科書をきゅっと胸元で抱え直した。そして、隣を歩くハルトの横顔を、少し呆れたような、しかしどこか心配そうに潤んだ瞳で見上げていた。

「ん? ああ、大丈夫だって。昨日、寝る前に教科書を一通りパラパラって目を通しておいたからさ。数式なんて、一回見りゃその構造とか型が勝手に頭に残るだろ、普通」

 ハルトは制服のネクタイを少し緩め、今ものんきに首の後ろで両手を組みながら、弾むような足取りで歩いている。廊下の蛍光灯が、彼の整った顔立ちに淡い陰影を落としていた。

 あかねは彼のその言葉を聞くと、小さな唇をわずかに尖らせ、小さく肩をすくめた。

「もう……普通は残らないよ。そんな、一度見ただけで全部覚えられるわけないじゃない。またそうやって、大げさに言って私をからかうんだから……」

 あかねはそれを、彼特有の軽妙なジョークか、あるいはテスト前の強がりなのだろうと解釈して、困ったような苦笑を浮かべた。しかし、それは彼女の誤解だった。ハルトは一切の見栄を張っていない。彼は本当に、昨晩ベッドの上でめくった教科書の全ページを、スキャナーのように高解像度の画像データとして脳内に丸暗記していたのだ。彼にとって、公式を思い出す行為は、脳内のフォルダから画像ファイルを開くことと同義だった。

 そんな二人が、互いの歩調を合わせるようにして談笑しながら廊下を通り過ぎる。その一挙手一投足に、周囲の男子生徒たちからは、じりじりと肌を焼くような強烈な嫉妬の視線が突き刺さっていた。廊下の隅、下駄箱の近く、階段の踊り場――あらゆる場所から、彼らを値踏みするような、そして羨望するようなひそひそ話が漏れ聞こえてくる。

「おい見ろよ、あかねちゃん、また今日も日野と一緒にいるぜ……」

「マジでなんなんだよアイツ。あの二人が付き合ってないって噂、本当か? どう見てもあの距離感、ただの友達のそれじゃねえだろ」

「美男美女すぎて見てるこっちが恥ずかしくなるわ。早く付き合っちゃえよ、じれったいな」

 すれ違うクラスメイトたちの声が、ざわざわとした廊下の喧騒に混じってあかねの鼓膜を震わせる。

 あかねの耳の付け根が、じわじわと赤く染まっていく。彼女は俯きがちになりながら、内心で激しく身悶えしていた。

(付き合って……ないもん。付き合ってないの。だって……私が、あの時に振っちゃったんだから……)

 いつかの出来事、そしてその後に交わした彼との対話が、脳裏をよぎる。きゅっと胸の奥が締め付けられるような、切なくも甘い痛みが走る。だが同時に、周囲からこうしてお似合いの二人として公認されているという事実に、彼女は抵抗できなかった。ほんの少しだけ、本当に誰にも気づかれない程度に、あかねの口元はだらしなく緩んでしまうのだった。

 一方のハルトといえば、周囲に渦巻くピンク色の熱視線や嫉妬のオーラなど、文字通り一ミリも気にする様子がなかった。彼の視線は、廊下の掲示板に貼り出された一枚のプリントに完全にロックオンされていた。

「あ! あかね、見ろよ! 今日の食堂のから揚げ定食、限定三十食のやつじゃん! これ、次の時間終わった瞬間にダッシュしないと絶対に売り切れるぞ。おい、チャイムが鳴ったら即スタートな!」

 ハルトはパッと顔を輝かせると、まるで無邪気な少年のように、底抜けに明るい太陽のような笑顔をあかねに向けた。その屈託のない瞳には、あかねが抱いているようなジレジレとした葛藤の影など、これっぽっちも見当たらない。

(本当に……この人は無自覚なんだから……)

 あかねは胸の内で小さくため息をついた。呆れ半分、溜息半分。それでも、彼のその底抜けに眩しい笑顔を間近で浴びてしまうと、どうしても胸の鼓動が跳ね上がってしまうのを止められない。彼女は翻弄されながらも、その心地よい熱にやっぱり今日もときめいてしまうのだった。

 

 放課後。五限目の終了を告げるチャイムが鳴り響き、校舎から解放された二人の姿は、駅前にある大型ゲームセンターの中にあった。

 表向きの理由は小テストが終わった後の息抜きと勉強の疲れ癒やしだったが、傍から見ればどう足掻いても実質的なデートそのものだった。

 店内は、放課後の学生や仕事帰りの会社員たちで賑わい、あちこちから電子音や重低音のBGM、コインが落ちる金属音が鳴り響いていた。薄暗い空間を、色とりどりのLEDライトが派手に照らし出している。

「うわっ、これめちゃくちゃ懐かしい! ガンシューティングの、一世代前の旧作じゃん! まだ置いてある店あったんだな!」

 ハルトは子供のように目を輝かせると、ポケットから小銭を取り出して迷わずコインスロットへ投入した。チャリン、という小気味よい音とともに画面が立ち上がる。彼は二挺あるプラスチック製の重たい銃型コントローラーのうち、片方をあかねの手へと手渡した。

「ほら、あかねもやろうぜ。これ、結構ハマるから」

「え、あ、うん……。私、こういうのあんまり得意じゃないんだけど……」

 ゲームが開始されると同時に、あかねの戸惑いは驚愕へと変わった。彼女の視線は、画面ではなく、隣に立つハルトの動きに完全に釘付けになってしまった。

 画面の四隅から、不規則に襲いかかってくるエネミーの群れ。普通であれば、視線を激しく動かして索敵しなければならないはずだ。しかし、ハルトの視線は驚くほど静かに、画面の中央付近に固定されていた。

 彼は敵の出現パターン、そのタイミング、移動速度を完璧に記憶していた。無駄な視線誘導は一切ない。それどころか、腕の筋肉の動きを最小限に留め、銃口を機械的な正確さでピタリと標的に合わせる。パン、パン、パン、と乾いた銃声が響くたび、画面上の敵は一切の反撃の隙を与えられず、次々とヘッドショットで撃破されていった。

「日野くん……()()()()()()()()よね……?それに、その引き金の引き方……まるで、本物の戦場を経験した兵士の役作りを、今この瞬間にしてるみたい……」

 あかねの呟きに、ハルトはトリガーを引く指を休めることなく、ケラケラと軽そうに笑った。

「ん? あー、視線の配り方のこと? これさ、ゲームのフレームレートの切れ目で、次に敵が湧く位置がミリ単位で分かるんだよね。だからそこにあらかじめエイムを置いておくだけ。ほら、簡単だろ?」

 こともなげに言い放ちながら、ハルトは画面上に圧倒的なハイスコアを刻み込んでいく。その横顔を見つめながら、あかねは背筋に冷たいものが走るのを覚えた。

(やっぱり……この人、ただの高校生じゃない。本当にどうして役者を辞めちゃったんだろう……)

 彼の持つ底知れないポテンシャル、狂気的なまでの精密さに、あかねの役者としての本能がゾクゾクと震えていた。彼は日常のあらゆる動作の中に、完璧なまでの技術を潜ませている。

「よし、次はこれな! 黒川、これやろうぜ!」

 ハルトが次に目を付けたのは、筐体の周囲を派手なネオンが囲む、最新の大型ダンスシミュレーションゲームだった。

「これさ、この前視聴者からリクエストが来てたダンスのステップにめちゃくちゃ似てるんだわ。ちょっと試してみたかったんだよな」

「えっ!? ちょっと待って、私はそんな……人前で踊るなんて、絶対に無理だよ……!」

 あかねは慌てて首を横に振り、一歩後ろに下がろうとした。周囲には、すでにゲームの音に惹かれて何人かのギャラリーが集まり始めている。人前で無様な姿を晒すわけにはいかないという、彼女なりの羞恥心があった。

「いいからいいから! 大丈夫だって、俺に合わせればいけるから! ほら、カウント始まるぞ!」

 ハルトはあかねの腕を半ば強引に引っ張り、プラスチック製のステージの上へと引き上げた。

「あ、ちょっと……!」

 拒絶する間もなく、筐体のスピーカーから重低音の効いたダンスミュージックが爆音で流れ始める。カウントダウンの数字がゼロになった。

 ――その瞬間、ゲームセンター内の空気が、目に見えて一変した。

 ハルトが最初の一歩を踏み出した瞬間、彼の全身から高校生の日野ハルトという気配が完全に消失した。

 彼の動きには、素人がよく見せる〝嘘〟や、衆目に晒されることへの()()が一切排除されていた。完全記憶能力によって画面を流れる複雑な譜面を一瞬で脳内にトレースし、それを寸分の狂いもない精密な肉体操作によって出力する。

 しなやかにしなる背骨、床を捉える正確なステップ、音の波に完璧にシンクロする指先の軌道。それはゲームの枠を遥かに超えた、プロのトップダンサー顔負けの、キレキレで、なおかつ圧倒的にエモーショナルなパフォーマンスだった。

(……っ!)

 あかねの息が止まる。

 ハルトの身体から放射される、真夏の太陽のような熱量。それが彼女の肌を直に焼き、彼女の中に眠る役者としての魂に、猛烈な勢いで火をつけた。

 劇団ララライの過酷な稽古で培ってきた自負がある。他者を憑依させ、その場で空間を支配してきたプライドがある。ここでただ突っ立っているだけなんて、彼という表現者に対して失礼だ。

「……負けないんだから」

 あかねの瞳に、鋭い光が宿った。彼女はハルトの放つ圧倒的なエネルギーに引っ張られるようにして、自らの身体を音の渦へと投げ込んだ。

 ハルトのステップをプロファイリングし、彼の呼吸を盗み、シンクロ率を極限まで高めていく。あかねの身体が、まるで水を得た魚のように躍動し始めた。指先一つ、視線の配り方一つに、観る者を惹きつけて離さない妖艶な魅力が宿る。

 天才と天才による、事前の打ち合わせすら一切ない、完全な即興ダンス。

 魅せるための演技と、完璧な肉体操作が融合したそのステージの周囲には、文字通り瞬く間に、三重、四重の分厚い人だかりが形成されていった。ギャラリーたちの誰もが、スマートフォンの画面を向けることすら忘れて、その光景に釘付けになっていた。

「おい……なぁ、あのアレ、やばくねえか……?」

「っていうか、あの男の動きキレッキレすぎだろ。プロか? もしかして……俺、ネットの動画でアイツのこと見たことあるような……」

「あ、待って。あの可愛い子の隣で踊ってる奴って、確かユーチューバーの――」

 ざわめくギャラリーの雑音の中から、ハルトとしての正体が暴かれそうになる決定的な言葉が漏れ聞こえた。

 その言葉が完全に形を成すよりも早く、ハルトの超人的な聴覚がそれを捉えた。

「あ、ヤベッ! 行くぞ、あかね!」

「えっ、きゃあっ!?」

 ハルトはまだ続いているゲームのステージを途中で容赦なく放棄した。そして、あかねの右手を、骨がきしむほどの力強さでぎゅっと握りしめた。

 自分のユーチューバーとしての活動のせいで、一般人であるはずの――芸能活動はしているものの、この場ではただの女子高生である――あかねに迷惑がかかることを、彼は瞬時に察知したのだ。

 ハルトはあかねの手を引いたまま、驚くギャラリーの人だかりを強引に割り、ゲームセンターの自動ドアを飛び出した。

 外は、街全体を燃やすような、赤赤とした夕暮れ時に包まれていた。アスファルトに長い影を引きずりながら、二人は猛ダッシュで駅前の繁華街を駆け抜けていく。

 風を切って走る。あかねの長い髪が、初夏の風に煽られて激しく舞う。

 全力で走るあかねの狭い視界の中には、自分を前へと引っ張って突き進むハルトの、思ったよりもずっと広い背中だけが映っていた。そして、自分の小さな手をしっかりと、驚くほど熱い体温で絡め取っている彼の大きな手のひら。

(熱い……、すごく、熱い……)

 バクバクと暴れるように鳴り響く心臓の音が、全力でアスファルトを蹴っている身体的な衝撃のせいなのか、それとも、彼の手から伝わってくるこの圧倒的な熱さのせいなのか、あかねにはもう、これっぽっちも判別がつかなかった。ただ、この時間が永遠に続けばいいのにと、心のどこかで強く願っている自分がいた。

 

 




【登場人物・設定紹介】
 黒川あかね:ヒロイン。現役の舞台俳優。
 日野ハルト:オリ主。元子役のYouTuber。
 
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