騒がしくも無事に終了した決起会から帰宅し、夜の静けさが自宅を包み込んでいた。
部屋の中には、バスソルトの残り香と、ほのかに甘いアロマの香りが漂っている。
「ん~~、おいしいっ」
風呂上がり、髪から微かに湯気を立たせたあかねが、パジャマ姿でリビングのソファーに腰掛け、幸せそうに頬をゆるめていた。手元にあるのは、ハルトが昼間の〝サプライズ事件〟のお詫びとして買って帰った、都内有名店の高級ショートケーキだ。甘生クリームの滑らかな口溶けとイチゴの酸味が、一日緊張しっぱなしだった彼女の身体と心を優しく解きほぐしていく。
その背後に立ち、静かにドライヤーの温風を当てているのが、ゆったりとした部屋着に着替えたハルトだった。
先月あかねが付けたシールエクステは、繊細な手入れを必要とする。雑に乾かしたり結び目を放置したりすれば、エクステが傷むだけでなく、彼女の美しい地毛や地肌にも多大なダメージを与えてしまう。ハルトは大きな手で彼女の艶やかな長い髪を優しく掬い上げ、指先で根元の引っかかりを確かめながら、丁寧に温風を届けていた。
ブォーンというドライヤーの心地よい駆動音が部屋に響く中、ハルトは丁寧に
「ところでさ……あかね。本読みの時、かなり苦戦してただろ」
あかねの手が、一瞬ピタリと止まった。
ショートケーキを口に運んでいたフォークを小さくお皿に置き、あかねは申し訳なさそうに視線を落とした。
「……やっぱり、ハルトくんにはバレちゃってたか。……うん。恥ずかしいんだけど、すごく戸惑っちゃって。私の中でプロファイリングして組み立てた『鞘姫』様と、今日渡された脚本の中の『鞘姫』が……違いすぎたの」
「まあ、そうだろうな。あかね、『東ブレ』を読み込みすぎて、今や『鞘姫』が一番の推しになっちまったくらいだもんな。そうなると余計、あの脚本の解釈は受け入れられないよな」
ハルトが苦笑交じりに同意すると、あかねは待ってましたとばかりにパッとハルトの方へ振り返った。梳かされていた髪がふわリと揺れる。
「そうなのっ! 『鞘姫』様はあんな事言わないし、あんな行動もしないもん! 原作の『鞘姫』様は、もっと自分の信念に誇りを持っていて、不器用だけど深い慈愛を持っているキャラクターなの! なのにあの台本じゃ、ただの使い勝手のいい典型的なヒロインに落とし込まれちゃってて……!」
熱弁を振るうあかねの頭を、ハルトは「はいはい、動くとクシが引っかかるぞ」と優しく撫でて元の姿勢に戻させた。
「『東京ブレイド』ってさ、普通のバトルマンガよりもセリフがかなり重厚で古風だろ。『〜などと……!』とか『〜なのだろう?』みたいな、独特の長くて文学的なセリフ回し。あのアビ子先生特有のセンスと熱量、言葉の重みが今回の脚本だと殺されちまってる。セリフ選びが現代寄りになり過ぎなんだよな」
「うん……本当にそうなの」
「……まあ、2.5次元舞台っていう限られた時間内にテンポよく収めるために、設定を単純化してストーリーの骨組みを分かりやすく整理した、舞台向けの変更だってのは理解できるけどな。脚本家のGOAさんの仕事としては、定石通りで筋は通ってる」
ハルトは一旦GOAの立場に理解を示しつつも、表情を曇らせて声を低くした。
「だがな……もしこれが、アビ子先生が了承してない改変なら……この舞台、おそらくめちゃくちゃ荒れるぞ」
「そ、そんなに……?」
あかねが鏡越しに不安そうな目を向けてくる。
「そんなに、だよ。漫画家・鮫島アビ子は、クリエイターとしての我が猛烈に強い、生粋のアーティストだ。自分の子供と言える作品に勝手に泥を塗られたら、迷わずブチギレるタイプだ」
「ハルトくん、アビ子先生と直接お仕事したことあるんだよね……?」
「ああ。俺がテーマソングを書いた劇場版アニメの時にな。あの映画ってさ、その前に作られたTVアニメのアニオリ展開がアビ子先生的にどうしても許せなくて、『今度は自分が総監督に入って全部監修する!』って息巻いて企画されたものなんだぜ。安直なアニオリ展開にもキレるし、何なら楽曲のコード進行や楽器の選定にまで細かく口を出してくる。自分の世界観を守るためなら、相手が誰であろうと一切妥協しない人なんだ」
かつて作曲家『ソレイユ』として鮫島アビ子と激しい議論――という名の詰問――を交わした経験を持つハルト。その言葉の重みに、あかねは悲惨な現場の未来図を想像したのか、「うわぁ……」と顔を引きつらせて絶句した。
「……あのね、話は変わるんだけど」
あかねはケーキの最後の一口をパクリと食べ終えると、ふと思い立ったように、少し探るような視線をハルトに向けた。
「もし……もしもハルトくんが今回みたいに、原作と脚本に大きな違いのあるお芝居をすることになったら、どうするの?」
「ん? 原作を踏まえた自分の演技プランと、渡された脚本の指示に決定的な齟齬がある場合ってことか?」
「うん」
ハルトはクシを動かす手を緩めることなく、即答した。
「俺なら、自分の演技プランはきっぱり捨てて、脚本の解釈に一点賭けだな」
「ええっ!? そうなの!?」
あかねは意外そうに目を丸くした。
「ちょっと意外かも……。ハルトくんなら『俺様のカンペキなプランがぜったいだ!』って言って、自分の解釈を押し通すと思ってたのに」
「お前は俺をなんだと思ってるんだ……」
ハルトは呆れ顔で頭を抱えると、あかねの長い髪を優しく手繰り寄せ、用意していた可愛いシュシュで手際よく一つに纏めた。
「いいか、あかね。芝居ってのは自分一人の演技だけで完成するもんじゃない。周りを無視して自分勝手な演技をしたところで、共演者やスタッフが困惑するだけだ。今回みたいに、脚本には脚本家なりの意図があるし、演出家だったり監督にだって表現したい狙いがある。それがプロフェッショナルである彼らの表現の結果であり、作品に対する責任なんだよ。俺はクリエイターとして、他人のその創造性を無闇に否定したくはない」
「ハルトくん……」
「だからそれらを一度すべて汲み取って、時にはディスカッションして問題点は修正し、その上で俺は提示された枠組みの中で最高の、100%のパフォーマンスをするって決めてるんだ」
ハルトの筋の通ったプロ意識に触れ、あかねは深く感銘を受けたように胸を押さえた。そして、少し迷うような声で呟く。
「……私も、やっぱりそうしたほうがいいのかな。自分のプロファイリングを捨てて、脚本に従うべき……?」
「いや」
ハルトにあかねの肩をポンと優しく叩き、力強い目で見つめ返した。
「お前はお前の、役者『黒川あかね』のスタイルを貫け。俺は全体を俯瞰するクリエイターとして、お前は役に没入するアクターとして、それぞれの戦い方があるってことだ。無理に俺の真似をする必要はないよ」
「……うん! ありがとう、ハルトくん!」
あかねは憑き物が落ちたような爽やかな笑顔を見せ、ハルトにぎゅっと抱きついて甘えるのだった。
☆ ★ ☆
数日後。都内の稽古場。
舞台『東京ブレイド』の立ち稽古と殺陣稽古は、表面上は順調に進んでいた。順調に進んでしまっていた。
フロアには木刀が風を切る鋭い音や、役者たちの荒い息遣いが響き渡っている。
相変わらず、あかねは『鞘姫』の演技に苦慮していた。だが、自宅でハルトから受け取ったアドバイスを踏まえ、彼女なりに必死の模索を続けている。自分が構築した理想の『鞘姫』像を一端横に置き、渡された脚本から読み取れる新しい『鞘姫』像を解釈し、何とかそれを改めて自身のプロファイリングした『鞘姫』の〝憑依型演技〟へと落とし込もうと汗を流していた。
幸いだったのは、あかねの演技に対するモチベーション自体が、過去最高と言えるほど高いことだ。裏方とはいえ、大好きな恋人であるハルトと同じ現場で刺激を受け合いながら仕事ができているという状況が、彼女のメンタルに絶大な良い影響を与えていた。
一方――稽古場の隅に置かれた折りたたみデスク。
開くだけ開かれたノートPCの前で、ハルトの作業の手は完全に止まっていた。
(どーすっかなぁ……)
ハルトは腕を組み、天井を見上げて深く溜息をついた。
このまま静観して稽古が進んだところで、遠くない未来にロクな結果にならないことは目に見えている。だが、ハルトは舞台演劇の世界においては、あくまで劇伴を担当する外部の音楽家であり、舞台演劇の素人・若造に過ぎない。
演出や脚本にでしゃばって口を出せば、現場のチームワークを乱し、無用な軋轢を生むだけだ。ましてや自分は原作者である鮫島アビ子とも直接のパイプがある立場。下手に動けば原作者の威を借りて現場を荒らす嫌な奴になりかねなかった。
大鉈を振るうのは簡単だが、現場のチームの調和こそが最高の作品を生むと信じるハルトにとって、軽率な行動は固く慎むべきことだった。だからこそ、二の足を踏んでいたのだ。
「日野」
考え込んでいたハルトのもとに、足音が近づいてきた。
顔を上げると、そこにはアクア、有馬かな、そして鳴嶋メルトの三人が、ぞろぞろと連れ立って立っていた。
「おっ、『今日あま』組じゃん。揃ってどうした?」
ハルトが軽口を叩くと、三人の表情が同時に歪んだ。
「俺は一話しか出ていないんだが」
アクアが心底不本意そうに顔をしかめる。
「ぐっ……!」
メルトは過去の
「ちょっと! その最悪な呼び方はやめなさいよ!」
かなが忌々しい思い出を振り払うように顔を顰めて抗議する。
「てか、なんであんた『今日あま』のこと知ってるのよ!」
「ネットで話題になってたじゃん、悪い意味で」
「大炎上して悪かったわね!!」
「有馬、本題はそれじゃないだろ」
ヒートアップしてハルトに詰め寄ろうとするかなを、アクアが手で制した。かなは「あっ……ごめん」と小さく毒気を抜かれて下がる。
かつてドラマ『今日はあまくちで』での拙い原作改変と大炎上、そして現場の惨状を経験しているこの三人だからこそ、今回の『東京ブレイド』の稽古場に漂う異様な違和感に、誰よりも敏感に反応していたのだ。
アクアがハルトの前に一歩踏み出し、鋭い眼差しで問いかけてきた。
「日野、お前……今回の脚本をどう見てる?」
代表して尋ねてきたアクアの問いに、ハルトはデスクの上の台本を手にとり、パラパラとページをめくった。
「ん? そうだな……2.5次元舞台の脚本としては、かなり上出来だと思うぜ? 尺の収め方もテンポもいい。さすが、売れっ子脚本家GOAさんの書いたホンだよ」
まずは純粋に、舞台脚本としての完成度を客観的に評価する。
三人は「えっ……?」と怪訝な表情を浮かべた。そんな三人の反応を見越し、ハルトは台本をパシッと手で叩いてみせた。
「だが――お前らが聞きたいのは、そういうことじゃないんだろ?」
ハルトはトーンを落とし、冷徹なまでのプロの眼差しで三人を見つめた。
「『東京ブレイド』の舞台として見たとき、この脚本は落第点だ。少なくとも、原作者の鮫島アビ子は絶対にそう判断する。我の強いアビ子先生のことだ……こんなの私のマンガじゃない、全部変えろってキレるだろうな」
ハルトの断言に、三人の顔色がガラリと変わった。
「ぜ、全部……!?」
かなが絶句し、メルトが息をのむ。
「全部だぞ、全部。もちろん、お前ら役者を変えろとは言わんだろうが……少なくとも、脚本家を降板させないと納得しないレベルまで拗れる可能性がある」
「……それで、お前はどうするんだ」
アクアがハルトを注視しながら詰問する。
「まさか、この惨状を黙って見てるわけじゃないよな?」
「まあ、な。……だが、まだアビ子先生がこの改変を事前に承認してる可能性もゼロじゃない。だからまずは、プロデューサーの雷田さんに裏を取るつもりだ」
「ちなみに」
それまで黙っていたメルトが、不安そうに手を挙げた。
「その『アビ子先生が承認してる可能性』って、ハルトから見て何パーくらい……?」
「いいとこ1パー」
「ゼロじゃん!!?」
メルトが思わず大声でツッコミを入れた。ハルトは肩をすくめる。
「ゼロじゃないぞ。99%あり得ないが、1%の奇跡がなくもないってことだ」
容赦ない見解を聞かされ、三人はいよいよ顔を青ざめさせた。現場が崩壊する未来が、現実味を帯びて目の前に突きつけられたからだ。
「で、雷田さんから子細を聞いて、もし承認が抜けてるならさっき言ったような懸念を伝える。その上で、アビ子先生に一度稽古場の見学に来てもらえないか打診するつもりだ。例えば現場の頭越しに直接アビ子先生に台本を送ったりしたら、それこそ制作ラインが激変して泥沼化するからな。それに、お前らの真剣な演技を実際に見てもらえば、アビ子先生も納得して歩み寄る可能性だってあるだろ?」
ハルトは遠くで汗を流しながら必死に『鞘姫』と向き合っているあかねに視線を向け、優しく目を細めた。
「……それなら、お前が直接鮫島アビ子に掛け合って、事態を動かせばいいんじゃないか?」
アクアがハルトとアビ子のパイプを見抜き、鋭く指摘してきた。
ハルトは途端に嫌そうな顔をして眉間を寄せた。
「そんな横紙破りな真似ができるかよ。つーか、そんなことしたらGOAさんのキャリアや立場に致命的な傷がつくだろ。……俺はなんとか角を立てず、全員が納得できる形で軟着陸できないか考えてるんだが、どうにもな……」
その慎重すぎる姿勢に、アクアたちはなおも納得いかないような、焦りの混ざった視線を向けてくる。ハルトは彼らが「脚本家GOA」の実力そのものを疑い始めていることを察したが、軽率に個人を批判することはしなかった。
「まあ、今からでも雷田さんに話を聞いてみるよ。……お前らも、これからひと波乱起きることだけは覚悟しとけよ」
ハルトはそう言い残すと、PCを閉じてゆっくりと立ち上がるのだった。
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