十二月二十日、水曜日。
凍てつくような外の寒さを微塵も感じさせない、暖房の効いた快適な寝室。部屋の隅に置かれたアロマディフューザーからは、ラベンダーとベルガモットをブレンドした甘く安らぐ香りが、微かな水音とともに静かに漂っている。
間接照明のオレンジ色がかった柔らかな光だけが照らす薄暗い空間に、あかねの艶めかしい息遣いと、ギシ、ギシと規則的にベッドが軋む音が、どこか甘やかに響いていた。
「んっ……」
上質なシーツが敷かれたクイーンサイズのローベッド。そこに無防備にうつ伏せに寝転んだあかねの背中の上に跨るようにして、ハルトが丁寧なマッサージを施していた。
「ふっ、んっ、あんっ……」
「どうだ、あかね。力の具合は。痛すぎないか?」
「んんっ……ううん、すごく、ちょうどいい、よ……」
あかねは熱い吐息を漏らしながら、顔を埋めた枕越しに甘えた声を返す。
肩甲骨の隙間、凝り固まった背中、張りのある腰、そして舞台を駆け回って疲労が蓄積した太腿からふくらはぎ、足の裏に至るまで。ハルトの大きく温かい手が、あかねの身体の構造を完璧に熟知しているかのように、的確にツボを捉えていく。
彼が指先に込める絶妙な圧力が、酷使された筋肉の緊張と滞ったリンパをじわじわと解し、溶かしていく。プロの整体師も顔負けのその完璧なテクニックに、あかねの全身は完全に弛緩し、ただ心地よさの波に身を委ねてなすがままになっていた。
「ハルトくん……マッサージ、ほんとに上手、だよね……」
「動画で見て、体の構造から筋肉のつき方まで、一通り勉強したしな」
「普通は……いくら動画を見ただけで、こんなに完璧に出来ない、よ……」
「そこはほら、俺って特別だから」
ハルトは事もなげに笑い、あかねの腰骨のあたりを手のひらで優しく押し込む。
一度見たものを脳内に映像として寸分違わず焼き付ける完全記憶能力。そして、頭の中に思い描いたイメージ通りに、自分の指先から足先までをミリ単位で完璧に動かすことのできる精密動作能力。
その二つの常人離れした才能を持つハルトにとって、一流のマッサージ師の手つきをトレースし、再現するなど造作もないことだった。それに加え、毎日のように触れているあかねの身体の癖や、疲労が溜まりやすい部位を完全に把握している今の彼は、まさしく〝黒川あかね専属の最高級セラピスト〟と言っても過言ではなかった。
「……あのね、ハルトくん。ちょっと、相談があるんだけど」
「うん? なんだよ、気持ちよさそうに溶けてる最中に改まって」
太腿の裏側、リンパが集中する部分を優しく流すようにマッサージされている最中。あかねは、半分まどろみかけていた意識を少しだけ引き戻し、躊躇いがちに口を開いた。
「相談っていうのはね……かなちゃんのこと、なの」
「有馬がどうした?」
「かなちゃん、ここ最近、アクアくんのことすごく気にしてるでしょう? アクアくんの纏う雰囲気が急に柔らかくなって、毒気が抜けたみたいになったから。かなちゃん、その理由を聞きたいみたいなんだけど、アクアくんにはぐらかされてて……」
「ああ、そうだな。今日なんか、あからさまに俺らの方に水を向けたがってたな。チラチラ見てきて鬱陶しいくらいだった」
「うん。それがね……見てて、すごくかわいそうだなって、思って」
あかねの言葉を聞き、ハルトはマッサージの指をピタリと止めた。
一通りの施術を終わらせた彼は、うつ伏せになっていたあかねの身体を抱えるようにしてひっくり返し、ベッドの上に上体を起こさせる。乱れた前髪を無造作に掻き上げ、ベッドの上で緩く胡座をかいたあかねと真正面から向かい合うと、ハルトは彼女の華奢な両手を取り、今度は手のひらのツボを優しく押し始めた。
薄暗い照明の中、あかねの深く澄んだ浅葱色の瞳と、ハルトの意志の強い山吹色の瞳が真っ直ぐに交差する。
「あかねには、何か考えがあるのか」
「うん……。かなちゃんにも、アクアくんの身の上を知ってもらったらどうかなって、思って」
「あいつの身の上、か……」
「もちろん、アイさんの死に纏わる不審な点とか、『カミキヒカル』の存在とか、そういう危険なサスペンスの部分は絶対に伏せて。ただ、アイドルだったお母さんのアイさんが、熱狂的なストーカーに刺殺されたこと。そして、それを目の前で目撃してしまって、アクアくんの心に深いトラウマが残っていること……それだけを、教えてあげるの」
「ふーん……。有馬に知られるのは、アクアが嫌がるだろ。あいつは自分の内面を他人に踏み込まれるのを極端に嫌うからな。特に有馬なら尚更だろ」
「それは……そう、だけど……」
ハルトの星野アクアという人間を正確に分析した至極真っ当な指摘に、あかねは痛いところを突かれたように口籠った。
視線を彷徨わせ、繋がれたハルトの指先を見つめる。アクアが嫌がるのは百も承知だ。しかし、あかねは『推し』であり、かつて自分に〝演技〟という光を教えてくれた有馬かなの幸せを、何よりも彼女の不器用な恋愛を、心から応援したかったのだ。
「だって、今のままだったらかわいそうだよ。かなちゃんの気持ちは、ずっと届かないままで……。アクアくんだって、口には出さないけど、きっとかなちゃんに惹かれてるはずなのに」
「まあ、そうだな。アクアの奴は、無意識のうちに有馬に惚れてると見ていいだろうな。……で、そのアクアのこれまでのよくわからん行動も、あいつが強烈なトラウマ持ちだって知った今なら全て合点がいく。絶賛売り出し中のアイドルである有馬かなの姿に、死んだ母親である星野アイの姿を重ねて、無意識に、あるいは意図的に不自然に避けてるわけだ」
「うん……。かなちゃんは、アクアくんの気持ちをうっすらと察してる。だからアプローチするんだけど、そのたびに明確に避けられて、はぐらかされて……どんどん自信が持てなくなっちゃってる。アクアくんだって、かなちゃんが大切で好きだからこそ、彼女を危険に巻き込まないように無理に距離をとって……このすれ違いのままじゃ、二人ともお互いをただ傷付け合って、不幸になるだけだよ……!」
想いを吐露するうちに、あかねの浅葱色の瞳にじわじわと涙が浮かび上がってきた。共感性の高い彼女にとって、二人のすれ違いは自分のことのように胸を締め付けるのだ。
ハルトはあかねの手を離し、その大きな手のひらであかねの頬を優しく包み込んだ。親指の腹で、零れ落ちそうになった涙をそっと拭う。その温かいハルトの手の上に、あかねは自分の両手を重ね、すり寄るように頬を擦り付けた。
「それで、有馬にアクアのことを話したいってわけか」
「アクアくんの身の上を知れば、少なくても『自分が嫌われて避けられているわけじゃない』っていう理由はかなちゃんにもわかるでしょ? それなら、傷つかずに済むし、アプローチの仕方もかなちゃんなりに工夫できると思って。それに……太陽みたいに真っ直ぐなかなちゃんなら、深く暗い心に傷を負ったアクアくんを、傍で支えて光を与えてあげられるんじゃないかなって……」
「……」
ハルトは目を細め、静かに考え込んだ。
あかねはハルトの顔色を窺うように、不安そうに上目遣いで彼を見る。
「どう、かな……? 出過ぎた真似かな……」
「……俺は正直、今の有馬にアクアの抱えたあのドロドロの過去を支えるのは、荷が勝ちすぎてると思うがな……。だが、お互いが意味もなく傷付け合って不幸になるってのは同意見だ。有馬が潰れるのは面白くないしな」
「それじゃあ……?」
「アクアには言わないようにきつく言い含めた上でなら、アリかもな。話すなら、あかねの考え通り、母親のことだけでいいだろ。父親の存在や復讐の動機については流石に重すぎるし、有馬を巻き込むのは危険だ」
「うんっ! 私もそう思う!」
ハルトの同意を得て、あかねの顔にぱぁっと明るい笑顔が咲いた。重かった心がすっと軽くなる。
「さっそく明日の舞台前にでも、二人きりになる時間を作ってやってみろよ、あかね。どうせ有馬は、今日もアクアの周りをウロチョロ纏わりついてるだろうし、アクアを不自然じゃなく引き離すのは俺に任せろ。ちょうどあいつに頼みたいこともあったしな」
「ええっ、わ、私が話すの……?」
「当たり前だろ。お前以外の誰がやるんだよ。俺から有馬に『アクアの親は殺されました』なんて言ったら、ただのホラーだろ。アイツ、俺のこと嫌ってるしな」
「で、でもぉ……」
かなと一対一で、しかもあんなに重い話をするという現実に直面し、あかねは急に弱気になって肩を縮めた。
「お前ってほんと、有馬のことになると途端にへっぽこになるんだから」
「うう……だって……」
「つーかさ、前まで有馬に面と向かって『かなちゃん』って呼んでなかったよな。裏ではそう呼んでたみたいだが。そもそもあれは、なんで距離置いてたんだよ」
「それは……」
ハルトのストレートな疑問に、あかねは視線を落とし、躊躇いがちに重い口を開いた。過去の痛みが、胸の奥でチクリと疼く。
「昔……私がまだ十二歳くらいの頃にね、かなちゃんと舞台の主演オーディションを争ったことがあったの。かなちゃんは当時はもう落ち目っていうか、業界で干され始めてて、でも私もまだまだ無名で……。その時に私、かなちゃんを深く傷つけちゃって……」
「傷つけた?」
「かなちゃんとの距離感を間違えちゃったの。自分の理想のかなちゃん像を押し付けて、相手の気持ちをよく考えずに、無神経な言葉をたくさん言っちゃって……。それで、かなちゃんの調子を狂わせて、オーディションでもかなちゃん、散々な結果になっちゃったの。結局、私が主演に選ばれたから、余計に気まずくて……顔を合わせられなくなっちゃって……」
「だから、呼び方を『有馬さん』とか、ビジネスライクに変えて壁を作ってたのか」
「うん……」
あかねは長い睫毛を伏せ、自嘲するように小さく笑った。
「有馬と友達になりたかったって、昔、俺に言ってたよな」
「うん。でも……私なんか、かなちゃんの友達に相応しくないよ……。何度もかなちゃんを無神経に傷つけて、自分勝手に理想を押しつけて……今回だって、お節介を焼いてまた傷つけちゃうかもしれない……」
自分の言葉でどんどん負のループに落ち込んでいくあかね。そんな内向的で繊細すぎる恋人の肩を、ハルトは力強く引き寄せ、自身の広い胸の中へと優しく抱きしめた。
「あっ……ハルト、くん……」
「馬鹿野郎。友達に相応しい相応しくないなんて、点数つけるようなもんがあるかよ。お前ほど、あんなにひねくれた有馬かなのことを真剣に考えて、幸せを願ってる奴が他にいるか?」
「そう、かな……?」
「少なくとも、俺は他に知らない。それこそ、あのアクアよりもな。……いい機会だ。恋愛相談にかこつけて、有馬とちゃんと腹割って話して、本当の友達になれよ。それが有馬だけじゃない、あかね、お前自身の過去を清算するためにもなると、俺は思うぜ」
ハルトの胸から伝わる力強い鼓動と、頭の上から降ってくる温かく確かな言葉。あかねはハルトのシャツをギュッと握りしめ、小さく頷いた。
「……うっ、友達……友達……。かなちゃんと、お友達、に……」
「そうだ。自信持て」
「……わ、わかった。ハルトくんがそこまで言うなら、私……頑張ってみる」
決意を込めて見上げたあかねの瞳には、もう迷いの色はなかった。
☆ ★ ☆
翌日、十二月二十一日。木曜日。
今日も午前中は高校で授業を受けた後、少し早めに劇場へ到着したあかねとハルト。
関係者専用の裏口から入り、細い廊下を抜けて共演者たちが屯する大部屋の楽屋へと足を踏み入れる。部屋の中は、すでに到着している役者たちの話し声や、ヘアメイクの準備をするドライヤーの音、そして独特の化粧品と埃の混じった匂いが充満していた。
部屋の奥の長机。案の定、そこには台本を開くアクアと、その隣に座って何かとちょっかいを出している有馬かなの姿があった。
「お、いるいる。おい、あかね。作戦通り声かけるぞ」
「ほ、ほんとに、今やらなきゃダメ……?」
「昨日の夜のあの熱い意気込みはどうしたよ」
「だ、だってぇ……いざとなると、心臓が口から出そう……」
すっかりいつもの引っ込み思案モードに戻ってしまったあかねの後ろ首を軽くポンと叩き、ハルトは呆れたようにため息をつく。
そして、あかねの返事も待たずに、ずかずかとアクアたちの座るテーブルへと向かって歩き出した。
「あっ、待ってよ!」
慌てて小走りでついていくあかね。
「おはー、お二人さん。今日も仲がいいこって」
ハルトが陽気な声で声をかける。
「お、おはよう……ございます」
あかねはハルトの背中に半分隠れるようにして、蚊の鳴くような声で挨拶した。
「ああ、おはよう、ハルト、あかね」
アクアは淡々とした様子で台本から顔を上げる。
「おはよう。初っ端からその馴れ馴れしいノリ、本当にウザいわね。誰が仲がいいって?」
かなはツンとそっぽを向きながらも、顔をほんのり赤くして棘のある言葉を返してきた。
「有馬、お前のその減らず口の舌尖は今日も絶好調だな。ま、元気そうで何よりだ。で、アクア、ちょっと今いいか?」
「なんだ?」
「ウチのYouTubeチャンネルへの出演依頼なんだが」
「俺に? なんでまた」
「いやぁ、実は次の企画を考えててな? お前とメルト、それから姫川さんにも出てもらいたいんだわ。詳しい内容とかギャラの相談も含めて、ちょっと向こうで話そうぜ」
ハルトは有無を言わさぬテンポでアクアと話し込みながら、背中を押すようにして楽屋の奥、姫川やメルトがいるスペースへとさり気なく連れ出していった。見事なまでの手際だった。
あとに残されたのは、手持ち無沙汰になったあかねと、かなの二人だけ。
アクアとの会話を邪魔された上に、一人取り残されて少しイライラした様子のかな。あかねは、スカートの裾をギュッと握りしめながら、チラチラとかなへ視線を向ける。
「……何よ。何か言いたいことでもあるの?」
視線に気づいたかなが、不機嫌さを隠そうともしない棘のある声で睨みつけてきた。
ビクッと肩を震わせつつも、あかねは昨夜のハルトの言葉を思い出し、勇気を振り絞って口を開いた。
「うん……かなちゃんに、聞いてほしいことがあるの。……アクアくんのこと、で」
「!」
『アクアのこと』という単語が出た瞬間、かなの肩がピクッと跳ね、不機嫌だった瞳に明らかな動揺と強い関心が宿った。
(食いついた……!)
あかねは心の中でガッツポーズをした。
「ふぅん……。まあ、時間もあるし? 聞いてあげようじゃないの。さあ、話しなさいよ」
平静を装いながらも、かなは腕を組んであかねに向き直った。
「ここで話すのは、ちょっと……」
あかねは周囲を見渡す。楽屋には多くの共演者やスタッフが出入りし、あちこちで談笑の声が響いている。他人のプライベート、それも極めて重い過去の事情を話すには、あまりにも不用心で適さない環境だった。
「……わかったわ。場所を変えましょう」
かなも場の空気を察し、立ち上がった。
二人が向かったのは、楽屋裏の廊下の突き当たりにある非常口の扉の向こう――非常階段の踊り場だった。
分厚い鋼鉄の扉を押し開けると、外界の冷たい空気が容赦なく吹き込んできた。
十二月下旬の冬の風が、肌を刺すように冷たい。眼下の道路からは車の走行音が低く響いてくるが、舞台関係者以外、余人が寄り付くことは絶対にない死角だ。
ガチャン、と重い音を立てて扉が閉まると、途端に二人は静寂と寒空の下に取り残された。
「ううっ、寒っ……! なにもこんな外に出なくたって……」
かなが自身の両腕を掻き抱き、寒さに肩を震わせる。
「ご、ごめんね。でも、ここなら誰にも聞かれないから」
あかねの吐いた息が、白い霧となって冬の空気に溶けていく。
「で、話って何よ。もったいぶらないで早く言いなさいよ」
かなが急かすように足で床を叩く。あかねは一度深く深呼吸をして、冷たい空気を肺の奥まで吸い込んだ。
「まず、確認したいんだけど……かなちゃんはアクアくんのこと、どれだけ知ってる?」
「アクアのことを、どれだけって……」
予想外の質問に、かなは言葉に詰まった。同じ学校の後輩で、同じ事務所で、同じ舞台に立っていて。でも、彼の本質的な部分、過去や家族について、自分は何も知らないという事実に直面させられたからだ。
そのかなの沈黙を見て、あかねの脳裏にふと、ある純粋な疑問が浮かんだ。彼女はそれを、深く考えずにそのまま口にしてしまった。
「……かなちゃん、もしかして、アクアくんのことあんまり興味ない?」
「は!?」
かなが目を見開いて、信じられないという顔であかねを睨んだ。
「だ、だって」あかねは慌てて弁解するように、しかし熱を帯びた声で語り始めた。「私は、ハルトくんのことなら何でも知りたいよ。好きなもの、嫌いな食べ物。好きな色とか、いつもどんな服装を選ぶのか。どこで生まれてどこで育って、今までどういう経験をして生きてきたのか。日々の生活の習慣、シャワーを浴びる時間、小さな癖や言葉のこだわり、身体のどこに、いくつホクロがあるのかまで……一から十までぜんぶ、全部知りたいって思う」
「なっ……」
あかねの瞳に宿る、異常なまでの探究心と、執着。プロファイラーとしての能力が『愛』という感情と結びついた結果生み出される、純度百パーセントの狂気的な愛情表現に、かなは圧倒されて一歩後ずさった。
「子役時代にハルトくんが出演したドラマやバラエティ番組、地方のローカルCMの映像データまで全部探し出して観たし、雑誌のインタビュー記事も隅から隅までチェックしてスクラップにしてる。ハルトくんが『ソレイユ』として作詞作曲した曲は全部聞いたし、歌詞の意図も考察して全部覚えた。個人配信のアーカイブだって、何百時間あろうとできるだけ見たよ。今でも移動時間があれば目を通してるし、ハルトくんの思考パターンはほぼ完全にトレースできる」
熱に浮かされたように早口で語るあかね。その狂気とも言える異常な愛と執着の深さをこれでもかと見せつけられ、かなは完全に絶句していた。
「かなちゃんは、そうじゃないの? 好きな人のこと、アクアくんのこと、全部知りたくないの?」
首を傾げるあかね。しかしその言葉は、かなの逆鱗に触れた。
図星を突かれたことへの恥ずかしさか、あるいはあかねの狂気に当てられて防衛本能が働いたのか、かなの顔がカッと朱に染まり、激昂した。
「わ、わかったような口聞いて……! アンタ何様よ!」
「えっ?」
「自分はカレシのすべてを把握してます、上手くいってますよって……私にマウントでも取るつもり!? あんたのそういう無神経なところ、昔から全然変わってないじゃない! もういい!」
「あっ……!」
あかねは、また自分が距離感を間違え、地雷を踏んでしまったことに気がついた。十二歳の頃、あるいは初めて会ったときの失敗と全く同じだ。
肩を怒らせ、踵を返して非常口の扉へ手を伸ばそうとするかな。
あかねは咄嗟に手を伸ばし、かなの腕をガシッと掴んだ。
「ま、待って!」
「離してっ、離しなさいよ!」
「ごめんなさい! 私、また無神経なこと言っちゃった……本当に、ごめんなさい」
必死に頭を下げるあかねの態度に、かなは腕を振り払うのをやめ、チッと舌打ちをした。
「……で。結局、何が言いたいの」
「アクアくん、自分の感情を隠すのがすごくうまいから。かなちゃんが知りたいって踏み込もうと思っても、いつも上手くはぐらかされちゃうんだよね」
あかねは、かなの孤独な心情に寄り添うように、静かに、そして優しく言葉を綴る。
「だから、私が知っている大事なことを、かなちゃんと共有したいと思ったの。かなちゃんが、これ以上傷つかないために」
かなは、あかねの真剣な瞳を見て、ようやく感情が落ち着いたのか、聞く体勢になった。あかねはそっと、かなの腕から手を離した。
「まず約束して。私が今から話したってことを、絶対にアクアくんには言わないでもらえる? きっとアクアくんは、かなちゃんに自分の過去を知られることを、ひどく嫌がると思うから」
「……わかった。絶対に黙ってる」
かなが真剣な表情で頷く。隠し事が苦手な彼女が上手く黙っていられるか、今更ながら不安に思いつつも、あかねは覚悟を決めた。
「あのね、アクアくんは……お母さんを、自分の目の前で亡くしているの」
「母親を? 目の前で……?」
かなの目が驚愕に見開かれた。
「その人は、かなちゃんもよく知ってる人だよ」
「いったい、誰なのよ……」
「旧『B小町』の絶対的センター、『アイ』……。映画『それが始まり』で、子役だったかなちゃんと共演したんだよね? アクアくんと、かなちゃんが出会ったあの作品……」
「!!」
かなの喉から、ヒュッと息を呑む音が漏れた。過去の記憶がフラッシュバックする。圧倒的な才能と輝きを持っていた、あの美しいアイドルの姿。
「アイドルだった『アイ』――星野アイさんは、ドーム公演の当日に、自宅に押し入ってきた熱狂的なファンのストーカーに刺殺されたの。……アクアくんが、アイドルとして輝き始めたかなちゃんと微妙な距離を取るのは、お母さんがストーカーに刺されて殺された過去があるからだと思うの。アイドルのかなちゃんも、いつかそんな恐ろしい目に遭うんじゃないか、って……無意識に恐れてるんだよ」
「……そ、そんなの……」
衝撃的な真実を突きつけられ、かなは真っ青になった唇をガタガタと戦慄かせた。
アクアが時折見せていた、どこか遠くを見るような虚ろな目。アイドル活動を応援しながらも、決して一定のラインを踏み越えてこない不自然な態度。そのすべての点と点が線で繋がり、彼の抱える絶望の深さに、かなの心は千切れそうになっていた。
(じゃあ、どうしたらいいの……?)
かなの震える唇が、音にならない悲鳴を紡いだ。
「もし、かなちゃんが『自分がアイドルを辞めれば、アクアくんが振り向いてくれるかもしれない』って考えてるなら、それは絶対に止めたほうがいいよ」
「……!」
「そんな逃げの選択をしたら、きっとアクアくんにひどく失望されると思うから。百年の恋も冷める、ってやつだよ」
安直で逃避的な考えに釘を差すように、あかねはあえて冷たいトーンで言い放った。しかし次の瞬間、彼女はかなの小さく震える肩に、両手を優しく置いた。その手は、冷え切ったかなの身体に温もりを伝えるように温かかった。
「どうしたらアクアくんのトラウマを払拭して、かなちゃんの気持ちに応えてくれるようになるか、今の私にはわからないけど……。でも、それを探す手伝いはできると思う。だから私に、協力させて」
「アンタが……私に?」
「うん。お芝居のライバルとしてバチバチするんじゃなくて……その、お、お友達として。かなちゃんの恋を、全力で応援したいの」
あかねは顔を真っ赤にして、照れ隠しのように視線を彷徨わせた。
「こっ、恋だなんて……は、はっきり言わないでよ!」
「違うの?」
「……違わない、けど……」
恋心を真正面から指摘され、かなは顔を耳まで真っ赤にして縮こまった。大きな瞳を潤ませ、自分の指先をモジモジと弄るその姿。強気な態度とのギャップがあまりにもいじましく、そして破壊的に可愛らしい。
あかねの『有馬かな』を推す強火のファン心理が、その瞬間、見事に撃ち抜かれた。
(かっ……かなちゃん、かわいいっっっっ!!!?)
あかねは心の中で絶叫し、鼻血が出そうなのを必死に堪えて真顔を保つ。
顔を赤らめた二人の少女は、言葉を失ったまま、非常階段の踊り場で暫しの間固まっていた。
ビュオォォォ、と、一陣の冷たい冬の風が吹き抜け、二人はハッと正気に戻った。
「い、いけない、ここにずっと居たら身体が冷えて、風邪引いちゃうね」
あかねが慌てて非常口の重いドアノブに手を掛けながら言う。
「とりあえず、中に戻ろう? 温かいお茶でも飲んで……」
「……友達」
背中を向けたあかねの背中に、かなの小さな呟きが届いた。
「えっ?」
あかねが振り返る。
「友達、なってあげてもいいわよ」
「かなちゃん……!」
あかねの顔に、ぱぁっと花が咲いたような、最高に輝く笑顔が広がった。
それを見たかなは、照れ隠しのために腰に手を当て、そっぽを向きながら尊大な態度で言い放つ。
「勘違いしないでよね! アクアを振り向かせるために、アンタのプロファイリング能力を利用してやるだけなんだからね、あかね!」
「うんっ! 私でよければ、いくらでも利用して! これからよろしくね、かなちゃん!」
分厚い鋼鉄の扉を開け、温かい楽屋の廊下へと戻っていく二人の少女。
かつての確執を乗り越え、恋と秘密を共有した二人の間には、確かに新しい友情の芽が息吹いていた。