朝の光が薄暗く差し込む劇場の稽古場。重い防音扉が開いてハルトが一人で姿を現すと、すでに集まっていた役者やスタッフたちの間に、さっと微妙な緊張感とざわめきが広がった。
前日の稽古終了後、あかねが大きな荷物を持って実家へ帰ったなどという噂が、関係者の間で瞬く間に尾ひれがついて広まっていた。二人の間に決定的な亀裂が走ったのではないか、と同棲解消の噂を邪推する視線がハルトに突き刺さる。
そんな空気を察してか、ニヤニヤとした下世話な笑みを浮かべた鴨志田が、ストレッチをしながらハルトに軽薄な調子で声をかけた。
「よお、ハルト。なんだか大変そうだな? もしあかねちゃんがフリーになったんなら、俺が優しく口説いてやってもいいぜ――」
その言葉が言い終わるか終わらないかの瞬間だった。
ハルトの雰囲気が一変した。瞳から光が完全に消え去り、据わった眼差しが直視された鴨志田を射抜く。
「……鴨志田さん。……殺しますよ」
冗談でも何でもない、本気の殺気が稽古場の空気を氷点下にまで叩き落とした。物理的な重圧すら感じる圧迫感に、鴨志田は顔面を蒼白にして言葉を詰まらせ、じりじりと後ずさる。周囲の役者たちも息を飲み、背筋に冷や汗を滑らせた。
「じょ、冗談だって……ははは」
「ふん」
ハルトは鼻を鳴らす。
それからしばらくして、あかねが静かに稽古場に到着した。少し目元を腫らし、俯き加減で歩くあかねの姿を、誰よりも早く察知したのはハルトだった。
ハルトは先ほどまでの凶悪な殺気を嘘のように霧散させると、いつもの陽気で穏やかなトーンで声をかけた。
「よう、あかね! おはよう」
「……うん、おはよう、ハルトくん」
あかねは足を止め、控えめに、どこか遠慮がちな笑みを浮かべて挨拶を返した。
表面上は普段通りの恋人同士に見える。しかし、お互いの間に存在する決定的な踏み込めない距離感とぎこちなさを、周囲の役者たちは心配そうに見守ることしかできなかった。
☆ ★ ☆
あかねがハルトとの同棲を解消し、実家へと戻ってから数日が経過した。
稽古は全員での全体練習と並行して、抜き稽古と呼ばれる個別稽古のフェーズへと移行していた。特定の重要なシーンや二人芝居をピックアップし、演出家とともに芝居の精度を極限まで深掘りしていく作業だ。
あかねが演じる『鞘姫』の出番は、その多くが『波旬』との共演である。だが当然、それ以外のキャストと交差するシーンも存在する。そして深刻だったのは、あかねが『波旬』以外の登場人物に対しても、完全に『鞘姫』の感情を出力できなくなっている点だった。あの日、ハルトから痛烈な指摘を受けて以来、あかねの身体から『鞘姫』という役の魂が綺麗さっぱり消えて失せてしまっていた。
例えば、物語中盤の大きな山場である『つるぎ』と『鞘姫』の一騎打ち。
この場面は裏で『ブレイド』と『波旬』の壮絶な激闘が同時に進行しており、『鞘姫』は『ブレイド』の加勢に向かおうとする『つるぎ』を食い止める壁として立ちはだかる。心を完全には支配されきっていない『鞘姫』は、かつて抱いていた『つるぎ』への劣等感や対抗心を『波旬』の力で増幅され、苛烈な刃となってぶつける。だが、その深く昏い執着は、『つるぎ』の放つ底抜けの眩しい明るさと温もりに照らされ、敗北を喫するのだ。しかし直後、一時的に『ブレイド』を退けた『波旬』が乱入し、『つるぎ』の心すら侵食して『隷属』させてしまい、物語は一気に絶望のクライマックスへと雪崩れ込んでいく。
稽古場の中央、木刀を肩に担いだ有馬かなの前で、あかねは床に膝をつき、肩を揺らして座り込んでいた。
「……これじゃ、何度繰り返してもムダよ」
かなの冷ややかな声が落ちてくる。
「っ……」
「あかね。……アンタがこんなに脆い奴だったなんて、思わなかったわ」
普段の取り繕った「黒川さん」というビジネスライクな呼び方ではなく、素の「あかね」と名を呼ぶかな。その声色は鋭く刺さるようだったが、あかねには分かっていた。かなが自分を切り捨てようとしているのではなく、本気で心配し、苛立ってくれているのだと。それが余計に情けなく、悲しかった。
「ほら、手出しなさいよ。立ち上がるんでしょ」
「うん……ありがとう、かなちゃん」
差し出された小さな手を固く握り返し、あかねはフラつきながら立ち上がった。
視線を動かした拍子に、かなの肩越し、稽古場の遠くの壁際でノートPCに向かって高速でキーボードを叩いているハルトの姿が目に入った。
ハルトの顔には、隠しきれない濃い疲労の色が滲み出ていた。
彼は作中最強の敵『波旬』として全キャストの殺陣や芝居の相手を連日完璧に務め上げ、さらに舞台全体のクオリティを引き上げるために衣装や照明、舞台装置といった裏方の各セクションを休憩時間ごとに駆けずり回っていた。その上で、劇伴の全面改訂を急ピッチで完成させるため、毎夜遅くまで一人稽古場に残って作業を続けているのだ。自分のせいでそんな彼にさらなる心労をかけている――そこまで考えが至り、あかねは強く首を振って思考を振り払うと、ハルトの作業の邪魔にならないよう静かにその場を離れた。
かなは溜息を吐くと、次の立ち合いの相手を求めてアクアの方へと歩き出していくようだった。
稽古場の隅のパトロールパイプ椅子にポツンと座り込み、スポーツドリンクで水分を補給しながら汗を拭うあかね。その脳内では、とり止めのない思考が渦巻いていた。
役作りの壁を乗り越えるため、そして自分の甘さを断ち切るためにハルトとの同棲を解消し、距離を置いたあかねだったが、天才と称された彼女の演技力は回復するどころか完全に崩壊していた。心を閉ざした無機質な演技でお茶を濁すことすら満足にできない。文字通りのどん底、スランプ状態だ。
遠くで作業する彼へと、嫌でも視線が吸い寄せられてしまう。
離れたからこそ、胸の奥で彼への狂おしいほどの思暮と執着が激しさを増し、芝居に全く集中できない。夜、一人で眠る実家の部屋が、独りのベッドが寂しくてたまらない。あの人の暖かな体温が、首筋から漂う独特の匂いが、耳元で囁く低い声が、焦がれるほどに恋しい。身が引き裂かれるような苦しみが、夜な夜なあかねを苛んでいた。
稽古中、『波旬』を演じるハルトと身体が触れ合う一瞬の接触を、心のどこかで心待ちにしてしまっている浅ましい自分がいる。
焦燥感が胸を焼く。自分の無力さに頭がおかしくなりそうだ。
役者としての期待を裏切るだけでなく、一人の女としての愛まで失ってしまうのではないかという恐怖に囚われると――いっそ今この場で、あの圧倒的な天才である彼を殺して、自分も首を括って死んでしまいたいという狂気的な破壊衝動すら胸をかすめる。
(違う……違う! これじゃダメだ……っ! でも、ハルトくんと距離を置いたのは、絶対に間違いなんかじゃない。これは私が、私自身の足で立ち上がって乗り越えなきゃいけない壁なんだ。そうしないと――)
あの人の隣に、胸を張って立つことができない。
対等な、自立した一人の役者として、そしてパートナーとして彼を支えることなんて、一生できないのだから。
あかねはふと視線を上げ、稽古中のかなとアクアの姿を追った。
アクアもまた、ハルトから容赦なく突きつけられた
(アクアくんの芝居の質は……たぶん、ハルトくんと同じタイプだ。自分自身の過去の強い感情や強烈な体験を直接役に投影して引き出す、純粋な『メソッド演技』が向いている。……私みたいなプロファイリングを挟んだ変形メソッドや、かなちゃんみたいに相手の芝居を完璧に受け止めて返すリアクティブな演技は、彼には難しすぎる……)
頭の片隅で、無意識のうちに癖となったプロファイリングを働かせるあかね。
膝の上に置いていた新脚本の冊子を何気なく開き、パラパラとページをめくっていく。
(……メソッド演技……? そうか……普通の役者は、自分自身のリアルな感情や苦痛の経験を、そのまま役の出力へと変換するんだ。……よくよく考えてみれば、プロファイリングに頼りすぎて最初の脚本でうまく役に馴染めなかった時点で、私は役者としてまだまだ未熟だったんだよね。私は、自分の分析結果だけに固執しすぎていたのかもしれない。昔、かなちゃんに言われたっけ……『自分はこう、あなたはこうって勝手に決めつけてる』って……)
バラバラだった思考のピースが、急速に一つに繋がっていく。あかねの瞳に、かすかな光が宿り始めた。台本の文字を辿るうちに、稲妻のような閃きが頭を駆け抜ける。
(…………『刀鬼』との最初の殺陣のシーン。……ここだ。ここから感情を詰め直せば、もう一度『鞘姫』の魂を取り戻せるかもしれない。……私の中にある、ハルトくんへの抑えきれない愛おしさや焦燥感を、そのまま『刀鬼』という存在に対する剥き出しの感情へとすり替えてぶつける。そこから引き出されたリアクションを皮肉な燃料にして……!)
あかねは瞳の焦点をキュッと絞り、据わった鋭い眼差しで立ち上がった。
そして、未だに稽古場で平行線をたどる問答を続けているアクアとかなの元へと、迷いのない足取りで近づいていく。
「ごめんね、二人とも。……アクアくん、今ちょっといいかな?」
あかねはアクアの前に立つと、真っ直ぐにその瞳を見つめて懇願した。
「アクアくん、お願い。二人で抜き稽古……自主練習をしてほしいの。……せめて、刀鬼役のアクアくんとだけは、ちゃんと感情を合わせたい」
急な申し出にかなは驚いていたが、芝居の壁に行き詰まりを感じていたアクアは、あかねの真剣な表情を見て静かに頷き、それを了承した。
やがて日が落ち、周囲のキャストやスタッフのほとんどが稽古場を去り、静寂が館内を包み込んだ。
二人が向かったのは、防音設備の整った小ぶりの別室稽古場だった。
殺陣の木刀を手に持ち、互いに向き合う。あかねは真剣な面持ちで、アクアへと自身のアドバイスを口にした。
「アクアくん。……技術や形をなぞるのを一度やめてみて。自分の記憶の中にある、一番強烈な感情や経験を……直接『刀鬼』という役に繋げて乗せてみるの。メソッド演技の基本だけど、今のあなたにはそれが一番必要だと思う」
「一番強烈な感情や経験……」
あかねの言葉を受け、アクアの瞳が微かに揺れた。
立ち合いが始まる。
あかねは、自分の中に渦巻くハルトへの狂おしい思暮、引き裂かれるような焦燥感、そして彼を失うかもしれないという「絶望の気迫」を軸にし、それを強烈な負のエネルギーへと変換して『刀鬼』へと牙を剥いた。あかねの放つ圧倒的な演技の熱量と刃の気迫。
それに直接触発されたアクアの脳内で、何かが決定的に弾けた。
あかねの凄惨な芝居に引きずられるようにして、アクアの意識の底から引きずり出されたのは――『刀鬼』の持つ「無力感」と「愛する者を目の前で理不尽に奪われる感覚」。
だが、アクアにとってその感情の原体験は、あまりにも過酷で、破滅的なトラウマそのものだった。
幼少期、目の前で真っ赤な血を流して倒れた母――星野アイの死の瞬間。
二人の芝居は、最悪の形で噛み合ってしまった。
あかねの放つ絶望の気迫が触媒となり、アクアのトラウマの引き金が完全に弾け飛ぶ。
「――がはっ……!? ひゅ……っ、く……っ!」
突如として、アクアが木刀を床に落とし、自分の胸をかきむしりながら崩れ落ちた。
その顔は血の気が引き、土気色に変色している。激しい過呼吸を起こし、瞳の焦点を完全に失って苦しげに床を掻きむしるアクア。
「アクアくん……!? 嘘……アクアくん!?」
突然起きた惨状に、あかねは激しいショックで絶句した。
息が途絶えかけ、白目を剥きそうになっているアクアの異変。パニックになりかけたあかねの脳裏に、ふと、メイン稽古場で一人残って作業を続けているハルトの姿が浮かんだ。
「ハルトくん……っ!」
あかねはなりふり構わず小稽古場の扉を蹴開けると、ハルトの助けを求めるため、夜の暗い廊下を全力で駆け出していった。