十二月二十八日、木曜日。
雲一つない、抜けるような冬の青空が広がっていた。
キリッと冷え込んだ空気は乾燥しており、刺すような冷たさの中に確かな冬の陽光の温もりを含んでいる。絶好の洗濯日和であり、そして何より、一年の汚れを落とす大掃除にぴったりな気候だった。
都内にあるハルトの自宅兼スタジオの、手入れの行き届いた芝生が敷き詰められた裏庭。
そこに設置された頑丈なアルミ製の物干し台の前で、冬物の白いニットワンピースの上からお気に入りの淡いピンク色のエプロンを身に着けたあかねが、せっせと洗濯物を取り込んでいた。
時折吹き抜ける北風に、ハンガーにかけられたシャツやシーツ、掛け布団のカバーやふかふかの毛布が、パタパタと軽快な音を立てて揺れている。辺りには、太陽の光をたっぷりと吸い込んだ布地の匂いと、あかねのお気に入りのフローラル系の柔軟剤の甘い香りが漂っていた。
「〜♪」
鼻歌を歌いながら、あかねはご機嫌な様子で作業を進めている。
彼女の唇から無意識にこぼれ出ているメロディは、『アイドル』のワンフレーズだった。
物干し竿にかけられた真っ白なシーツを両手で挟むようにして手に取り、乾き切ったその感触を満足そうに確かめる。端と端をきっちりと合わせ、空中でパンパンと小気味良い音を立てて皺を伸ばすと、手慣れた動作で丁寧に四つ折りに畳んでプラスチック製の大きな洗濯籠に納めていく。
ふと、シーツの下から姿を現したハンガーには、あかねの繊細なレースの下着と、ハルトのシンプルなボクサーパンツが並んで干されている。同棲を始めてから約五ヶ月。最初の頃は顔から火が出るほど恥ずかしかったこの光景にも、あかねはようやく自然な生活の一部として慣れ始めていた。
元々、生真面目で几帳面な性格のあかねは、物の定位置が決まっていないと落ち着かないタイプだ。整理整頓はもちろんのこと、隅々まで磨き上げる掃除も、柔軟剤の香りに包まれる洗濯も、そして一日の疲れを癒やすお風呂も大好きだった。
だからこそ、こうして『二人の城』であるこの家を自分の手で綺麗に保つことは、あかねにとって義務ではなく、喜びそのものだったのだ。
「〜〜♪」
次々に乾いた衣服を取り込み、シワにならないよう注意深く籠に詰めていくあかね。気分が上向くごとに、彼女の刻む鼻歌の調子も徐々にオリジナルなアレンジが加わり、少しずつ音程が外れていく。だが、誰も聞いているわけではないので気にする必要はない。
あかねが歌っている『アイドル』。ハルトが『ソレイユ』の名で『アイ』の命日である十二月二十五日のクリスマスに合わせて毎年、追悼の意を込めて動画サイトにアップロードしている特別な楽曲だ。
今年の十二月二十五日に公開されたMVのアレンジは、普段のボーカロイド音源や『アイ』のライブラリ音声の活用ではなく、有馬かな、星野ルビー、MEMちょという新生『B小町』の三人のレコーディング音源を使ったアニメーションMVだった。
かな、ルビー、MEMちょの三人をモデルに、ハルトが自らの手でアニメ調に描いたキャラクターデザイン。それが、満員のドームステージの上でパフォーマンスを繰り広げるというダンス・アニメーションだった。
『ああ、あれ? 『狂花水月』のMVを、アニメ版東ブレに携わった制作チームに依頼するついでに、個人的に発注して作ってもらったんだ。絵コンテとキャラデザ、それに一部のキーになる原画は俺が自分で描いたから、めちゃくちゃ楽しかったぜ』
先日、あっけらかんとそう語っていたハルトの顔を思い出し、あかねは呆れたように小さく息を吐く。過密な舞台稽古の裏でそんなことまでしていたのだから、過労で倒れたのも当然だった。
翌二十六日の舞台前、アクアから聞いた目撃情報によると、『ソレイユ』を神と崇めるほどの激推しであるルビーは、そのMVを見た瞬間、「ウチの妹の奴、スマホの画面の前で膝をついて、拝んだ格好のまま感涙してた」らしい。
(ふふっ、ルビーちゃんったら……でも、その気持ちも分からなくもないかな)
あかねは洗濯バサミを外しながら、少しだけルビーに共感した。
もし自分に例えるなら、それこそハルトから「君を主演にしてミュージックビデオを撮りたい」と直接オファーを受けた時の、あの胸が張り裂けそうなほどの喜びと感動と同じようなものだろう。大好きな推しから、自分たちのために世界で一つだけの最高の作品をプレゼントされたのだから。
「そう言えば……」
ぽつりと呟きながら、あかねはハルトの着ていた厚手のフランネルシャツの皺を両手で軽く伸ばし、慣れた手つきでパタパタと畳んで籠に収める。
思考は、大好きな『推し』であるもう一人の少女、有馬かなのことへと飛んでいた。
先日、事務所『苺プロ』で行われたという内輪のクリスマスパーティー。その席で、かなはあかねが授けたロジカルな恋愛アドバイス――物理的な距離感を詰めるミラーリングや、さりげないスキンシップ――を忠実に実践して、アクアにアプローチを仕掛けたという。
しかし、翌日の楽屋でこっそり報告してきたかなは、「全然手応えがないわよ……! あいつ、微動だにしないんだから!」と、泣き言を言っていたのだ。
無理もない。アクアが長年かけて築き上げたあの鉄壁の仏頂面と、強固な防衛本能を崩すのは、一朝一夕では不可能な至難の業であることは間違いない。それこそ、あかね自身が見せたような、プロファイリングを極めた『アイ』の〝完コピ〟でもして見せない限り、彼の心の奥底を揺さぶることは難しいだろう。
あかねは、「あれはすぐに劇的な効果がある作戦じゃなくて、じわじわと外堀を埋めていく長期戦なんだよ」とかなをたしなめたが、かなは「そんな悠長なこと言ってられないわよ!」と、憮然として納得がいかない様子だった。
「……また、かなちゃんのために新しいアプローチのプランを立てなくっちゃ」
ハルトの大きな白いTシャツを冬の太陽にかざし、透けた光を眩しそうに細めた瞳で見つめながら、あかねは小さな声で呟いた。
その時、開け放たれた二階の窓から、ハルトのよく通る声が降ってきた。
「あかねー! 寝室の掃除と換気終わったから、そろそろベッド直すぞー!」
「あ、はーい! 今行くねー!」
あかねは空を仰いで大きく返事をすると、いっぱいになった洗濯籠をひょいと持ち上げ、足早に家の中へと戻っていった。
昨日、二十七日からここ二日間。あかねとハルトは、夜の舞台公演へ向かう前の午前中の時間を使い、二人きりで家の大掃除に精を出していた。
実は、この大掃除のやり方を巡って、二人の間ではちょっとした意見の相違があった。
ハルトは当初、公演で体力も時間も大きく取られてしまうことを考慮し、あかねと同棲を始めてから一度も依頼していなかったプロのハウスクリーニング業者を入れて、家全体を隅々まで徹底的に掃除してもらおうと提案してきた。
それは、元々定期的に清掃業者を入れて広い家を清潔に保っていた、いかにものハルトらしい、極めて合理的で効率的な考えだった。
しかし、あかねはその提案に難色を示した。
『知らない人が寝室に入るのは、なんだか落ち着かない』とあかねが言ったとき、ハルトは少し考えただけで『じゃあ、そこは俺たちでやろう』と頷いてくれた。
協議の結果、妥協案として、寝室などのプライベートな空間は自分たちで掃除し、キッチンを始めとした水回りやLIVE配信で外部に公開することもあるリビング・ダイニング、エアコンやレンジフード、換気扇、事務所スタッフが滞在することもある客間、地下のダンスルーム、手の届かない外壁の高圧洗浄、庭の草木の手入れなど、どうしても専門的な機材と時間がかかる場所だけを業者に任せることになった。
……のだが、あかねは「やっぱり水回りは自分たちでやらないと気が済まない」と落ち着かない様子を見せ、結局キッチンや風呂場、トイレなどはすべて自分たちでゴシゴシと掃除してしまった。
そんな、あかねの効率を度外視した日々の小さな我儘やこだわりに、ハルトは「お前がそうしたいなら、そうしようぜ」と嫌な顔一つせず、スポンジを片手に喜んで従ってくれる。
その度に、あかねの胸の奥には、「彼に負担をかけてしまった」という申し訳ない気持ちとともに、他の誰にも見せない彼の優しさと包容力を独占しているという、ゾクゾクするような昏く甘い優越感がじわりと広がっていくのだった。
☆ ★ ☆
「じゃあみやびさん、家の戸締まりと業者の対応、あとは頼みます」
「ええ、よろしくお願いします」
午後二時頃。
清掃業者のトラックが停まるスタジオ兼自宅の玄関前で、あかねはハルトとともに、『サン・マネージメント』のスタッフ陣を迎え入れていた。
ダークスーツをビシッと着こなし、知的なフレームの眼鏡をかけた長身の女性――『サン・マネージメント』の代表兼ハルトのチーフマネージャーである宮川みやびが、手にしたタブレットでスケジュールの確認をしながら応える。
「清掃業者の出迎えと、最終的な確認応対はお任せください。ハルト、それにあかねさんも、このあとの今日の公演、しっかり頑張ってくださいね。年末で観客の熱量も上がっている時期ですから」
「はい、ありがとうございます」
あかねが深々と頭を下げると、ハルトも軽い調子で片手を挙げた。
「まあ、任せてよ。俺たちは今回もバッチリ観客を沸かせてくるからさ。みやびさんも、年末の忙しい時期に立ち会いを押し付けちゃって悪いね」
冬の午後の日差しを浴びて立つ二人の姿は、これから過酷な舞台に向かう役者というよりは、これから空港へ向かうカップルのように見えた。
あかねは昼間と同じ甘めの白いニットワンピースの上から、シルエットの美しい淡いグレーのロングコートを着て上品におめかしをしている。一方のハルトは、白いハイネックニットの上からブラウンのジャケットを羽織り、すっきりとしたシルエットの黒いスキニーのチノパンにローファーの革靴を合わせた清潔感のある洗練された装いだ。
そして何より目を引くのは、二人がそれぞれ手に持っている、藍色とオレンジ色の中型のスーツケースだった。
みやびは、眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げ、鋭い視線をハルトに向けた。
「ああ、それからハルト。あかねさんのご家族には、くれぐれもご迷惑をかけないように。失礼のないよう、節度を持って行動すること。いいですね?」
「みやびさん、親みたいなこと言うね」
ハルトが苦笑交じりに言うと、みやびは一切の表情を崩さずに冷ややかに言い放った。
「それはもう。私はあなたの実家のご両親に、こちら東京での『保護責任者』を任されているのですから、当然の意見です。万が一、あかねさんのご実家で不粗相があれば、私の管理責任が問われますからね」
「心配いらないって。俺の外面がいいのは、みやびさんもよく知ってるでしょ? 愛想よく完璧な彼氏を演じきってみせるさ」
「知っていますが。あなたのそういう、どこから湧いてくるのかわからない自信過剰なところが一番心配と言っているんですよ。わかりますか?」
「あはは……はい、肝に銘じます」
みやびの怜悧で容赦のない視線に晒され、タジタジになったハルトは、降参するように大げさに肩をすくめた。
そのやり取りを見て、あかねはクスクスと口元を手で覆って笑った。完璧に見えるハルトが頭の上がらない存在がいることが、なんだか少しだけ嬉しかったのだ。
「それじゃあ、行ってきます!」
配車アプリで呼んだタクシーのトランクにスーツケースを積み込み、二人はみやびに見送られながら劇場へと向かった。
☆ ★ ☆
その日の『東京ブレイド』の公演後。午後八時すぎ。
熱狂冷めやらぬ劇場から直接タクシーに乗り込み、二人が向かったのは、都心から少し離れた東京郊外の閑静な住宅街にある、あかねの実家だった。
今日、十二月二十八日の夜から、年を跨いだ翌一月五日までの約一週間、二人はあかねの実家に滞在することになっていた。
これは、ハルトからの提案だった。「あかねは一人娘なんだから、年末年始に家を空けたら大掃除やら正月の準備やらでご両親が困るだろう。俺も手伝うから、一緒に帰省しよう」という、彼の彼氏なりの心憎い配慮だった。
もっとも、『親孝行はできる時にするべし』などと偉そうに宣っていたハルト自身は、高校に進学して上京して以来、
タクシーを降り、冷え切った冬の夜気の中、見慣れた戸建ての家の前で立ち止まる。
あかねは少し緊張した面持ちでインターホンを鳴らし、玄関のドアを開けた。
「ただいま、お母さん」
「夜分遅くにすみません、しばらくの間、お世話になります」
ハルトもコートを脱ぎながら、礼儀正しく深く頭を下げる。
「おかえりなさい、あかね。ハルトさんも、遠いところよくいらっしゃいましたね。自分のおうちだと思って、ゆっくりしてらしてね」
割烹着姿のあかねの母、葵が、ふんわりとした優しい笑顔で出迎えてくれた。家の中は暖房が効いており、廊下の奥からは出汁のいい匂いと、油で何かを揚げている食欲をそそる香りが漂ってきている。
手を洗い、リビングへと通される。
「お父さん、ただいま」
「お邪魔します、お父様」
「ああ、二人とも舞台お疲れ様。さあ、夕飯にしよう。そこに座りなさい」
官公庁の「御用納め」の日であった今日、あかねの父、理は、日中こそ職場である警視庁の本庁舎に詰めていたものの、すでに帰宅しており、部屋着のスウェット姿で食卓についてリラックスした様子だった。
両親は、舞台終わりのあかねとハルトの到着を待っていてくれたらしく、午後九時近い遅めの夕食となった。
葵が手際よくキッチンから運んできた大皿料理が、広いダイニングテーブルを狭しと埋め尽くしていく。
夜遅い食事ということもあり、あかねのためには消化に良さそうなカレイの煮付けや、具沢山の温かい豚汁、ほうれん草のおひたしといった身体を労るメニューが用意されていた。しかし、それとは全く別に、テーブルのど真ん中には、山のようにうず高く盛られた『鶏の唐揚げ』の大皿が鎮座し、圧倒的な存在感を放っていた。
「ハルトさん、食べ盛りでたくさん食べるってあかねから聞いていたから、張り切って揚げすぎちゃったわ。遠慮しないでどんどん食べてね。あかねは舞台で胃が疲れてるだろうから、こっちの煮魚のおかずをゆっくり食べなさいね」
「うん、ありがとうお母さん」
「いやぁ、これは凄いボリュームですね! めちゃくちゃ美味しそうです! いただきます!」
ニコニコと人好きのする、いかにも『好青年』といった完璧な笑みを浮かべ、ハルトはやや大袈裟に言ってから、ホカホカに炊き上がった白米が山盛りによそわれたお茶碗と箸を手に取った。
過酷な舞台公演で大量の汗を流し、激しい殺陣のアクションをこなした後で腹ペコだった彼は、「いただきます」の合図とともに、行儀よく、しかし怒涛の勢いで唐揚げを口へと運んでいく。
サクッ、ジュワッという小気味良い音を立てながら、次々と唐揚げが胃袋へと消えていく。そのあまりにも気持ちの良い食べっぷりに、あかねは隣で微笑みを浮かべながら、自身の煮魚に箸を進めた。
「ハルトさん、お味の方はどうかしら?」
「美味しいです! 外の衣はサクサクで、中はジューシーで……ニンニクと生姜の風味が効いてて、疲れた身体の細胞の隅々にまで染み渡ります! ご飯が無限に進みますね、これ!」
ハルトの山吹色の瞳がキラキラと輝いている。お世辞ではなく、心底美味しいと思っているのが伝わってくる表情だ。
「ふふっ、ありがとう。本当に、見ていて気持ちいい食べっぷりねぇ。なんだか、お父さんの若い頃を思い出すわぁ」
葵が嬉しそうに目を細め、夫の方を見る。
「そうかい? まあ、私も現場の所轄で走り回って駆けずり回っていた若い頃は、今のハルトくんくらい、いやそれ以上にご飯を食べていたかもしれないな」
理も満更でもない様子で、自身のビールグラスを傾けた。
ハルトと両親の和やかなやり取りを聞きながら、あかねも母の手料理に舌鼓を打つ。
じんわりと甘辛い味が染み込んだカレイの煮付け。慣れ親しんだこの家庭の味は、あかね自身の舌と調理の技術の中にも、しっかりと身に付いているものだ。
中学時代、ハルトと運命的な再会を果たして恋心を自覚してからのことだが、あかねは母と一緒に料理教室に通い詰め、今でも実家に帰れば一緒にキッチンに立って料理を手伝っていたほど、母娘の仲は良く、そして料理の腕前も確かなものだった。
(……やっぱり、お母さんのごはん、すっごく美味しい……)
そう実感すると同時に。
ジッ、と横目で、母の作った唐揚げの山を物凄いペースで崩していくハルトの横顔を見る。その「美味い、美味い」と幸せそうに頬張る恋人の姿に、あかねの胸中にふつふつと、何とも言えない複雑な感情が渦巻いていくのを感じた。
恋人の威勢のいい食べっぷりを見るのは嬉しい。しかし、彼が心から絶賛しているのは、自分の料理ではなく、『母の料理』なのだ。
自分の料理の腕前は、まだまだ母には及ばない。だが、彼の一番の理解者であり、胃袋を掴む存在でありたいという女としての意地がある。
(ま、負けないんだから……! 帰ったら、ハルトくんに私の手作り唐揚げ、お腹いっぱい食べさせてやるんだから!)
あかねはヤケになったように、しかし行儀の良さだけは崩さずに、無言でカレイの煮付けをモグモグと口に運び、食事を進めるのだった。
食後の、満腹感に包まれたまったりとした時間。
あかねと葵は、二人並んでキッチンのシンクに立ち、水音を立てながら大量の食器を洗っていた。
一方、リビングのダイニングテーブルでは、ハルトが食後の温かい緑茶をずずっ、と啜っていた。テーブルの向かいには、同じように渋い湯飲みを傍らに置き、一休みしている理が座っている。
テレビのニュース番組の低い音声だけが流れる中、理がふと口を開いた。
「ハルト君、君のご実家はたしか、京都だったね」
「はい。高校進学を機に東京で一人暮らしをし始めてからは、地元の実家には
「そうなのか?」
「いや、まあ、自分も含めてウチの家族はみんな根っからの自由人ですから。こうして東京で好きに役者や音楽をやらせてもらっているのは、両親の理解があってこそなので、有難いことだとは思っていますけど」
背筋を伸ばし、殊勝な顔つきで受け答えるハルト。理は腕を組み、顎を撫でながら少し考え込むような様子を見せた。
「しかし、ご両親には盆暮れ正月くらい、ちゃんと顔を見せなくてよかったのかい? 便りがないのは元気な証拠とは言うが、向こうも息子が帰ってこないと寂しがってるんじゃないか?」
「お気遣い、ありがとうございます。実は先日、年末の挨拶も兼ねて実家の方に電話を入れたんですが……」
ハルトは真面目な表情を保ったまま、淡々と続ける。
「母は自身のファッションブランドの新作コレクションの準備で海外を飛び回っておりまして、実家に不在なんです。大学生の兄も、研究や自分の生活があって忙しくしています。そして何より、一番下の妹がちょうど十五歳で、まさに今、高校受験の追い込みの時期なんです」
「なるほど、受験生か」
「はい。そんな家中がピリピリしている実家に、能天気に東京から自分が帰省して、勉強のペースを乱すわけにはいきません。ですから、父とも電話で話し合い、今年の正月は東京に残って大人しくしているのがベストだと判断しました」
「妹さんが受験か……なるほど、それは確かにデリケートな時期だな。わかった。そういう事情があるのなら、今年は気兼ねなく、うちでゆっくりしていきなさい」
「はい。お言葉に甘えさせていただきます。ありがとうございます」
ハルトが深く頭を下げると、理は満足そうに頷いた。
「君のご家族と言えば……ハルト君のお父上は、京都の洛北大学で物理学の教授をされているそうだな」
「えっ」
ハルトの目が、わずかに驚きに見開かれた。
「父のことを、ご存知なんですか? どこかの記事に載っていましたか?」
「いや、職業柄、大切な一人娘の交際相手の身辺については、少しばかり耳に入ってきてね」
理は鋭い眼光を隠すように目を細め、湯呑みに手を伸ばした。
「……以前、大阪府警の同期の桜から聞いたことがあってね。洛北大の物理学の教授の中に、難解な事件の科学検証を依頼することがある『先生』がいると」
ずず、と緑茶を啜る音が、静かなリビングに響く。
「現場の刑事たちが舌を巻くほどの天才だが、警察の捜査を自分の実験の延長のように楽しんでいる節のある、変わり者の先生だと聞いた。日野、という珍しい苗字と、京都の洛北大学。符合するだろう?」
理の言葉に、ハルトは一瞬だけ苦い顔をした後、観念したように「ははっ」と声を上げて笑った。
「……父らしいですね。ええ、間違いなく私の父のことです。息子の自分が言うのもなんですが、父は相当な変わり者ですよ。昔から、自分の興味のあることにしか首を突っ込まない研究者肌の人なので。おそらく、現場の刑事さんたちにはご迷惑をおかけしていると思います」
「いやいや、そんなことはないさ」
理は笑って手を振った。
「お父上の知見と検証実験のおかげで、迷宮入りしかけた難事件が幾つも解決に導かれたと聞いている。
「買い被りですよ。俺は父ほど、頭の中身は良くありませんから」
キッチンから聞こえるあかねと葵の笑い声がBGMのように流れる中、こうして黒川家での穏やかな夜は静かに更けていった。
☆ ★ ☆
翌日、十二月二十九日。
雲の隙間から冬の朝日が差し込む午前中。あかねの母、葵が運転するファミリー向けの乗用車の後部座席で、あかねとハルトは隣り合って座り、とある大型の業務用スーパーへと向かっていた。
車内には、エアコンの暖房の温かい空気と、シートに染み付いた微かな芳香剤の匂いが満ちている。
「二人とも、今日も夜から舞台の公演があって疲れているでしょうに、朝からお買い物に付き合ってくれて本当にありがとうね」
ハンドルを握りながら、葵がバックミラー越しに声をかけた。
「いえ、自分たちはそのためにお邪魔してるようなものですから。力仕事は任せてください」
「そうだよ、お母さん。お買い物も荷物持ちもそうだし、家に帰ってからのお節料理の仕込みの手伝いだって、二人でしっかり頑張るからね」
あかねも元気に答える。
今日は、大晦日のご馳走とお正月のお節料理のための、大量の食材の買い出し日だ。
当初、葵は娘とハルトを連れて、年末の活気に満ちた上野のアメ横へ繰り出して、色々なものを買い込むつもりで張り切っていた。
しかし、出発前に夫、理から「ただでさえインフルエンザが流行っている時期だ。年末でごった返す人混みの中に、舞台の主演を張っているあかねやハルト君を連れ出して、体調を崩してしまったら事だろう。買い物は、いつもの近場の行きつけのスーパーで済ませておきなさい」という、極めて理にかなった危機管理の鶴の一声があり、予定を変更して地元の大型スーパーで買い物をすることになったのだ。
なお、その理といえば、カレンダー上は一般企業と同じように休みに入っているものの、警察組織はまさに今、一年で最も忙しい『年末年始特別警戒』の期間中である。
警視庁刑事部で幾つもの捜査班を束ねる『管理官』という要職を務める彼は、都内で大きな事件が起きれば、昼夜を問わず即座に現場や捜査本部へ急行しなければならない身だ。そのため、今日はいつでも出動できる態勢を整えつつ、自宅に残って水回りの大掃除などを一人で黙々と始めていた。
「それにしても、こうしてあかねを私の車の後ろに乗せて走っていると……なんだか、昔のことを思い出すわねぇ」
赤信号で車を停め、葵が目を細めて懐かしそうに呟いた。
「昔……ですか?」
「ええ。『ひまわりの日』の撮影現場にも、こうやって私が運転して、あかねを連れて行っていたのよ」
「あ……」
あかねの肩がビクッと跳ねた。
「この子ったらね、自分の出番もないのに、『どうしてもハルトさんの演技が見たい、ハルトさんに会いたい!』って言って聞かなくて。学校をズル休みしてまで、私の車に乗り込んで撮影現場について行ってたのよ。本当にお転婆だったんだから」
「お、お母さんっ! ちょっと、何言ってるの!」
幼い頃の、隠しておきたかった熱烈なわがままを実の母に暴露され、あかねは顔から火が出るほど頬を赤く染めて身悶えした。
「わ、私は別に、ただハルトくんに会いたかったからじゃなくて! その、現場の空気を肌で感じて、純粋にお芝居の勉強がしたかっただけっていうか……!」
しどろもどろになりながら、必死に弁解の言葉を並べ立てるあかね。
しかし、隣に座るハルトが、そのあかねの震える左手を、自分の大きな右手でギュッと優しく握りしめてきた。
「えっ……」
ハルトの体温を感じ、あかねは別の意味で顔を極限まで赤らめ、口をパクパクとさせた。
「あはは。そうだったんですか。でも、自分も現場であかねの顔が見れるのは、すごく嬉しかったですよ。あかねがモニターの向こうで見てくれていると思うと、演技にもより一層気合が入りましたから」
「ハルトくん……」
さらりと甘い言葉を吐くハルトに、あかねは完全にノックアウトされ、彼の手を握り返して俯くことしかできなかった。
バックミラーに視線を向け、葵は「あらあら、ご馳走様」などと、娘とその彼氏の初々しくも仲睦まじい姿を、微笑ましく見守っていた。
「でも、自分の出番の撮影がない日に、二人で示し合わせて現場入りしていたことも何度かありましたから。毎回送り迎えをさせられていた葵さんには、多大なご迷惑をかけてしまったかもしれませんが……」
ハルトが少し申し訳なさそうに言うと、葵はパタパタと手を振った。
「いいえ、そんなこと全くないわ!」
娘によく似た、おっとりとした品のある相貌を、ふんわりとした微笑みで緩める。
「あかねも凄く楽しそうに喜んでいたし。私にはお芝居の専門的なことはわからないけれど、あの現場の空気は、あかねにとってかけがえのない、いい経験になったんでしょうね」
そして、葵は少しトーンを落とし、懐かしむように続けた。
「それに、私もあの『ひまわりの日』が、あかねにとって初めての大きな撮影現場で、親としてどう振る舞えばいいのか戸惑うことも多かったの。でも、ハルトさんのお母様……
「母が。そうでしたか」
葵がハルトの母について語り始め、ハルトは少し意外そうな顔をした。
「ええ。ハルトさん、紫子さんは今もお元気になさってる?」
「母ですか? ええ、それはもう、無駄に元気があり余ってますよ。昨日も父に話したんですが、今年はもう日本に帰ってくるつもりがないようで、今はパリだかミラノだかにいるはずです」
「確か……ご自身で立ち上げたブランドの、ファッションデザイナーをなさってるのよね。素敵ねぇ、世界中を飛び回って仕事をしてるんですって?」
「まあ、家族として思うところがないわけじゃないですけどね。俺も好き勝手やらせてもらってますから、お互い様ですよ」
「ハルトくんのお母さん、すっごく綺麗な人だよね。私、現場で何度かご挨拶したの覚えてるよ。スラッとしてて、着物も似合いそうな『The・京美人』って感じで、すごくオーラがあったなぁ」
あかねが昔の記憶を引っ張り出しながら言うと、ハルトは鼻で笑った。
「まあ、見た目
「ええっ、日帰りでイタリア!?」
「ああ。俺のこの性格と気質は、間違いなくあの人譲りだよ」
「それ……自分で言っちゃうんだ……」
あかねは呆れたようにツッコミを入れた。
「ウチの母方の家系の女はな、みんな控えめに言うと個性的というか、ユニークなんだよ。例えば、従姉妹の姉ちゃんなんかも――」
車内は、ハルトの語る破天荒な実家のエピソードと、それに驚き、ツッコミを入れるあかねの楽しげな笑い声で満たされていた。
ハンドルを握る葵は、後部座席で繰り広げられる二人の平和な雑談をバックミラー越しに眺めながら、思わず深い笑みがこぼれるのだった。
和やかな空気の中、車は冬の陽光を反射しながら、年末の賑わいを見せるスーパーへの道を順調に走り続けていた。