十一月上旬。
秋の深まりとともに、街路樹の銀杏が鮮やかな黄色に染まり、朝晩の冷え込みが肌を刺す季節となっていた。
午前十時。都内の閑静な住宅街にある自宅の玄関先で、日野ハルトは身支度を整えていた。
今日の装いは、普段のラフなスタイルとは一線を画す、洗練されたビジネスカジュアルだ。落ち着いたネイビーの上質なジャケットに、仕立ての良いスラックス。首元には控えめな柄のシルクタイを締めている。
車道の脇には、すでにハルトの個人事務所『サン・マネージメント』の手配した黒塗りの送迎車が静かにエンジン音を響かせて待機していた。
「はい、ハルトくん。ネクタイ、ちょっと歪んでるよ」
玄関の土間に立ったあかねが、つま先立ちになってハルトの襟元に手を伸びしてきた。
先月エクステをつけ、腰近くまで届く艶やかなロングストレートヘアとなった彼女は、清楚な部屋着姿でありながらも、どこか浮世離れした美しさを漂わせている。あかねの手指が手際よく結び目を整えていくと、ハルトの首元に伝わる彼女の体温と、いつも愛用しているシャンプーの甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
「サンキュ、あかね」
「ううん。……でも、ハルトくんも今日はお仕事なんだよね? こんなに朝早くからスーツ着て出かけるなんて、珍しいじゃない」
あかねは少し首をかしげ、不思議そうにハルトの顔を見上げた。
今日この後、自分が向かう場所とあかねの行き先がまったく同じ――舞台『東京ブレイド』のキックオフ会場であることは、もちろん伏せてある。あかね自身も守秘義務を守り、自分の行き先を隠している状態だからこそ、ハルトも心置きなく誤魔化すことができた。
「ああ、ちょっと大きめの企業案件の打ち合わせでね。今日は一日かかりそうだ。あかねも、今日は出かけるんだろ?」
「うん……私も、大事な仕事の顔合わせがあるから」
どこか探り合うような会話。ハルトは素知らぬ顔で微笑むと、あかねの額に軽くキスを落とした。
「それじゃ、行ってくる。お互い、頑張ろうな」
「うん! いってらっしゃい、ハルトくん」
手を振るあかねに見送られ、ハルトは送迎車の後部座席へと乗り込んだ。
助手席には、すでに乗り込んでいたマネージャーの宮川みやびが座っている。メガネの奥の冷ややかな瞳でバックミラー越しにハルトを見つめると、車が発進すると同時に、呆れ交じりの深いため息を吐き出した。
「ハルト。一言申し上げてよろしいかしら?」
「なんだい、みやびさん」
「今回の『東京ブレイド』の件、あかねさんに明かして、同じ車で一緒に行けばよかったのでは? なぜわざわざ別々に向かって、現地で鉢合わせるような真似をするのですか」
ハルトはシートに深く背を預け、車窓の外を流れる都会の風景を眺めながらニヤリと口角を上げた。車内にはエアコンの微かな送風音と、上質な革シートの匂いが満ちている。
「いや、だってさ。あかねが健気にも必死に守秘義務を守って、俺に内緒で稽古に行こうとしてるんだぞ? それを途中でバラしちゃ無粋だろ。それに……ギリギリまで隠してた方が、顔合わせの瞬間が面白くなりそうじゃね?」
「……あなたは時々、本当にくだらない稚気を出しますね」
みやびは手のひらを額に当て、本日二度目のため息をついた。
「いい大人なのですから、プライベートと仕事の悪ふざけは弁えなさい」
「ふっふっふ、いつも遊び心を忘れないことが一流クリエイターの心得だよ、みやびさん。サプライズ演出は基本中の基本さ」
ハルトのへらへとした返答に、みやびは「勝手になさい」と匙を投げ、手元のタブレット端末へ視線を戻したのだった。
☆ ★ ☆
都内某所、今回の舞台が公演される劇場内にある大型会議室で、『東京ブレイド』の全体キックオフが執り行われた。
今日が、全キャスト・スタッフが一堂に会する初めての本読みの日だ。
午後十二時三十分。
一般のキャスト入りに先立ち、ハルトとみやびは先行して会場入りを果たしていた。
大型会議室のドアを開けると、そこにはすでにスタッフ陣が集まり、慌ただしく準備を進めていた。中央には何十人もが着席できる巨大な楕円形の長机が配置され、それぞれの席には役名や役職が書かれたネームプレートが置かれている。
室内には機材の独特な匂いと、大仕掛けな舞台が始まる直前特有の重苦しい緊張感が充満していた。
音響監督や舞台監督、プロデューサーの雷田と挨拶を交わしたハルトは、【音楽・劇伴:ソレイユ/HARU】と書かれたネームプレートの前に着席し、ノートPCとスコアを広げた。音響の接続チェックや資料の最終確認を進めていく。
そして午後一時。
扉が次々と開かれ、演者陣が続々と稽古場へと到着し始めた。
劇団ララライの看板役者である姫川大輝をはじめ、鳴嶋メルト、鴨志田朔夜といった実力派や注目の若手俳優たちが挨拶を交わしながら入室してくる。
その中に、見知った顔の一集団があった。
黒川あかね、有馬かな、そして星野アクアの三人だ。
長机の周りを案内係の指示に従って移動していた三人は、何気なくスタッフ席側へと視線を向け――そこに、ビジネスカジュアルを完璧に着こなし、優雅に珈琲を飲んでいるハルトの姿を捉えた。
「「「あ……ッ!?」」」
三人の声が完全に見事にハモった。
あかねは目を限界まで丸くして絶句し、かなは開いた口が塞がらない様子で固まり、アクアに至っては二度見どころか三度見してハルトを凝視している。
ハルトは悪趣味な満足感で胸をいっぱいにしながら、ニッコリと極上の笑みを浮かべ、片手をひらひらと振ってみせた。ドッキリは大成功だ。
楽屋案内や指定席への誘導により、各自が席へとついていく。
楕円形の長机には、主演の姫川を中心にキャスト陣がズラリと並び、その対角や周囲を演出家、脚本家、プロデューサー、各セクションのスタッフが囲む形となった。
着席した段階では、まだ互いに「よろしくお願いします」と静かに頭を下げる程度で、室内にはピリピリとした緊迫感が漂っていた。
☆ ★ ☆
午後一時三十分。
プロデューサーの雷田が立ち上がり、パンパンと手を叩いて場を仕切った。
「えー、皆様! 本日はお忙しい中、舞台『東京ブレイド』の全体顔合わせおよび初日本読みに集まりいただき、誠にありがとうございます!」
雷田の挨拶を皮切りに、正式な『顔合わせ』がスタートした。
作品の立ち上げ意図、全五十公演におよぶ過酷な公演スケジュールの説明がなされ、続いて演出家の金田一敏郎と、脚本家のGOAからの挨拶へと移る。
「……今回の『東京ブレイド』は、単なるコミックの再現にとどまらず、舞台という生の空間だからこそ表現できる人間ドラマを追求したいと思っております」
GOAが緊張した面持ちで語り、配られた台本(第一稿)のコンセプトを説明していく。
ハルトは手元の台本に目を通しながら、GOAの言葉とト書きを照らし合わせ――ふと、違和感を覚えて眉をひそめた。
(……ん? なんだこれ)
ハルトの脳内で、原作コミックのストーリーと、この台本に書かれた展開が高速で比較・分析されていく。
台本に書かれているのは、舞台の
(展開をスムーズにするための改変……といえば聞こえはいいが、これじゃキャラクターの〝魂〟が死んでるぞ。登場人物の動機がブレてるせいで、感情の繋がりが滅茶苦茶だ……。言い回しだって鮫島アビ子節が抜けちまってる)
ハルトは以前、アニメ映画の楽曲制作を通じて原作者・鮫島アビ子の人間性や圧倒的なこだわり、そして作品への苛烈なまでの愛情を熟知していた。アビ子先生がこの脚本を見たら、一体どう思うか。間違いなく激怒し、大揉めになる未来が目に見えるようだった。
(……いや、待てよ。雷田さんや金田一さんが通してる以上、アビ子先生がすでに了承済みの可能性もなくはないのか……? ここで俺が余計な口を出して現場を混乱させるのも野暮か)
ハルトは胸の中に生じた危機感をぐっと押し殺し、ひとまず口を噤むことにした。
続いて、スタッフ紹介のセクションへと移る。
美術、照明、殺陣指導、衣装と順にスタッフが立ち上がって一礼していく。
「続きまして、本公演の劇伴・音楽監督を務めていただきます、ソレイユ先生……改め、HARUさんです!」
雷田に促され、ハルトはすっと立ち上がると、全体に向かって洗練された所作で一礼した。
「音楽を担当させていただきます、ソレイユことHARUです。演者の皆さんの熱量に負けない最高の音を作りますので、よろしくお願いします」
瞬間、キャスト席からどよめきが上がった。
「え、あのソレイユ!?」「HARUって、あのバズりまくってる配信者の!?」「劇伴ソレイユなの!?」と若手キャストたちが騒ぎ立てる中、ハルトの視線があかねと交錯した。
あかねは、ハルトのあまりの仕打ち――黙ってサプライズ参加したこと――に対する怒りと呆れで、両頬をプクーッ、プクーッと可愛らしく膨らませてハルトを睨みつけていた。ハルトはそんなあかねの反応に、心の中でくすくすと笑いを漏らした。
その後、キャスト陣の自己紹介が順に行われた。主演の姫川大輝を筆頭に、役名と一言意気込みを述べていく。あかねも、かなも、アクアも、それぞれの言葉で舞台への熱意を語り、緊張感はさらに高まっていった
午後二時三十分。顔合わせが一通り終了し、十五分間の短い休憩に入った。
ピリッとしていた会場の雰囲気が少し緩み、キャスト同士が「よろしくお願いします」と名刺代わりに挨拶を交わし始める。
キャスト席の端では、小さな人だかりができていた。
アクアが、あかねのロングヘアを直視しながら、どこか動揺した様子で声をかけている。
「あかね……お前、その髪……」
「え? あ、うん。シールエクステだよ。『鞘姫』の役作りのために、ちょっとイメチェンしてみたの」
「……似合ってはいるが、急に雰囲気が変わりすぎて驚いたぞ」
そこに、かなが噛みつくように割り込んできた。
「ちょっと黒川あかね! アンタなによその髪! 私への当てつけのつもり!? だいたい、そんなに長くして殺陣の邪魔にならないわけ!?」
「そんなことないよ、有馬さん。私は私なりの覚悟でこの髪型にしたの。殺陣だって、『鞘姫』は長い髪なんだからむしろ練習になるもの!」
バチバチと火花を散らすあかねとかなの間に、ハルトが缶コーヒーを手に、ひょっこりと顔を出した。
「やあやあ、皆さん。大作舞台の稽古、頑張ってね」
「ハルトくん!!」「ハルト!!」「日野!」
三人の視線が一斉にハルトへと突き刺さる。
あかねは腕を組み、形の良い眉を釣り上げて抗議の声をあげた。
「ちょっとハルトくん! なによこれ! ソレイユとして参加するなんて、一言も聞いてないんだけど!?」
「ハハハ、言ったら面白くないだろ? あかねが一生懸命内緒にしてるから、俺もサプライズ返しをしようと思ってさ」
「もう! 朝の気合の入った格好はこれのためだったのね!? ネクタイ直してあげた私の感動を返してよ!!」
「悪かったって。だけどさ、プロとしてはコンプライアンスは守らないとだろ?」
「ぐぬぬぬ……!」
ハルトがあっけらかんと笑うと、かなが目を吊り上げて食ってかかってきた。
「あんたねえ! HARUとしてもソレイユとしても有名人だからって調子乗ってんじゃないわよ! こっちは真剣なの!」
「はいはい、有馬も相変わらず元気で何より。劇伴は任せておけって。お前の見せ場、最高の曲で盛り上げてやるからさ」
ハルトの余裕たっぷりな態度に、かなは「なっ……! 生意気……!」と顔を真っ赤にしている。
元々、ハルトはあかねと再会した中学時代から劇団ララライに出入りしていた経緯もあり、看板役者の姫川や劇団員たちとは顔見知りであった。
様子を見に来たララライの女性団員――化野めいや吉富こゆきらが、クスクスと笑いながら会話に入ってくる。
「あらあら、ハルトくん。相変わらずあかねちゃんを甘やかしたり意悪したり、忙しいわねぇ」
「本当ですよ〜。あかねさんの旦那さん、今日も仲良しで羨ましい限りです」
「だ、旦那さんって……! 違います、まだ結婚なんてしてません……!」
「旦那さん」というワードに、あかねは一瞬で顔を真っ赤にして照れ惑い、かなは「リア充爆発しろ!」と不機嫌そうに毒を吐き、アクアはただただ頭を抱えていた。ハルトの介入によって、重苦しかった稽古場の空気は一気に和やかな――あるいは騒がしい――ものへと変化していった。
☆ ★ ☆
午後二時四十五分。
休憩が明け、いよいよ第一回『
演出家の金田一の主導のもと、全キャストが座ったまま台本を開く。
「では、第1幕第1場から。ト書きも含めて読み進めてください」
金田一の合図とともに、空気は一瞬にして一変した。
主演の姫川大輝が第一声を放った瞬間、会議室内の温度が数度上がったかのような錯覚を覚える。プロの役者たちが放つ圧倒的な声量、立ち位置の探り合い、セリフの裏に隠された感情の応酬。
さきほどまでの和やかな雰囲気は霧散し、稽古場は一転して「バチバチの演技合戦」の戦場と化した。
ハルトは自身のデスクでノートPCを開き、キーボードを叩きながら役者たちの芝居に耳を澄ませていた。
(姫川さんの声の通り方は流石だな。低音の伸びがいい。メルトは……まだ声が固いが、必死さは伝わる。有馬の感情の乗せ方は相変わらず天才的だ。アクアは、うーん……要稽古、と)
役者それぞれの声質、滑舌、感情が高ぶった際の
しかし、本読みが進むにつれて、ハルトのブラインドタッチをする指が次第に重くなっていった。
原因は、あかねが演じる『鞘姫』のパートだった。
「……っ、刀鬼……私は、あなたと共に……」
あかねの声が、明らかに浮いている。
彼女の真骨頂である精密なプロファイリングによる完璧な役の憑依が、全く機能していないのだ。あかねの発する声には迷いがあり、セリフに感情の芯が通っていない。
原因は明白だった。あかねが事前に入念な原作分析によって構築した『鞘姫』の深みのある人間性と、このGOAの書き上げた脚本におけるわかりやすいヒロインとしての『鞘姫』の造形が、あまりにも大きく乖離しているのだ。
あかねは自身の中で組み上げた完璧なプロファイリングと、目の前の台本の支離滅裂なセリフとの間で板挟みになり、どう演じれば正解なのかを見失い、パニックを起こしかけていた。
(……やっぱりな。あかねのプロファイリング能力は、原作や役の整合性があってこそ真価を発揮する。支離滅裂な改変脚本じゃ、整合性の辻褄が合わせられなくてパニックになるのは当然だ。……あかねの意外な弱点だが、これはあかねのせいじゃない)
ハルトはあかねの硬直した横顔を見つめながら、深く納得すると同時に、心の中で冷や汗をかいていた。
(役者の演技がどうこう以前の問題だ。この脚本の歪み……このまま立ち稽古に入ったら、あかねだけじゃない、全体が崩壊するぞ。ましてや、あの原作者のアビ子先生がこの本を黙って受け入れるはずがない……。どうしたGOA、アンタの脚本はこんなもんじゃないはずだろ?)
稽古場に立ち込める暗雲と、遠くで聞こえる大きなトラブルの足音に、ハルトはさらなる危機感を募らせるのだった。
☆ ★ ☆
午後五時。
初日の本読みが一通り終了し、演出の金田一による総括が行われた。
「よし、本日はここまでとする。それぞれの役の課題、声の出し方、掛け合いの
緊張の糸が切れ、キャスト陣から「ありがとうございました!」と疲れの混じった挨拶が響く。
午後五時三十分。
撤収作業が始まり、初日終了を記念して、スタッフと一部キャストによる決起集会として軽めの食事会が近くの居酒屋で開催されることとなった。
会場となった居酒屋の座敷では、ビールやソフトドリンクが注がれたグラスが交わされ、賑やかな歓声が上がっていた。
ハルトは、ララライのベテラン勢に囲まれて少し縮こまっていた外部参加組――アクア、かな、そしてメルトたちの席へと自然な動作で割り込み、彼らに気を使って輪を広げていった。
「メルト、本読みお疲れ。殺陣の稽古、明日からハードになるらしいから肉食っておけよ」
「あ、HARUさん……ありがとうございます。すんません、俺、本読みで全然声出てなくて……」
「最初はそんなもんだろ。これから擦り合わせていけばいいさ。あと、俺のことはハルトって呼び捨てでいい。んで、有馬も、相変わらずいい声出てたぞ」
「ふんっ、当たり前でしょ! あんたこそ、私のかっこいい見せ場にヘボい曲つけたら許さないからね!」
ハルトの気さくなトークとフォローによって、気まずそうにしていた外部組も次第に笑顔を見せ始め、座敷の空気は和やかに温まっていった。
――が。
ハルトがふと斜め向かいの席に視線をやると。
そこには、ララライの女性陣に囲まれながら、ウーロン茶のグラスを両手で握りしめ、ハルトをじーーーーっと、恨めし気に見つめるあかねの姿があった。
ハルトが自分を置いて外部組のケアに奔走し、なおかつ昼間の〝サプライズ事件〟の仕返しもできていないため、あかねはお冠状態であった。両頬をほんのり赤くし――お酒は飲んでいないが怒りで――、猫のように目を細めてハルトを威嚇している。
(……やっべぇな。あかね、完全にすねてる)
ハルトは苦笑いを浮かべながら、あかねに向かって密かに「あとで美味しいスイーツ奢るから」とジェスチャーを送った。
あかねは「フンッ」と鼻を鳴らして視線を逸らしたが、その唇の端が微かに緩んだのを、ハルトは見逃さなかった。
和気藹々と進む決起集会。
だが、この穏やかな時間の裏で、舞台『東京ブレイド』を揺るがす巨大な嵐が刻一刻と近づいていることを、ハルトは静かに予感していた。
1話の文字数はどのくらいがいい?自分は5000文字を目安にしています
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3000文字〜5000文字
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5000文字〜10000文字
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