十二月十七日、日曜日。都内某所。
鉛色の空から吹き下ろす冷たい冬の風が、コンクリートの隙間を縫うようにして街を駆け抜けていく。ビルの建ち並ぶオフィス街は、休日ということもあって閑散としていたが、それでも道行く人々は皆、寒さから逃れるように襟元を合わせ、どこか足早に去っていく。
乾いた風が街路樹の枯れ枝を揺らす音が、静かな通りに響いていた。
芸能事務所『株式会社神木プロダクション』が入っている中規模のテナントビル。その道路を挟んだ反対側の歩道に、グレーのウールコートに身を包んだあかねの姿があった。
顔の半分まで厚手のマフラーで覆い隠しているものの、特に変装らしい変装はしていない。帽子も深く被ってはいないし、サングラスもかけていない。それでも、彼女に視線を留める通行人は一人もいなかった。
天才役者としてのスキルを無意識の領域で発揮し、あかねは雑踏に紛れる「ただの通行人A」のように完全に気配を消していた。歩幅、肩の落とし方、視線の配り方、さらには呼吸のリズムに至るまで、周囲の環境に完璧に同化している。
(……身柄が特定できれば、情報は簡単に手に入る)
街路樹の太い幹の影に自然体で身を隠しつつ、あかねはガラス張りのビルを遠目に観察していた。凍てつくような外気とは裏腹に、彼女の胸の奥底では冷たくも鋭い知的好奇心と、大切な人たちを守るための使命感が静かに燃えている。
コートのポケットから、手袋越しの指先でスマートフォンを取り出す。冷ややかな金属の感触が、彼女の意識を一層研ぎ澄ませた。
カメラアプリを起動し、周囲に悟られない絶妙な角度でビルへレンズを向ける。無音カメラの設定を確認し、外観、テナントの看板、エントランスの様子などを何枚か撮影した。
「……よし」
吐く息が白く曇る中、マフラーの下で小さく呟く。写された画像が鮮明であることを確認したあと、あかねはスマートフォンをしまい、再びビルを少しの間だけ眺めた。
建物の向こう側、あの奥に、すべての元凶がいるかもしれない。
ふと、直接乗り込んで正面から問い質す、という方法が頭をよぎった。自分の身を危険に晒してでも、あの男の尻尾を掴み、アクアやルビーを、そしてハルトを過去の呪縛から解放できるのなら――。
だが、あかねはすぐにその無謀な考えを頭を振って振り払った。冷たい風にさらされた茶色の髪が揺れる。
自分はもう、独りではない。ハルトというかけがえのない存在が隣にいる。彼を悲しませるような独断専行は、絶対にしないと誓ったのだ。
あかねは踵を返し、足早にその場を離れた。冷え切ったアスファルトを踏みしめる靴音が、冬の街に吸い込まれて消えた。
☆ ★ ☆
星野アクア、そして姫川大輝の出生の秘密――二人が異母兄弟であるという真実――が明らかになったあの日の翌日から、舞台『東京ブレイド』の公演は、何事もなかったかのように順調に進んでいた。
熱気に包まれた劇場、眩いスポットライト、ドーランと埃の混じった独特の匂い。その中で、アクアの演技は表面的には何一つ変わっていないように見えた。
しかし、あかねとハルトの目には、それがひどく痛ましく映っていた。
姫川大輝の父親である上原清十郎が自分たちの父親であり、すでに心中事件で死亡していると「誤認」したアクア。復讐の対象がこの世にいないと知った彼は、憑き物が落ちたように穏やかな表情を見せる瞬間があった。
それはつまり、アクアが心の奥底、無意識下で「復讐を辞めたがっていた」という明白な証明だった。復讐の呪縛をあかねとハルトに預けることで一次的にでも解放されて安堵する一方で、生きる目的そのものを見失い、空虚な空間を漂っているような危うさ。刀を振るう彼の瞳から、かつて宿っていた暗い炎が消えかけているのを、あかねは舞台袖から見つめていた。
そして、その変化に最も敏感に反応していたのが、有馬かなだった。
彼女はアクアの雰囲気が決定的に変わったことに感づいていた。しかし、深い事情を知らない彼女は、核心に触れることができず、ただ悶々とした焦燥感を抱え込んでいるようだった。
楽屋の廊下ですれ違うたび、かなは何かを言いたげに唇を噛み、あかねやハルトに向けて、チラチラと探るような視線を向けてきていた。
その視線には、純粋な心配と、蚊帳の外に置かれていることへの寂しさが入り交じっている。あかねはそれに気づきながらも、台本に目を落としたり、ハルトと談笑するふりをしたりして、無視を決め込むしかなかった。
(ごめんね、かなちゃん……あなたを、この深く黒い泥沼に引きずり込むわけにはいかないから。…………。でも、このままずっと知らないままだとしたら、きっとかなちゃんの恋はアクアくんには届かない……私、どうしたらいいの?)
罪悪感で胸が締め付けられる思いを抱えながら、あかねは公演をこなしていた。
☆ ★ ☆
十二月十八日、月曜日。舞台『東京ブレイド』の休演日。
ハルトの自宅兼スタジオの広々としたリビングダイニングは、床暖房の優しい温もりと、先ほどまで楽しんでいた夕食の余韻に包まれていた。
今日は、
午後七時頃。食事と後片付けを終えた二人は、一階の奥にある音楽スタジオへと移動していた。
防音仕様の分厚い扉を閉めると、外界の雑音が完全に遮断され、鼓膜が微かに圧迫されるような特有の静寂が訪れる。
最新鋭の音響機材やシンセサイザーが並ぶ部屋の一角には、座り心地の良い黒い革張りのソファーセット、小型の冷蔵庫、そして壁掛けの大型テレビモニターなどが機能的に配置されている。リビングダイニングが配信スペースを兼ねているこの家において、外界の目を一切気にすることなく素の自分を曝け出せるのは、この防音スタジオという完全なプライベート空間だけだった。
オレンジ色がかった間接照明の温かい光の中、部屋の隅に置かれた大型のホワイトボードの前にハルトが立っていた。彼の手には黒のホワイトボードマーカーが握られており、盤面にはすでに何枚かの写真がマグネットで貼り付けられている。
「あかねの調べてきてくれた情報と、俺が調べた情報が出揃ったな」
ハルトが振り返り、静かな、しかし確かな熱を帯びた声で言った。
「うん」
あかねは、革張りのソファにちょこんと行儀よく座り、温かいマグカップを両手で包み込むように持ちながら頷いた。膝の上には使い慣れたメモ帳とペンが置かれている。彼女の浅葱色の瞳は、真剣な面持ちでハルトとホワイトボードを交互に見つめていた。
「いい機会だし、『カミキヒカル』のことや星野アイのこと――つまり、事件のあらましについて、ここで一度、改めて洗い直すことにしよう思うんだが、どうだ?」
「うん、それがいいと思う。どんなに些細なことでも、間違った認識のまま進めたら、後戻りできない間違った結果にたどり着いちゃうかもしれないから」
あかねが真摯に答えると、ハルトも深く頷いた。
「そうだな。
ハルトはマーカーのキャップを外し、ホワイトボードに向き直った。キュッ、キュッという硬質な音が、密室のスタジオに響く。
「よーし、じゃあ、ここまでの事実を客観的な視点で一から整理するぞ」
「うん、よろしくお願いします」
ハルトはまず、ホワイトボードの中央に、天性の輝きを放つ星野アイの顔写真を貼り付けた。そして、彼女を中心とした放射状の人間関係の図を素早い手つきで書き連ねていく。
【星野アイの客観的事実と分析】
* 公的なプロフィールと表面上のキャリア
ハルトのペンの動きに合わせて、あかねは頭の中の情報を整理していく。
「まず、表向きの事実だ」とハルト。「アイは十三年前、アイドルグループ『B小町』の絶対的センターとして平成末期の芸能界を席巻した伝説的アイドルだった」
「うん。そして、二十歳の誕生日……ドーム公演当日の朝、極秘に引っ越したばかりの新居の玄関先で、熱狂的ファンの男、
あかねの言葉には、自然と悲痛な響きが混ざった。
「警察や世間の認識は、『ファンによるストーカー化』『処女信仰の破綻による逆恨み』『単独犯による突発的な悲劇』。これが、世間一般が知る事件の全貌だ」
* 芸能界の裏側に隠されていた事実
「だが、俺たちとごく一部の関係者だけが知る事実がある。アイは十七歳の時に極秘裏に双子――アクアとルビーを出産していた。世間はもちろん、熱狂的なファンやメディアにも完全に隠し通されていた」
ハルトはアイの写真の横に、幼いアクアとルビーを象徴する小さな丸いマグネットを二つ書いた。
「刺殺現場となった新居は、引っ越した直後。その住所を知り得たのは、所属事務所である苺プロダクションの社長夫妻とごく一部の関係者。そして――」
「『双子の父親』だけ……」
あかねが息を呑むように補足した。
「そうだ。さらに、俺が以前『アイドル』の楽曲制作のために調査した結果、アイは幼少期に施設で育ち、家庭の温もりや『愛すること・愛されること』がよく分からないまま生きていたという生い立ちも判明している」
* プロファイリングによる「アイの内面と人間関係」
「ここからは、あかねの得意分野だ。プロファイリングによる内面の分析」
ハルトに促され、あかねはマグカップをテーブルに置き、居住まいを正した。彼女の瞳に、かつて星野アイの思考をトレースした際の、深く暗い、そして眩い光が宿る。
「アイさんにとって、『嘘は最高の愛』だった。ファンや世間に完璧な
あかねの震えるような声が、防音室の空気を震わせる。
「十七歳で妊娠・出産を選んだこと。そして、殺害される直前までその存在を大切に隠していたこと。アイさんにとって、相手の男性……『カミキヒカル』は、単なる気まぐれなんかじゃなかった。自分の内面にある、嘘と本当の愛の葛藤を明かせる、数少ない特別な存在だったはずだよ」
ハルトが静かに頷き、ホワイトボードに『愛憎の破綻?』と書き込んだ。
「だが、アイが二十歳になり、嘘偽りのない本当の愛を双子や周囲に向け始めた時期……まさにドーム公演の直前に、事件は起きた」
「アイさんが自立して、アイドルとしてではなく一人の人間として本当の愛を手に入れようとしたことが……相手との関係性のこじれや、愛憎の破綻を引き起こしたんじゃないか。私たちはそう分析してる」
次にハルトは、少し離れた位置に、薄ら笑いを浮かべているような冷たい目をした青年の写真を貼った。
【容疑者、カミキヒカルの公的データ】
「現在の年齢は三十一か三十二歳。神奈川県出身。身長百七十八センチ。プライベートでもスーツを愛用。十歳から十六歳まで、劇団ララライに所属。退団後、有名私立大学の理学部に進学し二十二歳で卒業。二十五歳で『株式会社神木プロダクション』を設立し、現在は代表取締役」
あかねが先日、偵察してきたビルの主だ。
「俺たちの前提として、アイが十七歳で妊娠・出産したことから、相手は当時交際していた男性。十三年前の事件は、隠し子の存在を知った元カレとの愛憎劇、あるいは保身のためにリョースケへ情報を流した『教唆犯』である可能性が高い」
【上原清十郎と姫川愛梨、姫川大輝】
「そして、アクアの認識を歪めた要因」
ハルトは上原夫妻と姫川大輝の名前を書き連ねた。
「劇団ララライの元劇団員・上原清十郎とその妻の心中事件。アクアは上原が自分たちの父親だと推測していたが、上原夫妻の死亡時期と星野一家の引っ越し時期に生じるアンマッチから、それはあり得ない。」
ホワイトボードは、びっしりと黒い文字と矢印で埋め尽くされていた。
あかねとハルトの視点において、星野アイは「才能に溢れながらも歪な愛の形に縛られ、過去の交際相手との関係性のこじれによって二十歳で命を落としてしまった悲劇のヒロイン」として浮かび上がっている。
そしてカミキヒカルは、「過去の悲劇の引き金を引いた元凶であり、今も逃げ続けている父親」として設定されていた。
ハルトはマーカーを置き、腕を組んでホワイトボードを眺めた。
「さて、あかね。ここまで事実を並べてみて、何か気づいたことはあるか?」
あかねはメモ帳に視線を落とし、小さく息を吐いた。
「……姫川さんの年齢から逆算すると、愛梨さんが妊娠した当時、カミキヒカルはまだ十二歳の子供って事だよね」
「ああ、計算上はそうなるな」
「凄い話……」
あかねは顔をしかめ、胃の奥が冷たく重くなるのを感じた。
「姫川愛梨が、産まれた子どもを旦那の子だと偽っていた事を考えても、彼らの間にあったのがまともな関係じゃなかったことは確かだ。穿った見方だが……抗えない力の差を利用した、歪んだ形の搾取……極端に言えば、不可抗力による妊娠って線もあり得る」
「ただの不倫じゃないって事?」
「ツラが良いったって、相手は十代前半のガキだぞ。そんな子供から言い寄られても大人は引くだろ、正気ならな。あるいは女の方が迫ったとするなら尚更だ。つまり、
「それは、そうだね……」
あかねは身震いした。想像するだけで嫌悪感がせり上がってくる。十二歳の少年に起きた出来事としては、あまりにも生々しく、そして悍ましい。
「でも……」あかねは顔を上げ、ハルトの真っ直ぐな視線を受け止めた。「そう考えると、アイさんが独りでアクアくんたちを産もうって考えた理由が、少し解る気がするの」
「好きな男の子供だからって以外にか?」
「それは大前提だよ。女の子が自分のキャリアを捨ててでも子供を産みたいって考えるのは、相手が好きだから、心から愛しているからしかないもん。……でも、それだけじゃない。アイさんは、『カミキヒカル』が父親になれない、なる用意がない……あるいは、なってはいけない精神状態にあるって、見抜いていたんじゃないかな。だから、頼ることを諦めて、一人で産む決心をした」
「なるほど、続けて」
「彼が、年上の女性からの歪んだ搾取の被害者だとして、その上、望まない子供まで作られて……そんなトラウマを抱えた状態で、まともな父親になるなんて無理なんじゃないかなって。でも、アイさんはどうしても子供を産んで、自分自身の『愛』を知りたかった。だから、相手を巻き込まないために、『カミキヒカル』と別れた」
「確かにな。少なくとも、星野アイが『カミキヒカル』と別れた理由には、一つの筋が通る説明がつく」
あかねの深い洞察に基づく考察に、ハルトは感心したように同意を示した。
「ハルトくんは何か気づいた?」
あかねが問い返すと、ハルトは顎に手を当て、ホワイトボードに貼られた十代の『カミキヒカル』の写真を射抜くように睨みつけた。
「俺か? そうだな……」
ハルトの声のトーンが、一段階低く、冷たいものに変わった。
「まず、コイツは俺やあかねと同類だ」
「え……」
途端にあかねは、顔をしかめて嫌そうな表情を作った。あの男と自分たちが同類だなどと、微塵も思いたくなかった。
「まあ、気持ちは分かるが最後まで聞いてくれ。……コイツは〝天才が役者をやってる〟タイプだ。何かに特化した才能や、異常なまでの執着心、あるいは計算高さを持ち合わせていて、それを演技というフィルターを通して出力している。俺やあかね、後はアクアや星野アイなんかもそうだな。逆に、有馬や姫川さんは純粋な〝役者の天才〟だ。芝居そのものに愛されているタイプだな。」
「それなら……わかるかも。ララライを若くして脱退してから、有名私立大学の理学部に進学して二十二歳できっちり卒業してるんだもんね。演技の道だけに固執していないというか、頭の使い方が違うというか」
「ああ、つまりコイツはお
「うん……」
険しい表情を浮かべるハルトに、あかねは真剣に頷いた。昼間見た無機質なビルの佇まいがフラッシュバックする。
「それから、これは前々から思ってたことなんだが……」
ふと、ハルトの山吹色の瞳が、スッと細められた。間接照明の光が反射し、彼の瞳の奥に、吸い込まれそうなほど深い憎悪と執着の黒い星が瞬いたのを、あかねは幻視した。
「コイツは本当に、星野アイを愛してたのか?」
「えっ?」
思わずあかねは声を上げた。ある意味、これまでの前提条件を根底から否定するような、ハルトの突拍子もない疑問だった。
「だって、アイさんはあんなに……」
「仮にだ」ハルトはあかねの言葉を遮り、一歩、彼女の座るソファへと歩み寄った。「仮に、俺があかねに捨てられたとして」
「そんなことしないよっ!」
あかねは即座に、強い語気で否定した。ハルトを捨てるなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。
「仮に、って言ったろ……ったく」
ハルトは苦笑しつつも、その眼差しはひどく真剣で、どこか昏い熱を帯びていた。彼はソファの背もたれに手をつき、あかねを見下ろすように顔を近づけた。
「もしそうなったら、俺なら、どんな手を使ってでも
低く、甘く、そして恐ろしいほどに執着に満ちたハルトの言葉。
普段は理性的で優しいハルトが時折見せる、心の奥底に隠された仄暗い闇。圧倒的なまでの独占欲と、狂気にも似た〝ヤンデレ〟ムーブ。
「ハルトくん……」
あかねはゾクッとするような恐怖を背筋に感じながらも、それ以上に、彼から向けられる深くて危険な愛情に、腹の底から熱いものが込み上げてくるのを感じた。
最愛の恋人の、自分だけに向けられる狂気。その圧倒的な熱量に当てられ、あかねの浅葱色の瞳はとろんと惚け、頬は赤く火照り、呼吸が浅くなる。ハルトの吐息がかかる距離で、あかねの心臓は早鐘のように打ち鳴らされていた。
「……あるいは」
ハルトは少しだけ顔を離し、再びホワイトボードへと視線を戻した。あかねは少し残念に思いながらも、ほうっと熱い息を吐き出して体勢を立て直す。
「あるいは、ストーカーに新居の住所をリークしたのが、アイに身の危険を感じさせて、自分のもとに戻るように仕向けるためだったとする。脅しのためにな」
「マッチポンプってこと?」
「そう。つまり、アイの死は『カミキ』の意図しない偶発的な事故だった、と仮定した場合だ。その場合、何故ヤツは今ものうのうと生きている? 本当に星野アイを愛していたなら、絶望して後を追えよ。あんな
怒りとも、侮蔑とも言えない複雑な表情をして、ハルトは忌々しそうに吐き捨てた。
「以上の理由から、俺は『カミキヒカル』が星野アイを殺害させようとしたのには、単なる愛憎の破綻や保身以外の、もっと根深い別の理由……あるいは目的があると考えている訳だ。まあ、半分は俺の私怨というか、バイアスが入ってるけどな」
言い終えたあと、ハルトはテーブルの上に置かれていたミネラルウォーターのペットボトルを手に取り、喉を鳴らして一気に煽った。
「何か、別の理由……目的……」
あかねはハルトの考察を受けて、深く考え込んだ。愛憎でも保身でもない動機。十二歳の時に受けたトラウマが、彼の精神構造をどう歪め、アイの死とどう結びついているのか。
思考の深い海に沈み込んでいくあかねを、ハルトの穏やかな声が引き戻した。
「ま、今ここで結論が出る話じゃない。それを探り出すためにも、『カミキヒカル』の調査は慎重に続けていくぞ。ヤツのことを一番よく知るであろう、ララライの金田一さんからは、直接詳しく聞き取りしたいところだ。――とはいえ、舞台の日程中は向こうも忙しいだろうしな。千秋楽の後に、さりげなく聴き込むのが丸いだろうな」
「うん、そのときは私に任せてね」
あかねは力強く頷いた。
「劇団員の私なら、昔のララライのことや『カミキヒカル』の事を聞いても、先輩の過去の功績に興味がある熱心な後輩として映るから、不自然じゃないし」
「ああ、頼んだぜ」
ふと、あかねが防音室の壁掛け時計を見上げた。秒針が静かに時を刻み、時刻はすでに午後七時十五分を回ろうとしていた。
「あっ! いけない、もうこんな時間!」
「ん? ああ、そろそろ配信の時間か。んじゃ、準備してくるわ」
ハルトはホワイトボードのマーカーを置き、軽く首を鳴らしながら扉へと向かった。黒川あかねの理解者であり、公私に渡るパートナー『日野ハルト』から、日本トップクラスの配信者『HARU』へとスイッチを切り替える瞬間だ。
「ハルトくん、頑張ってね」
「おう。つっても、今日は達成記念の雑談配信だけどな。適当に喋ってくるわ」
ハルトはヒラヒラと手を振り、分厚い防音扉を開けてリビングへと消えていった。
扉が閉まり、再び密室となったスタジオに取り残されたあかねは、静かに息をついた。
先ほどまでの重苦しい推理劇の緊張感が解け、心がふっと軽くなる。ハルトの後ろ姿を見送ったあかねの胸には、彼への絶対的な信頼と、誇らしい気持ちが満ち溢れていた。
あかねはソファの脇に置いてあった鞄から、愛用のタブレットPCを取り出した。画面をタップしてYouTubeアプリを起動し、登録チャンネル欄からおなじみのアイコン、『HARUちゃんねる』を選ぶ。
画面には、すでに待機枠が立ち上がっており、チャット欄は恐ろしい速度で滝のように流れていた。最新のライブ配信のタイトルは、『【雑談】登録者 10,000,000人耐久しようと思ったらすでに終わっていた件』。
天才コンポーザー『ソレイユ』Pであることを隠しつつ、日本有数の配信者として絶大な人気を誇ってきた『HARU』ことハルト。舞台『東京ブレイド』への出演を機に『ソレイユ』としての素顔を明かし、シンガーソングライターとして本格的に活動を開始した。
来年三月には、すでに大ヒットが確実視されている『ファタール』、『真白の月』、『狂花水月』の三曲を含むファーストアルバムの発売を控えている。その圧倒的な才能と話題性、そして舞台での活躍が相乗効果を生み、このほどついに、YouTubeチャンネルの登録者が一千万人という途方もない数字を達成したのだった。
夕飯のローストビーフも苺のケーキも、この前人未到の偉業を祝うためのものだった。
タブレットのスピーカーから、配信開始ののんびりとした曲調のお馴染みなBGMが流れ出した。
『あー、あー。マイクテスト。聞こえてるかー?』
イヤホン越しではなく、空間に響くハルトの少し照れたような、けれど楽しげな声。見慣れた白いソファに、配信の時によく着ているオレンジのパーカーを身に着けたハルト――YouTuber、『HARU』の姿が映し出された。
『えー、というわけでね。一千万人耐久配信をやろうと思ってたら、いつの間にか達成してました。お前らさあ、仕事早すぎだろ』
ハルトの軽妙な語り口に、チャット欄が『草』『待ってました!』『おめでとう!』『ついに大台!』といったコメントでさらに加速して沸き立つ。画面越しの彼は、先ほどまでの冷酷な推理を見せていた男と同一人物とは思えないほど、柔らかく親しみやすい表情を浮かべていた。
『確かに最近、舞台に掛かりっきりであんま配信できなかったけどさぁ、これはなくね? あ、今登録解除芸してるやついるな? こっちには見えてんだからな。つか、もう登録者一千万から三千人くらい超えてるんだわ、意味ねーのそれ』
コメント欄とのプロレスで視聴者を沸かせるハルト。ふと、眉毛を器用に片側だけ上げてみせる。
『ええ? 記念にあかねの姿を見せてほしい? ダーメダメ、お前らにあいつの可愛い姿は勿体ないって』
「ふふっ、もう、ハルトくんったら」
『まあ、それは冗談だけど。あいつの事務所がオッケーしなきゃ、俺の配信には出演出来ない訳よ。事務所所属のプロだからね、あかねも』
「そう。事務所が許可してくれないんだよね」
配信のハルトの言葉に同意するあかね。特別配信に出たいとは思わないが、ハルトと同じ時間を共有することには興味があった。しかし、過去にあかねがハルトの配信チャンネルに姿を晒したのは、去年の二十四時間耐久配信と、『今ガチ』直後に交際を公表した生配信、そして新生『B小町』とのコラボ配信の三回だけだ。
これまでも何度か出演の許可を求めたことがあるが、どれも突っぱねられている。『B小町』とのコラボが特例だったと言えるだろう。
事務所に断らず交際を公表したのがまずかったのだろう、とあかねとハルトは結論づけており、当然のことだと割り切っている。事務所側の意見は真っ当なものであるから、多少の思うところはあれど従う他なかった。
『つーわけで、黒川あかねが観たかったら舞台『東京ブレイド』のチケット買って劇場まで観に来てくれ。あいつの演じる『鞘姫』はめっちゃ美人だから一度は見てやってくれよ。宣伝かって? そうだよ、宣伝だよ!』
ドッ、と音が聞こえるかのようにコメント欄が加速する。あかねの目には、流れる文字列が残像のように映り、もはや何が何だかわからないほどだ。
穏やかな微笑みを浮かべながら、あかねは膝の上に置いたタブレットの縁を、愛おしむようにそっと撫でた。
彼の見ている景色を、誰よりも近くで共有できることの幸せ。そして、彼の背負う重い過去と戦う覚悟。そのすべてを包み込むように、あかねはタブレットの画面に向かって、誰にも聞こえない声でそっと囁いた。
「おめでとう、ハルトくん」
冬の夜の冷たさは分厚い壁に阻まれ、この部屋には届かない。画面から溢れる恋人の温かい声だけが、あかねの心を優しく満たし続けていた。