あかねのたいよう   作:かぜのこ

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第3回:『ネギ』

 

 繁華街を抜け、近くの古びた児童公園へと逃げ延びた頃には、周囲はすっかり薄暗くなっていた。

 二人は誰もいないベンチに倒れ込むようにして腰掛け、肩を激しく上下させながら、しばらくの間、息を切らして笑い合った。

「はは、あははは! ……っ、危なかったなー、マジで。俺のせいで黒川まで変な連中に囲まれたりしたら、流石に寝覚めが悪いわ」

 ハルトは額に浮かんだ汗をブレザーの袖で拭いながら、ベンチの隣にある自動販売機へと歩み寄った。コインを投入し、ガコン、ガコンと二つの音が響く。彼は取り出し口から、冷たい缶のコーンスープを二つ取り出した。

「ほら、お疲れ」

「あ、ありがと……って、ひゃんっ!?」

 ハルトが、冷たく結露した缶の側面を、あかねの火照った頬にピトッと容赦なく押し当てた。あかねは短い悲鳴を上げて首をすくめ、潤んだ瞳でハルトを睨みつけた。

「冷たいっ……! もう、何するの。これ、全部日野くんのせいなんだからね? 私、本当に心臓が止まるかと思ったんだから」

「わりぃわりぃ、悪気はなかったんだって。ほら、これ、本当のお詫び」

 ハルトは苦笑しながら、今度は制服のズボンのポケットに手を突っ込み、何か小さなものを取り出してあかねの前に差し出した。

 あかねがパチクリと瞬きをしてそれを見つめると、それは手のひらに収まるサイズの、小さくて可愛らしいデフォルメされたネギの形をしたぬいぐるみマスコットだった。ボールチェーンが付いている。

「これ……?」

「さっきさ、あかねがダンスゲームで戸惑ってる間に、隣のクレーンゲームの筐体で見つけてさ。一発で取れそうだったから、サクッとゲットしといたんだ。ほら、これ、あかねがいつも学校に持ってきてるお弁当のスープに入ってるやつに、なんか形が似てたからさ」

 ハルトはいつもの調子で、大したことではないようにそれをあかねの手のひらに落とした。

「……っ!」

 手渡された小さなマスコットを見つめた瞬間、あかねの胸の奥が、きゅん、と切ない音を立てて激しく疼いた。

 彼は、見ているのだ。自分が毎日、どんなお弁当を持ってきているのか。どんなスープを飲んでいるのか。普段は飄々としていて、周囲のことなんて何も考えていなさそうな彼が、自分のそんな些細な日常のディテールを記憶し、わざわざそれを覚えていてくれた。

 などと些かズレた感想があかねの脳裏に過る。恋は盲目とよく言ったものだ。

(嘘……。そんなの、嬉しすぎるよ……)

 あかねはマスコットを両手で包み込むようにして握りしめ、赤くなった顔を隠すように俯いた。

「あ……ありがとう、日野くん。大切にするね……」

 その言葉の裏で、あかねの脳内では、急速に思考のギヤが狂った方向へと回転を始めていた。

(……カバンにつける用として、毎日持ち歩くでしょ? でも、もし雨に濡れたり汚れたりしたら絶対に嫌だし……そうすると、お部屋の机の特等席に飾っておくための保存用が、最低でもあと一つは必要よね……? じゃあ、明日、学校が終わったら、もう一個取ってきてもらおうかな……。ううん、いっそのこと、日野くんにおねだりして……)

 あかねの、一度火がつくと誰にも止められない「激重モード」のスイッチが、静かに、しかし確実に、カチリとONになっていた。

 

  ☆ ★ ☆

 

 その日の夜。時計の針はすでに午後十時を回っていた。

 静まり返ったあかねの自室。カーテンの隙間からは、都会の夜の淡い光が差し込んでいる。

 あかねは机に向かい、劇団ララライの次回作の分厚い台本に目を通していた。シャープペンシルで役の心情を細かく書き込みつつも、彼女の意識は、机の上にスタンドで立てかけられたタブレット端末の画面に、完全に持って行かれていた。

 耳に差し込んだワイヤレスイヤホンからは、お馴染みの軽快なBGMが流れている。

 画面の中で配信を開始したのは、現在、チャンネル登録者数数百万人を誇るトップクリエイターであり、若者から絶大な支持を得ている大人気ユーチューバー『HARU』――その人、日野ハルトだった。

『はいどーも皆様こんばんは、HARUです! いやー、今日も今日とて暑いね。今日はね、配信前にお約束してた通り、視聴者の皆からツイッターで指定された、あの激ムズって噂のダンス動画を「その場で初見で覚えて、即完コピする」っていう無茶振り配信をやりたいと思いまーす!』

 画面の中のハルトは、学校での制服姿とは異なり、彼のお気に入りである少し大きめの黒いパーカーを羽織っていた。手際よくカメラの位置や画角を調整しながら、白い歯を見せて笑っている。

 画面の右側では、彼の登場を待ちわびていた視聴者たちのコメントが、恐ろしいスピードで上へと流れていく。

『きたあああああ!』

『また始まったよ才能の無駄遣い(褒め言葉)』

『この人マジで何者なんww身体能力バグりすぎだろ』

『一回見ただけであのステップ踊れるわけ……あ、HARUなら踊れたわ(予言)』

『今日も神業期待してます!』

 あかねは台本をめくるペンを握る手を完全に止め、頬杖をつきながら、画面の中の彼をうっとりとした、熱を帯びた瞳で見つめた。

 配信中のハルトは、視聴者から提示された「プロでも一週間は練習が必要」と言われる複雑極まりないダンス動画を、画面の隅でじっと一回だけ見つめた。数分間の動画が静かに流れる。ハルトの瞳が、その動きを、テンポを、骨格の連動をすべて脳内にスキャンしていく。

『よし、入った』

 ハルトがぽつりと呟き、動画を止めた。

 そして、カメラの前でポジションを取ると、次の瞬間には、全く同じ、寸分狂わぬ完璧な動きでそのダンスを完全再現してみせた。身体の軸が1ミリもブレない。ジャンプの高さ、着地の静寂さ、指先の角度に至るまで、機械的なまでに精密でありながら、同時に恐ろしいほどの躍動感が宿るパフォーマンス。

 コメント欄は瞬く間に『神業』『相変わらず人間辞めてる』『狂ってる(賛辞)』といった絶賛の嵐で埋め尽くされていく。ハルトは激しいダンスを終えた後だというのに、息一つ切らすことなく、楽しそうにケラケラと笑いながら画面のカメラへと近づいてきた。

『あ、そーいえばさぁ。今日、学校の友だちと放課後にゲーセン行って、ダンスゲーで遊んでたんだけどさぁ』

 画面の向こうのハルトが、冷たいペットボトルの水を一口飲み、おもむろにそんな日常の雑談を切り出した。

「――っ」

 あかねの心臓が、どきっと大きな音を立てて跳ね上がった。思わず机の上のタブレットに顔を近づける。

『俺らがマジで画面の前で踊り狂ってたらさ、周りにめちゃくちゃ人だかりができちゃってさ。「あ、あの可愛い子の隣の奴って……」とかヒソヒソ聞こえてきたから、ヤベッと思って。その子の手引っ張って、ダッシュで尻尾巻いて逃げたね! いやー、身バレしかけてマジで焦ったわ!』

 ハルトが楽しそうに語るエピソードに、コメント欄の勢いがさらに爆速になっていく。

『ウカツすぎるwww』

『HARUの動き目立ちすぎるからそりゃバレるわ!』

『残当』

『っていうか可愛い子と遊んでる?ウラヤマ死ぬ』

『おいおいおい、それ彼女か!?』

『HARUに彼女とか許さんぞww』

 画面の向こうの、何万人、何十万人という視聴者たちは、誰も知らない。

 ハルトが語ったその学校の友達であり可愛い子というのが、今をときめく劇団ララライの天才女優・黒川あかねであるということを。そして、ハルトがその手を誰よりも強く握りしめて、夕暮れの街を二人きりで駆け抜けたという事実を。

 ハルトにとっては、ただの「今日あった日常の失敗談」として、ケラケラと無邪気に笑い飛ばしているだけの出来事。

 だが、タブレットのバックライトに照らされたあかねの口元は、いまやどうしようもないほどの独占欲と、底知れない優越感によって、ニヤニヤとだらしなく緩みきっていた。

「ふふ……ふふふ……。あの時、日野くん、私の手、すごく、すごーく強く握ってくれたんだから……。痛いくらいだったんだからね……」

 世界中で自分だけが、画面の向こうで輝く『HARU』の、誰にも許されていない特別席に座っている。その事実が、彼女の心を極上の甘さで満たしていく。

 あかねは椅子から立ち上がると、弾むような足取りでベッドの上へとゴロンと横たわった。そして、昼間にハルトから手渡された、あの少し不格好で愛らしいネギのマスコットを愛おしそうに両手で包み込み、自らの胸元へと強く抱きしめた。

 幸せな熱に浮かされるようにして、白い素足をベッドの上でパタパタと小刻みに揺らす。

「明日のお弁当、何にしようかな。また……結婚してくれ、って言わせちゃうような、すごいスープ作っちゃうんだから」

 天才女優・黒川あかねではなく、ただの恋する女子高生としての甘い独り言が、静かな部屋に溶けていく。

 




【登場人物・設定紹介】
 黒川あかね:ヒロイン。性格は真面目で内向的。
 日野ハルト:オリ主。性格は自信家で陽キャ。 
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