劇場内の奥深く、静まり返った仮眠室。
無機質なコンクリート壁に囲まれた狭い室内には、二段ベッドが置かれており、かすかなエアコンの稼働音だけが低く響いていた。
下の段のベッドに横たえられたアクアは、荒かった呼吸もようやく落ち着きを取り戻し、規則正しく穏やかな息を吐き出している。先ほどまでの死に瀕したような苦悶の表情は消え、ただ深い眠りに落ちていた。
「ふぅ……これで一先ず安心か」
ハルトは胸を撫で下ろし、パイプ椅子から腰を浮かせた。
向かいのベッドの端に腰掛けたあかねは、膝の上に置いた両手をギュッと握りしめたまま、深く肩を落として項垂れている。顔色は蒼白で、唇を小さく戦がせていた。
「あかね。……一体、何があったんだ」
ハルトの低い声に、あかねはゆっくりと顔を上げた。その大きな瞳にはまだ怯えの色が色濃く残っている。彼女は途切れ途切れに、たどたどしい口調でポツポツと事情を話し始めた。
アクアを行き詰まりから救うために二人で抜き稽古 をしていたこと。
アクアに対し、役作りの手助けとして「過去の強烈な体験や感情」を直接役に引き出して乗せてみるメソッド演技をアドバイスしたこと。
自分自身も、ハルトへの焦燥感や「今感じている生々しい感情」を軸にして苛烈な殺陣を繰り出したこと。
そして、その演技の交差の最中、アクアが突然胸を押さえて過呼吸を起こし、苦しみ倒れてしまったこと――。
あかねの声は震え、途中で幾度も詰まった。アクアが目の前で倒れたショックと罪悪感から、いまだに立ち直れていないのは一目瞭然だった。
「……」
「……ハルトくん……?」
黙り込んだハルトの難しそうな表情を、あかねはおそるおそる探るように伺う。ハルトはハットの庇を少し押し上げ、深く溜息を吐き出した。
「……あかねは悪くないよ。しいて言うなら、間が悪かったってとこか」
「え……?」
「PTSD……心的外傷性ストレス障害。あかねは星野のこと、どこまで読めてる?」
ハルトの淡々とした問いかけに、あかねはハッとして息を呑んだ。プロファイリングに長けた彼女の頭脳が、必死に記憶の引き出しを漁る。
「……『アイ』さんの隠し子で……ずっと探している『父親』への復讐を考えてる。彼が芸能界に身を置いているのは……その父親に辿り着くため、かな」
「俺も同意見だ。……そしてコイツはたぶん、『アイ』が刺殺された現場に……目の前にいたんだと思う。お前との稽古でその過去を深掘りさせられた結果、フラッシュバックを起こしてトラウマが発症したんだ」
ハルトの推測を聞いた瞬間、あかねの顔からサーッと完全に血の気が引いた。
「っ……わ、私の……私のせいだ……! 私が余計なこと言ったから……っ!」
カタカタと全身を酷く震わせ、自分を責める言葉を繰り返すあかね。
ハルトは無言で立ち上がると、あかねの隣に腰を下ろした。そして、自罰の念で激しく震える彼女の小さな両手を、己の大きな手で包み込むようにして優しく握り締めた。
「お前のせいじゃない」
そう言って、ハルトは力強く、けれど温かくあかねの華奢な体を抱き寄せた。あかねの顔がハルトの胸元に埋もれる。
「お前のせいじゃないんだ、あかね」
ハルトは落ち着いた低い声で語りかけながら、彼女の柔らかいロングヘアと背中を、大きな手でゆっくりと撫で続けた。
久方ぶりに肌で感じる、大好きな恋人の温もりと香り。ハルトの胸の鼓動を耳元で聴くうちに、あかねの激しい動悸と震えは徐々に収まり、固く強張っていた全身の力が抜けていった。
「……落ち着いたか?」
「……うん……」
ハルトの手で頭をポンポンと優しく撫でられ、あかねは安心感から幸せそうに目を細めた。
片手であかねの体を抱きかかえてあやしながら、ハルトはポケットからスマートフォンを取り出した。画面の時計は、すでに夜の七時を回っている。ベッドのアクアは、いつ目を覚ますか分からない。
「救急……呼ぶか? 流石にヤバいだろ」
「駄目だよ、ハルトくん……! 救急車なんて呼んだら、大騒ぎになっちゃう……」
「だけどさ、万が一ってこともある」
「それに……アクアくんはきっと、このことをみんなに隠してたいって思ってるはずだから……」
あかねの必死の懇願の瞳を受け、ハルトは「うーん」と唸って天井を見上げた。
「……わかったよ。ミヤコ社長に、今日の稽古が長引きそうだから劇場に泊まっていくかもしれないって伝えておく」
「うん……ありがとう」
ハルトが手早くスマホを操作して通話をかけ、口八丁でミヤコへ連絡を入れる。幸いにも、普段から信頼の厚いハルトの言葉だったため、ミヤコは疑うことなくあっさりと納得した。これで当面のアリバイは成立した。
アクアはまだ目覚めない。時折、「くっ……」と苦しそうなうめき声を漏らして眉間にシワを寄せているのは、悪夢に魘されているからだろうか。
その後、あかねは劇場内のシャワー室で軽く汗を流し、稽古着から私服へと着替えて戻ってきた。
ハルトはタオルを手に取ると、パイプ椅子に座らせたあかねの濡れた髪を丁寧に拭いていく。久々にハルトに髪の手入れをしてもらえるのが心から嬉しいのか、あかねはリラックスした様子で身を委ね、気持ちよさそうにされるがままになっていた。
ドライヤーの温風が静かに響く中、髪が乾き切ると、あかねは吸い寄せられるようにハルトの肩へと頭を乗せ、スヤスヤと小さな寝息を立てて居眠りを始めた。連日の疲労と、先ほどのパニックで精神力を使い果たしたのだろう。
ハルトもまた、あかねの頭に自分の頬を寄せ、静かに目を閉じてアクアが目覚める刻を待った。
「う……っ……」
それからどれほどの時間が経過しただろうか。ベッドの方からかすかな擦れ音が聞こえ、アクアが重い瞼を開いた。
「……ここは……?」
「起きたか」
低い声に反応してアクアが視線を向けると、向かいのベッドの縁で、あかねを抱きかかえるように座っているハルトの姿があった。
「日野……? なんで、お前が……」
「お前、あかねとの抜き稽古中に過呼吸起こして倒れたんだよ」
「過呼吸……?」
アクアは頭を押さえ、不機嫌そうに眉をひそめた。その物音でハルトの肩の上で眠っていたあかねが目を覚まし、目を擦りながら体を起こす。
「あっ……アクアくん! よかった、目が覚めたのね……!」
「黒川……?」
「ごめんなさい、アクアくん……! 私、あなたに酷いことさせちゃった……。昔の辛いこと、思い出させちゃったんでしょう……!?」
あかねはいの一番に、切迫した様子で深い謝罪の言葉を放った。
その言葉が引き金となり、アクアの脳裏に、血の海の中で引きつった笑みを浮かべる『アイ』の死に顔が鮮烈に閃いた。
「昔のこと……っ、ぐあっ……!」
「止めとけ。……〝それ〟をまた下手に開いたら、せっかく落ち着いたのが元の木阿弥だろ」
フラッシュバックを起こしかけたアクアを、ハルトが鋭い制止の声で遮った。
「……」
仮眠室に、気まずい重苦しい沈黙が降り立つ。
アクアはハルトの山吹色の瞳に見つめられ、己の心の奥底に隠し持っている暗い漆黒の感情――父親への殺意と復讐心を、すべて射抜かれ、暴かれているような錯覚に襲われた。
ハルトは意を決したように息を吐くと、静かに口を開いた。
「……星野。お前……『アイ』の子どもなんだろ」
「……っ! ……何の話だ」
アクアの身体が微かに硬直する。ハルトはハットの庇を指で弄りながら、淡々と続けた。
「誤魔化すんならそれでもいいけどさ、隠すんならもう少しうまくやれよ。三歳の頃に死んだ大昔のアイドルが『推し』とか、いくらなんでも違和感ありまくりだろ。まあ……お前の師匠の五反田監督が昔撮った映画、『それが始まり』に出ていた子役『アクア』なら……辻褄が合いすぎるがな」
ハルトは暗に、アクアと『星野アイ』の絶対的な血縁関係を完全に把握していることを突いた。苦虫を噛み潰したような顔で黙り込むアクア。あかねはハラハラとした様子で、二人の顔を交互に見つめている。
「……っ、根拠はそれだけか?」
「いや、まだいくつかある。まず『アイ』の活動休止時期と、その前後のパフォーマンスの違いだ。お前とルビーちゃんが生まれたと考えられる時期と見事に合致する上、休止明けの『アイ』の言動には、明らかに『母親』としての深みが加わっていた。そう考えると綺麗に説明がつく」
「……それはただの推測だ。証拠にはならない」
「そうだな。だが次はどうだ?」
アクアの反論をあっさりと受け流し、ハルトは言葉を重ねる。
「お前が『アイ』について詳しく知りすぎていること。そして……今さら『アイ』を死に追いやった男を探すなんていう、不毛な復讐ごっこをしていることだ」
「不毛だと……!?」
アクアの目が激昂に揺れたが、ハルトは冷ややかな声でそれを一蹴した。
「うまく隠せっつったろ。……『アイ』が生前所属していた『苺プロダクション』の関係者だからって、一昔前の事務所内部の機密情報を、外部の人間がそう簡単に手に入れられるわけがない。当事者、関係者、あるいは肉親じゃない限りはな。……ああ、そういやお前たち兄妹の今の養母も、『苺プロ』の斉藤ミヤコ社長だったな?」
「……ッ、ミヤコには世話になってる。それだけだ」
半ば自白したも同然のアクアの言動。ハルトは気にした風もなく、緻密なロジックを展覧していく。
「未解決の殺人教唆事件を暴くって言えば聞こえはいいが、赤の他人の、それもとうに死んだ人間のために、十代のガキが自分の人生を捨てて危ない橋を渡るか? ……だが、それが『実母』と『実父』という血の繋がりなら、話は別だろ」
「……」
「あとはまあ……お前たち兄妹が『アイ』にソックリすぎるってのもあるか。ルビーちゃんなんか髪色とか変えたら、それこそ生き写しだろ、実際」
「……妹に変な色目を使うなよ」
「ははっ! まあ、そうやって軽口が叩けるなら、もう大丈夫そうだな」
カラカラと明るく笑うと、ハルトは膝を叩いて立ち上がった。
「なあお前ら、なんか腹減らねぇか?」
その瞬間――静かな部屋に、ぐぅ~っ、と間抜けで大きなお腹の虫の音が響き渡った。
出処はあかねだった。あかねは顔を真っ赤にして両手で深く顔を覆い隠す。ハルトはそんなあかねに優しく笑いかけた。
「そうだよな。どうせ仕出しの弁当なんざ、今頃スタッフどもに残らず平らげられてるだろうし……あかね、コンビニ行って何か適当に買ってくるから付き合ってくれよ」
「あ……あっ、うん……っ!」
あかねは恥ずかしそうに立ち上がり、ハルトの後ろに付いていく。
仮眠室のドアを開け、外へ出ようとした際、ハルトは足を止めて振り返った。
「ああ、そうそう。ミヤコ社長には稽古が長引いて泊まるって言っといたから、お前からも一言電話しとけよ。……このままここで泊まるにしろ、家に帰るにしろな」
パタン、と仮眠室のドアが閉まる。
ドアの向こうから、「待ってよハルトくん……!」「走ると転ぶぞー」というあかねたちの呑気なやり取りが遠ざかっていった。
一人残されたアクアは、ぽつんとベッドの上に座り直した。
ハルトが「買い出し」にかこつけて、あかねを連れ出し自分を一人にしてくれたのだと気づき、アクアの引きつっていた表情が無意識のうちに柔らかくほぐれていく。
「……あいつ、妙なところでお節介焼きだな……」
アクアはポケットから自分のスマホを取り出すと、画面を操作し始めた。
「…………。ミヤコに、連絡しとくか」