あかねのたいよう   作:かぜのこ

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幕間 黒川あかねのニューヨーク旅行記1

 

 八月の太陽が、容赦なく都市を焼き尽くす夏休み。

 天才ネットアーティストとして世界を舞台に活躍する日野ハルトは、例年通りのルーティンとして、楽曲のインスピレーション獲得と海外向けの配信活動のために単身で渡米していた。

 一方、彼の恋人となった黒川あかねにとっても、この夏は役者人生の中で最も過密で、かつ重要な試練の時期となっていた。劇団ララライの夏公演の稽古、秋に公開を控える新作映画の撮影、さらには地上波ドラマのロケと、休む間もなく立て続けに押し寄せるメディアの取材。分刻みで塗りつぶされたスケジュール帳は、まさに彼女が「売れっ子女優」の階段を上り続けている証左でもあった。

 だが、二人は今年、事前に互いの事務所やマネージャーと綿密な調整を重ねていた。あかねの過酷な撮影ラッシュが一段落する僅かな空白期間を狙い、ハルトの滞在先であるアメリカ・ニューヨークで合流するという、二人にとって初めての「海外での休暇」を約束していたのだ。

 

 ☆ ★ ☆

 

 ニューヨークへ向けて出発する、前日の深夜。

 神奈川県内にある黒川家の自室は、デスクライトの温かい光だけに照らされていた。

 ベッドの脇には、ハルトと一緒に買いに行ったばかりの、真新しい鮮やかな鮮青色のキャリーケースが広げられている。あかねはフローリングの上に直接座り込み、旅行用のポーチや小分けにした衣類、そして変換プラグやパスポートといった必需品を、丁寧な手つきでキャリーケースへと収めていた。

 一人で飛行機に乗るのも、日本の外へ出ること自体も、彼女の十七年の人生においてこれが完全に初めての体験だった。

 パスポートの顔写真をそっと指先でなぞる。そこには、どこか緊張した面持ちでカメラを見つめる自分の姿があった。

(一人で、あの広大な異国の地へ向かうんだ……)

 胸の奥で、期待と不安が複雑な波となって押し寄せてくる。だが、あかねはそれを決して不快な感情だとは思わなかった。役者として、黒川あかねという人間は、常に新しい感情や未知の状況を脳内に蓄積し、自身の演技の糧へと変換する癖がついていたからだ。

『何事も経験だよ。特に俺たちのようなアーティストにはな』

 以前、渡米の計画を立てていた際にハルトがかけてくれた、軽やかで頼もしい言葉が頭をよぎる。彼の言う通り、この見知らぬ世界へ一人で飛び込む恐怖すらも、表現者としては得難い財産になるはずだ。

 ……けれど、とあかねは膝の上で手をギュッと握りしめた。

 共感と同時に胸の底から湧き上がってくるのは、恋人であるハルトに対する、どこか重苦しいほどの申し訳なさだった。

 今回のニューヨーク合流にしても、ハルトがあらかじめ多方面へ根回しをし、現地での安全な滞在先や移動手段をすべて手配してくれたからこそ実現した計画だ。ハルトは「俺があかねに会いたいからやってるだけだ」と笑っていたが、あかねの真面目すぎる性格は、それを素直に受けるだけではいられなかった。

(……自立した人間二人が、対等に寄り添うことに意味がある)

 あかねが抱く恋愛観、そして人間としての理想の在り方。それは誰かに依存し、寄りかかるだけの関係ではなく、お互いが自分自身の足でしっかりと立ち、表現者として高め合いながら手を取り合う姿だった。

 しかし、ハルトと付き合い始めてからの自分はどうだろうか。

 彼はいつだって圧倒的な才能と行動力で自分を引っ張り、世間の悪意から守り、新しい世界を見せてくれる。それに引き換え、自分は彼に何を与えられているだろう。何かを返せているのだろうか。ただ彼から与えられるだけの存在になってしまってはいないだろうか――。

 暗い思考の螺旋に陥りかけたその時、ベッドの上に置かれていたスマートフォンが、ブッと可愛らしい振動音を立てた。

 画面を見ると、チャットアプリからの通知だった。送信者はもちろん、ハルト。

『今起きた。そっちはそろそろ寝るとこか?』

 メッセージと共に送られてきたのは、時差によって向こうが朝を迎えたばかりの、寝癖のついたアッシュグレーの髪を掻き上げながら欠伸をしているハルトの自撮り写真だった。少し眠たげな山吹色の瞳と、無防備な表情。

 その一枚の写真を見た瞬間、あかねの胸を覆っていた重い雲が、嘘のようにスッと晴れていくのが分かった。口元に、自然と愛おしい笑みがこぼれる。

『明日の準備をしてたよ。荷づくり、あともうちょっとで終わるの』

 あかねが返信を送ると、すぐに画面に『既読』がつき、続いて短く表示が躍った。

『今電話していい?』

『うん!』

 返答をして一秒も経たないうちに、画面いっぱいに着信通知が広がり、あかねは急いで通話ボタンをスワイプした。

「もしもし、ハルトくん」

『おう、あかね。遅くまで準備お疲れ様。……なんか、電話の声、ちょっと緊張してるか?』

 画面越しでも、彼の観察眼は恐ろしいほど鋭い。あかねは苦笑交じりに、素直な気持ちを口にした。

「……うん。やっぱり、一人で海外に行くって思うと、ちょっとドキドキしてきて。それに、ハルトくんに色々と準備させちゃって、申し訳ないなとか考えてたの」

 電話の向こうで、ハルトが呆れたように、けれど心の底から温かい溜息をつくのが聞こえた。

『お前な、またそうやって変に難しく考えてただろ。申し訳ないとか、対等じゃないとかさ。俺が好きでやってんだから、お前はただ楽しみにして来ればいいんだよ』

「でも……」

『それにさ』

 ハルトの低く心地よい声が、受話器を通じてあかねの耳奥に優しく響く。

『空港で待ってるから。……俺さ、早くあかねに会いたくて堪らないんだよ』

 その飾らない、ストレートな愛の言葉。ハルトの強がりではない本音が、あかねの胸の奥をキュンと熱く甘く締め付けた。

「……うん。私も、早くハルトくんに会いたいよ」

 不安も、迷いも、その一言ですべて消し飛んでしまった。あかねは電話を切った後、まるで宝物を扱うかのように丁寧に荷物をキャリーケースに収め、深い眠りについたのだった。

 

 ☆ ★ ☆

 

 翌朝、夏の眩しい日差しが差し込む早朝。

 玄関先で、両親からの温かくも厳しい見送りを受けた。

「あかね、一人で海外なんて本当に気をつけるのよ? ハルトくんにあまり迷惑をかけたらダメだからね!」

「分かってるよ、お母さん。行ってきます!」

 心配性な母の言葉に苦笑しながら、あかねはハルトと一緒に選んだ鮮青色のキャリーケースのハンドルを強く握り締め、家を出た。

 品川駅から京急本線のエアポート快特へと乗り換える。朝のラッシュを避けた車内は比較的空いており、窓の外を流れる東京の街並みを眺めているうちに、電車はあっという間に羽田空港第3ターミナル駅へと滑り込んだ。

 出発時刻である午前十時よりもかなり早く到着したあかねは、巨大な吹き抜けが広がる国際線発着ロビーへと踏み出した。

 飛び交う外国語、色とりどりのスーツケースを引く様々な国籍の人々。その異国情調に気押されながらも、あかねは出発ロビーのベンチに腰を下ろし、呼吸を整えた。

 搭乗手続きまでの間、あかねは周囲を行き交う人々をじっと観察した。それは彼女が役者として長年培ってきた習性でもあった。家族連れの温かい空気感、一人旅の青年の緊張した背中、ビジネスマンの洗練された歩調。それらを脳内のメモ帳に書き留めつつ、手元のノートを開いてニューヨークに着いてからの予定を復習する。

 メトロポリタン美術館、ブロードウェイの劇場街、そしてハルトが「絶対に見せたい」と言っていたセントラルパークの夕暮れ。

 ポケットの中でスマートフォンが震える。向こうは就寝前の時間帯のはずのハルトからのチャットだった。

『無事に羽田着いたか?』

『うん、着いたよ! 今、搭乗手続き待ち。ハルトくんはもう寝ないとダメだよ?』

『あかねが飛行機に乗るの見届けてから寝る。フライト中、何かあったら客室乗務員さんにすぐ言えよ』

『ふふ、お父さんみたい。大丈夫だよ、行ってくるね』

 画面越しに彼の存在を感じるだけで、一人きりの空港の寂しさはどこかへ吹き飛んでいった。

 

 ☆ ★ ☆

 

 搭乗アナウンスが流れ、あかねはボーディングブリッジを通って機内へと足を踏み入れた。

 ハルトが手配してくれていたのは、ビジネスクラスの窓側シートだった。プライバシーが保たれたゆったりとした個室感のある空間に、あかねは少し恐縮しながらも腰を下ろした。

 重低音を響かせながら、巨大な機体が滑走路を滑走し、ふわりと浮き上がる。窓の外で、小さくなっていく日本の街並みと、やがて視界一面を覆い尽くす眩しい雲の海。

 ニューヨーク州、ジョン・F・ケネディ国際空港までの距離、およそ一万八百八十キロメートル。時間にして約十三時間に及ぶ、人生で最も長い旅が始まった。

 離陸して安定飛行に入ると、あかねは座席のポケットからいつもの使い古したメモ帳を取り出した。

 窓の外の果てしない青空を見つめながら、今、自分の胸の中に渦巻いている言葉にならない感情――一人で旅立つ孤独感、恋人の待つ場所へ向かう高揚感、そして見知らぬ世界への微かな恐怖を、一つひとつ丁寧な文字で書き綴っていく。この繊細な心理の揺らぎこそが、未来の自分を助ける芝居の種になるのだと信じて。

 メモを書き終えると、今度は持参した次回作のドラマの台本を広げ、セリフの暗記と役作りに没頭した。さらに、機内エンターテインメントの英語会話講座を再生し、イヤホンから流れるネイティブの発音に耳を澄ませる。

 あかねは舞台演劇の知識から、英語の文献を読むことや文章を書くことには長けていたが、いざ耳で聞き取り、口から滑らかに英語を出すことに関しては、まだ強い苦手意識が残っていた。

(現地でハルトくんの足引っ張りたくないし……最低限の会話は頑張らないと)

 真面目な性格が災いして勉強に没頭していたが、ふと疲れて用意されていた本棚の電子書籍端末を操作し、一冊の小説を開いてみた。それは、海外の空港や機内で定番とされる典型的な『ハーレクイン・ロマンス』の翻訳本だった。

 普段のあかねなら、もっと文学的な戯曲や人間ドラマを選ぶところだったが、今の情緒には、このストレートで少し過激な恋愛小説が驚くほどしっくりと馴染んだ。

 劇的な運命に引き裂かれそうになりながらも、最後は燃え上がるような愛で結ばれる男女の物語。主人公の少女が、強引で傲慢だが誰よりも深い愛を持つヒーローに抱きしめられる描写を読むたびに、あかねの頭の中にはどうしてもハルトの顔が浮かんでしまう。

(……あ、ダメ。こんなの読んだら、ハルトくんに会いたくてたまらなくなっちゃう……)

 頬を赤らめながら本を閉じ、あかねはシートを深く倒した。

 一人きりの長旅を、完全にリラックスして楽しめるほど、あかねは図太くも社交的でもなかった。飛行機が揺れるたびに心臓が跳ね上がり、周囲の外国人の客室乗務員と目を合わせるだけで緊張で身体が固くなる。

 けれど、そのすべての不安の先には、大好きなハルトが待っている。

 その事実だけが、あかねの心を開拓者のような強さで支え続けていた。

 

 ☆ ★ ☆

 

 そして、長い長い夜と昼を越えて。

 機首が高度を下げ、雲を突き抜けた視界の先に、グリッド状に整然と並ぶ高層ビル群と、果てしない地平線が姿を現した。

 ジョン・F・ケネディ国際空港への着陸。タイヤが滑走路を噛み、猛烈な逆噴射の音が機内に響き渡る。

 ついに、着いたのだ。アメリカ、ニューヨークへ。

 機外へ一歩踏み出した瞬間、あかねの肌を襲ったのは、日本の夏とはまた質の異なる、けれどどこか親しみのある蒸し暑い空気と、ジェット燃料と乾燥した都市の匂いだった。

 手荷物受取所で青いキャリーケースをピックアップし、緊張でガチガチになりながら入国審査(イミグレーション)の列に並ぶ。

「What's the purpose of your visit?(入国の目的は?)」

 厳めしい顔をした体の大きな審査官に英語で問われ、あかねは心臓をバクバクと波打たせながら、事前におさらいしていたフレーズを懸命に口にした。

「Sightseeing... and, to see my boyfriend.(観光と……彼氏に会うためです)」

 審査官はパスポートとあかねの顔を交互に見比べると、不意にフッと表情を緩め、スタンプを豪快に押し叩いた。

「Enjoy New York, young lady.(ニューヨークを楽しんで、お嬢さん)」

「Thank you very much!」

 無事に入国手続きを終え、旅客ターミナルの到着ロビーへと歩を進める。

 そこは、まさに人種の坩堝(るつぼ)だった。英語、スペイン語、フランス語、中国語――世界中の言語が乱反射するように飛び交い、色とりどりの皮膚や衣装を持った人々が忙しなく行き交っている。

 あかねは圧倒されそうになる自分を必死に抑えながら、スマートフォンを取り出し、無料Wi-Fiに接続してハルトへメッセージを送った。

『無事に着いたよ! 入国審査も終わって、B口の到着ラウンジにいるよ』

 メッセージを送った直後、あかねはキョロキョロと辺りを見回した。

 圧倒的な異国の熱気と、多国籍な人波。自分が今、地球の反対側にたった一人で立っているという現実が、好奇心と同時に強烈な孤独感となって押し寄せてくる。

(どこにいるんだろう……? 無事に会えるかな……)

 不安に押しつぶされそうになり、青いキャリーケースのハンドルをぎゅっと握りしめた、その時だった。

「あかねーっ!」

 大混雑するラウンジの雑音を綺麗に突き抜け、聞き慣れた、世界で一番大好きな声があかねの耳に届いた。

 あかねがハッと弾かれたように振り向くと、人波を割るようにして、こちらへ走ってくる一人の少年の姿があった。

 アッシュグレーのウルフカットに、黒のオーバーサイズTシャツとダメージデニム。周りの外国人たちにも決して見劣りしない洗練されたオーラを纏った彼――ハルトが、息を切らしながら一直線にあかねへと向かってくる。

「ハルトくん……っ!」

 あかねの目から、溜め込んでいた緊張と不安が一気に吹き飛び、代わりに歓喜の涙が零れ落ちた。

 あかねはキャリーケースの手を放し、駆け寄ってきたハルトの胸の中へと、迷うことなく飛び込んだのだった。

 

 





 幕間の1以降は書けたら載せます。
 今日は次の更新もあるのでよろしくね。

1話の文字数はどのくらいがいい?自分は5000文字を目安にしています

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