夏休みも残りわずかある日の午後、東京の空には相変わらず入道雲がそびえ立っていたが、『苺プロダクション』が定額でレンタルしているレッスンスタジオの中は、冷房が心地よく効きすぎて肌寒いくらいだった。
鏡張りの広い空間で、新生『B小町』の三人と星野アクアは、締まりのない様子で床やパイプ椅子に転がってダラダラと過ごしていた。
「うー、ここのルート、何でそうなるわけ? サイン・コサイン・タンジェントなんてアイドルのステップに関係ないじゃん!」
「ルビー、静かにしろ。数式を叫んでも答えは出ない。ほら、有馬も手が止まってるぞ。そこ、英語の長文読解、主語と動詞の修飾関係がめちゃくちゃだ」
「うるさいわね……! わかってるわよ。でも、こんなに頭使うなら、炎天下で『サインはB』十回踊った方がマシだわ……」
床にノートを広げたルビーと、パイプ椅子にうつぶせになってシャーペンを回すかなの二人を前に、アクアは赤ペンを片手に持ちながら、冷徹な家庭教師のように夏休みの宿題を監視していた。
ジャパンアイドルフェスティバルでの衝撃的なデビューから、およそ三週間。あの熱狂のステージが嘘のように、彼女たちの日常は、この退屈な夏休みの宿題の山へと引き戻されていた。
ルビーはノートに突っ伏したまま、天井の蛍光灯を見上げて不満げに口を尖らせる。
「ねえ、お兄ちゃん。私、一応はあのJIFのステージに立って、アイドルとして華々しくデビューしたはずだよね? それなのに、なんで毎日こうやって宿題に追われて、何の予定もない日を過ごしてるわけ? もっとこう、テレビの収録とか、雑誌のグラビアとか、怒涛のオファーが押し寄せてきてもいい頃じゃないの? 全然実感が湧かないんだけど!」
その言葉に、隣のパイプ椅子からかなが深くため息をつきながら、芸能界の先輩としての現実を突きつけた。
「ルビーあんたね、甘いエクレアより考えが甘いわよ。すぐにオファーなんて来るわけないでしょ。私たちはまだ、大きなフェスのワンステージをちょっとバズらせただけの、生まれたての
「むぅ……有馬先輩、現実的すぎて夢がないなぁ……」
ルビーが不満そうに声を漏らした、その時だった。
スタジオの重い防音ドアが、カチャリと静かな音を立てて開いた。
「皆さん、こんにちは。お邪魔します」
涼やかな、しかしどこか落ち着いた声とともに姿を現したのは、黒川あかねだった。
あのJIFの打ち上げで別れて以来、およそ半月ぶりの再会となる。彼女は夏らしい白のサマーワンピースに身を包み、いつも通りの清楚な微笑みを浮かべていたが、その手には何やら、異国の雰囲気を漂わせる大きめの紙袋がいくつか握られていた。
「あ、あかねちゃん! 久しぶり!」
「あかね、仕事の合間にわざわざ来てくれたの?」
ルビーとMEMちょが顔を輝かせる中、あかねは挨拶もそこそこに、持ってきた紙袋から小奇麗にラッピングされた箱を取り出し、みんなの前に並べ始めた。
「これね、ニューヨークのお土産だよ。タイムズスクエアの有名なチョコレートと、あとブロードウェイの劇場限定のパンフレットとグッズ。皆さんで分けてね」
「ニューヨーク!?」
かなが驚きのあまりパイプ椅子から飛び上がった。ノートを覗き込んでいたアクアも、不審そうに片方の眉を上げる。
「あかね、お前、この忙しい時期に何でニューヨークなんかに行ってたんだ? 劇団ララライの仕事か?」
アクアの問いに、あかねは少し頬を染めながら、まるで少女のようにアンティークペンダントの茜色ガラスに指を触れた。
「ううん、プライベートだよ。ハルトくんの海外遠征に、ちょっとだけ付き合って旅行に行かせてもらったの」
「ハルトくんの、海外遠征……」
その言葉で、一同は得心がいった。日野ハルト――トップYouTuber『HARU』としての彼は、去年もそうだったように、長期休暇を利用して海外の有名クリエイターとのコラボ企画や、ヨーロッパ・アメリカで開催される国外のサブカルチャーイベントに積極的に参加していた。今年もその過密なスケジュールをこなすため、日本を離れていたのだ。
「ハルトくん、今年はアメリカを中心に回る予定だったから。私も劇団の定期公演の稽古があるから、彼の全日程にはついていけなかったんだけど……ニューヨークの滞在期間だけは、スケジュールを無理やり合わせて渡米したの。現地でも、向こうのホテルでも、ずっと一緒で……あ、もちろん、ハルトくんは夜遅くまで動画の構成とかで忙しそうだったんだけど、私がコーヒーを淹れてあげると、すごく嬉しそうな顔をしてくれて……」
あかねは完全に自分の世界に入り込み、盛大にのろけ始めた。その様子を見ながら、かなの額に青筋が浮かぶ。
「ちょっと待ちなさいよ。あんた、ただあいつの荷物持ちで行ったわけじゃないでしょうね?」
「ふふ、そんなわけないじゃない、有馬さん」
あかねはふっと、役者としての、そして恋する乙女としての余裕の笑みを浮かべた。その笑顔は、決して嫌味ではないのだが、かなのプライドを絶妙に逆撫でする質のマウントを含んでいた。
「ミュージカルの本場、ブロードウェイの演劇を最前列で体験してきたの。ハルトくんが特別なコネで、現地の超一流の役者さんたちのバックステージまで案内してくれてね。彼らの身体操作や、発声の響かせ方を間近で見られたのは、役者として本当に大きな財産になったわ。言葉の壁なんて関係ないくらいの圧倒的な熱量……劇団ララライの演技とはまた違う、世界最高峰の表現を肌で感じられたのは、すごく勉強になったな。有馬さんにも、あの劇場の空気、いつか味あわせてあげたいな」
「くっ……! 何よそれ! 完全に私に対する当てつけじゃない! 私だって、私だってブロードウェイくらい、そのうち仕事で行ってやるんだからね!」
かながキーキーと悔しそうに声を上げるのを、MEMちょが生温かい目で見守りながら、チョコレートに手を伸ばしている。
アクアは、その騒ぎを横目に、あかねの言葉の核心について尋ねた。
「……それで、日野はどうした? もう帰国してるのか」
「あ、うん。ハルトくんも一緒に帰ってきてるよ。でもね、向こうで撮ってきた膨大な映像データの編集作業が山積みみたいで……今は寝る間も惜しんで、自分のスタジオに籠もりきり。あ、それでね、アクアくんにハルトくんからの伝言があるの」
「伝言?」
「うん。JIFの前に話していた、『HARU』のチャンネルと、『B小町』の公式チャンネルとのコラボについて、そろそろ詳細を詰めたいんだって。海外で仕込んできた面白い企画があるから、もしみんなの都合が良ければ、明日にでもハルトくんのスタジオに来てほしい、って」
「ああ……そんな約束もあったな」
アクアは記憶を掘り起こすように呟いた。ライブ前後のドタバタと、その後のルビーのケアや事務処理に追われ、ハルトと交わしていたビジネスの提案をすっかり失念していたのだ。
そこに、YouTuberとしてのプロであるMEMちょが、目を輝かせてアクアの肩を激しく揺さぶった。
「ちょっとアクたん! 忘れてたなんて正気!? 日本のYouTuberでの登録者数トップクラスの『HARU』のチャンネルとコラボできるなんて、どれだけのお金を積んでも不可能な、超ウルトラ特大のチャンスなんだよ!? これに乗らない手はないって! ルビー、有馬ちゃん、明日の予定は!?」
「宿題以外は真っ白!」
「私も別に、急ぎの仕事は入ってないわよ……」
「よし、決まり! アクア、明日突撃ね!」
MEMちょの猛烈な熱弁に押される形で、ハルトの自宅兼スタジオへの訪問は、あっさりと明日の予定として決定した。
そうして、残されたお土産の限定グッズやチョコレートの分配を巡って、ルビーとかな、そしてMEMちょの三人が「私がこれ!」「いや、それは私のよ!」と騒がしくバトルを始めた。
その喧騒から離れるように、あかねは静かに歩を進め、アクアの隣へと腰掛けた。
「アクアくん」
声を落としたあかねの手には、お土産の袋とは別に、カバンから取り出した一冊の薄いプラスチックファイルが握られていた。
「これ、頼まれてたもの。……約束のやつ」
アクアの瞳が、一瞬で鋭く細められた。彼は周囲の三人がお土産に夢中になっているのを確認し、素早くそれを受け取って中身をめくった。
そこには、劇団ララライの過去の内部資料――『アイ』がワークショップに参加していた当時の劇団員の名簿、そしてその前後の年に在籍していた裏方を含む関係者の詳細なリストが、几帳面な文字でまとめられていた。
「……これをお前が?」
「うん。ニューヨークに行く前の数日間と、帰国してからの短い時間だったから、本当に大したことは調べられなかったんだけど……。当時のワークショップの担当指導員とか、アイさんと接触のあった劇団員数人の現在の連絡先や今の所属事務所なんかを、私なりに追跡して記しておいたよ。……でも、本当に表面的なことしかわからなくて、ごめんなさい」
あかねは申し訳なさそうに小さく頭を下げたが、アクアの内心に生じた衝撃は計り知れなかった。
劇団ララライは、今や日本屈指の実力派劇団であり、その内部情報の管理は極めて厳重だ。たった半月ほどの期間、しかも海外旅行の合間を縫って、これほど具体的かつ正確な関係者のリストと、その現在の動向まで個人で突き止めるなど、常人の情報収集能力を遥かに凌駕している。あかねの持つ、驚異的なプロファイリング能力と、執念とも言える行動力の高さに、アクアは背筋が寒くなるほどの凄みを感じていた。
「いや……十分すぎる。これだけの手がかりがあれば、次のアプローチが格段に楽になる。感謝する、あかね」
「ううん、アクアくんの役に立てたなら、嬉しいな。また調べてみるからね」
あかねは優しく微笑んだ。その純粋な笑顔の裏に、アクアへの協力という名目で、実はハルトの隣で対等に輝くための狂気や、この芸能界の闇に自ら足を踏み入れる危うさを秘めていることを、アクアは知っている。
アクアはファイルを見つめながら、ふと、脳裏にある暗い思考を浮かべた。
(……もし、あかねのこの能力と劇団内での立場を利用すれば、ララライに所属する当時の主要関係者たちの、DNAサンプルを手に入れることも不可能ではないんじゃないか……?)
アイを殺した真犯人、すなわち自分たちの父親を突き止めるための、最も確実で、最も冷酷な手段。ララライの男たちの遺伝子を集め、自分との親子鑑定を行う。それをあかねに依頼すれば、復讐の時計の針は一気に進むかもしれない。
だが――アクアの指先が、ファイルの端できつく止まった。
(ダメだ。それを頼むということは、俺とアイの本当の関係を、あかねにすべて明かすことになる。それに……これ以上、俺の個人的な事情に、あかねを深く巻き込むわけにはいかない)
ハルトの警告が、再び頭をよぎる。ハルトはあかねの隠密行動を大方察していながら、あえて静かに見守っている状態だ。もしこれ以上あかねを危険な領域へ引きずり込めば、あの怪物のような男が、今度こそ自分を敵と見なして牙を剥くかもしれない。何より、アクア自身の内にある一抹の良心が、あかねをこれ以上の闇に染めることを拒絶していた。
「……アクアくん?」
怪訝そうに顔を覗き込んでくるあかねに対して、アクアはすっと表情を消し、ファイルをカバンへと仕舞い込んだ。
「何でもない。明日の日野との打ち合わせ、遅れないようにしないとな」
「うん、そうだね。ハルトくんも、みんなに会えるの楽しみにしてると思うよ」
あかねは何の疑いも持たずに頷き、再び賑やかな三人の方へと戻っていった。アクアは心の中に宿った葛藤を深く、暗い海の底へと沈めながら、静かに息を吐き出すのだった。
☆ ★ ☆
翌日。
真夏の太陽が容赦なくアスファルトを焼き、陽炎が立ち上る都内某所の閑静な住宅街。
目的地であるその建物は、周囲の高級住宅に馴染むように佇む、大きめの一軒家だった。しかし、外見こそ一般的な邸宅に見えるものの、セキュリティ用の防犯カメラが死角なく設置され、遮音性の高そうな窓ガラスが使われているなど、随所にプロの仕事場としての改修が見て取れる。ここが、トップYouTuber『HARU』であり、天才コンポーザー『ソレイユ』である日野ハルトの、自宅兼スタジオだった。
「へぇー、ここがハルトさんのお家なんだ……! なんか、個人の一軒家にしては、醸し出してる要塞感が凄くない?」
「さすがはトップクリエイターの拠点ね。防音設備だけで、『苺プロ』の年間予算が吹き飛ぶレベルの投資がされてるわよ、きっと」
ルビーとMEMちょが感心した声を上げる中、アクアが門扉をくぐり、玄関のインターホンのボタンを押した。
ピンポーン、と澄んだチャイムの音が響き、数秒の静寂の後、スピーカーから聞き覚えのある声が返ってきた。
『あ、皆さんですね! 今、開けます!』
ガチャリと鍵が外れる音がして、重厚な木製のドアが内側から開いた。
そこに立っていたのは、ハルトではなく――フリル付きの可愛らしい淡いピンクのエプロンを身に纏った、黒川あかねだった。
「いらっしゃい。外、すごく暑かったでしょ? 冷たい麦茶と、ハルトくんが向こうで買ってきたフレーバーティーを用意してあるから、早く入って」
あかねは小慣れた手つきで髪を耳にかけながら、実に見事な、そして自然な笑顔で一同を迎え入れた。その姿は、まるで長年連れ添った夫の帰りを待つ、若妻そのものの雰囲気を醸し出していた。
そのあまりの我が物顔な態度に、真っ先に反応したのは有馬かなだった。彼女は玄関のたたきに足を一歩踏み入れたところで完全に硬直。
「……ちょっと、黒川あかね。あんた、なんでそんな格好で、まるで自分の家みたいな顔して私たちを出迎えてるわけ?」
「え? だって、ハルトくんは今、編集中で離れられないから、私が代わりに案内しようと思って……おかしいかな?」
あかねは小首を傾げたが、かなの追求は止まらない。ジト目をあかねに向けながら、一歩一歩、詰め寄っていく。
「おかしいわよ、大いにおかしいわよ! 玄関の靴箱の上に、あんたの私物っぽいお洒落な鍵置き場があるのもおかしいし、スリッパの並べ方が完璧に生活の知恵を醸し出してるのも怪しいわ! まさかあんた……冗談のつもりで聞くけど、同棲でもしてるんじゃないでしょうね?」
冗談めかした、しかし鋭いかなのツッコミが飛んだ瞬間。あかねの大きな瞳が、わかりやすく左右に泳いだ。
「え……? あ、いや、それは……その、同棲というか、大人の事情というか……」
いつもの冷静なプロファイリング能力はどこへやら、あかねの顔が一気に耳の根元まで真っ赤に染まっていく。その決定的な動揺を見逃すような、新生B小町の女子陣ではなかった。
「あーーーっ!! 目が泳いだ! 完全に泳いだ!!」
「ちょっとあかねちゃん! 詳しく、詳しく説明を要求します! 女子高生トップ女優が、天才アーティストの自宅でエプロン姿って、これスクープ記事なら苺プロが何本か潰れるレベルの特大弾だよ!?」
ルビーとMEMちょが、ここぞとばかりにあかねを玄関の壁際に追い詰め、キャイキャイと姦しく騒ぎ立てる。
「ち、違うの! 違うっていうか、その……! 今年に入ってから、ハルトくんの配信の手伝いとか、お互いのスケジュールが厳しい時に、ちょくちょく泊まらせてもらってて……。それで、クリスマス配信の後とか、今ガチが終わって、正式にお付き合いを始めてからは……ハルトくんが『あかねが移動する時間が勿体ないし、俺の側にいてくれた方が安心する』って言ってくれて……だから、その、荷物もほとんどこっちに移して、ほとんど……同棲、状態、です……」
最後の方は消え入るような声になりながら、両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまうあかね。その初々しくも爆発力の高い供述に、かなは「うわぁ……本当にやってるわ、このアマ……」と絶句し、ルビーたちは「ヒューヒュー!」と遠慮のない冷やかしの声を上げていた。
玄関先で繰り広げられる、あまりにも喧しい女性陣の恋愛トークの応酬に、アクアは額を押さえながら深くため息をついた。外から容赦なく吹き込む熱風が、玄関の中の冷気を奪っていく。
「おい。お前たちの姦しい恋愛裁判は、中に入ってからやれ。外は猛烈に暑いんだ。このままじゃ熱中症でコラボどころじゃなくなる。上がらせてもらわないか?」
アクアが極めて冷静かつ呆れ混じりの声をかけると、あかねはハッとして顔を上げ、真っ赤な顔のまま慌てて立ち上がった。
「あ、ご、ごめんなさい! そうよね、アクアくんの言う通りだわ。みんな、上がって。冷房、一番強くしてあるから……!」
あかねに促され、ルビーたちはまだ「後でじっくり聞かせてもらうからね!」とニヤニヤしながら、建物の中へと上がっていった。
アクアは最後尾から、一軒家の頑丈なドアを閉め、外の喧騒と猛暑をシャットアウトした。冷んやりとした空気と、どことなく漂うハルトとあかねの「生活の匂い」を感じながら、アクアはこれから始まる、あの天才クリエイターとの新たな共同作業、そして裏方としての共闘へ向けて、静かに思考を切り替えるのだった。
|ω・*)コッソリ
カミキヒカル特定RTA、はっじまっるよー!
なお、アクアはあくまでもDNA鑑定に拘るため見つけられない模様。
トップのあらすじはきちんと書いたほうがいい?
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今のまま
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真面目に書け