あかねのたいよう   作:かぜのこ

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第31回:『あどけないきみとの日常』

 

 日野ハルトの自宅兼スタジオは、都心の上質な静寂に包まれた住宅街に位置していた。

 一階のリビングダイニングから重厚な防音ドアを隔てた奥に、その空間はある。座り心地の良い深緑色の革張りソファセットや、音楽・演劇に関する専門書が隙間なく並ぶ壁一面の書棚が配置されたリラックススペース。その奥に併設されたスタジオは、決して広くはないものの、厳選された最新鋭の音響機材やDTM機材、防音パネルが整然と並び、まさにクリエイターの城と呼ぶにふさわしい密室空間となっていた。

 ハルトは傍らに愛用の紅いエレキギターを置き、デスクに置かれた大型のマルチディスプレイに向き合っていた。スピーカーからは、鋭い重低音と繊細なストリングスが交錯する重厚なサウンドが流れている。

 雷田や他の制作陣との顔合わせで提出する、舞台『東京ブレイド』の劇伴デモ版の制作作業だ。

 実際に演出プランや決定稿の脚本が上がり、役者たちの稽古が始まらなければ正式な劇伴を作りようがないのは、音楽制作の常識である。しかし、だからといって手抜きや妥協を許すハルトではなかった。

 かつて自身が『ソレイユ』名義で作曲したアニメ版のオープニング曲、エンディング曲、挿入歌。そして劇場版のテーマソングのアレンジを数パターン。それに加えて、原作コミックの空気感からインスピレーションを得た『東京ブレイド』の世界観を示すまったく新しいBGMを数種類。これまで映像作品への楽曲提供が主だったハルトにとって、生の演劇と連動する舞台劇伴の制作は未経験の領域であり、クリエイターとしての創作意欲を激しく刺激していた。

 数時間に及ぶ集中で凝り固まった肩をほぐすため、ハルトはキーボードから手を離して一息入れることにした。

 防音ドアを開けてスタジオを出ると、柔らかな生活の匂いが漂うリビングダイニングへと足を踏み入れる。午後を過ぎた穏やかな陽射しが大きな窓から差し込み、フローリングを温かな橙色に染めていた。

 ダイニングテーブルに目を向けると、そこにはノートと参考書を広げ、一心不乱にペンを動かしているあかねの姿があった。学校の課題か、あるいは自習をしているらしい。真剣な横顔に落ちる前髪を時折り耳にかけながら、静かにノートへ文字を書き込んでいる。

「お、勉強か? お疲れさん」

 ハルトの台詞に、あかねはパッと顔を上げた。

「あ、ハルトくん。作業ひと段落したの? お疲れ様!」

「ああ、ちょっと休憩。ハーブティーでも淹れるけど、あかねも飲むか?」

「うん、頂こうかな。ありがとう」

 ハルトはキッチンに立ち、手際よくハーブティーの準備を始めた。カモミールとレモングラスの清涼感ある香りが湯気とともに立ち上り、リビングに満ちていく。マグカップをふたつ手にしてダイニングテーブルへと戻り、あかねの向かいの席へと腰掛けた。

「はいどうぞ。熱いから気をつけてな」

「ありがとう、ハルトくん。すごくいい香り」

 あかねは両手でマグカップを包み込み、ふうふうと息を吹きかけながら一口口に含んだ。ほっと胸をなでおろすような笑みが彼女の唇に浮かぶ。

 二人はしばらくの間、学校の出来事や最近の気候といった他愛のない雑談を交わしていた。だが、会話の合間にふと、あかねの表情に微かな翳りが落ちる。何かを思い立ったように視線を泳がせ、口をモゴモゴとさせて言いにくそうに言葉を言い淀み始めた。

 ハルトはマグカップをテーブルに置き、静かな眼差しであかねを見つめた。

「……なんだ? 言いたいことがあるなら言ってみろよ。別に遠慮するような仲でもないだろ」

 ハルトに優しく静かに促され、あかねは意を決したように小さく息を吸い込んだ。

「あのね……この前話した、アクアくんとのことなんだけど……」

 そこで再び言葉を詰まらせるあかね。その逡巡する表情と、先日釘を刺した会話の内容から、ハルトは彼女が抱えている事情を瞬時に察し、言葉を補足してやった。

「察するに……()()()()()をしないといけないくらい、行き詰まったか?」

「う、うん……そうなの」

「なるほどね」

 ハルトは背もたれに体を預け、あかねの反応を見ながら淡々と推理を展開していく。

「お前が星野に協力してるってことは大方……『アイ』の男が、劇団ララライの関係者だったってことだろ? で、当時の資料から関係者を洗ってみたものの、確信に至らず対象者への直接接触を考えていた……違うか?」

「……うん。大正解」

 あかねは驚きで目を丸くしながらも、参ったと言わんばかりに頷いた。

(コイツ……俺が釘刺してなかったら、マジでそのまま無鉄砲に突撃してたろ。あかねって頭いいのに、時々突飛というか、考え無しになるよなぁ……)

 ハルトは内心で呆れ半分、心配半分のため息をつきつつも、彼女が危険な橋を渡らないよう、論理的なアドバイスを与えることにした。

「『アイ』は昔、ララライに出入りしてたんだな?」

「うん。劇団のワークショップに参加していたみたい」

「なら話は簡単だ。調査をするなら、まずは今所属している関係者から事情を聞くんだ」

「今の関係者?」

 あかねは素早くノートの端にメモを取りながら、聞き返してくる。

「そう、今の。それも役者じゃなく、裏方や事務方……例えば、劇団代表の金田一さんみたいな人間だ。役者ってのは移り変わりが激しいし、寿命も短い。だから十数年前の人間はほとんど劇団から去ってる可能性が高い。だけど裏方はそうじゃないだろ? 劇団そのものを支える人間は、長年残っているケースが多い」

 ハルトはハーブティーを静かに口に含み、言葉を続けた。

「十年以上前のこととはいえ、あの伝説的なアイドル『アイ』の存在感が、関わった人間の印象に残っていないわけがない。探せば絶対に覚えている人間がいるはずだ」

「あ……そっか」

「お前はあくまで演技の勉強のために、『アイ』という存在を調べているっていう(テイ)で、お前にしかできないプロファイリングを建前にすればいい。その方向から切り込んで当時の話を聞き出すんだよ。そこから当時の人間関係を洗い出していく」

「凄い……! ハルトくん、本物の探偵みたい……!」

 あかねは目を輝かせてメモを走らせていたが、ふとペンを止め、不安そうに首をかしげた。

「あ……でも、聞き込んだその裏方さんの中に、もし()()()()()……犯人がいたら?」

「あー、まあそれはあり得る話ではある」ハルトは肩をすくめた。「だけど考えてもみろよ。あの『アイ』が、アーティスト以外の普通の人間に惚れると思うか?」

 ハルトの問いかけに、あかねは自身の中にある『アイ』の思考や感情のトレースを始め、プロファイリングに集中した。

「……うん。たぶん、ハルトくんの言う通りだと思う。『アイ』さんが惹かれるのは、自分と同じか、あるいはそれ以上に強い輝きを持った人……それも、どこか深く暗い闇を抱えているような印象の人……」

「だろ? となると、裏方や事務方には居ないという推理になる。ギリで金の取れる演出家……金田一さんあたりが怪しいラインだが、まあまず違うだろうな」

 あかねは「金田一さんが犯人だったらどうしよう」と一瞬本気で想像したのか、頬をプクッと膨らませて少し憤害したような視線をハルトに向けた。ハルトはくすりと笑って両手を広げる。

「つまり、俺が示した調査方法は比較的安全だ、ということだ」

「ふふ、確かにそうだね。ありがとう、ハルトくん。すごく参考になった」

 感心しきりの様子でノートを閉じるあかねを見ながら、ハルトはさらに思考を深めていた。

(星野の内部事情への詳しさとその執念……『アイ』が生前所属していた苺プロに繋がっているからってだけじゃ説明しづらいんだよな。何度かカマをかけてみたが、やっぱあいつら星野兄妹……アクアとルビーは『アイ』の隠し子と考えてよさそうだ。父親を追う理由は復讐か? ……難儀な話だよな、まったく)

 だが、ハルトはそれ以上深く思考を進めるのをやめた。

(まあ、人様のプライベートだ。これ以上ズケズケと足を踏み込むような真似は野暮だな)

 ハルトは自身の推論を思考の棚へと静かに仕舞い込み、残りのハーブティーを飲み干した。

 

 ☆ ★ ☆

 

 九月も終わろうとしていた頃。連日の残暑も落ち着きを見せ、空の青さがどこか高く澄み渡る季節となっていた。

 完成した劇伴のデモ版データを手に、ハルトはマネージャーの宮川みやびと共に、再び『マジックフロー』の入った都心の高層ビルへと赴いていた。

 案内された大型会議室に入ると、そこにはすでに重厚な緊張感が漂っていた。

 プロデューサーの雷田澄彰、演出家の金田一敏郎(としろう)、そして脚本家のGOA(ゴア)の三人が揃っている。さらにその周囲には、ノートPCを開いて素早くキーを叩くアシスタントプロデューサーや、壁一面に図面と複雑なタイムコード表を広げて打ち合わせを行う音響監督をはじめとする音響スタッフたちの姿があった。

「いやあ! 『ソレイユ』先生、宮川代表! お待ちしておりました!」

 雷田が豪快な笑顔で二人を迎え入れる。金田一は深く刻まれた眉間のシワを少しだけ和らげ、GOAは緊張した面持ちで深く一礼した。

「本日は、具体的な劇伴の発注と打ち合わせになります。こちらが今回の舞台『東京ブレイド』で楽曲が必要となるシーンのト書きと、楽曲イメージをまとめた発注資料です」

 音響監督から手渡された分厚い資料には、幕ごとの展開、殺陣のタイミング、登場人物の感情の機微、そして必要な曲の長さやテイストが事細かに記載されていた。

 ハルトは提示された資料に目を通しながら、プロのクリエイターとして実務的な質問を矢継ぎ早に投げかけていく。

「第2幕のクライマックス、殺陣のテンポはBPMどれくらいを想定していますか? 視覚的なアクションのスピードと楽曲のシンクロ率を高めたいんですが」

「おお、そこですね! 金田一さん、殺陣のテンポ感は?」

「うむ……あそこの殺陣はかなりアグレッシブに動かす。BPM150から160前後の、展開の早い重厚なロックサウンドが欲しいところだな」

「了解しました。では、デモで持ってきたパターンBの重低音を強調したアレンジがハマりそうですね。一度聴いてみてください」

 ハルトが持ち込んだデモ音源を再生すると、会議室内に臨場感あふれるサウンドが響き渡り、音響監督や演出陣から感嘆の声が上がった。

 実務的なすり合わせは極めてスムーズに進行していった。だがこの時、ハルトにはGOAがすでに書き上げていた第一稿(初稿)の脚本は渡されていなかった。演出方針や原作者との間で後に起こる大きな歪みとトラブルの芽を、この時のハルトが知る由もなかった。

 

 ☆ ★ ☆

 

 ある日の夜。

 ハルトの自宅の一角にある音楽スタジオ。防音扉を隔てたすぐ隣に併設されたリラックススペースには、座り心地の良い深緑色の革張りソファや壁一面の書棚が整然と並んでいる。

 この日の個人配信を終えたハルトは、機材の電源を落としてリラックススペースへと入った。するとそこには、柔らかい生地のパジャマ姿のあかねがソファに深く腰掛け、一心不乱に本を読んでいる姿があった。

 彼女が手にとっているのは、コミック『東京ブレイド』だ。かつてハルトがアニメ版へ楽曲提供を行った際、作品世界を解釈するための資料として買い揃えた蔵書の一つである。

(なるほどな……冬の舞台のための勉強か)

 ハルトはあかねの意図を瞬時に理解したが、もちろん役者同士・クリエイター同士の守秘義務を踏まえ、それを野暮に指摘することはしない。とはいえ、何も言わずにスルーするのもかえって不自然だ。

 ハルトはあかねの隣のスペースへ静かに腰を下ろすと、彼女の手元を覗き込むようにして声をかけた。

「それ『東ブレ』じゃん。珍しいな、あかねがマンガ読むの」

 不意に声をかけられたあかねは、パッと顔を上げて少し照れたように笑った。

「あ、ハルトくん。配信お疲れ様! うん、これね、劇団の人に勧められたの。読み始めたらすごく面白くてハマっちゃって」

 見れば、ローテーブルの上には既に読み終えられた『東京ブレイド』の単行本が数冊、きれいに積み上げられていた。あかねの集中力と読書スピードを考えれば、相当な熱量で読み進めているのが窺える。

「東ブレは面白いよな。バトルシーンの疾走感もそうだけど、登場人物それぞれの信念のぶつかり合いが見事っていうかさ」

「うん! キャラクターの心情描写がすごく丁寧で、劇中の殺陣や技の意味合いがちゃんとストーリーとリンクしてるのが本当にすごくて……!」

 瞳を輝かせながら作品の魅力を語るあかねと、ハルトはしばらくの間『東京ブレイド』の展開やキャラクターの魅力について楽しく言葉を交わした。作品の面白さを共感し合える時間は、二人にとって実に居心地の良いものだった。

 盛り上がる会話の合間に、ハルトはふと思いついたように提案してみた。

「時間がある時に、アニメ版も観てみるか? コミックとはまた違ったテンポ感や演出の良さがあるし、映像と音楽の合わさり方も参考になると思うぞ」

「本当!? 観たい! ハルトくん、今度一緒に観ようね!」

 あかねはパッと表情を咲かせ、心から嬉しそうに頷いた。

 

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