静まり返っていた稽古場に、乾いた衝撃音が激しく響きわたった。
ハルトがパイプ椅子を勢いよく蹴倒すようにして、突然立ち上がったのだ。
「ひゃあっ……!」
そのすぐ傍らで、ハラハラしながら事の成り行きを見守っていたあかねが、思わず肩を跳ねさせて小さく悲鳴を上げる。
ハルトは荒い息を吐きながら、ズンズンと床を鳴らして雷田たち制作陣の待つ中央テーブルへと進み出た。普段の穏やかな笑みは完全に消え失せ、かつて子役時代に見せていたような鋭く険しい眼差しで、ビジネス相手や目上の人間に対する最低限の敬語すら忘れて詰め寄る。
「これ、どういうことスか雷田さん……!?」
周囲のキャストやスタッフたちは事態の急転直下に息を飲み、固唾をのんでその光景を見守っている。ハルトの圧倒的な剣幕に気圧され、プロデューサーである雷田は汗を拭いながらタジタジと後ずさった。
「い、いやぁ……『ソレイユ』先生、それがですね……」
「私から説明します」
しどろもどろになる雷田の横から、スッと前に出たのは原作者の鮫島アビ子だった。
アビ子は大きなメガネの奥の瞳に星々のきらめきをギラリと輝かせ、ハルトの正面に立つ。
「日野さん、お久しぶりです」
「ええ……お久しぶりですね、本当に」
ハルトは額に青筋を浮かべながら、低く重い声で応じた。アビ子は悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに胸を張る。
「ご存知だと思いますが、この『波旬』は、日野さんとご一緒した劇場アニメ『天魔覆滅編』のオリジナルキャラクターで、作品における絶対的なラスボスでした」
「……
「はい。『波旬』という役は、日野さん以外に演じてほしくありません。『波旬』は圧倒的かつ絶対的な存在であり、悪のカリスマであり、最後には『ブレイド』たちの愛によって倒されるスーパーヴィランなんです。私の描いた存在感をリアルな舞台上で体現できるのは、世界で日野さんしかいません」
アビ子の熱烈なクリエイターエゴに満ちた熱弁を聞き、ハルトは「この人に言っても絶対に無駄だ」と瞬時に悟った。
諦めて隣に立つ脚本家のGOAに助けを求めるように鋭い視線を向けたが、GOAは額に冷や汗をかきながら気まずそうに目を逸らした。ハルトは次に、演出家の金田一へと向き直る。
「金田一さん、アンタまでいいんすか、こんな暴走認めて!?」
「……正直、鮫島先生から最初にこの提案をされた時には私も困惑したよ」
金田一は腕を組み、深みのある笑みを浮かべた。
「だが……かつて一時代を築いた〝天才子役・日野ハルト〟を、この手で演出できると考えたら、な。君が劇団ララライやウチの現場に出入りするたび、私の脳裏にずっと過っていたことなんだよ」
「私、日野さんの子役時代の超大ファンでもあるんですよ」
アビ子が嬉々として言葉を挟む。
「『モルモのやくそく』とか『ひまわりの日』とか、子供の頃に観て大泣きしてました!」
(聞いてねーよ……!)と内心で激しいツッコミを入れつつ、ハルトは再びGOAへと厳しい視線を戻した。
「GOAさんも同意見なんすか?」
「まあ……ね。僕も金田一さんと同じ気持ちだよ。自分が苦心して書いた脚本を、あの〝日野ハルト〟が演じるなんて考えたら、クリエイター冥利に尽きる。アビ子先生からこの構想を聞かされた時は、正直、脳裏に雷が落ちたかと思うくらいゾクゾクしたよ」
「くっ……!」
制作陣の誰一人として味方がいない状況に、ハルトは最後に雷田へと諦め混じりの水を向けた。
「……雷田さんも、これで納得してるんですか?」
開き直ったらしい雷田は、手揉みをしながらニヤリと下種な笑みを浮かべた。
「あの大人気YouTuber『HARU』が『ソレイユ』として劇伴を担当し、さらに伝説の俳優『日野ハルト』としても復帰するなんてことになったら……どれだけ世間の話題をさらってチケットが飛ぶように売れるか。プロデューサーとして、これを断る選択肢はありませんよ」
バシッ、と自分の額を強く叩くようにして、ハルトは頭を抱え込んだ。
絶望的な状況の中、ハルトは最後の望みをかけてポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップした。スピーカーから呼び出し音が数回鳴り、通話が繋がる。
『あらハルト、どうしました?』
電話の相手は、自身の所属事務所のマネージャーであり、長年自分を支えてきた宮川みやびだった。
「みやびさん! 今、舞台の現場なんですけど……!」
『ああ、あなたが出演するというお話ですね。先だって雷田プロデューサーから連絡を受け、喜んでお受けしましたわ。契約面やギャランティについてもご安心なさい』
「はあっ!!?」
ハルトは思わず素の絶叫を上げた。すでに根回しは済んでいたのだ。
「な、なんで俺に黙ってんのさ!?」
『サプライズです、ハルト。いつも遊び心を忘れないことが一流クリエイターの心得、なのでしょう?』
「ぐぅっ!?」
非難がましく言い募ってみても、何時ぞやの自分のセリフが襲いかかる。文字通り、ハルトはぐうの音も出なかった。
『ハルト、私は何度も言っていますね? あなたの才能を無為にしておくのは、我が社にとっても、このエンタメ界にとっても大きな損失です、と。……私はあなたの芝居をまた見たいのです。……いちファンとしてね』
「みやびさんまで……! ちょっと、待っ――」
ピッ、と無情にも通話が切られた。
手の中のスマホを見つめ、静まり返った稽古場の全員からの視線を浴びたハルトは、ついに大きな溜息とともに腹を括った。頭をガシガシと掻きむしり、大声で叫ぶ。
「あー、もう! わかった! わかりましたよ! 受ければいいんでしょ! もうどうなっても知りませんからね!!」
☆ ★ ☆
一騒動が落ち着き、稽古場には新しい台本が配られ、改めて本読みが執り行われることとなった。
アビ子とGOAが共同で書き上げたこの新脚本は、旧版の殺陣の構成や一部の演出を上手く流用してはいるものの、ストーリーの筋書き自体はほぼ完全に刷新されていた。何より、劇的な展開を二時間の枠に収めるため、役者側の圧倒的な表現力と演技力に依存した『無茶振り』とも言える高難度の要求が各所に散りばめられている。特に、
「ふふっ……面白いじゃないの」
パイプ椅子に腰掛けた有馬かなは、刷り立ての台本を指で叩きながら、メラメラと不敵な戦意を燃やしていた。しかし、同時にハルトが役者として同じ舞台に立つことに対しては、あからさまに不機嫌そうな素振りを見せている。
その様子に気づいたアクアが、隣から低声で尋ねた。
「有馬、なんだその顔は。日野が出演することに何か不満でもあるのか」
「不満っていうか……嫌なのよ。あいつと同じ舞台に立つなんて」
かなは顔を顰め、吐き捨てるように呟いた。
「あいつの演技を直接見れば……アンタにもわかるわよ」
アクアは怪訝そうに眉をひそめたが、かなはそれ以上何も語ろうとはしなかった。
今回の新脚本の筋書きは、こうだ。
全てを集めた者に絶対的な支配者の力を与えるとされた二十一本の刀剣――〝盟刀〟。そのすべての試作品、あるいは
古来より続く〝盟刀〟を巡る血生臭い殺生と、人間同士の愚かな戦に心底呆れ果た『波旬』は、「人の持つ心、特に愛憎こそが永遠の争いを呼ぶ源悪である」と断罪。『他化自在天』の能力により剣士を『隷属』状態にして自らの支配下に置いて手駒とし、二十一の刀剣を手中に収め、最終的にはその力によって全世界の人々の心を『隷属させて偽りの絶対的安寧をもたらすことを目的として、主人公『ブレイド』たちと激しく対立するのだった。
圧倒的な力を持つ『波旬』は、最終的に『ブレイド』や『つるぎ』、そして『刀鬼』と『鞘姫』らが紡ぎ出す〝人の心の温かさと愛〟によって敗北を迎える。
これは劇場版アニメ『天魔覆滅編』のストーリーラインをそのまま舞台演劇へと落とし込んだものであり、『渋谷抗争編』の渦中に異次元の存在として『波旬』が乱入してくることで、物語が一気に舞台オリジナルの壮大な展開へとシフトしていく意欲的な構成となっていた。
円状に配置されたパイプ椅子のうち、一席に腰を下ろすハルト。
肩の力を抜き、身体こそ気負いや緊張もなくリラックスしていたが、約十年ぶりとなる役者として演技の現場に立つ感覚に、胸の奥で不思議な高揚感が渦巻いているのを自覚していた。
すぐ隣の席にはあかねが座っており、明らかに浮かれた様子で、目をキラキラと輝かせながらハルトへと視線を向けている。
あかねにとって、かつて憧れであり、今は愛する恋人となったハルトと同じ舞台上で共演するというシチュエーションは、役者として一度は夢見ながらも、彼が役者を辞め、配信者、あるいは裏方に転向したことで諦めていた奇跡のような出来事だった。
だが、あかねや有馬かなといった子役時代の日野ハルトの恐ろしさを身をもって知る者以外の人間――アクアやメルト、そして若手の役者たちは、ハルトの演技力を内心でどこか侮っていた。
彼らにとってハルトは、〝大物YouTuber〟〝有名クリエイター〟〝人気の音楽家〟であり、演技に関しては原作者の強いワガママとゴリ押しでねじ込まれた
本読みの最初のシーン。
それは、単独行動をとっていた『鞘姫』が異形の威容を誇る『波旬』と遭遇し、圧倒的な力の差の前に敗北して『波旬』に心を奪われ、『隷属』せしめられる場面だった。
この後、『鞘姫』は『波旬』の忠実な配下として、敵幹部でありながら救出対象でもある
劇場版の展開を限られた舞台上に収めるため――そして原作者アビ子の個人的な趣味と、ハルトとの関係性から選ばれた配役でもあった――、
制作陣の雷田、金田一、GOA、そしてアビ子らスタッフ陣が見守り、重苦しい静寂が室内を包む中、ついに本読みが始まった。
「……刀鬼。どうして、解かってくれないの……」
原作にも存在する、『刀鬼』との決定的な意見の相違により、胸を痛めてメランコリックな心境に沈む『鞘姫』のセリフ。あかねが繊細な声で演じ切る。
それに続き、ハルトは膝の上に置いた台本に目を落としたまま、気負うことなく、ごく自然体で『波旬』としての最初のセリフを口にした。
「――物憂げなようだね、君」
次の瞬間。
稽古場の空気が、物理的な重みを伴って一変した。
たった一言。
ただの言葉の発音ではない。その一声が空気の振動となって伝わった瞬間、ハルトの――いや、『波旬』という超常の存在が発する異様なまでの重力とプレッシャーが、部屋全体を完全に支配したのだ。
氷のように冷たく、けれど聴く者の魂を狂わせるような美しさと艶を孕んだ『波旬』の声。
台本を持っているだけのはずのハルトの立ち姿から、絶大なカリスマと底知れぬ狂気が滲み出ていた。完璧に役に憑依し、空間そのものを塗り替えてしまったハルトの演技に、先ほどまで彼を素人と高を括っていた共演者たちは、喉を詰まらせて息を止めた。侮りは一瞬にして砕かれ、背筋に冷や汗が吹き出す。
そしてアビ子や金田一ら作家陣は、脳裏に描いていた理想を遥かに超えるその完成度の高さに、鳥肌を立てて全身の肌を粟立たせた。
「な、何者です……っ!?」
『鞘姫』の誰何。
ハルトは、返答するあかねの声のトーンに一瞬だけ微かな違和感を覚えた。浮かれ気分が残っているのか、あるいは自分のプレッシャーに引きずられたのか――だが、ハルトは思考を遮断し、『波旬』として冷徹にセリフを紡ぐ。
「『渋谷クラスタ』の『鞘姫』だね」
「何者だと……聞いているのです!」
「そう
「なっ……!?」
振るった剣戟を容易く止められて驚愕する『鞘姫』の声。『波旬』の慇懃無礼で高圧的な言葉遣いは、聞く者の尊厳を容易く踏みにじるような冷酷な響きを孕んでいた。ハルトはゆっくりと顔を上げ、あかねの瞳を、いや『鞘姫』の魂を真っ直ぐに見つめ据える。
「私は『波旬』……愚かなる君たち人間に、真の安寧を与えるものだよ」
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