「キャアアアア! 本物のハルトくんだわ……! 嘘、信じられない、本当にうちのリビングにいる……!」
インターホンを鳴らし、リビングの扉を開けた瞬間、出迎えた斉藤ミヤコは、普段の冷静な敏腕女社長の仮面を完全にどこかへ投げ捨てていた。
頬を朱に染め、両手を胸の前で合わせて黄色い悲鳴をあげる姿は、完全に一人のミーハーなオタク女子そのものだ。
「初めまして、斉藤ミヤコ社長。いつもお噂はかねがね」
ハルトは、普段の不遜で自信家な少年のオーラを完全に霧散させ、絵に描いたような非の打ち所がない好青年の笑顔を浮かべて、恭しく一礼した。
「十年前、あなたがまだ子役として活動されていた頃から、実は応援していたのよ! 配信でのワールドワイドな活動も、アーティストとしての活躍も、本当に素晴らしくて……!」
「光栄です。そう言って頂けると、あの頃泥水すすって演技してた甲斐がありましたよ。……あ、これ、もしよければ皆さんの分も合わせて、お近づきの印に」
ハルトがスマートに手渡したのは、今をときめく高級洋菓子店の限定スイーツだった。その手際の良さに、ミヤコは「気が利く……! 顔だけじゃなくて性格まで完璧なんて……!」とさらに悶絶している。
「あのっ、ハルトくん! もしよければ、この色紙にサインを頂けないかしら!?」
「ええ、もちろん喜んで」
「あーっ! ずるいミヤコさん! 私も! 私も『ソレイユ』Pのサイン欲しい! 部屋のアイのポスターの隣に飾る!!」
さっきまで「お兄ちゃんを踏み台にした大炎上男」とハルトを罵っていたはずのルビーが、目を輝かせて便乗する。
その豹変ぶりと変わり身の早さに、自販機から買ってきたお茶を並べていたアクアは、あからさまに呆れ果てた視線を妹に向けていた。
「ルビー、お前さっき不法侵入だの何だの言っていなかったか」
「それはそれ! これはこれ! 神絵師ならぬ神ボカロPの直筆サインだよ!? 貰わないオタクがどこにいんのよバカアクア!」
「はいはい、お嬢さん、宛名はどうする?」
「ルビーで! 〝ルビーちゃんへ〟って書いてください神様!」
キャッキャと騒ぐ女性陣の横で、ハルトはペンを滑らせながら、不意に視線のトーンを真面目なものへと切り替えた。サインを書き終え、ミヤコに手渡すと、彼はすっと背筋を伸ばし、大人のビジネスマンの目つきになる。
「――さて、ミヤコ社長。まずは改めて、御社の星野アクアさんに対して、うちのあかね……いえ、我々の生配信の件で少なからずご迷惑をおかけしたこと、深くお詫び申し上げます」
「えっ? あ、いや、あれは元々番組の演出というか、アクアも納得の上で……」
「いいえ、結果として彼に余計なヘイトが向いてタレントとしての価値を棄損してしまったのは事実です。ですので、私は『サン・マネージメント』を代表して、新生『B小町』に実利のある形で埋め合わせをしたいと考えています。……そこで、提案なのですが」
ハルトは自信満々な様子でベラを回し始めた。
「新生『B小町』は、現役トップインフルエンサーであるMEMちょさんの拡散力、有馬かなさんの確かな実力、そして星野ルビーさんの天性の華がある。将来性は抜群です。そこで、近いうちに『HARU』の公式チャンネルと、『B小町』のチャンネルで、大々的なコラボ動画を展開しませんか? お互いのファン層を還流させることで、確実なバズを生み出せます。さらに、『ソレイユ』から、『B小町』への完全書き下ろし楽曲の提供も、前向きに視野に入れています」
「楽曲提供……!? 今ネットを席巻してるソレイユPが、うちの『B小町』に!?」
ミヤコの目の色が、一瞬でプロの経営者のものに変わった。ハルトの提示したプランは、弱小事務所である苺プロにとって、喉から手が出るほど欲しい至高の果実だった。
「……話が早くて助かるわ。具体的な契約条件や、プロモーションのロードマップについて、詳しく聞かせてもらえる?」
「ええ、喜んで。まず、ターゲット層のセグメントなのですが――」
瞬く間に、リビングの片隅で始まった熱いビジネストーク。専門用語が飛び交う密度の高い会話に、ルビーは「うぅ……お腹すいた……」とあからさまに限界を訴え始めた。
「あーあ、盛り上がっちゃって当分終わりそうにないわね」
かなが呆れたようにため息をつき、袖をまくり上げた。
「仕方ないわね、私たちが夕食の準備を始めましょう。あかね、MEMちょ、あんたたちも手伝いなさい」
「あ、うん! 私、野菜洗うね!」
「私はお皿並べるー!」
ビジネスの話で盛り上がる二人をリビングに放置したまま、残された一同はキッチンへと移動し、賑やかに夕食の支度を始めるのだった。
☆ ★ ☆
賑やかな夕食の時間はあっという間に過ぎ去り、リビングには満腹感と心地よい疲労感が漂っていた。
テーブルの上には、ミヤコが張り切って作った大皿料理の残骸が散らばっている。
「――でね! ハルトくんってば、普段は本当にだらしないの! 締切前なんて、部屋の中で抜け殻みたいになってて、私が起こしに行かないと一日中寝てるんだから! いつも『睡眠は最優先事項だ』、なんて言って!」
「ええーっ!? あの天才アーティストのHARUくんが!? ギャップ萌えすぎるんだけど!」
夕食後のテーブルを囲み、あかねを中央に据えた女性陣は、恋バナに花を咲かせていた。ハルトとのプライベートな関係や、普段の彼の様子について、ルビーとMEMちょが興味津々で質問を浴びせ、あかねは赤面しながらも嬉しそうに答えている。かなは「ふん、だらしない男ね」と毒づきつつも、その耳はしっかりとあかねの言葉に傾けられていた。
そんな姦しい空間から逃れるように、アクアとハルトの二人は、キッチンのシンクの前で黙々と食器の後片付けをしていた。
アクアがスポンジで皿を洗い、ハルトがそれを隣で受け取って布巾で丁寧に拭いていく。女子たちの黄色い声が響くリビングとは対照的な、静かな男二人の空間。
ふと、ハルトが皿を拭く手を止め、横目でアクアの横顔を見た。
「……なぁ、星野」
「何だ」
アクアは泡だらけの手を動かしたまま、淡々と返す。
「『今ガチ』のあの、あかねのためのまとめムービー。……お前が作ったんだってな。あかねから聞いたぞ」
その言葉に、アクアの手が一瞬だけ止まった。だが、すぐに何事もなかったかのように再び皿を擦り始める。
「……ああ、あれか。余計なお世話だったろ。結局、あかねを本質的に救い出して、あの生配信で世間の空気を完全にひっくり返したのはお前だ。俺の作った動画なんて、ただの自己満足に過ぎない」
アクアは自嘲気味に鼻で笑い、謙遜した。あかねを本当に闇から連れ戻したのはハルトの圧倒的な存在であり、自分の小細工など、天才の仕掛けの前ではかすんでしまう。そう、本気で思っていたからだ。
だが、ハルトは「んなわけねーだろ」と、真面目なトーンで短く笑い飛ばした。
「あの動画があったからこそ、あかねの本当の素顔が世間に伝わって、反転の土台ができたんだ。あれがなきゃ、俺がいくら配信で暴れたところで、ただのゴリ押しに見えて失敗してた可能性だってある。番組を成功させた要因の半分は、間違いなくお前のあの仕事のお陰だよ」
「……」
「それよりさ」ハルトは拭き終えた皿を棚に収めながら、純粋な興味を宿した目でアクアを見つめた。「あの動画、めちゃくちゃ出来が良かったぜ。構成のテンポも、視聴者の感情を揺さぶるカット割りのタイミングも、プロ顔負けだ。……あれ、我流で覚えたのか?」
ハルトの突然の、迷いのないストレートな称賛。
アクアは困惑した。
自分には役者としての才能がない。どれだけ努力しても、母親であるアイや、有馬かな、そして黒川あかねのような〝本物の天才〟には届かない。そう
それを、目の前にいる、自分とは対照的な本物の天才である日野ハルトから、真っ直ぐに褒められたのだ。
表向きは「そうか」とクールに受け流しているアクアだったが、その胸の奥の、ずっと燻っていた劣等感の塊が、ほんの少しだけ軽くなるのを感じていた。内心では、どうしても悪い気はしなかった。
「いや……五反田監督って知っているか? 昔、アイが出演した映画を撮った監督だ」
「ああ、知ってる。業界じゃ有名な、あのこだわりが強いオッサンだろ?」
「子供の頃からあの人に弟子入りして、演出や動画編集の技術を叩き込まれたんだ。だから、基礎はあの人の受け売りだ」
「へぇ、あの五反田の弟子か。納得だわ。じゃあさ、『B小町』の公式チャンネルの動画編集もお前がやってるのか?」
「ああ。今はMEMにYouTubeのアルゴリズムやネット特有の文法についてアドバイスを貰いながら手探りでやってる。だが、監督から教わった映画的な映像表現と、ネットのテンポの速い動画じゃ勝手が違いすぎて、正直かなり苦労している」
「わかるわかる」
ハルトは嬉しそうに何度も頷いた。その山吹色の瞳が、共通の趣味を持つ少年のようにキラキラと輝く。
「ネットの動画って、最初の三秒で引き込まないと一瞬でブラウザバックされるからな。映画みたいな『間』を贅沢に使う表現は、スマホの画面じゃ嫌われるんだよ。ちなみに、
「当たり前だろ。『ソレイユ』のMVも、実写の動画も、企画から撮影、音響、編集まで全部俺が自宅のブースでやってる。そもそも動画編集は、現代のデジタル配信者にとって最低限の嗜みだよ、キミ」
ハルトが不意に、メガネを押し上げるようなジェスチャーをしながら、どこかの業界人のようなおどけた口調で言った。
「……何のキャラだよ、それ」
アクアの口元から、自然と小さな笑みがこぼれた。
「いや、真面目な話さ。機材は何使ってんの? 編集ソフトは?」
「Premiere Proがメインだ。音響周りは、監督のスタジオを借りることもあるが……」
「あー、Premiereか。俺はDaVinci Resolveだな。カラーグレーディングの自由度が全然違う。あと、音響はLogic Proで叩いてから映像と同期させてる。今度うちのスタジオ来いよ。最新のノイズリダクションマイクと、配信用のスイッチングシステムがあるから、触らせてやる」
「最新のスイッチングシステム……。まさか、あの未発売のデモ機か?」
「そうそう。うちの事務所のコネで一本引っ張ってきた。あれ、マジでヤバいぜ。遅延がほぼゼロで、マルチカメラの切り替えが直感的にできるんだ」
「……興味はあるな」
動画のカット割りの技術、音響のイコライジング、そして男の子なら誰しもが興奮するような、最先端のデジタルガジェットやテクノロジーの話題。
気がつけば二人は、スポンジと布巾を持ったまま、かつてないほど熱っぽく、そして親しげに語り合っていた。
「――あれ?」
リビングのソファから、不意にその様子に気づいたMEMちょが、不思議そうに声を漏らした。
「ねえ、見て。アクたんがあんなに楽しそうに、自分から誰かと喋ってるの、私初めて見たかも……」
「ほんとだ……」ルビーも皿を洗う兄の背中を見つめ、驚いたように瞬きをする。「あいつ、いつも不機嫌そうな死んだ魚の目をしてるのに、なんか、ハルトさんと喋ってる時、ちょっとだけ普通の
かなは、ハルトと息を合わせて楽しそうにしているアクアの姿に、胸の奥で小さな寂しさを覚えながらも、どこか安心したように小さくフンと鼻を鳴らした。
そして――。
あかねは、キッチンの光の中で、肩を並べて笑い合っている二人の姿を、誰よりも優しく、そして嬉しそうに見つめていた。
アクアが抱える、あの底知れない、自分を削り取るような暗い復讐の執念。
ハルトが放つ、周囲のすべてを照らし出し、救い上げようとする圧倒的な光。
交わるはずのなかった二人の少年が、今、小さなキッチンの片隅で、確かに友情という名の、温かい繋がりを結び始めている。
(……よかった)
あかねは、胸元に手を当て、そっと小さく微笑んだ。
これから始まる、劇団ララライに潜む暗闇への探求。その先にある運命がどれほど過酷なものであっても、二人がこうして繋がっていられるなら、きっと――。
夜の静寂に包まれた斉藤家のリビングで、少女たちの恋バナの賑やかさと、少年たちの技術談義の熱い声が、心地よく溶け合っていくのだった。
最新話の更新時間は何時がいいですか?参考までに。
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