それは、傾いた太陽が世界のすべてをどろりとした残虐なまでの赤に染め上げる、放課後の教室での出来事だった。
長い影が伸びる室内は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。ただ机と椅子を数脚、壁際へと乱雑に並べ替えただけの、人気のないがらんとした空間。窓ガラスがオレンジ色の光を浴びて鈍く光り、空気中に漂う微細な埃が、まるで光の粒のようにきらきらと踊っていた。
「――どうして、あなたなの」
空間の静寂を切り裂いたのは、絞り出すような少女の、悲痛な叫びだった。
劇団ララライの若き至宝、黒川あかねは、目の前に立つ男の指定ブレザーの胸元を、その細い指先で引きちぎらんばかりの力で強く掴み、縋り付いていた。彼女の指先は小刻みに震え、制服の生地に深い皺を刻みつけている。
「どうしてあなたは、私の〝叔父様〟なの……? 奥さんも、お子さんもいる、お父様の弟なの……!? こんなの、間違ってる。絶対に狂ってる……。でも、もう私、神様にお仕置きされてもいい。あなたがいない世界なんて、息の仕方も忘れちゃう……っ」
それは大人の泥沼の愛憎劇。身を焦がすような背徳の恋に溺れ、社会の倫理からもぎ取られようとしている純潔な少女の、魂の咆哮だった。
あかねの大きな瞳からは、大粒の涙が次から次へと溢れ出し、夕日を吸ってキラキラと輝きながら、彼女の美しい白皙の頬をポロポロと零れ落ちていく。視線は狂おしいほどの熱を帯び、男の存在すべてを求めて彷徨っていた。
対する男――日野ハルトは、そんな彼女の激情を真っ向から受け止めながら、あかねの青みがかった美しい髪に、大きな指をゆっくりと滑らせるように絡めた。そして、拒絶を許さない確かな力調子で、彼女の顔を上向かせる。
その瞬間、あかねの心臓が不自然なほどドクンと跳ね上がった。
見上げる山吹色の瞳は、昼間、廊下でから揚げ定食について語っていた、あののんきな男子高校生のものとは根底から異なっていた。
人生のあらゆる苦渋を舐め尽くし、絶望を知った者にしか宿らない、底知れない〝大人の男〟の哀愁。愛してはいけない、決して手を出してはならない実の兄の娘を前にして、狂おしいほどの情念と、すべてを道連れにして破滅させてしまいそうな暗い加虐的な愛が、彼のひまわり色の瞳の奥で、ドロドロと妖しく疼いていた。
「……悪い子だね、あかね」
ハルトの低く、かすれた声音が、密閉された教室の乾いた空気をビリビリと震わせる。
耳元で囁かれたそのあまりにもリアルな声音の響きに、あかねの背筋を、ゾクゾクとした熱く、暴力的なまでの戦慄が駆け抜けた。鳥肌が立ち、身体の芯が強烈に痺れる。
「兄さんに知られたら、俺たち二人ともタダじゃ済まない。お前を、真っ逆さまに地獄に連れていくことになるんだぞ。……それでも、本当にいいんだな?」
ハルトの武骨な親指の腹が、あかねの濡れた目元をやさしく、しかし有無を言わせぬ強引さでゆっくりと拭う。
その皮膚から伝わってくる指先の圧倒的な熱。向けられる、あまりにも濃厚で、本物としか思えない〝男〟としての凄まじい色気。
(あ……ダメ、これ……っ!)
役としての次の一言が、あかねの喉の奥でピタリと凍りついた。
ハルトの端正な顔が、じりじりと、容赦なく近づいてくる。形の良い唇、そこから漏れ出る僅かに熱い吐息が、あかねの唇に今にも触れそうなほどの、至近距離。
あかねの脳内に、役者としての緻密なプロファイリングではなく、ただの16歳の純真な女子高生としての生々しい羞恥心が、文字通り大爆発を起こして割り込んできた。
「む、無理無理無理! ストップ! ストップ日野くん! 一回タイム!!」
あかねは顔を瞬時にトマトのように真っ赤に染め上げ、ハルトの胸板を両手で思いっきり突き放した。そして、まるで恐ろしい肉食獣から逃れるかのように、数歩後ろへバタバタと飛び退いた。肩を激しく上下させ、自分の胸元を押さえる。
「……ん? あかね、今、俺のセリフの後のリアクションの
さっきまで世界を道連れにして滅ぼしそうな愛憎を放っていた男が、次の瞬間には、1ピクセルもブレない無機質でフラットなトーンで、完全な〝素〟に戻っていた。
そのあまりの切り替えの早さと、己の感情の蛇口を完全に支配しているメソッド演技の怪物ぶりに、あかねは羞恥で顔面を紅潮させながらも、同時に役者として背筋が凍るような絶対的な戦慄を覚えていた。
(……どうして、どうしてこうなっちゃったんだろう)
あかねは、開いた台本を読み直すふりをして自分の顔の前に掲げ、真っ赤になった顔を必死に隠しながら、頭の中で猛烈に後悔の念を巡らせていた。
事の始まりは、今日のお昼休みのことだ。
劇団ララライの次回作――大人向けのドロドロとした背徳的な恋愛劇の台本を手渡されたあかねは、どうにも妻子ある年上の男性への、破滅的な恋心という感情の出力に悩んでいた。どれだけプロファイリングを重ねても、実体験のない禁断の情愛というものが、今ひとつ腑に落ちてこなかったのだ。
そこで、彼女の脳裏にふと、ある邪念が浮かんだ。
(ハルトくんに、相手役を手伝ってもらおうかな……)
そこには、間違いなく可愛い下心があった。このベタ甘で、なおかつ距離感の近い重たいラブシーンの練習を重ねれば、いくら普段は朴念仁で、恋愛沙汰に疎い彼であっても、少しは私のことをただのクラスメイトではなく一人の女の子として意識してくれるかもしれない。
それに、ハルトはもう何年も芸能界の表舞台から離れている
(ちょっとくらい、私の方が現役の役者としてリードできちゃうかも……なんて、そんな風に甘く見てた。私が大バカだった……!)
放課後、放課後の教室で練習したいという個人的な頼みを、ハルトは「おう、いいぜ」と快く引き受けてくれた。彼はあかねから渡された台本を、窓際でペラペラと数分間めくっただけだった。
「うん、覚えた。じゃ、やろっか」
完全記憶能力。ハルトは文字通り一言一句、セリフだけでなくト書きの微細な感情指定にいたるまで完全に脳内へ叩き込み、演技が始まった瞬間に〝メソッド演技法の極致〟を発動させたのだ。
ハルトの演技は、世間一般の役者が行うような〝役を演じる〟というレベルではなかった。自身の過去の記憶、身体操作、五感の制御をフル稼働させ、その場にその人物の〝真実〟そのままを顕現させる。
ブランクなんて、最初から一ミリも、一分子も存在していなかったのだ。
「……ごめん日野くん、もう一回。もう一回だけ、さっきのシーンの頭からお願い」
あかねは自分の両頬をパチパチと両手で強く叩き、役者としてのプライドを無理やり奮い立たせて、再びハルトの前に立った。ここで引き下がっては、劇団ララライの名が泣く。
「おう、いいぜ。俺はいつでも合わせられるから、あかねのタイミングで始めてくれ」
ハルトが小さく息を吐き出す。その瞬間、彼の輪郭から男子高校生日野ハルトののんきな気配が霧のように霧散し、再びあの妻子ある冷徹な叔父が目の前に顕現した。空気の重苦しさが一変する。
(負けない……。私は、劇団ララライの黒川あかねなんだから……っ!)
あかねもまた、奥歯を噛み締めながら、極限のプロファイリングを脳内で高速回転させる。ハルトの放つ、肌を焦がすような圧倒的大人の色気という濁流に呑み込まれてしまわないよう、必死に足を踏ん張り、少女の純粋で狂気的な愛をぶつけていく。
二人の演技の熱量は、すでに学校の教室という枠組みを遥かに超えていた。
窓から差し込む夕日の赤、張り詰めた教室の静寂。そこにあるのは、完全に禁断の恋に堕ちた二人の男女の、生々しく、息苦しい逢瀬そのものだった。
「――お前がそんな目で見つめるから、俺はもう、まともでいられない」
ハルトの低い、鼓膜を直接揺らすような声。同時に、あかねの細い腰に、彼の大きな手が躊躇なく回される。
ぐっと力強く引き寄せられ、二人の制服の生地が擦れ合い、身体が隙間なくぴったりと密着した。
「叔父様……っ」
あかねの瞳から、きらりと一筋の涙がこぼれ落ちる。それは役としての涙なのか、それとも、至近距離で見つめられるハルトへの愛おしさが極限まで高まってしまった、あかね自身のリアルな涙なのか、すでにその境界線は美しく消え去っていた。
ハルトの顔が、いよいよ近づく。
今度は、あかねも逃げない。ハルトのひまわり色の瞳の奥に、恋に狂い、完全に彼に溺れている自分の情けない顔が映り込んでいるのを見て、あかねはそっと、覚悟を決めるように長い睫毛を伏せ、目を閉じた。
唇と唇が、互いの体温を感知して触れ合う――まさにその、一ミリ手前。
「おーーーーい!! サッカー部、ボールそっちの校舎の方行ったぞ!! 誰か拾ってくれ!!」
窓の外、遮るもののない校庭から盛大に響き渡った、部活男子の野太く、間の抜けた大声。
その瞬間、静寂に満ちていた教室内に、ガタァッ!!という激しい音が鳴り響いた。
「ひゃああっ!?」
あかねは文字通り完全に正気に引き戻され、限界突破した羞恥心で、ハルトの胸を全力で突き飛ばした。勢い余って、背後にあった机が派手に傾き、床を擦る高い音を立てる。
「……あ、ごめんあかね。外の声に一瞬気を取られて、今、
ハルトは、何事もなかったかのようにサッと素のトーンに戻ると、首を少し傾げて、寸分狂わぬ再演を提案してきた。
彼の身体の体温も、瞳の潤みも、さっきまで出力していた大人の男の状態に、一瞬にして戻そうとしている。その怪物的なコントロール力。
「もういい!! 今日はおしまい!!」
あかねは顔から本物の火が出るほどの赤面を隠すように、持っていた台本でバッと自分の顔を完全に覆い隠した。
「えー? まだ後半の、一番盛り上がるシーンがまるまる残ってんのに。黒川、今めっちゃ良い感情の出力出てたぞ? もったいないって」
「うるさいバカ!! 日野くんの唐変木!! もう片付けて帰るんだから!!」
足早にカバンに荷物を詰め込み、逃げるように教室を後にするあかねの後ろ姿を見送りながら、ハルトは「唐変木って久々に聞いたわ……」と、いつもの底抜けに明るい太陽のような笑顔に戻って、ぽりぽりと頭を掻いているのだった。
☆ ★ ☆
その日の夜、黒川あかねの自室。
月明かりが静かに差し込む部屋の中で、あかねはベッドの上に突っ伏し、以前にハルトからもらったネギのマスコットを、悔しまぎれに何度も枕に叩きつけていた。
「なんなのよ、あの人……! あんな、あんな演技ずるいじゃない……っ!」
思い出すだけで、彼女の心臓は破裂しそうにバクバクと五月蝿く鳴り響く。完全にハルトのペースに巻き込まれ、いいように翻弄されてしまった。
悔しくて、恥ずかしくて、でも――どうしようもないほど、彼が自分の心を支配しているのだと、これ以上ないほどに再確認させられてしまう。
あかねは大きくため息をつきながら、ベッドから這い出て、机の上のタブレット端末を起動した。お馴染みの動画配信アプリを開き、『HARU』の生配信を表示する。
画面の中のハルトは、オレンジ色のパーカー姿で、今夜も視聴者からリクエストされた難解なダンスステップを、カメラの前で完璧に踊り狂っていた。身体の軸が一切ブレない、精密なパフォーマンス。それが終わると、彼は画面に顔を近づけてきた。
『あ、そーいえばさぁ! 今日、学校の友だちの芝居の練習をちょっと手伝ったんだけどさぁ』
ハルトが、画面の向こうでケラケラと楽しそうに笑いながら、いつもの雑談を始めた。
あかねの心臓が、どきっと跳ね上がる。
『その子がさ、途中でめちゃくちゃ顔真っ赤にして「ストップ!」とか言い出してさ。ただの演技の練習なのに、マジで照れてんの。超ウケない? 役者としては超一流のすごい奴なのに、そういうとこ妙にピュアなんだよなー、あいつ』
コメント欄が、画面の右側をものすごい速度で流れていく。
『ピュア可愛いかよwww』
『HARUの演技がガチすぎて耐えられんかったんだろw』
『それ絶対HARUに本気で惚れてるやつじゃん!』
『おいおいおい、ウラヤマシイゾゴルァ!代われ!』
画面の向こうの視聴者たちは、誰もその学校の友達が、
タブレットを見つめるあかねの口元が、今夜もじわじわと、隠しきれない優越感と愛おしさでニヤニヤと緩んでいく。
「……ハルトくんのバカ。あのね、演技じゃなくて、本気で照れてるの。……全然、分かってないんだから」
あかねはベッドの傍らにあったペンギンのぬいぐるみをきゅっと胸に愛おしそうに抱きしめ、幸せな熱に浮かされるようにして、ベッドの上で足をパタパタとさせた。
天才役者たちの、もどかしくて甘い放課後。
ハルトの怪物のような才能を特等席で浴びながら、あかねの激重な恋心は、さらにその深みを増していくのだった。
【登場人物・設定紹介】
黒川あかね:ヒロイン。演技が得意。
日野ハルト:オリ主。演技も得意。
なお、二人とも今は十六歳。高校一年生である。
明言してない気がしたので。