長く過酷だった夏の熱気がようやく去り、季節は十月。街路樹の葉先が鮮やかな黄金色や深い琥珀色に染まり始め、どこか物憂げで心地よい風が吹き抜ける、芸術の秋がやってきた。
澄み渡る秋晴れの休日の午前。都内の主要駅の改札前は、休日を楽しむ多くの人々で行き交い、独特の活気に満ち溢れていた。そんな人混みの片隅で、劇団ララライの黒川あかねは、緊張のあまり何度も何度も自分のノースリーブワンピースの裾を引っ張っては整え、落ち着かない様子で周囲を見回していた。
「おう、あかね! 悪い、お待たせ!」
改札の向こう、人混みを割るようにして現れた日野ハルトは、首元に少し厚手の、落ち着いたアースカラーのパーカーを引っ掛けた、爽やかで清潔感のある私服姿だった。いつもの制服姿とは少し違う、どこか大人びた彼の雰囲気に、あかねの心臓が不意に小さな跳ね方をする。
「ううん、今来たところ。全然待ってないよ。……ハルトくん、今日は本当に、あの美術館に連れて行ってくれるんだよね?」
「そうそう。ガラス工芸の展示が有名でさ。なんか体験工房も併設されてるらしくて、面白そうじゃん?」
ハルトはいつもの、雲一つない秋空のように底抜けに明るい太陽の笑顔を浮かべた。
二人が歩調を合わせて駅のコンコースを歩き出す。あかねは歩きながら、密かに胸の奥を激しく躍らせていた。これまでのような放課後の息抜きや突発的な寄り道ではない。これは正真正銘、事前に約束を取り付けた、二人きりの休日デートなのだから。
駅から少し歩いた並木道の先にある美術館は、都会の喧騒から隔絶された、洗練された静謐な空間だった。館内は薄暗く、ライトアップされた幾百もの美しいガラスアートが、まるで水中に咲く大輪の華のように妖艶な光を放っている。
「うわ、これすげえな! どうやってこの形を保ってんだろ」
ハルトは高尚な芸術論を振りかざすでもなく、本当に少年のように瞳をキラキラと輝かせて、純粋に展示を楽しんでいた。彼がガラスの立方体を見つめるたび、そのひまわり色の瞳に幾重もの複雑な反射光が写り込む。そんな彼の飾らない横顔を盗み見ているだけで、あかねの心はぽかぽかと温かい熱で満たされていくようだった。
一通りの展示を見終えた二人は、本日のお目当てである、敷地内に併設されたガラス体験工房へと向かった。
そこは、熱せられたガラスの甘い匂いと、ガスバーナーの強烈な轟音が微かに響く職人たちの世界だった。二人が挑戦するのは、色ガラスの棒をガスバーナーで溶かし、芯線に巻き付けて丸める「とんぼ玉」の製作だ。
「――はい、じゃあ次はそのままずらしてね。焦らず均等に回して」
年配の職人の丁寧な指導のもと、まずはハルトが作業台の前、激しい炎を噴き出すバーナーの前に座った。彼は職人の無駄のない手つきや、炎とガラスの正確な距離感をじっと一瞬だけ見つめると、「なるほど」と小さく呟いて手を動かした。
――その瞬間、彼の「精密な身体操作」が、何の衒いもなく炸裂した。
ガラスの棒を回転させる手の角度、炎に晒す時間の正確さ、熱の入れ方から息の吹き込み方に至るまで、一切のブレも、迷いもない。職人が「おや……?」と目を見張るほどの手際の良さで、ハルトは自分の瞳と全く同じ、鮮やかで吸い込まれそうなひまわり色の美しいとんぼ玉をものの数分で完成させてみせた。
「日野くん……信じられないくらい上手。本当に初めてなの……?」
「そうか? 見てたらなんとなく感覚が分かったわ。じゃ、次はあかねの番な。交代」
ハルトに促され、バーナーの前に座ったあかねだったが、いざピンセットとガラス棒を握ると、猛烈な緊張が彼女を襲った。ハルトが椅子のすぐ横から、彼女の手元をじっと覗き込んできているのだ。
炎の熱さよりも何よりも、至近距離にあるハルトの綺麗な指先や、衣服越しに伝わってくる男の子特有の体温に意識が向いてしまい、あかねの手元がわずかに狂う。ガラスが自重で歪みそうになった。
「あ、危ねっ、あかね! ちょっと右手に力入りすぎだって!」
「えっ、きゃあ!?」
ハルトが咄嗟に、あかねの背後から包み込むようにして両手を伸ばした。
それは客観的に見れば、完全に背後から抱きしめる「バックハグ」のような体勢だった。あかねの白く細い手の上に、ハルトの少し骨張った、男の子らしい大きな手のひらが、迷いなく重なる。
「いいか、肩の力抜いて。ゆっくり、同じ速度で回すんだよ。ほら、こうやって……」
耳元、髪の毛がかすれるほどの至近距離で囁かれるハルトの低い声と、背中からダイレクトに伝わってくる彼の胸板の心地よい硬さ。あかねの心臓は、バーナーの轟音すら掻き消すほどの爆音でバクバクと鳴り響き、もはや目の前のガラス細工のことなど、これっぽっちも頭に入らなくなってしまうのだった。
美術館を後にした二人は、芸術の秋のハシゴと称して、街角にある少しレトロな佇まいの映画館へと足を運んだ。あかねの個人的なリクエストにより、リバイバル上映されている往年の名作ホラー映画を観るためだ。
劇場内が暗転し、巨大なスクリーンに映像が映し出される。
ハルトは特大のポップコーンを片手に抱え、「うわ、来るぞ来るぞ……!」と、純粋に絶叫マトラクションを楽しむかのようにワクワクした表情でスクリーンを見つめていた。
一方、あかねはといえば、現役の役者・プロファイラーとしての悲しい性が邪魔をしていた。画面を完全に冷静な視線で分析し、脳内で構造化してしまっていたのだ。
(あ、今の不穏なカメラワーク、観客の恐怖を煽るためにわざと影の光量を落としてるわね。この構図だと、この後、画面の右奥から特殊メイクの怪物が飛び出してくる動線だわ。やっぱりね……)
全く怖がる様子もなく、完全に画面の演出の勉強モードに入っていたあかねだったが、ふと数列前方の席が目に入った。
そこには若い本物のカップルが座っており、画面に醜悪な怪物が現れた瞬間、彼女の方が「キャー!」と可愛らしい悲鳴を上げて、彼氏の胸にしがみついていたのだ。彼氏は彼女の肩を引き寄せ、優しく頭を撫でている。
(ハッ……! そうだ、私、何やってるの……!? 普通の女の子なら、ここは怖がって男の子に甘える絶好の場面……っ!)
デートのヒロインとしての正しい振る舞いに出遅れたことを察知したあかねは、映画の恐怖ではなく、自身の戦略ミスに焦りを感じ、ワンテンポ遅れて行動を起こした。
「……キャ、キャー」
あかねは、隣に座るハルトのパーカーの袖をきゅっと両手で掴み、いかにも怖がっている風を装って、控えめに彼の肩へと頭を預けた。
我ながら完璧な、守ってあげたくなるヒロインムーブ。これでいくら朴念仁のハルトくんでも、ドキッとして、私のことを女の子として――。
「いやお前、今の絶対に怖がってないじゃん」
シアターの薄闇の中、ハルトから1ピクセルもブレない、完全な素のトーンで容赦のないツッコミが飛んできた。
「え……?」
「いや、だって今の『キャー』のタイミング、怪物が画面から消えて次の静かなシーンに移った後だったし。しかも声のトーンが、完全に舞台のセリフ読みの発声トーンじゃん。あかね、本当はこれっぽっちもビビってないだろ」
ハルトはポップコーンを一つ口に放り込みながら、暗闇の中でけらけらと意地悪そうに笑っている。
「も、もうっ! 日野くんの唐変木! 変態! デリカシーゼロ! 最低!」
せっかくの計算と可愛いアピールが完全に空回りしたあかねは、声を潜めながら叫ぶという役者としてのスキルを無駄に発揮すると、ハルトからぷいっと激しく顔を背ける。映画館のシートの中で顔を耳の付け根まで真っ赤に染め上げ、プクーッと膨れるのだった。
☆ ★ ☆
その日の夜、黒川あかねの自室。
あかねはベッドの上で、昼間の工房でハルトと一緒に作った「ひまわり色」のとんぼ玉を、デスクライトの光にかざしてじっと見つめていた。光を透過して、彼女の部屋の壁に鮮やかな黄色い光の輪が広がる。
「……もう、ハルトくんのバカ。せっかく、せっかく可愛くしがみついてあげたのに、あんな言い方ないじゃない……っ!」
ぶつぶつと枕に向かって文句を言いながらも、背後から抱きしめられるようにして彼に触れられた、あの手のひらの熱、耳元に届いた吐息を思い出し、あかねは急に恥ずかしさが限界を迎え、ベッドに顔を深く埋めて足をパタパタと小刻みに激しく揺らした。
なんとか気を取り直した彼女は、机の上のタブレット端末を起動し、お約束である『HARU』の生配信を開いた。今夜の企画は、視聴者のリクエストに応じた、まったりとしたお絵描き配信だった。
画面の中のハルトは、オーバーサイズのオレンジ色のパーカー姿で、液晶タブレットに向かって迷いなくペンを走らせている。ハルトの精密極まる手先から生み出されるイラストは、プロのイラストレーター顔負けの、寸分狂わぬ完璧なデッサン力と骨格理解で構築されていた。
『はいどーも皆様こんばんは、『HARU』です! 今日はね、まったり雑談しながら、みんなから募ったリクエストのイラストを描いてくよー』
コメント欄が『相変わらずペンの迷いがなさすぎて怖い』『何でもできるなこの男』『脳内に3Dモデルでもあるんか?』と絶賛の嵐で流れる中、イラストの線を整え終えたハルトが、ふとお馴染みの、ケラケラとした雑談を切り出した。
『あ、そーいえばさぁ。今日、学校の友達と映画館にホラー映画観に行ったんだけどさぁ』
その言葉がイヤホンから流れた瞬間、あかねの身体がピクッと強烈に強張った。
『その友達がさ、映画観てる間ずーっと超冷静な顔で画面分析してたくせにさぁ。前の席のカップルがイチャつき始めたのを見た瞬間、急にワンテンポ遅れて「キャ、キャー」って急に義務的なキャーを言い始めてさぁ! いやお前絶対に怖がってないだろ!って思わずその場でツッコんじゃったわ。めちゃくちゃウケない? あれ何だったんだろなー』
画面の向こうで、お腹を抱えるようにして大爆笑するハルト。
その発言を受けて、配信のコメント欄は一瞬で爆速の祭りと化した。
『義務キャーwwwww』
『それ絶対可愛いアピールだろ気づけよHARUwww』
『HARUの難聴スキルが今日もカンストしてて草』
『その友達、絶対女子だろ!? ウラヤマシイゾ!爆発しろ!』
『気づいてやれよwwwwピュアかよその子www』
世界中の何万人という視聴者がチャット欄で大盛り上がりする中、タブレットの画面を見つめるあかねの顔は、限界を遥かに突破して、今や茹で上がったダコのように真っ赤に、破裂しそうなほどに染まっていた。
「……ッ、ハ、ハルトくんの、大バカァーーーーー!!!!!」
あかねはベッドの上の枕を、ハルトの笑顔が映る画面に向けて全力で投げつけると、掛け布団を頭からすっぽりと被り、ベッドの上で羞恥心とのたうち回った。
世界中で自分だけが、画面の向こうの天才の特別席に座っている。普段ならどうしようもない優越感に包まれるその指定席は、今夜ばかりは、彼女を焼き尽くす特大の恥ずかしさへと裏返っていた。
芸術の秋、そして二人のもどかしすぎる距離感は、今夜も画面を越えて、甘く激しくこじれていくのだった。
【登場人物・設定紹介】
黒川あかね:ヒロイン。好きな映画はミステリー、スリラー、サスペンスなどの現実的なもの。役者の演技や演出、脚本、撮影技法にうるさい。
日野ハルト:オリ主。好きな映画はB級映画全般だが、面白いかどうかと映画としての出来の評価は別。なお、特撮関係は別枠で好き。