窓の外を、夏の濃い緑が高速で後ろへと流れ去っていく。
七月二十三日の日曜日。梅雨のジメジメとした気配を完全に払拭した夏空の下、一台の白いレンタルミニバンが、関東近郊の山間部へと続く高速道路を疾走していた。
車内には、エアコンの冷気とともに、どこか遠足に向かう子供たちのような、弾んだ若者たちの声が満ちている。
「ミヤコ社長、本当にすみません。せっかくの小旅行なのに、運転手までさせちゃって」
助手席から申し訳なさそうに声をかけたのは、日野ハルトだった。
「いいのよ、気にしないで! 私だって普段は事務所に詰めてばかりだから、こういうラグジュアリーな場所に遊びに行けるなんて、もうウキウキしちゃうわ。たまには羽を伸ばさないとね!」
ハンドルを握る斉藤ミヤコは、サングラスの奥の目を輝かせ、心底楽しそうにアクセルを踏み込んでいる。
その様子を、ミニバンの最後列のシートから、有馬かなはぼんやりと眺めていた。
車内の席順は、運転席のミヤコと助手席のハルト。二列目には窓側に星野ルビーと、その隣に星野アクア。そして最後列に、黒川あかね、かな、MEMちょの三人が並んで座っている。
出発前、アクアはいつも通り無表情のまま助手席に座ろうとしていた。それをハルトが「おいおい、星野。お前も今回はスタッフじゃなくて、リラックスして楽しむ側だろ?」と強引に後ろの席へと押しやり、自分からナビ役を買って出たのだった。
「それにしてもハルトくん、よくこの時期に予約が取れたよねー。ここ、ネットでも全然予約が取れないって評判の、超高級グランピング施設でしょ?」
隣のMEMちょがスマートフォンを見せながら、興奮気味に声をあげる。
「まぁな。うちの事務所のスポンサー関係にちょっと無理言って、融通してもらったんだよ。夏休み本番になったら、マジで札束積んでも空いてねえからな」
ハルトが助手席から後ろを振り返り、ニカッと不敵に笑う。
「さすが神様! 頼りになりすぎるーっ! ね、あかねちゃん、楽しみだね!」
「うん。私もこういうところ、初めてだからすごくワクワクしてる」
ルビーとMEMちょに挟まれ、あかねも少し頬を染めて嬉しそうに頷いている。二列目では、アクアが窓の外を眺めたまま、文庫本に目を落としていた。その空気はいつも通り冷めていて、周囲の狂乱とは一線を画している。
「有馬さんは? 静かだけど、車酔いでもしちゃった?」
あかねが、隣で膝を抱えるようにして座っているかなの顔を覗き込んできた。
「え? ああ、ううん、全然。ちょっと寝不足なだけよ」
かなは慌てて営業用の明るい笑顔を作り、首を振った。
嘘だった。本当は、ここ数日、まともに夜眠れていなかった。
初めてのライブステージに対する底知れない不安。難曲『アイドル』のセンターを急に任されたプレッシャー。ハルトから要求されるハイレベルなパフォーマンスへのストレス。それらの重圧が、かなの小さな肩に容赦なくのしかかっていた。
けれど、何よりもかなの心を内側から削り取っていたのは、――星野アクアに嫌われ、冷たくされているという残酷な現実だった。
話しかけても、目さえ合わせてもらえない。事務的な会話すら、最低限の言葉で切り捨てられる。
(私、あいつに何か嫌われるようなこと、しちゃったのかな……)
夜、ベッドに入ると、その不条理な後悔と悲しみが一気に押し寄せてきて、胸が苦しくて仕方がなくなるのだ。地獄のようなレッスンから一時的にでも解放されたこの小旅行は、かなにとって確かに僅かな休息にはなっていた。けれど、二列目で静かに本のページをめくっているアクアの、その綺麗な横顔を見るたびに、また胸の奥がチクリと痛む。
(この旅行で、アクアと少しでも普通に話せるようになれたらいいな……)
そんな仄かな、そして縋るような期待を、かなは心の奥底に抱いていた。
ハルトが道中、何気なく『今回の旅行は、B小町のストレス……特に有馬のメンタルを心配して、アクアから相談されたのがきっかけだ』とバラした時のことを思い出す。アクアは『余計なことを言うな』と本気でハルトを睨みつけていたけれど、その事実を知った時、かなの凍りついていた心には、じんわりと温かい救いが与えられたような気がしていた。
あいつは、私のことを完全にどうでもいいと思っているわけじゃない。
その小さな希望だけが、今のかなを何とか支えていた。
☆ ★ ☆
ミニバンが緩やかな坂道を登りきると、目の前には自然の木々に囲まれた、息を呑むほど美しいグランピング施設が現れた。
木製のウッドデッキの上に配置された、いくつもの巨大な白いドームテント。冷暖房完備で、プライベートが完全に守られたその空間は、日焼けや虫刺され、そして何よりスキャンダルのリスクを排除した、現在の彼女たちにとってまさに最高に安全なパラダイスだった。
「それじゃ、私は車を駐車場に停めて、チェックインの手続きを済ませてくるわね。みんなは先に荷物をドームテントに運んじゃって!」
ミヤコの指示に従い、女性陣は男子二人とは別に、割り当てられた大きなドームテントへと足を踏み入れた。
「うわぁぁぁ! すごい! 中にふかふかのベッドが四つもある!冷蔵庫もあるよ!」
ルビーとMEMちょが靴を脱ぎ捨ててベッドにダイブする。あかねも「ホテルのスイートルームみたい……」と感嘆の声を漏らしていた。
「へえ、ずいぶん贅沢な作りね……」
かなはバッグを床に置きながら、部屋の中を見回した。言葉では感心してみせるものの、その視線はどこか上の空だった。頭の片隅では、別のテントに向かったであろうアクアのことが、どうしても気になってしまう。
「有馬さん」
ふいに、あかねがすぐ隣に立って、心配そうな目をかなに向けていた。
「大丈夫? やっぱり、まだ疲れてるんじゃない? 横になった方が……」
「な、何言ってるのよ! 私を誰だと思ってるの、プロよ、プロ! これくらいなんてことないわよ!」
かなはあかねの優しさを振り払うように、わざと大きな声で笑ってみせた。ライバルであるあかねにだけは、アクアのことで悩んでメンタルを崩しているなんて、絶対に知られたくなかった。強がるかなの背中を、あかねはそれ以上追及せず、ただ少し切なげな目で見守っていた。
施設内をしばらく散策し、夕方が近づく頃、中央のウッドデッキでBBQの準備が始まった。
炭火がパチパチと音を立て、肉や野菜の焼ける香ばしい匂いが辺りに漂い始める。
「有馬、そっちのトング取ってくれる?」
ハルトはいつの間にか、エプロンを身に纏って焼き台の前に立っていた。彼は自分ではほとんど食事を口にせず、手際よく肉を焼き、ミヤコやルビーたちの皿へと次々に配っていく側に徹している。その徹底した気配りとプロの立ち回りに、かなは「ほんと、器用な男ね」と内心で舌を巻いた。
「ぷはぁー! やっぱり自然の中で飲むビールは最高だわ!」
ミヤコが早くも缶ビールを開け、幸せそうな声をあげる。その隣では、成人しているMEMちょも「ミヤコさん、私もお付き合いしまーす!」とグラスを傾けていた。ルビーは「お肉! お肉もっとちょうだい!」とハルトに皿を突き出し、あかねもそれを手伝っている。
それぞれが完全に羽を伸ばし、笑い合っている賑やかな空間。
かなは、クーラーボックスから新しい紙コップを取り出すと、少し離れた場所に一人で座っていたアクアのほうへと、ゆっくりと歩み寄った。
「……あ、アクア。これ、新しいコップ。使う?」
できるだけ自然に、気まずさを出さないように声をかけた。心臓が痛いほど早鐘を打つ。
だが、アクアはかなが近づいてくるのを察した瞬間、すっと視線を泳がせ、立ち上がった。
「……いや、いらない。俺は少し、ミヤコさんの手伝いをしてくる」
アクアはかなの手からコップを受け取ることもせず、目も合わせないまま、露骨にその場から離れていった。
「あ……」
かなの手が、虚空に止まる。
険悪な拒絶ではない。けれど、冷徹で、確実な回避。
かなは唇を強く噛み締め、取り残されたコップをきつく握りしめた。胸の奥が、冷たい氷を押し付けられたように痛む。
すれ違う二人。その光景を、焼き台の前でトングを持ったハルトが、山吹色の瞳を極限まで冷たく細めて、冷徹に観察していた。
☆ ★ ☆
夜が更け、山の静寂がグランピング施設全体を包み込んでいく。
女子たちのドームテントからは、まだ楽しそうな笑い声や恋バナの話し声が微かに漏れていたが、それとは対照的に、男子二人のドームテントの中は、重苦しい沈黙が支配していた。
それぞれのベッドに横たわり、スマートフォンを眺めていた静寂を、ハルトが唐突に破った。
「おーーーい、星野ーーー! 猥談しようぜ!」
アクアはスマートフォンから目を離し、隣のベッドに寝転がるハルトへ、信じられないものを見るかのような胡乱げな視線を向けた。
「……お前、そんな『野球しようぜ』みたいなノリで言うな」
「ノリ悪ぃなぁ! 男同士が夜にテントで顔を突き合わせたら、することは一つだろ。修学旅行の夜の定番じゃん。俺、一度こういうのやってみたかったんだよね!」
ハルトはベッドの上で寝返りを打ち、どこか子供のように目を輝かせている。
「……お前、友達いないだろ」
「仕方ねーだろ、ガキの頃から芸能界に片足突っ込んでて、ネット始めてからは学校じゃずっと浮いてんだからよぉ! 友達なんてあかねと、あとは仕事関係の大人だけだよ!」
ハルトが開き直ったように堂々と言うと、アクアは呆れたように息を吐いた。
「つーかそれ、自分にもブーメランとして刺さってねえか? 星野」
「……」
アクアが沈黙すると、ハルトはニヤニヤと笑いながら身を起こした。
「まぁ、俺の過去の孤独は置いといてだ。で、お前はどんな女が
「まだ続けるのか、その不毛な会話を」
「いいじゃん減るもんじゃなし。ちなみに俺は、真面目で、芯が強くて、賢くて、おっぱいの大きな子がタイプです」
「……知ってるよ。お前たちのバカップルぶりは嫌というほど見せつけられた」
「だろ? じゃあ次はお前の番。お前が『アイ』の熱狂的なファンボーイなのは、それこそ誰の目にも明らかだけどよ……」
ハルトはそこで一度言葉を切り、ベッドの端に腰掛けた。
「有馬とは、あきらかにタイプが違うだろ」
「――ッ!」
アクアの身体が、一瞬で強張った。
「……なんでそこで、有馬の名前が出る」
「あん? 違うのか?」
ハルトはやけに演技めいた、意地の悪いニヤニヤ笑いを浮かべ、アクアの顔を覗き込む。
「昼間のBBQの時もさ、お前露骨に有馬のこと避けやがって。まるで、好きな女の子にどう接していいか分からなくて意地悪しちゃう小学生男子みたいだぞ、今のお前」
「ふざけるな! 俺はそんなんじゃ――」
「じゃあ、何のつもりだ?」
ドスの利いた、地を這うような低音。
一瞬で、テント内の空気がシリアスなものへと変貌した。ハルトの顔から笑みが完全に消え失せ、その山吹色の瞳が、アクアを射殺さんばかりの冷たい光を放っている。
ハルトから放たれる、濃密な殺意にも似た圧倒的な
「大事なファーストライブを目前に控えてんだぞ、あいつらは。それなのに、メンバーの、それもセンターを務める有馬のメンタルに悪影響を及ぼすような真似を平気でする。……そんな利敵行為をされたんじゃ、仮にもあいつらの音楽プロデューサーとしては黙っちゃいられないんでな」
ハルトはベッドから立ち上がり、ゆっくりとアクアのベッドの前に歩み寄った。上から見下ろすその視線には、一切の妥協がない。
「教えてもらおうじゃないか、星野アクア。どんな意図があって、お前はあいつを避けてるんだ?」
「……っ」
アクアはハルトの圧力に圧され、気まずげに視線を横へとそらした。沈黙が流れる。だが、ハルトの視線が外れることはないと悟り、アクアは重い口をゆっくりと開いた。
「……あいつは、これから売り出す大切な時期のアイドルだ」
「あ?」
「有馬は、俺に対して……その、好意のようなものを抱き始めている。このまま距離を縮めれば、いつか必ずスキャンダルに発展する。週刊誌に撮られでもしたら、あいつのアイドルとしての未来は一瞬で終わるんだ。だから……あいつに嫌われることで、適切な距離を保とうとしている。それが、マネージャーとしてあいつを守るための、最も確実な方法だ」
アクアが絞り出すようにそう供述した瞬間。
ハルトは、珍しく思考が完全に停止したかのように、呆然と固まった。
そして、ふつふつと湧き上がる怒りを噛み殺すように、口元を片手で覆い、天井を見上げて、これ以上ないほど深い、軽蔑の混ざったため息を吐き散らした。
「お前……本物の馬鹿か?」
「何が言いたい!」
アクアが声を荒らげる。だが、ハルトの次の言葉は、アクアのプライドを容赦なく叩き潰した。
「星野。自分が有馬を避けることでスキャンダルから守ってやってる賢いマネージャー気取りか? 笑わせるなよ。お前がやってるのは、ただの
「……っ!」
「傷つくのが怖い、拒絶するのが面倒くさい。だからあいつに嫌われるような態度を取って、雑魚い思考の責任逃れをしてるだけだろ、この腰抜けが」
「お前に、お前に俺の何がわかる……!」
アクアがベッドから身を起こし、ハルトを睨みつける。だが、ハルトのロジックは冷徹に、かつ正確にアクアの急所を突き刺し続けた。
「わかんねーよ、お前の歪んだ認知なんて全くわからん。だけどな、有馬かなをB小町に誘ったのは、他でもないお前だろ? 妹のためだか、事務所のためだか、自分の目的のためだかは知らねーが、あいつの恋心や期待を利用して引っ張り込んどいて、いざとなったら日和ってんじゃねーよ」
ハルトはアクアの胸元を指差した。
「だいたいな、アイドルをスキャンダルから守る手法なんて、物理的な移動の制限だの、SNSの監視だの、アタマ使えばいくらでもやりようはあるんだよ。片思いくらい、ビジネスとして利用しろよ。『今はデビュー前で大事な時期だから、お互い仕事に集中しよう』。そうやって真っ直ぐ目を見て対話して、あいつを納得させときゃ済む話だろ。そんな簡単な手順をサボって、あいつのモチベーションの源泉をぶっ壊して、一人で自衛した気になってんじゃねえよ。あいつが今、どれだけ不安定な精神状態で、『アイドル』のセンターに立とうとしてるか、お前本当に理解してんのか?」
アクアは言葉を失い、呼吸を詰まらせた。ハルトの放つ正論の刃が、自分の不器用な自己満足を容赦なく剥ぎ取っていく。
「お前さ、アイドルの〝恋〟を極端に恐れてるだろ。まるで、誰かが恋をした瞬間に、すべてが破滅に向かって、最悪の結末を迎えるって思い込んでるみたいにさ。……だけどな星野。有馬かなは、『アイ』じゃない」
「――あ」
アクアの瞳の奥で、黒い星が激しく揺らいだ。
「『アイ』の人生がどうだったかは知らないし、俺には関係ない。だけど、有馬には有馬の、今を生きる役者としての、一人の少女としての戦い方があるんだ。お前の身勝手なトラウマや、守ってやるっていう傲慢な自己満足で、あいつのパフォーマンスを殺すな。あいつがお前に向けてる好きって感情は、お前が自分の都合でコントロールしていいほど、安っぽいものじゃねえんだよ」
「……っ、……あ……」
アクアはもう、言い返す言葉を何一つ持っていなかった。
ハルトの言葉は、自分が目を背け続けていた一番の弱さを、最も残酷な形で白日の下に晒していた。アクアは拳をきつく握りしめたまま、力なくベッドの上にうなだれた。
言いたいことをすべて吐き出し、ようやく冷静さを取り戻したハルトは、完全に論破されてショックを受けているアクアの姿を見て、少しバツが悪そうな表情を浮かべた。首の後ろをガリガリとかく。
「……悪い、言い過ぎた」
ハルトは短く謝罪すると、ドームテントの入り口へと歩き出した。チャックに手をかけ、振り返る。
「だけど忘れるなよ、星野。
そう言い残すと、ハルトはテントの幕を引いた。
「外で少し、頭冷やしてくる。……俺が言ったこと、よく考えてくれよな」
パタン、と静かに扉が閉まり、テント内には再び静寂が訪れた。
一人残されたアクアは、暗い天井を見つめたまま、深く、深く、底のない苦悩の海へと沈んでいくのだった。
オリ主の嗜みSEKKYOの回。
アクたんのやらかし、大事なライブ前の謎ムーブ。トラウマがあるとはいえここはホント意味わからん。女の子の人生を弄ぶのは良くないと思います!
……ま、このお話ではこれくらいしかやらかさないんですけどね、読者さん。
感想返しは必要?
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いる
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いらない
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そんなことより続きを書け