改訂版脚本『天魔覆滅編』の始動初日。怒涛のような混乱と熱気の中、一通りのメニューを終えた頃には、外の街並みはすっかり深い闇に包まれていた。
稽古場の駐車場に佇む、ハルトの愛車である鮮やかなオレンジ色のスポーツバイク。ハルトがエンジンをかけると、夜の静けさを破って重低音の排気音が心地よく響き渡った。ヘルメットを被ったあかねは、慣れた手つきで後ろに跨がり、ハルトの腰にキュッと腕を回す。
「ハルトくん、出せる……?」
「ああ、しっかり掴まってろよ」
アクセルを捻ると、バイクは滑るように夜のビル街へと滑り出した。ネオンの光が通り過ぎる街灯の影と交錯し、二人の流線型のシルエットを眩しく照らし出す。冷たい夜風が頬を叩くが、背中に押し当てられたあかねの体温と、伝わってくる鼓動が心地よかった。
あかねは稽古が終わってからずっとご機嫌で、今もハルトの背中に頬を擦りつけ、ヘルメット越しにもわかる甘えた声を漏らしている。
「ふふっ……ハルトくんと舞台の上で一緒にいられるなんて、なんだかまだ夢みたいだな……」
ハルトはバックミラー越しにあかねの表情を伺い、稽古中に感じていた彼女の謎の不調について言及すべきか一瞬迷った。だが、ハンドルを握る手に少し力を込め、今は口を噤むことにした。こんなにも嬉しそうに機嫌良くしているあかねに、わざわざ水を差したくはなかったからだ。
それに、この程度のアクシデントなら時間が解決してくれるはずだと、どこかで希望的に考えていた。
(原因自体は……はっきり分かってるんだよな。あかね自身の、俺に対するまっすぐな愛情だ。それが『鞘姫』の『波旬』に対する負の感情……恐怖や拒絶の出力を邪魔してしまってる。身体の生理的な反応だし、それ自体はあかねが悪いわけじゃない。むしろ、俺をそれだけ強く思ってくれているのは素直に嬉しい。だけどな……)
ハルトはヘルメットのシールド越しに、前方の流れる道路を見つめた。
(とはいえ、立ち稽古や本番の芝居に入れば、あかねのことだ、案外ちゃんと合わせてくるだろう。まだ初日だし、テンションが上がって浮かれるのも無理はない。俺が絡まないシーンの演技に至っては、旧脚本の時よりも遥かに深く『鞘姫』に入り込めていたんだから……大丈夫なはずだ)
ハルトは楽観的な観測で一旦その問題を棚上げすることにした。
周囲の若手キャストたちが自分たちの圧倒的な演技に気圧されて萎縮している件についても、稽古が進み、自分や姫川、あかね、有馬かなといったメインキャストの演技が本格的に乗ってくれば、現場の意識も自ずと引っ張られて上がっていくはずだと考えていた。
ハルト自身、自らの芝居に関しては揺るぎない確信があった。脚本家・GOA、演出家・金田一、そして原作者・鮫島アビ子。彼らクリエイター陣の頭の中にある“第六天魔王”『波旬』の姿を、100%の精度で具現化し、完璧に演じ切る自信がハルトにはあった。
共演者たちがギアを上げてくれば、それに応じて自分のレベルも無限に引き上げていけばいい。もはやハルトにとって、稽古とは自分自身を磨くためのものではなく、共演者たちの引き上げと全体調整のために存在するものでしかなかった。だからこそ、本来の自分の役割である音響チームとの細かな打ち合わせだけでなく、裏方のスタッフたちのケアに気を配り、演出や脚本の意図を完璧に汲み取って現場のクオリティを底上げしていく。
胸の奥にどこか拭いきれない一抹の不安を抱えながらも、ハルトとあかねを乗せた鮮やかなオレンジ色のバイクは、夜景の眩い光の海の中へと消えていった。
☆ ★ ☆
翌日。稽古場に、模擬刀同士が激しくぶつかり合う甲高い音が乾いて響き渡った。
現在、稽古場の中央でハルトと対峙しているのは、主人公の一角『刀鬼』を演じる星野アクアだ。
ハルトは右腕一本で無造作に構えた模擬刀で、両手でしっかりと握りしめられたアクアの模擬刀を軽々と受け止め、じりじりと押し返していく。強い鍔迫り合いの最中、アクアの整った顔立ちには確かな困惑と焦燥が滲み出ていた。
体格差や腕力の違いは勿論ある。だが、ハルトに言わせればこれこそが、絶対的な悪である『波旬』と、一人の人間に過ぎない『刀鬼』との間に横たわる決定的な力の差そのものだった。
『ブレイド』の制止を振り切り、一人で『鞘姫』を救い出そうと現れた『刀鬼』。しかし『波旬』の圧倒的な力と存在感の前に歯が立たず、散々に痛めつけられた挙げ句に斬り伏せられ、最愛の存在である『鞘姫』を目の前で連れ去られてしまう。大切なものを無慈悲に奪われた『刀鬼』の無力感、絶望と敗北の慟哭、そして後の再起へと繋がる物語前半の極めて重要な見せ場だ。
本来のシーンであれば、この場にはさらわれる『鞘姫』が存在しているはずなのだが、あかねは別件の仕事が入っているため今日は不在だった。とはいえ、殺陣の型と間の合わせだけであれば、彼女がいなくとも大きな問題はないはずだった。
問題なのは、目の前の役者の姿勢だ。
(……チッ。相変わらずヌルい演技しやがって)
アクアの繰り出す小器用な殺陣をいなしながら、ハルトは内心で冷ややかな悪態を吐いた。
上辺の形だけをなぞった、こじんまりとした太刀筋。このシーンの『刀鬼』は、自分の最愛の人を奪い、今この瞬間も踏みにじろうとしている『波旬』という脅威に対し、狂気的な殺意、強烈な敵意、泥泥とした害意――どんな形であれ、生の感情を爆発させて向けていなければならないはずなのだ。
にもかかわらず、今のアクアは殺陣師から教わった振り付けをただ正確に振っているだけに過ぎない。
(中途半端に形だけは成り立ってる分、余計に腹が立つんだよ。これなら、技術的には拙くても全力投球でぶつかってくるメルトの方が、役者としてずっとマシだし見ていて気持ちがいいぜ)
ハルトの脳裏に、休憩時間中も稽古場の片隅で一心不乱に木刀を振り、自分の感情と向き合おうと泥臭く汗を流していた鳴嶋メルトの姿が浮かぶ。
(メルトみたいなタイプは、何か一つキッカケさえ掴めば一気に化ける。不器用だがひたむきで、自分の生の感情から逃げていない。技術なんて後からいくらでも付いてくる。役者としての熱量があれば、舞台の上で見栄えは張れるんだ。それに引き換え――)
そんな冷めた思考を張り巡らせている間にも、ハルトの身体は『波旬』としての完璧な動きと演技を勝手に遂行していた。
アクアの見え透いた踏み込みを最小限の動作でいなし、体勢を崩したアクアの胸元へと、空いていた左手を鋭く突き出す。
「うっ……!?」
稽古着の胸ぐらを鷲掴みにされ、アクアが苦しげに呻き声を上げた。
芝居の演出上、胸ぐらを掴まれれば苦しむ演技をするのは当然だ。しかし、そこには『刀鬼』としての魂の叫びも、怒りの感情も乗っていない。ハルトの眉間に、深いシワが刻まれた。
この後、『刀鬼』は『波旬』の一撃によって重傷を負い、床に倒れ伏したまま、奪われていく『鞘姫』の名を叫んで慟哭するシーンで一連の立ち回りは終わる。
「おい、星野。……お前、その演技何なんだよ」
殺陣の合わせが終わった瞬間、ハルトは手にしていた模擬刀を床に刺すように引きずり、低い語気でアクアに詰め寄った。
対するアクアは、乱れた息を整えながら、どこか不貞腐れたような冷めた瞳でハルトを見返す。
「……殺陣の手順は、間違っていなかったはずだ」
「手順の話なんかしてねぇんだよ。お前の殺陣は演技じゃねぇ、ただの振り付けだ。
「……ッ、〝天才子役〟様には簡単なことかもしれないがな、俺たちみたいな凡人にはそれが難しいんだよ」
「あぁ……? お前、みんなで舞台観に行った時に一体何を学んできたんだよ!?」
ハルトの放つ強烈な威圧感と激越な口調に、稽古場の空気が一気に凍りつき、周囲の役者やスタッフたちが騒然となった。
「ちょっと二人とも、やめなさいよ……!」
「アクアも、ハルトも落ち着いてくれ……!」
異変を察した有馬かなとメルトが、慌てて両者の間に割って入り、二人を引き離そうとする。
「チッ……」
ハルトは大げさに舌打ちをすると、掴んでいたアクアの胸ぐらを乱暴に放した。
「星野。そのスカした冷めた演技はいい加減にしとけ。次の立ち稽古までに、死ぬ気で『刀鬼』の感情詰めてこい」
吐き捨てるように捨て台詞を残すと、ハルトは頭を冷やすために荒々しい足取りでその場を立ち去った。
「……日野」
廊下へ出ようとしたハルトを呼び止めたのは、腕を組んで佇んでいた演出の金田一だった。ハルトが深く溜息を吐く。
「……出過ぎた真似でしたかね、金田一さん」
「いや、むしろ演出家であるこちらが指摘すべきことだった。君に嫌われ役を押し付ける形になってしまって申し訳ない」
「まあ……見ていて気に入らなかったのは事実なんで、別にいいですけど」
ハルトが不機嫌そうに肩をすくめると、金田一は悲しげに目を細めた。
「君には劇伴だけでなく、役者としても多大な負担をかけていることは重々理解している。……ウチの劇団の若い奴らも情けないものだ。君という圧倒的な壁に対して、もっと身体で挑みかかるくらいの気概を見せてくれればいいのだが」
「そんなことないですよ。ララライのみんなは凄腕のいい役者ばかりです。今は新しい脚本と舞台の形式に慣れていないだけで、時間が解決しますって」
「そうだといいんだがな……」
金田一は寂しげに呟いた。だが、慰めの言葉を口にしたハルト自身も、そして金田一も、「時間が解決する」などとは微塵も思っていなかった。
☆ ★ ☆
そして数日後、ついにセリフと感情を乗せた本格的な〝立ち稽古〟が始まることとなった。
最初の立ち合いは、当然ながら物語の冒頭、『鞘姫』と『波旬』が運命的な遭遇を果たすシーンだ。
セリフを発し、視線を交わし、互いに殺意を秘めた殺陣を繰り出す。相変わらず、あかねはハルトと向かい合うと、どこか浮ついた可憐な演技を崩せずにいる。さらに悪いことに、本人はそれにすら気づいていない様子だった。
ハルトは胸の奥に湧き上がる冷ややかな失望感を必死に押し殺しながら、『波旬』としての冷徹な仮面を貼り直して演技を続けた。
そして、冒頭のクライマックス。
『波旬』が己の爪牙である影打を『鞘姫』の胸元へと深く突き立て、彼女の心を侵食して『隷属』させる衝撃的なシーン。
「んっ……あ……ああっ……!?」
稽古場に響き渡ったのは、痛みの悲鳴というよりも、どこか艶めかしい嬌声に近い絶叫だった。
ハルトと恋人として付き合い始めてから、あかねが自然と身につけた大人びた艶やかさと色気。それが声に乗り、周囲の見学していたスタッフや役者たちから「おお……」と小さなざわめきが起こる。
だが、元々の脚本で求められているのは「不可解な力に侵食される恐怖と抗えぬ絶望」であって、甘やかな色気ではない。あかねの発した声はあからさまに感情のベクトルがズレており、表情にも『鞘姫』が浮かべるべき純粋な恐怖が追いついていなかった。
(……っ!)
一瞬、ハルトの演じる『波旬』の鉄壁の演技が、微かにブレた。
影打を胸に埋め込まれ、意識を失って崩れ落ちる『鞘姫』。ハルト演じる『波旬』がその華奢な身体を抱きとめ、シーンの終わりを迎える。
「……」
「あ……あの、ハルトくん……?」
あかねの身体を抱きしめた姿勢のまま、ハルトは般若のような険しい表情で沈黙していた。
ハルトはゆっくりとあかねを立ち上がらせると、冷たい眼差しで見下ろし、低く静かな声で言い放った。
「あかね。お前、今……
「え……? そ、そんなこと……っ」
「お前自身の私情が、『鞘姫』の役としての感情を完全に邪魔してる。……芝居の上に私生活を持ち込むな」
「あっ……」
あかねの顔から一瞬で血の気が引いた。
「次、お願いします」
あかねが縋るように差し伸ばそうとした手を、ハルトはあえて冷たく無視し、一顧だにせずその場から離れていく。あかねの明晰すぎる頭脳は、今自分が犯した致命的な過ちと、彼に役者として明確に失望されたという事実を即座に理解してしまった。
その後に執り行われた、『鞘姫』が仲間である『渋谷クラスタ』を襲撃するシーンの稽古。
あかねの演技は、誰の目から見ても明らかに精彩を欠いていた。先日の手入れの時には完璧にできていたはずの『鞘姫』の感情表現にすら入れなくなっており、完全にハルトから投げかけられた厳しい指摘を意識し過ぎて、立ち回りがガタガタに崩れていた。
(稽古場で叱ったのは完全に軽率だった。……あかねがあそこまでメンタルが脆いだなんて思わ……違う、俺が迂闊なだけか、クソッ)
自分の席に戻り、ノートPCを開いたまま立ち稽古の惨状を苦々しく睨みつけているハルトのもとへ、有馬かながツカツカと歩み寄ってきた。
「ちょっとアンタ、あれどうすんのよ! あかねの演技、ガッタガタじゃないの! アンタが稽古中にあんな余計なこと言ったからでしょ!?」
「……じゃあお前、あの甘ったれて腑抜けた演技のあかねと本気で
「それは……正直めちゃくちゃ困るけど! でも、あんなにメンタルやられて芝居全体が崩れちゃったら、元も子もないじゃない!」
かなが焦りを含んだ声で捲し立てる。ハルトは腕を組んでふんぞり返ると、フッと鼻で笑った。
「この程度の壁、自力で泥泥になりながら乗り越えてこなきゃ……『黒川あかね』なんて役者、存在価値がねぇよ」
「……」
ハルトの容赦のない言葉に、かなは一瞬絶句し、怪訝そうにハルトの顔を覗き込んだ。
「何だよ」
「……アンタ、あの子のこと甘々のベタ惚れなんだと思ってたけど。……意外と、役者としては恐ろしいくらい厳しいのね」
「甘々のベタ惚れだよ。……だけど俺は、芸術と芝居に対してだけは絶対に妥協しない。お前だってそうだろ、有馬かな」
「……そうね」
かなはどこか諦めたように、けれどハルトの役者としての覚悟に共鳴するように、静かに頷くのだった。
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