あかねのたいよう   作:かぜのこ

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第48回:『星を見つめるもの』

 

 時を少し遡り、十一月下旬の寒風が街を吹き抜ける、ある夜のこと。

 激しい稽古を終えたハルト、アクア、姫川の三人は、稽古場から徒歩数分の場所にある、真っ赤な看板が夜道に浮かぶ家系ラーメン屋へと足を運んでいた。

 ガラガラと引き戸を開けると、店内には濃厚な豚骨醤油の香りと、威勢の良い店員の叫び声、そして麺をすする熱気があふれていた。カウンター席に並んで腰掛けた男三人は、稽古の疲労感を心地よく身体に漂わせながら、運ばれてきた丼に向き合う。

 湯気で眼鏡を真っ白に曇らせた姫川は、拭うことすらまどろっこしいと言わんばかりに、夢中で太麺を口へと運んでいる。その隣では、ハルトが「大盛り・固め・濃いめ・多め」に煮卵とチャーシュー、海苔を限界まで盛った圧倒的ボリュームの丼を前に、威勢よく箸を進めていた。

(若い身体ってのは、本当に素晴らしいな……)

 アクアは自分の前に置かれた、こってりとしたスープに太麺が沈む丼を見つめ、ふと前世の記憶を思い返していた。アラサーの医師として生きていた頃なら、この時間帯にこの重厚なラーメンを食すなど胃もたれの未来しか見えない自傷行為に等しい。だが、今の高校生としての若く代謝の整った身体は、激しい稽古で消費されたエネルギーを欲するように、その重い脂と塩分を素直に受け入れていた。

「いやー、やっぱり稽古終わりの家系は五臓六腑に染み渡るわぁ……」

 ハルトが満足そうにチャーシューを頬張りながら、口元を拭う。

「そういえばアクア、最近会ってないけどルビーちゃんは元気してんの? うちなんかさー、親父とオフクロ、兄貴と妹の五人家族だから、実家帰るといっつもバタバタしてて落ち着かねぇんだよね。あかね家みたいに平和ならいいんだけどさ」

 ハルトが何気なく口にしたその言葉に、一瞬だけ卓上の空気が凍りついた。

 アクアは無言のまま麺をすする手を止めず、姫川は眼鏡を軽く押し上げながら静かにスープをすする。

 アクアの複雑な家庭環境――母である星野アイの死、そして実父の謎。

 そして姫川大輝の生い立ち――幼少期に両親を心中で失い、劇団ララライの代表である金田一正敏に引き取られて育った孤児であるという事実。

 ハルトは温かい両親と兄妹に囲まれた恵まれた家庭環境で育っており、その言葉には一切の悪意も嫌味も存在しなかった。ただ純粋な雑談として発せられたからこそ、二人の生い立ちの特殊性が浮き彫りになるという絶妙な地雷原であった。

 微妙な沈黙を察したハルトが、「あ、え……俺なんかマズいこと言った……?」と目を泳がせる。

「……いや、別に。元気にしてるよ。生意気なくらいな」

 アクアが淡々と答え、姫川も「気にしなくていい。俺の家柄が少々特殊なだけだ」と苦笑交じりにフォローを入れたことで、どうにか場は和やかな空気を取り戻した。

(コイツ、時々デリカシー失うよな……意図してやってるんだろうが。それにしても姫川さん、なんか含むものがあったな……)

 アクアはハルトの無神経無さに呆れつつも、姫川のリアクションに不自然さを覚えていた。

 

 やがて食事が中盤に差し掛かった頃、アクアはレンゲを置き、ずっと胸に引っかかっていた疑問を二人に投げかけた。

「……ハルト、姫川さん。一つ聞いていいか」

「ん? なんだ?」

「俺たちが今密かに稽古してる、あのクライマックスの変更案についてだ。……改訂後の脚本でも、ラストバトルは『ブレイド』と『波旬』の一騎打ちということになっている」

 アクアは頭の中で、公式な脚本の展開を整理する。

「元の筋書きでは、『波旬』の元へ急ぐ『ブレイド』のために、『刀鬼』が『ここは俺に任せて先に行け』と露払いをして殿を務める。そして支配から解き放たれた『つるぎ』と『鞘姫』の二人と共に戦場に駆けつけ、『ブレイド』に声を届ける。その声援を契機に、『ブレイド』が覚醒して『波旬』を打ち倒す……という流れだ。あかねと有馬がわざわざ衣装の早着替えをしてまでクライマックスに登場するのは、その声援を送るためだろ?」

「ああ、そうだな」

「で、俺たちが新しく取り組んでいる『刀鬼』と『ブレイド』の共闘案でも、最終的に二人が立ち上がる引き金として『鞘姫』と『つるぎ』の声援が必要不可欠な構造は変わっていない。……なら、俺たちのこの極秘稽古に、有馬やあかねも最初から巻き込んで合わせた方がいいんじゃないのか?」

 アクアの至極ごもっともな指摘に対し、ハルトはニヤリと不敵な笑みを浮かべ、スープを一口すすった。

「それについてはさー……俺にちょっと考えがあるんだよねぇ」

「考え?」

 ハルトのその思わせぶりな表情を見た姫川が、呆れたように缶お茶を口に運びながら吐き捨てた。

「日野、お前……見た目によらず結構タチが悪いよな」

「人聞きが悪いっすねぇ姫川さん! 俺はあの二人の役者としての根性、つまり“役者魂”を100%買ってるだけですって!」

 ハルトは悪びれる様子もなく、いたずらっぽく笑った。

「あかねも有馬もさ、目の前で俺たちが台本にないバチバチの熱量で芝居を繰り広げたら、絶対に黙って見てられないタチなんだよ。特にあかねは、今、俺への愛情と『波旬』への恐怖のアンマッチで、自分の芝居を見失いかけてる。あいつを叩き起こすには、整えられた段取りじゃなくて、生の芝居の圧力で叩き起こしてやるのが一番なんだから」

 アクアは、ハルトのその底意地の悪さと、共演者の力を極限まで信じ切っている圧倒的なエゴイズムに、呆れつつもどこか妙な納得感を覚えていた。

 

 ☆ ★ ☆

 

 十二月初頭。

 木枯らしが街の街路樹を揺らし、冬の深まりを告げる頃。

 公演開幕まで一ヶ月を切ったこの日、ついに本番の劇場を使用した「集中稽古」の初日を迎えていた。

 劇場内には本番とまったく同じ巨大な舞台セットが組み上げられ、独特の塗料と木材、そして機材が放つ熱気の匂いが立ち込めている。ここからは「小屋入り・場当たり」と呼ばれる工程に入り、大道具や照明、音響、プロジェクションマッピングなどの特殊効果を含めた、本番さながらの全行程の最終確認が開始されるのだ。

 普段の稽古場とは比較にならない天井の高さと、暗がりの中に広がる無数の客席。

 その客席の中央付近には、プロデューサーの雷田、演出家の金田一、脚本家のGOA、そして原作・脚本監修を務める原作者の鮫島アビ子が勢揃いしていた。

 あかねは、かなや他の女性キャスト陣とともに、彼らから少し離れた客席のパイプ椅子に腰掛けていた。

「あかねさん、有馬さん! 久々にお会いできて嬉しいです!」

 稽古の初期以来となる鮫島アビ子が、目を輝かせながら二人に駆け寄ってきていた。

「お二人のドレス姿の宣材写真、雷田さんから見せていただきました! いやもう本当に素晴らしすぎて……! 『鞘姫』と『つるぎ』のあの闇堕ちした凄艶な雰囲気、私の脳内イメージそのままでした! 最高です!」

「あ、ありがとうございます、アビ子先生……!」

「ふふん、当然でしょ。プロの仕事なんだから」

 あかねが恐縮して頭を下げる横で、かなは誇らしげに胸を張る。

 そんなやり取りが交わされる中、舞台上からピンマイクを通した金田一の通る声が響き渡った。

「よし、それじゃあ『新宿都庁・決戦』の場当たりから行くぞ! 日野、姫川、星野、位置につけ!」

 客席の照明がすっと落ち、舞台上だけが緊張感のある光に包まれる。

 あかねは膝の上で両手を強く握りしめ、固唾を飲んで舞台を見つめた。これから始まるのは、あの三人――ハルト、姫川、アクアが密かに組み上げてきたという、クライマックスの殺陣だ。

 プロジェクションマッピングの映像が舞台後方の巨大スクリーンに投影される。

 『波旬』の絶大な妖力によっておどろおどろしく変貌を遂げた『呪胎伏魔殿・新宿都庁』の最奥。歪んだ鉄骨と黒い瘴気が渦巻く重苦しい黒鉄の大門の前に、『ブレイド』演じる姫川と、『刀鬼』演じるアクアが佇んでいた。

『準備はいいか、刀鬼』

『ああ……いつでも』

 低く重厚な声が響き、観音開きの巨大な門が開かれる。裏方のスタッフたちが息を合わせて舞台袖へと大道具を引いていく。

 二人が一歩、玉座の間へと足を踏み入れた。

 劇場の空間が、一瞬で変貌する。

 紅いスポットライトが妖しく照らし出す真紅の玉座。そこには、真っ白な髪と漆黒の衣装を纏った『波旬』――日野ハルトが、気怠げに肘を突き、優雅に腰掛けていた。

 その足元には、『鞘姫』や『つるぎ』、『キザミ』ら作中の剣士たちから奪い去った無数の〝盟刀〟のプロップが、不気味な墓標のように突き立っている。

『……ほう。『鞘姫』と『つるぎ』が、我が『隷属』の呪縛から解き放たれたか。後学のために訊きたいのだが……いったいどうやってあの強固な呪いを破ったんだい?』

慇懃無礼で、どこか狂気を孕んだ重厚な声。ハルトが玉座の上から二人を見下ろす。

『知らんな。例え解っていたとしても、貴様のような奴に教えると思うか』

 『ブレイド』が静かに、しかし鋼のような意思を込めて刀の柄に手をかける。

『後は貴様だけだ、『波旬』! 貴様を討ち果たせば……全てが終わる!!』

 『刀鬼』が剥き出しの敵意と殺気を滾らせ、一歩前に踏み出す。

『まあいい。君らをここで斃し、二人を再び我が足元に『隷属』させれば済む話だ……いや、待てよ? 君らをこの場で屈服させ、解放された彼女たちを君らの手で殺めさせるというのもまた一興か』

 酷薄な、冷徹極まりない笑みを浮かべると、『波旬』はゆっくりと玉座から立ち上がった。

 その手が腰元へと伸び、本体たる『他化自在天』――本番用に作られた、黒い刀身に血のような紅い刃を持つ2尺4寸の打刀を、静かな金属音とともに抜き放つ。

 それに合わせるかのように、『ブレイド』と『刀鬼』もそれぞれの盟刀を同時に抜刀。

 次の瞬間、二人の脚が爆発的な踏み込みを見せ、舞台の床を鳴らして一気に肉薄した。

 激突する三者。

 それと同時に、ハルトが自ら作曲を手掛けた劇伴が、劇場のスピーカーから圧倒的な音圧で解き放たれた。

 かつて彼が映画『東京ブレイド』のために書き下ろしたテーマソング『狂花水月』。その美しくも切ない旋律を重厚なオーケストラアレンジへと昇華させたバトルBGMが、最後の死闘をドラマチックに彩る。

 客席のあかねは、開いた口が塞がらないまま、息をすることすら忘れてその光景に見入っていた。

 凄まじい密度の殺陣だった。

 姫川の流麗かつ力強い豪快な太刀筋。

 ハルトの異次元の速度と、どこから飛んでくるか分からない変幻自在の剣技。

 そして、二人よりも役者としてのキャリアで一歩も二歩も劣るはずのアクアが、必死の形相でその二人の超絶的な速度域に喰らいついていた。

 二対一の複雑極まりない立ち回り。互いの刃が接触するミリ単位の間合い、入れ替わる立ち位置、そして交わされるセリフと視線。

 舞台上に投影される光の演出(プロジェクションマッピング)と、時折用いられる大胆なワイヤーアクション、そして何より三人が放つ本物の殺気が融合し、そこにあるのはもはや「お芝居」ではなかった。

 本当の戦いが、今まさに目の前で繰り広げられているという錯覚――真に迫る〝現実〟が、劇場を支配していた。

 あかねの優れた観察眼が、三人の……特にハルトの演じる『波旬』の精神の奥底を鮮明に捉える。

(違う……ハルトくんはただ演技をしているんじゃない……! ハルトくんの心が、魂が叫んでる……!)

 ハルトの黄金の瞳が、狂気的なまでの歓喜に揺れていた。

『もっとだ! もっと来い!! 星野アクア!! 姫川大輝!!』

『言われなくても……ッ!』

『俺たちで……お前を討つ!!』

 刃が打ち合わさるたびに、甲高い金属音とともに見えない火花が散る。

 アクアの瞳の奥に、渦巻く漆黒の星がギラギラと激しく輝く。

 姫川の瞳の奥に、研ぎ澄まされた紫紺の星が生き生きと躍動する。

 二人の天才役者が全霊を叩きつけてくるその圧力を受け止めながら、ハルトの内に眠る“怪物”が歓喜の産声を上げていた。

『そうだ!! お前たちの持てる限りの輝きを、俺に魅せてみろ!! 俺に――俺の“100%”の、その先を教えてみろ!!!』

 ハルトの山吹色の瞳の奥で、無数の星々が集う巨星の星雲が激しく回転し――次の瞬間、それすらも呑み込むほど絢爛たる、黄金の太陽が燦然と煌めいた。

 観客席で見守る雷田や金田一、GOA、アビ子までもが、その圧倒的な存在感に言葉を失い、身を乗り出している。

 だが――これほどまでに限界を超えた『ブレイド』と『刀鬼』の二人がかりの猛攻をもってしても、『波旬』という絶対的な絶望の壁は破れない。

 劇伴の曲調が変化する。『波旬』の重厚な存在感を象徴する、ピアノの不穏な低音が支配する劇伴へ。これもまた『狂花水月』のフレーズを不気味に分解・アレンジしたものだ。

 圧倒的な剣技の前に、ついに『ブレイド』と『刀鬼』の二人が膝を屈する。

「……どうして」

 劇場の誰もが、三人が織りなす極限の劇中世界へと没入し、息をのんでいたその時。

あかねの口から、ぽつりと小さな呟きが漏れ出た。

「あかね……?」

 隣の席に座っていた吉冨こゆきが、その異様な気配に気づき、あかねの横顔を見て小さく息をのんだ。

「ひっ……!」

 あかねの浅葱色の美しい瞳の奥に、どろりとした深い闇――黒い星が、ゆらりと浮かび上がっていた。

「……どうして、あそこに立っているのが……私じゃないの?」

 自分でも制御のつかない、低く掠れた囁き声。

「どうして……ハルトくんのあの全開の演技を、あの領域を引き出したのが……私じゃないの……!?」

 ハルトの限界の先を引き出してみせた、アクアと姫川に対する狂おしいほどの情念と嫉妬。

 そして何より、未だに『波旬』への恐怖を克服できず、自分の新しい演技を掴みきれずにいる不甲斐ない自分自身に対する、激越な怒りと嫉妬があかねの胸中で激しく渦巻いていた。

 ――悔しい。死ぬほど悔しい。ハルトくんの隣に立ちたいのは、ハルトくんの全てを受け止めたいのは、私なのに……!

 だが、そのドロドロとした黒い感情の一方で、役者としてのあかねの本能は、そして客席の観客たちの心は、三人が作り出す圧倒的な物語の引力によって、さらなる深みへと引きずり込まれていた。

 舞台上では、劇伴の音が不意にぷつりと途切れる。

 激しい息吐く『ブレイド』と『刀鬼』が、ついに床に膝をつく。

 肩をわずかに上下させ、息を整えた『波旬』が、蔑むような冷ややかな視線を二人へと向けた。

『よく凌いだが……これで終いだ』

『ぐ……ぅ……ッ!』

『くっ……クソッ……!』

 血を吐くような呻き声をあげる二人に対し、『波旬』は残酷なほど優雅な所作で、『他化自在天』の紅い刃を高く掲げた。振り下ろされれば、二人の命はない。

 その瞬間だった。

 客席にいたあかねとかなは、何かに強く突き動かされたように――あるいは、役者としての本能に導かれるように、完全に同時に椅子から立ち上がっていた。

 二人の肉体に宿る『鞘姫』と『つるぎ』の魂が、彼女たちの背中を強く押したのだ。

『刀鬼!!』

『ブレイド!!』

 静まり返った劇場内に、二人の少女の切痛な、しかし力強い叫びが響き渡る。

『勝ちなさい!!』

『負けるな!!』

 その叫びが舞台上の二人の耳に届いた瞬間。

『『応ッ!!!!』』

 腹の底からの咆哮とともに、『ブレイド』と『刀鬼』が力強く立ち上がる。

 それと寸分たがわぬ計算され尽くしたタイミングで、劇伴が爆発的な音響とともに再開した。

 『狂花水月』のフレーズを核に、これまでの作中で流れてきた数々のテーマソングのフレーズを融合させた、圧倒的な疾走感を誇るクライマックス・ナンバー。和ロックをベースとした激しい弦楽器のイントロから、重厚なエレキギター、腹に響くドラム、そして絢爛なシンセサイザーの電子音が加わり、敗北の絶望を破る「勝利と希望」の旋律が劇場全体を包み込む。

 『鞘姫』と『つるぎ』の愛と絆、そして仲間たちの魂の声援を受け、『ブレイド』と『刀鬼』の二人が猛然と『波旬』を追い詰めていく。

 どれほど打撃を加えても揺るがなかった『波旬』が、二人の放つ解き明かせぬ「絆の力」に圧され、それまでの優雅で異様な剣技を投げ捨て、なりふり構わぬ荒々しい太刀筋で刃を振るい始める。

 緊迫する最後の殺陣。

 客席から見守る『鞘姫』(あかね)『つるぎ』(かな)の視線を受けながら、戦いは音楽の盛り上がりとともに真のクライマックスへと突入する。

 追い詰められた『波旬』が、客席に完全に背を向ける位置へと追い込まれる。

 正面を向いた『ブレイド』と『刀鬼』が、その魂の叫びを表情の全てに刻み込み、大上段に掲げた二本の刀を、交差させるようにして一気に振り下ろした。

 プロジェクションマッピングによる二筋の鮮烈な白い斬撃の光。

 それと同時に『波旬』が崩れ落ち、彼の手からこぼれ落ちた『他化自在天』が、音を立てて粉々に砕け散る。

 舞台を赤く染めていた惨劇の照明が、静かな夜の訪れを告げる優しい青い光へと、ゆっくりと移り変わっていった。

 

 ☆ ★ ☆

 

 クライマックスの殺陣が終わり、劇場内にしんと静まり返った静寂が訪れる。

 客席で立ち尽くしたままだったあかねが、誰よりも早く、弾かれたように拍手を送った。

 それに続くようにかなが激しく手を叩き、次の瞬間、客席にいた雷田、金田一、GOA、アビ子、そしてスタッフ全員から、割れんばかりの万雷の拍手が舞台上の三人へと惜しみなく贈られた。

 演出の金田一は、深々と頷きながら満足そうな笑みを浮かべており、原作者の鮫島アビ子は感極まった様子で「すごい……すごすぎます……!」と早口で感動を撒き散らしている。

 あかねとかなは、居ても立ってもいられず、そのまま舞台の足元へと駆け寄った。

「ほら見ろアクア、俺の狙い通りあかねと有馬が完璧に()ってくれたろ?」

 ハルトが刀を収めながら、アクアに向かってドヤ顔で鼻を鳴らす。

「ハルトくん……! 私たちが演技に入るって、最初から分かってて……!?」

「当たり前だろー。あかねも有馬も、目の前であんな芝居見せられて黙ってるような生半可な役者じゃないって、俺が一番よく知ってるからな」

「アンタねぇ! こういう大事なサプライズは、普通事前に一言言っておくものでしょ!?」

 かながプリプリと怒ってみせるが、ハルトは「ドラマチックで良かったじゃんねぇ?」とまったく反省の色を見せない。

「まあ……確かに。全体として信じられないくらい盛り上がったのは事実だな」

 姫川が額の汗を拭いながら、苦笑交じりにハルトの肩を叩く。

「……お前たちの声援、助かった」

 アクアは、無意識のうちにかなの方へと視線を向けながら静かに礼を言った。

「そ、そう……? それなら、よかったけど……」

 アクアから直視されて感謝を述べられた途端、先ほどまでの威勢はどこへやら、かなは急にしおらしくなって俯いてしまった。

 そしてハルトは、舞台の上からあかねを見下ろし、柔らかく微笑んだ。

「あかね、コツ……掴んだか?」

「えっ……?」

「さっき、咄嗟に『鞘姫』として声を出せただろ。今のあかねなら、もう『波旬()』と対峙しても、自分の演技を見失ったりしないんじゃないか?」

 ハルトのその言葉に、あかねはハッと息を呑んだ。

 自分の胸の中にあった『波旬』への底知れぬ恐怖が、あの激しい嫉妬と興奮、そして『鞘姫』として発した叫びによって、完全に上書きされていることに気づいたのだ。

「あっ……うん! 私、もう大丈夫……!」

 あかねは、力強く大きく頷いた。

 

 熱狂の冷めやらぬまま、その後の場当たり稽古が再開された。

 ハルトの言葉通り、その後の稽古におけるあかねの演技は見違えるような変貌を遂げていた。

 『波旬』に囚われ、心を封じられた『鞘姫』の複雑で悲痛な情緒を、あかねはハルトすらも感服する圧倒的な精度と解像度で演じきってみせたのだ。

 あかねの放つ悲痛で気高き『鞘姫』の演技に引き上げられるように、ハルトの演じる『波旬』もまた、さらなる絶対的な悪としての深みを増していく。互いが互いの限界を引き出し合う、理想的な相乗効果がそこには生まれていた。

 そうして、本番さながらの過酷な場当たり稽古は、誰一人大きな怪我をすることもなく、全ての行程をつつがなく終了したかに思えた。

 ――まさに、その時だった。

「お疲れ様でしたー! 本日の場当たり、これにて全行程終了です!」

 スタッフの威勢の良い声が劇場に響き渡り、緊張の糸が切れた瞬間。

「……っと」

 舞台の中央でプロップの刀をスタッフに返却しようとしていたハルトの体が、ゆらりと不自然に傾いた。

「ハルト……?」

 隣にいたアクアが不審に思い、声をかけた次の瞬間。

 糸が切れた人形のように、ハルトの巨体がそのままバタリと倒れ、舞台の床に重い音を立てて崩れ落ちたのだった。

「ハルトくん―――っ!?」

 劇場全体に、あかねの悲痛な叫び声が響き渡った。

 

 

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