二日目、七月二十四日の朝。
山の澄んだ空気と鳥のさえずりが響くテラス席には、およそ朝の爽やかさとはかけ離れた、ヒリついた空気が漂っていた。
焼き立てのパンやサラダが並ぶテーブルを挟み、ハルトとアクアが静かに、しかし激しく視線を衝突させている。昨夜の激論の余韻を引き摺った二人の間には、一触即発の火花が散っているかのようだった。
ハルトの冷徹な山吹色の瞳が、顎をクイと動かして、空いている一つの席を示す。それは、どこか落ち着かない様子でフォークを弄んでいた有馬かなの隣の席だった。
(……チッ)
アクアは内心で舌を打ち、ハルトの無言の圧力に根負けしたように、渋々といった足取りでかなの隣へと腰を下ろした。
その瞬間、最初に反応したのは黒川あかねだった。二人の尋常ではない雰囲気にいち早く気づき、戸惑うように視線を泳がせる。何か言いたげに唇を動かすが、ハルトが軽く片手を挙げてそれを制したため、介入を躊躇うように俯いてしまった。
続いてルビー、かな、MEMちょ、そしてミヤコまでもが、ただならぬ気配に「え、何これ?」と直感的に勘づく。
「ちょっとお二人さん? 朝からずいぶん物々しいじゃないの。男同士で喧嘩でもしたわけ?」
ミヤコがコーヒーカップを置きながら尋ねるが、アクアはいつも通りの無表情で「いや、何でもない。ただの寝不足だ」と淡々と応じ、ハルトもまた「そうそう、夜遅くまで男の熱い語り合いをしてただけっすよ」と、何食わぬ顔でジャムをスプーンですくい取った。
当事者二人が揃って完璧に取り繕うため、女性陣はそれ以上仲裁に入ることもできない。
アクアはハルトの手前、昨日ほど露骨にかなから距離を取ろうとはしなかった。しかし、かなが「ね、ねえ、アクア……これ、美味しいわよ?」とおずおずと差し出したサラダのボウルに対し、「ああ、ありがとう」とだけ返し、機械的に自分の皿に盛る。そのおざなりで義務的な対応の冷たさに、かなは胸の奥がキュッと萎むのを感じていた。
その様子を横目で見ていたハルトが、これ見よがしに「ハァ……」と深い、深い溜息を吐き出す。その音は、アクアの耳にだけは確実に嫌がらせのように届いていた。
☆ ★ ☆
そんな気まずい空気を引きずりつつも、一行は午前中の予定通り、施設敷地内を流れるプライベートリバーへと移動した。
木漏れ日が水面に反射してキラキラと輝く、息を呑むほど綺麗な渓流。
「お待たせーっ!」
簡易テントでの着替えを終え、待望の水着姿になった女子メンバーがウッドデッキに登場する。
ルビーは快活なビキニ、MEMちょはトレンドを押さえたシースルー混じりの水着、あかねは彼女の清楚さを引き立てる上品なワンピースタイプ。そしてかなは、少し大人っぽさを意識した、フリルのついたシックなセパレートの水着だった。
「どうよ!」
かなは胸を張り、わざとらしくアクアの目の前に立ってポーズを決めた。内心では心臓が張り裂けそうなほどバクバクといっている。少しでも、ほんの少しでも男の子らしい、良い反応をしてほしかった。
しかし、アクアは首から下げた一眼レフカメラのファインダーを覗いたまま、微動だにしない。
「有馬、ルビー、MEMちょ、こっち向いて。黒川も、その岩の横に立って。……よし、撮るぞ」
パシャ、パシャとシャッター音だけが響く。アクアは完全に専属カメラマンとしての職務に徹し、かなと頑なに目を合わせようとしなかった。水着姿への感想どころか、視界にさえ入れていないかのような徹底した無視に、かなはカッと顔が熱くなるのと同時に、泣き出したいほどの悲しさに襲われる。
(なによあいつ……! ちょっとくらい何か言いなさいよ!)
かなが拳を握りしめて震えていた、その時だった。
「おいおい有馬! その水着、ちょっと攻めすぎだろ!」
突然、大げさな声をあげて割り込んできたのはハルトだった。彼は自ら道化を買って出るかのように、アーティストとしての真剣な――しかしデリカシーの欠片もない――目をギラつかせながら、かなに近づいてきた。
「え、何よ急に!?」
「いや、プロデューサー目線で言わせてもらうとな? ルビーのビキニは王道アイドルとして満点だし、MEMちょのやつはSNS映えを計算し尽くされててニクい。あかねのワンピースは……うん、最高。芸術品。結婚してくれ。――で、お前だよ有馬!」
「ちょっと、最後の私情が混ざりまくってるのはスルーするとして、何よ私の水着は!」
「お前はな、全体の身体のラインがすごく綺麗で華奢なのに、そのフリルの位置のせいで上半身のボリュームが余計に強調されてアンバランスに見えるんだよ。今回のライブ衣装を組むときは、もっとウエストの細さを強調して、デコルテラインをすっきり見せるカッティングにした方が絶対にステージ映えする。有馬の良さはそこじゃねえんだよ!」
ハルトは顎に手を当て、ブツブツと的確すぎるアドバイスをまくし立てる。
「ちょっとおおおおおっ! 何を女の子の身体のラインをジロジロ分析してんのよ、このデリカシーゼロ男!! 最低! 変態! あかね、こいつ今すぐ川に沈めて!」
かなは顔を真っ赤にして叫び、近くにあった水鉄砲でハルトの顔面に容赦なく水を浴びせた。
「ぶふっ! 待て、俺は真面目にアーティストとしての、もがっ、意見を……!」
「うるさーーーい!」
ギャハギャハと笑うMEMちょとルビー。あかねも苦笑しながらハルトの背中をポンポンと叩いている。そんなコメディのような騒ぎの中、かなはぷんぷんと怒りながらも、ハルトのどこか突き抜けた態度のおかげで、先ほどまでの沈んだ気持ちが少しだけ和らいでいることに気づいていた。
――だが、その様子を、ファインダー越しにずっと見つめていた男がいた。
星野アクアは、ハルトがかなの身体のラインについてデリカシーなく語り、かながそれに赤くなって怒っている光景を、カメラのレンズ越しに凝視していた。
(有馬と、あいつは……)
その瞬間、アクアの胸の奥に、言葉にできない奇妙な焦燥感が湧き上がった。
ハルトがかなの身体を男の視線で評価したこと。そして、自分が頑なに無視しようとしていたかなの、白く細い肩や、水着に包まれたしなやかな身体のラインが、いや応なしに脳裏に焼き付いて離れなくなる。
単なるビジネスの仲間。守るべき所属タレント。
そう自分に言い聞かせてきたはずなのに、今、目の前で別の男と騒いでいる有馬かなという少女が、どうしようもなく一人の魅力的な異性として自分の意識の真ん中に居座り始めている。
アクアはカメラを握る手に思わず力が入り、自覚したかすかな独占欲と、男としての本能的な視線に、内心でひどく激しく動揺していた。それを隠すように、彼はさらに深くキャップのあみだを下げた。
ひとしきり川遊びを楽しみ、周囲に心地よい疲労感が漂い始めた頃。
ふと気づくと、ハルトがあかねの手を優しく握り、ウッドデッキの端に立っていた。
「みんな、ちょっと奥の散策路の方、珍しい高山植物が生えてるみたいだから二人で見てくるわ。すぐ戻るから、あんまり遠く行くなよー」
ハルトはそう言い残すと、あかねを伴って、鬱蒼とした緑が続く静かな小道の奥へと消えていった。
それから、かなりの時間が経過した。
太陽は少しずつ傾き始めているというのに、二人は一向に戻ってくる気配がない。
「うーん、あかねちゃんたち遅いねー。山の道だし、もしかして迷子になっちゃったのかな?」
ルビーだけが、水面に足を浸しながら無邪気にそんな心配を口にする。
だが、その場の空気は、一瞬にして妙な静寂に包まれた。
「……」
かなは、二人が向かった散策路の奥を見つめたまま、言葉を失っていた。高校生同士のカップルが、人気のない静かな夏の山道で、二人きりでこれだけ長い時間、戻ってこない。それがどういう意味を持つのか、察せられないほど子供ではなかった。
隣のMEMちょは、何とも言えない表情で頬を掻きながら、「あはは……まあ、大人の時間だからね……。そっとしておいてあげよ?」と、苦笑いを浮かべて遠い目をしている。
ミヤコにいたっては、缶チューハイを片手に「若いわねぇ……。夏の山、二人きり。青春じゃないの。いいわねぇ、羨ましい限りだわ……」と、心底しみじみとした、どこか遠い過去を懐かしむような声を漏らしていた。
かなは、居心地の悪さに耐えかねて、そっとアクアの様子を盗み見た。
アクアは川沿いの大きな岩に腰掛けたまま、カメラを膝に置き、二人が消えた森の奥をじっと見つめていた。その横顔はいつになく険しく、そしてどこか冷徹な思考を巡らせているようでもあり、同時に、同世代の男としての複雑な沈黙を保っているようでもあった。
流れる川のせせらぎだけが、彼らの間の気まずい沈黙を、虚しく埋め尽くしていた。
お昼時が近づく頃、森の奥からハルトとあかねが並んで歩いて戻ってきた。
二人の姿が見えた瞬間、ウッドデッキにいた面々の視線が自然とそちらに向く。何かを察しているかなやMEMちょ、ミヤコは、あえて何事もなかったかのように振る舞い、「何をしてきたの?」などという野暮な質問は口にしなかった。
だが、ただ一人、全く空気を読んでいない人物がいた。
「あ、二人が戻ってきたー! 遅いよあかねちゃん、何してたのー?」
水際からバシャバシャと音を立てて駆け寄ってきたルビーが、無邪気な笑顔のまま、核心へとぶっこんだ。
「え、ええと……ちょっと、奥の方まで景色を見に行ってい、移動に時間がかかっちゃって……!」
あかねはルビーと視線が合った瞬間、みるみるうちに顔を真っ赤に染め、両手をぶんぶんと振って激しくうろたえた。その様子は、誰が見ても「何かありました」と言っているようなものである。隣のハルトはといえば、完全に我関せずといった涼しい顔で、ボトルの水を口に含んでいた。
「ふーん? ……あ、あかねちゃん、首のところに赤いポチあるよ? 虫さんに刺されちゃった?」
ルビーが指差したのは、あかねの鎖骨の少し上、水着の紐の隙間からのぞく、瑞々しい桜色の小さな痕跡――キスマークだった。
「ひゃ、ひゃいっ!?」
あかねは自分の首元を両手でガッと隠し、今度こそ限界を迎えたように耳の裏まで真っ赤になった。そして、隣で平然と佇んでいるハルトの腕を、真っ赤な顔のままバンバンと容赦なく叩き出した。
「バ、バカ! ハルトくんのバカ! だから見えるところは駄目って言ったのに……っ!」
「痛っ、てぇ! 悪かったって、ちょっと手元が狂っただけだろ!」
「手元って何よお、もうっ!」
ポカポカとハルトを殴り続けるあかねと、それを軽くいなしながら笑っているハルト。その様子を見つめながら、かなは(手元じゃなくて口元でしょうが、このバカップル……)と、心の中で盛大にツッコミを入れていた。隣ではMEMちょが「若いねぇ、ごちそうさまだよぉ」と生温かい目で苦笑し、ミヤコも「本当に羨ましい限りだわ」と冷えた缶チューハイを煽っている。
アクアはといえば、その一連の騒ぎからすっと目をそらし、カメラのレンズキャップをカチリと閉めていた。その横顔には、同世代の男としての割り切れない沈黙と、どこか居心地の悪そうな気配が漂っていた。
昼食を済ませた午後は、それぞれが施設の敷地内で自由にアクティビティを楽しむ時間となった。
広大な敷地を持つ高級グランピング施設なだけあって、用意されている遊びの選択肢は豊富だった。
「いくよハルトさん ! 私の超ウルトラスーパーサーブ、受けてみなさい!」
「ハッ、甘いなルビーちゃん! その程度の球、俺のトップスピンドライブで一撃だ!」
テニスコートでは、運動神経抜群のルビーと、意外にも機敏な動きを見せるハルトが、周囲のギャラリーが引くほどの猛烈なラリーの応酬を繰り広げていた。二人のコートからは、夏空に負けないくらいにカラッとした、負けず嫌い同士の叫び声が絶え間なく響いている。
一方、その近くの乗馬エリアでは、かなとあかねの二人が、それぞれ大人しい栗毛の馬に跨っていた。
「いい、有馬さん。役者たるもの、いつ時代劇やファンタジーのオファーが来てもいいように、馬の背の揺れを身体に染み込ませておくべきだよ。体幹の使い方が演技の幅に直結するの」
「言われなくたって分かってるわよ! あんたに先輩面される筋合いはないわ! ほら、お馬さん、あっちのあかねの馬より速く歩きなさい!」
演技の幅を広げるため、という建前のもと、二人は馬の上でもピリピリとしたライバル心を燃やして張り合っている。けれど、その表情にはレッスン中にはなかった、役者としての純粋な充実感が浮かんでいた。
ミヤコはといえば、「私はもう動かないわよ」と宣言し、昼間から施設自慢の絶景露天風呂へと直行し、日頃の激務で凝り固まった身体を温泉で極楽そうに癒やしている。
そしてMEMちょは、心地よい木漏れ日が差し込む遊歩道で、スマートフォンのジンバルを片手に森林浴を楽しみながら、ブログ用の素材を熱心に撮影していた。
「アクア、ちょっとそこ立って! 背景の緑がいい感じだから、サムネ用の素材撮らせて!」
「……俺か? 構わないが、手短に頼む」
アクアはMEMちょに促されるまま、木々の間に佇み、レンズに視線を向けた。彼自身の心にはまだ、昨夜ハルトから突きつけられた言葉が重く、冷たく沈殿していたけれど、カメラの前に立つと、自然とスイッチが切り替わったようにプロの表情を作るのだった。
☆ ★ ☆
やがて夕闇が山を包み込み、施設のラグジュアリーなレストランに明かりが灯る頃、夕食の時間が訪れた。
今夜の食事は、地元の新鮮な高原野菜や最高級のローストビーフ、色鮮やかなデザートがずらりと並ぶ贅沢なビュッフェスタイルだった。
「すごーい! これ全部食べ放題!? 私、ローストビーフ山盛りにしちゃう!」
「ルビー、アイドルがそんなに茶色いお皿にしてどうするのよ。ほら、このバーニャカウダも食べなさい」
「先輩、お母さんみたいー!」
「あんたみたいなデカい娘を持った覚えはないわよ!」
トレーを片手に賑やかに料理を選んでいく女子たちの姿を、ハルトとあかねは仲良く一つの皿をシェアしながら、微笑ましそうに眺めていた。
アクアは、かなから少し離れた席を選んで静かにスープを口に運んでいたが、その視線は、時折楽しそうに笑うかなの横顔へと、無意識のうちに向いてしまう。昼間のハルトとの会話、そしてかなの水着姿を意識してしまったあの瞬間から、アクアの中で〝有馬かな〟という存在の重量が、明らかに変化していた。
食後は、各自で温泉に入って一日の汗と疲れを流し、再び男子側の広いドームテントへと集まった。
「じゃじゃーん! 今夜のメインイベント! 俺の私物、海外製本格ボードゲーム大会を開催するぞ!」
ハルトがベッドの上に、仰々しいデザインの箱を広げた。
「何これ、難しそう……」
ルビーが眉をひそめるが、MEMちょは「あ、これネットでバズってた心理戦系のゲームじゃん! やりたい!」と身を乗り出す。
ルールは、互いの正体を隠しながら騙し合い、陣地を奪い合うという、極めて高度な心理戦のゲームだった。
「ふん、心理戦なら役者の私たちが負けるわけないじゃない」
かなが自信満々に不敵な笑みを浮かべ、あかねも「そうだね、嘘を見破るのは得意かも」と静かに目を光らせる。
「面白い。俺も混ぜてもらおう」
アクアもその輪に加わり、ハルトの進行のもとでゲームが始まった。
いざ蓋を開けてみると、ゲームは壮絶な騙し合いの泥仕合と化した。ハルトが完璧なポーカーフェイスで盤面を支配しようとすれば、あかねがその一瞬の視線の動きからハルトの嘘を完璧に見破り、「ハルトくん、今左側のカードを隠したでしょ?」と容赦なく告発する。
「うわああ! あかね、俺の思考をトレースするな! 怖い!」
「ビジネスとプライベートは別だよ、ハルトくん」
そんな二人の応酬に、ルビーが「あかねちゃん容赦なさすぎるー!」と爆笑し、MEMちょは「これ動画にしたいわぁ……」と悔しそうに頭を抱えていた。
かなはといえば、アクアの正体を見破ろうとじっと彼の顔を凝視していたが、アクアの鉄壁の無表情を前に「なによあいつ、全然読めないわね……」と頬を膨らませてカードを引く。アクアもまた、かなが必死に自分の顔を覗き込んでくるその距離の近さに、カードを持つ指先がかすかに強張るのを必死に隠していた。
時計の針が深夜を回る頃、テントの中には、遊び疲れた心地よい静寂と、少しの眠気が満ち始めていた。カードを片付けながら、一同の顔には、この二日間でレッスンによる張り詰めたストレスが完全に消え去り、穏やかな充実感が宿っているのが見て取れた。
夜はさらに深く、静かに更けていく。
どうでもいい下世話な個人的見解。
あかね→むっつりドスケベ。真面目な子はむっつり。
ルビー→年相応。ただし察しは悪い。
かな→耳年増。有馬先輩は業界が長い。
MEMちょ→年相応。経験人数は少なそう。
ミヤコ→百戦錬磨。港湾女子だからね。
感想返しは必要?
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いらない
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そんなことより続きを書け