スケジュールはすでに破綻の危機に直面していた。
原作者である鮫島アビ子とGOAによる脚本の全面改訂により、遅れていた舞台『東京ブレイド』の制作工程は極限まで圧迫されている。本読みという形ばかりの顔合わせが終わりを告げるや否や、稽古場には冷たく張り詰めた空気が満ち始め、即座に殺陣の手付けと立ち稽古がリスタートした。
稽古場の隅では、生の『波旬』の演技を堪能したアビ子が、「あぁぁもうっ、インスピレーションが湧き上がってくる~っ!!!」と興奮気味に独りごちながら、連れてこられた時とは見違えるような晴れやかな顔で帰路についていた。
一方、劇伴担当から一転して突如として作中最大の
「……君、その殺陣のクセ、完全に
指導に当たっていた金田一が、目の前で完璧な型を再現してみせたハルトを前に、眉をひそめて尋ねた。殺陣師もまた、開いた口が塞がらないといった様子で固まっている。
「子役時代、NHKの大河ドラマに出た時にちょっとばかり本職に教わりました。……大丈夫です、すぐ舞台向きの派手な見栄えにアジャストさせるんで、少しだけ時間ください」
ハルトの言葉に嘘はなかった。言葉通り、ものの数刻もしないうちに殺陣の軌道に舞台特有の〝溜め〟と〝見せ〟の要素を巧みに組み込み、殺陣師が要求する以上のクオリティに仕上げてみせた。『波旬』に求められる無駄のない、だが圧倒的な威圧感を放つ殺陣を、ハルトは木刀の手触りを確かめながら稽古刀で完璧に会得してしまったのだ。
その常軌を逸したハルトの上達ぶりに、稽古場の別スペースで新しい殺陣の練習に汗を流していた有馬かなは、隣で同じく木刀を振るうアクアへと呆れ果てた視線を向けた。
「ね、見たでしょ、アイツの異常さを。……アレと比較される方はたまったもんじゃないわ」
「……ああ、確かにな」
アクアは汗を拭いながら、稽古場の中央で軽やかに木刀を打つハルトを鋭い眼差しで見つめ、低く呟いた。かなは不機嫌そうに吐き捨てる。
「あいつはサイボーグよ、サイボーグ。周りがNGを出して何度もリテイクになっても、本人は寸分違わぬ精度で全く同じ演技と動きを何度も繰り返すの。一緒に演る方にしてみたら、プレッシャーで胃が痛くなるだけのいい迷惑よ」
担当の殺陣師から「もう教えることは何もない」と半ば匙を投げられたハルトは、物語冒頭の『鞘姫』と『波旬』の殺陣のすり合わせを行うため、あかねと向き合った。
あかねはハルトと向かい合うと、嬉しさを隠しきれない様子でパッと表情を華やがせた。ハルトはその浮かれた雰囲気にわずかに眉をひそめたものの、(まあ、実際の芝居に支障が出ないなら別にいいか)と思い直す。
「よろしくね、ハルトくん」
「ああ。お互い怪我のないようにな」
「うんっ!」
周囲のキャストや制作陣が見守る中、立ち会いが始まった。
すでにこのシーンの殺陣の流れを脳内で完全にシミュレートし終えているハルトは、あかねの動きを完璧にリードする形で一連の手順を確認していく。木刀と木刀が打ち合わされる乾いた音が稽古場に響く。
途中、あかねが足運びのタイミングを微かに誤り、間合いが狂いかける場面があった。だがハルトは顔色ひとつ変えず、自らの太刀筋の軌道をミリ単位で微修正し、あたかも最初からそういう殺陣であったかのように自然にフォローしてみせた。
足運びを極力行わず、浮遊感すら漂わせる『波旬』の異様な剣技。それに対し、幼少期から培った日本舞踊の身体技法を応用した『鞘姫』の美しく流麗な剣技。
『鞘姫』が繰り出す苛烈な斬撃を、ハルトはまるで児戯でもいじるかのように木刀の腹で軽やかにいなしていく。そして『鞘姫』の体勢がわずかに崩れた一瞬の虚を突き、ハルトは一切の
「おおっ……!?」
その見事すぎる無拍子の踏み込みに、見学していた役者たちから思わず感嘆の声が漏れる。
『波旬』は自身の本体である零本目の〝盟刀〟『他化自在天』から創り出した影打を、『鞘姫』の胸元へと突き立てるように打ち込み、彼女の心を奪って『隷属』させる――そこでこのシーンの殺陣は幕を閉じた。
時間にしてほんの数分足らず。しかし、観る者を一瞬で作品の世界観へと引きずり込むような、息を呑むほど見事な剣舞だった。
だが、周囲の称賛の声とは裏腹に、ハルトの表情はどこか晴れなかった。
「……」
「あ……ごめんね、ハルトくん。私、途中でステップ間違えちゃったよね?」
不安そうに覗き込んでくるあかねの頭を、ハルトはいつものようにポンポンと優しく撫でた。あかねは嬉しそうに目を細める。
「ん? ああ、いや、初日だしな。むしろあかねはよく出来てるよ」
口ではそう慰めながらも、ハルトの内心の不快感は消えなかった。あかねの髪の手触りを感じながら、冷めた思考が頭を巡る。
(……あかねの太刀筋に、『鞘姫』の感情が乗っていない。『波旬』という正体不明の強大な敵に対する強い敵意、恐怖、拒絶感……そういった熱量がごっそり抜け落ちている。……今はまだ殺陣の手付けの段階だから実害はないが、実際の芝居のフェーズに入ってまでこれだと……かなり拙いぞ)
本読みの段階から感じていた漠然とした違和感が、実際に剣を交えたことでハッキリとした形を成し始めていた。あかねの演技から、『波旬』に対する負の感情だけが完全に抜け落ちているのだ。それは今回の改訂脚本において、敵に心を支配される囚われのヒロインである『鞘姫』の劇的なプロットを支える、最も重要な感情の根幹だった。
☆ ★ ☆
劇伴の制作担当も兼任しているハルトは、短く設定された休憩時間を利用して、稽古場の隅に持ち込んだノートPCとヘッドフォンに向かい、劇伴の改訂および新規楽曲の制作作業へと没頭していた。
旧版から流用できるトラックもあるにはあるが、ストーリーの筋書きが根底から変わった以上、新しく書き下ろさなければならない楽曲の方が遥かに多い。とはいえ、ハルト自身、自分が演者として舞台に立つことへの刺激もあってか、頭の中には次々と
作業の合間、ハルトはヘッドフォンを片耳だけ外し、稽古場の中央へと視線を向けた。
そこでは、『波旬』に心を支配された『鞘姫』が、『渋谷クラスタ』の仲間たちや『刀鬼』へと容赦なく襲いかかるシーンの稽古が行われていた。
(……あかねは、ちゃんと『鞘姫』としての演技ができているな)
『隷属』させられた『鞘姫』は、心を固く封じられている。しかしその封印は完全ではなく、仲間と命を削り合わされる哀しみや、自らの意思を奪われた恐怖に絶望しながら、涙を呑んで『刀鬼』と刃を交える。あかねはその複雑な葛藤を、指先の震えや木刀を振るう太刀筋の揺らぎにまで完璧に落とし込んで演じていた。
(さっきのは一体何だったんだ……? 相手が
ハルトの視線が、『刀鬼』を演じる星野アクアへと移る。途端にその目が厳しさを帯びた。
(……星野の演技はなんなんだ。アイツ、もっと出来るはずだろ)
ハルトはアクアの芝居に対して不満を隠さなかった。
このシーンにおける『刀鬼』は、深く敬愛する『鞘姫』に刃を向けなければならない極限の状況に混乱し、まともに剣を振るうことすらできずに『鞘姫』に打ち伏せられる。物語前半の悲壮感を観客に強く印象付ける、非常に重要な見せ場だ。
しかし、現在のアクアの殺陣は、ただ教えられた手順を正確になぞっているだけの、冷たい振り付けにしかなっていなかった。そこに役としての感情のうねりが一切存在しない。
(……いや待て。まだ初日の立ち稽古だ。ここから作ってくるのかもしれないし、今判断するのは時期尚早か)
頭を振って苛立ちを打ち消すと、ハルトはアクアへの評価を一旦棚上げにし、再びPCの画面へと意識を戻して劇伴の音声編集に指を動かした。
☆ ★ ☆
短い休憩が終わり、ハルトは次の自身の殺陣の合わせへと向かった。
時間などの都合でシーンが前後したが、『波旬』は支配下に置いた『鞘姫』を伴い、『新宿クラスタ』の本拠地を突如として急襲する。主人公である『ブレイド』と、その相棒『つるぎ』の二人が、圧倒的な絶望として立ちはだかる両者に決死の覚悟で立ち向かう――という過酷な局面だ。
「姫川さん、よろしくお願いします」
「ああ」
ハルトが挨拶すると、『ブレイド』役の劇団ララライの看板役者・姫川大輝が、深く太い声で応じた。
「胸をお借りするつもりで全力で頑張りますんで」
「ハハッ、どの口がそれを言うんだか……。むしろ、俺の方が
ハルトと姫川の間で、互いの実量を探り合うような鋭い視線が交錯する。
その横では、あかねとかなが木刀を構え、互いにバチバチと激しい火花を散らしていた。
「黒川さん、変に戯けた演技はしないでちょうだいね。足引っ張られるこっちの身にもなってほしいわ」
「お生憎様です、有馬さん。そっちこそ、いつもみたいな温いお芝居をしてたら、あっという間に置いていきますから」
「なんですって……!?」
高まる戦意と緊張感の中、演出家の合図とともに四人の殺陣が始まった。
主役と敵役、そして作中におけるダブルヒロインの激突。その豪華すぎる顔合わせに、周囲の共演者やスタッフたちの視線が一集に注がれる。
『波旬』と『ブレイド』、『鞘姫』と『つるぎ』。
四人は目まぐるしく相手を入れ替えながら、複雑極まりない交差殺陣を繰り広げていく。ハルト、姫川、あかね、かなという、この現場における演技の天才たちが揃っているからこそ成立する、極上の演舞。
ライバル心に逸って前傾姿勢になりがちなあかねとかなの動きを、ハルトと姫川がそれぞれ完璧な間合い取りでフォローしつつ、
王道を行くまっすぐで重厚な『ブレイド』の太刀筋。天真爛漫で野性的な『つるぎ』の太刀筋。そして、それとは対極に位置する異様で冷徹な『波旬』と、舞うように華麗な『鞘姫』。
四つの異なる軌跡が、稽古場狭しと交差し、激しく打たれ合っていく。
まだ稽古は殺陣の手付けの段階であり、セリフなどの本格的な芝居は入っていないはずだった。しかし、四人が解き放つ圧倒的な気迫は、まるで本番の舞台上そのものだった。
木刀同士が打ち合うたびに、目に見えない火花が散り、空気を切り裂く刃が肌を掠めて血飛沫が舞う――見学している者たちに、そう錯覚させるほどの高密度の空間。誰もが息を呑み、微動だにできずにその光景に魅入っていた。
そして、演技は佳境を迎える。
『鞘姫』と『つるぎ』が互角の激闘を繰り広げる一方で、『ブレイド』との戦いを圧倒的な優位に進める『波旬』。だが『波旬』は『ブレイド』の底知れぬ素質を認め、彼を〝特記戦力〟と位置付けると、あえてトドメを刺さずに『鞘姫』を引き連れて悠然と撤退していく。
残された『ブレイド』は、この未曽有の危機に抗うため、『新宿クラスタ』だけでなく因縁の『渋谷クラスタ』の力をも結集させる必要性を痛感し、両者の和解のために『つるぎ』とともに疾走することになるのだった。
激しい殺陣のシミュレーションが終わり、姫川は辛うじて倒れていないものの膝に両手をつき、「はぁ……はぁ……っ」と荒い息を吐き出していた。
一方、ハルトはケロッとした涼しい顔で、自分の汗を拭った後、姫川へとスポーツタオルとミネラルウォーターを差し出した。
「お疲れ様です、姫川さん」
「……はぁ……はぁ……ふぅーっ。お疲れ。……そっちは、汗ひとつかいてないじゃないか」
「いやー、俺、昔から体力と心肺機能にはちょっと自信があるんで」
ハルトが苦笑すると、姫川はタオルで顔を拭い、ハルトをじっと見つめた。
「率直に言っていいか?」
「ええ」
「……バケモノかよ、君は」
「あはは、光栄な褒め言葉として受け取っておきます」
ふと横を見ると、あかねとかなの二人は完全に疲労困憊した様子で、もはや喋る余裕すらなく稽古場の床に大の字になって倒れ込んでいた。
ハルトは床に転がるあかねの姿を、チラリと横目で見下ろす。
(……まただ。さっきの四人の交差殺陣でも、『鞘姫』の感情が置き去りになっていた。原因は何だ? あかねの芝居の組み立てに、一体何が起きている……?)
ハルトの懸念は深まるばかりだった。
そして――ハルトがふと周囲へと視線を巡らせると、そこには目を疑うような光景が広がっていた。
周りで見学していた若手の共演者たちが、ハルトに対してあからさまな「畏怖」と「恐怖」の視線を向けていたのだ。
部外者であり、演技の素人だと高を括っていたハルトが魅せた、次元の違う圧倒的な殺陣と存在感。その隔絶した実力を目の当たりにしたことで、彼らはすっかり自信を打ち砕かれ、恐縮して萎縮してしまっていた。
稽古場全体を包む、重苦しく硬直した空気。
(……こりゃあ、想像以上に嫌な感じだぜ)
ハルトは頭を掻くと、内心で苦い毒づきを吐き捨てるのだった。
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