十二月三十日、土曜日。
この日、舞台『東京ブレイド』は、年内最後の公演を無事に、そしてかつてないほどの熱狂の中で終えた。
千秋楽ではないものの、一つの区切りとなる年末の舞台。キャスト陣の熱気は最高潮に達し、客席からの拍手はいつまでも鳴り止まなかった。
劇場の外は、年の瀬特有の凍てつくような冷え込みだった。しかし、劇場近くの大衆居酒屋の二階を貸し切って行われた大忘年会の会場は、全く別の熱に包まれていた。
使い込まれた畳の匂いと、卓上に並べられた海鮮鍋から立ち上る出汁の香り、そして焼き鳥の香ばしい煙。それらがアルコールの匂いと混ざり合い、むせ返るような喧騒を作り出している。
「えー、皆の者。今年も一年、本当によくやってくれた」
上座に立ち、ビールグラスを片手に声を張り上げたのは、演出家であり劇団ララライの代表でもある金田一だった。彼の厳格な顔も、今夜ばかりは労いの色に緩んでいる。
「年明けにはすぐに公演が再開する。正月くらいは羽を伸ばしつつも、役者としての矜持は忘れないように。……それでは、今年一年の熱演と、来年のさらなる飛躍を祈って。乾杯!」
「「乾杯!!」」
盛大な掛け声とともに、あちこちでジョッキやグラスがぶつかり合う小気味良い音が響いた。
連日の過密スケジュールとプレッシャーから一時的に解放されたキャストやスタッフたちは、たちまち思い思いのグループに分かれ、笑顔で杯を交わし始めた。
部屋の隅、少し奥まった座敷席。
そこには、いつものメンバー――あかね、ハルト、アクア、かなの四人が固まるはずのスペースがあった。
しかし現在、あかねの隣に置かれた薄い座布団は、ぽっかりと空いたままだ。
「……」
あかねは両手でウーロン茶の入ったグラスを持ち、ストローを咥えてちびちびと飲みながら、恨めしそうな視線を部屋の反対側へと向けていた。
不自然に空いた席の主であるハルトは、乾杯が終わるや否や、相変わらず落ち着きなくあちらこちらのグループをウロウロしては、持ち前のコミュニケーション能力を発揮して談笑して回っている。
今は、喧騒から少し離れた壁際で、姫川大輝と二人きりで何やら真剣な表情で話し込んでいる様子だった。
時折、ハルトと姫川の視線が、あかねたちの席にいるアクアの方へとチラリと向けられる。
(……もしかして、アクアくんと姫川さんの血縁関係のこと、話してるのかな……)
あかねの優れたプロファイリング能力が、二人の僅かな視線の動きや肩の角度から、その話題の重さを推測する。
ハルトが、アクアを気にかけて動いてくれていることは分かっている。分かっているのだが。
(ハルトくん、また私をほっといて……っ)
頭では理解していても、感情は別だ。恋人に放置されたあかねは、プクーッと頬を膨らませてふくれっ面を作った。
グラスをどんっとテーブルに置くと、彼女はお冠のまま、ヤケになったように大皿に盛られたフライドポテトに手を伸ばした。油と塩気の効いたポテトを、パク、パクと無心で消費していく。
一方、あかねの目の前に座るかなは、こういった酒の席の空気にすっかり酔ったように、テンション高めでアクアに絡んでいた。彼女のグラスに入っているのはもちろんノンアルコールのジャスミンティーだが、顔はほんのりと赤い。
「ねーえぇ、アクア〜」
かなが、座布団をにじり寄らせてアクアの顔を覗き込む。
「……なんだよ」
アクアは手にしたウーロン茶のグラスから視線を外さず、淡々と応じた。
「年が明けたらさぁ、一緒に初詣に行かない? 私のすっごく可愛い晴れ着姿、特別に見せてあげるからさぁ」
かなの指先が、テーブルの縁をモジモジと行き来する。上目遣いでアクアの反応を窺うその瞳には、隠しきれない期待が揺れていた。
アクアは小さくため息をつき、ようやくかなの方へと顔を向けた。
「初詣か……。まあ、ルビーやMEMも誘うならいいぞ」
「はぁ!?」
かなの肩がビクッと跳ね、さっきまでの甘い空気が一瞬で吹き飛んだ。
「なんでよ! 私の振袖が二人きりで見たくないってのっ!?」
声を荒げるかなに、アクアは視線をふいっと逸らした。
「別に見たくないわけじゃないが。みんなで行ったって見れるだろ。……ああ、そうだ、ついでに公式チャンネルに上げるお正月動画でも撮るか」
「くっ……どこまでもビジネスライク……っ!」
かなはギリッと歯を食いしばり、悔しそうにアクアを睨みつけた。
「動画撮る名目なら、『B小町』の活動費から予算引っ張れるしな。貸衣装の予約は俺が取っといてやるよ。事務所のコネ使えば、今からでも何とかなるだろ」
「はっ!?」
怒り心頭だったはずのかなの表情が、鳩が豆鉄砲を食ったようにキョトンとしたものに変わった。
「……き、気が利くじゃないの」
素っ気ないアクアの態度に気炎を上げていたかなだったが、貸衣装の手配という具体的な提案を出されると、途端にシュンと萎れてモジモジし始めた。
口では冷たいことを言いながらも、彼が自分のために、予算や衣装のことまで真剣に考えて動いてくれようとしている。その不器用な優しさに気づいたのだろう。
(ふふっ、さすがアクアくん。ちゃんとかなちゃんのこと考えてるなぁ)
あかねはポテトをかじる手を止め、口元を緩めた。
(それに、『別に見たくないわけじゃないが』って……ちょっとデレてるし。かなちゃんは、それに全然気づいてないみたいだけど)
この年末の土壇場で、人気の晴れ着と着付けの予約を新規で取るのは、なかなかに至難の業だ。だが、アクアの言う通り『苺プロ』の力を使えば、タレント向けの貸衣装を扱う業者にねじ込むことも可能だろう。
と、そんなやり取りを見守っていた時、ようやく壁際での密談を終えたハルトが戻ってきた。
「よう。何の話?」
ハルトは、あかねの隣の座布団にどさりと胡座をかきながら、リラックスした様子で周囲を見回した。
「ああ、有馬が思いつきで、晴れ着を着て初詣に行きたいって言い出してな」
アクアがグラスを傾けながら答える。
「今からじゃ、流石に貸衣装屋の予約取れなくね?」
「だから、事務所経由でねじ込んで取る」
「なーる。それなら行けるかもな」
「だろ?」
すっかり気心の知れた様子のハルトとアクア。
言葉少なに短い掛け合いをして、まさにツーカーといった雰囲気だ。
自分を放置していた恋人が戻ってきた安堵感と、彼がこうして大切な仲間と溶け込んでいる姿が嬉しくなって、あかねは自然と隣に座るハルトの肩に、コテンと頭を預けた。
すると、ハルトの大きな手がごく自然な流れであかねの頭に伸び、柔らかい髪を愛おしむように撫で始めた。
「……」
いつものように、息をするようにイチャつき出したバカップル。
それに対し、かなはシラッとした、絶対零度の視線を向けた。
「事務所と言えばさ」
かなは、グラスに残っていたジャスミンティーをぐいっと呷り、トンッとテーブルに置いた。
「あかねのとこって、『ライトスタッフプロモーション』、だっけ」
「うん、そうだけど……?」
頭を撫でられながら、あかねは不思議そうに首を傾げた。
「結構、大手じゃない?」
「そんなことないと思うけど……。せいぜい中堅ぐらいだよ、うちの事務所」
あかねが謙遜交じりに言うと、かなは目を細め、わざとらしく大袈裟なため息をついた。
「はぁー……。あんたの事務所は大きくていいわよねぇ。『苺プロ』なんて弱小で、お芝居のコネもないし……この先、ちゃんと私に役者の仕事回してくれるか不安で仕方ないわ」
「ちょ、ちょっと、かなちゃん……!」
あけすけすぎる言葉に、あかねは慌ててかなを窘めた。
すぐにアクアの方をチラチラと見るが、彼は表面上は全く気分を害した様子もなく、ウーロン茶の氷をカラカラと揺らしているだけだった。
「有馬の懸念はもっともだ」
アクアは淡々と口を開いた。
「うちは元々アイドル専門の事務所で、今はネットタレントのマネジメントがメインだからな。純粋な演技の仕事は、うちのコネには期待するな」
「ほらぁ! 身内がこう言ってんのよ! だから、あかねのとこみたいに役者のパイプがある事務所が羨ましいの!」
かなはバンッとテーブルを叩いた。
「……まぁ、うちの事務所は、ギャラの取り分がタレントと事務所で5:5っていう、すっごく公平なところだけはマシだけどね。私、子役時代にママが『事務所に七割も取られて、搾取されてる!』って散々愚痴ってたの、横で聞いてたからさ」
「……え、5:5?」
かなの言葉に、あかねはポテトを口に運ぶ手を止めた。
「いいなぁ、羨ましい……私、ずっと7:3だ」
ぼそりと、あかねが呟く。
それは、他意など何もない、深く考えない心からの純粋な感想だった。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、かながクワッと限界まで瞼を見開いた。
「はぁぁぁぁ!?」
居酒屋の喧騒を切り裂くようなかなの叫びに、周囲のスタッフが何事かと振り返る。
「あんたっ、今の今まで事務所と交渉してこなかったの!? 自分の今の価値、わかってんの!?」
「う、うん……。ギャラの交渉とかは、特にしたことないけど……」
あかねは目をパチパチと瞬かせた。
「でも、事務所が取ってきてくれた仕事だし、マネージャーさんも動いてくれてるし……向こうの取り分が多いのは当然かなって……」
あかねのあまりにも呑気な言に、かなはワナワナと肩を震わせた。
そして、この世間知らずの天才役者本人に言っても埒が明かないと判断したのか、傍らでくつろいでいるカレシの方へと、親の仇のような厳しい視線を向けた。
当のハルトは、突然飛んできた火の粉に、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「ハルト! あんたもあんたよ!」
「へ?」
「この子のこういう、肝心なところで抜けてるとこ、カレシならちゃんと面倒見なさいよ! あんた、自分の事務所持ってるんでしょ!?」
「ハイ、おっしゃる通りです。面目次第もありません」
かなの正論すぎる怒りに、ハルトは逆らうことを諦め、素直に頭を下げた。
「ちょ、かなちゃん、怒らないで! ハルトくんは悪くないから!」
あかねが慌ててハルトを庇おうと身を乗り出す。
「悪いわよ! カレシとしての監督者責任でしょ!」
あかねとかなのドタバタとした言い合いを、静かに見つめていたアクアが、ふと口を開いた。
「……でも、有馬」
「な、によ」
「お前がこれからアイドルとして圧倒的な頭角を示せば、自ずと役者のオファーも向こうからやって来るだろ」
アクアの真っ直ぐな視線が、かなを射抜く。
「お前は、アイドルとして輝けばいい」
「……っ!」
その言葉に、かなはハッと息を呑んだ。
先日、カフェであかねから投げ掛けられた、残酷なまでのプロファイリング結果が脳裏に蘇る。
『アクアくんは、アイドルとして絶頂期だったお母さんを、熱狂的なファンの手によって目の前で亡くしたことが、癒えないトラウマになっているんだよ』
『スポットライトを浴びて壇上に立つ
アクアが言う「アイドルとして輝けばいい」という言葉。
それは純粋な応援なのか、それとも、彼女を自分から遠ざけるための、無意識の防衛本能からの言葉なのか。
「どうした、有馬」
「う、ううん、なんでもないわよ……」
激しく揺れ動く動揺を必死に押し隠し、かなはアクアからスッと視線を逸らす。テーブルの下で拳をギュッと強く握りしめた。
一方、あかねのあまりにもフワッとした金銭感覚と契約意識に、強烈な危機感を覚えたハルトが、真面目なトーンで問いかけた。
「あかね。お前、次のマネジメント契約の更新は何時だ?」
「えっ、と……?」
突然話を振られ、あかねはぽやぽやとした表情で小首を傾げた。
「契約、更、新……?」
ハルトの表情が、笑顔のままピキリと固まった。
「お前、自分の契約期間把握してないのか。意外だな、お前はそういうのは全て自分でキッチリ管理してるタイプかと思ってたぞ」
アクアが、言葉通り意外そうに、そして呆れた顔で言う。
かなが腕を組み、ふんっと鼻を鳴らした。
「甘いわよ、アクア。あかねはね、普段は頭いいフリしてるけど、結局はお芝居さえできればそれでいいって、そういう根っからの役者バカな子なの」
「ほんと、この子ったら変なところ抜けてるんだから」
やれやれ、と言わんばかりにかなが肩をすくめる。
「うぅっ……」
二人に呆れられ、あかねは羞恥心にプルプルと小動物のように身体を震わせた。
若くして人生の酸いも甘いも経験して苦労しているかな。何事に置いても妙に卒がなく、大人の裏事情にも通じているアクア。そして、既にアーティストとして独立し、会社を立ち上げて従業員を食べさせているハルト。
彼ら三人に比べれば、確かにあかねは、お芝居の世界しか知らない、ある意味で世間知らずの箱入り娘と言えるだろう。
「そ、そんなことないよっ! ちゃ、ちゃんと覚えてるもん!」
あかねは浅葱色の瞳をグルグルとさせ、灰色の脳細胞をフル回転させて、過去の記憶の棚を必死に開けて回る。
実際問題として、前回の契約更新のサインをしたのは中学生の頃だった。常日頃から演劇の稽古と役作りに没頭していたため、そういったある種の瑣末事や実務的な手続きは、すべて両親に任せっきりになっていたのだ。
「ら、来年の、三月……だったかな」
ようやく引っ張り出した記憶を頼りに、自信なげに答える。
「ふーん。もうすぐじゃない」
かなが手元のスマホを見ながら言う。
「ちょうどいいな、あかね」
ハルトが、あかねの肩をポンと叩いた。
「俺も流石に、他事務所の直接交渉には参加できねーけど、お前がサインする今の契約書の内容確認ぐらいならできる。不利な条項がないか見てやるから、お前んちに帰ったら一緒に見てみようぜ」
「うん、ありがとうハルトくん。頼りになるなぁ」
あかねはホッと胸を撫で下ろし、ハルトに微笑みかけた。
「……」
「……」
その瞬間、アクアとかなの動きが同時にピタリと止まった。
「……有馬。今、俺の耳に聞き捨てならない言葉が聞こえたんだが。俺の気のせいか?」
アクアが、ジト目でハルトを睨む。
「奇遇ね、アクア。私の耳にも、ハッキリと聞こえたわよ」
かなもまた、親の仇を見るような目でハルトを睨みつけていた。
『お前んちに帰ったら』
それはつまり、この年末の時期に、二人が同じ家に帰るということ。さらには、あかねの実家にハルトが上がり込む、あるいは同棲しているという事実を、無自覚に暴露してしまったも同然だった。
「あ……」
あかねの顔が、サァッと青ざめる。
ハルトは「しまった」という顔をして、誤魔化すように視線を激しく泳がせた。
「まあまあ、俺たちのことはいいじゃん!」
ハルトは取り繕ったように、不自然なほど明るい声を上げた。いつもはデリカシーを窓から投げ捨てているようなノンデリ男が、アクアとかなの前で家族への挨拶や同棲の話を掘り下げられるのはよほど気不味いとばかりに、強引に話のベクトルを捻じ曲げる。
「それよりさ! ここでお二人さんから、来年の抱負を聞きたいね!」
「抱負ぅ?」
かなが訝しげな声を上げ、ジト目でハルトを睨んだ。しかし、自分のアピールチャンスだと気づいたのか、すぐにドヤァと言わんばかりに胸を張り、堂々と言い放った。
「そりゃあもちろん、演技の仕事をもっとたくさんすることよ!」
「だろうな」
「知ってた」
アクアとハルトが、微塵の驚きもなく息ぴったりで口々に感想を述べる。
「……」
一方のあかねは、その言葉を聞いてピクッと眉を顰めた。
「……。かなちゃん、『B小町』の活動については? 何かないの?」
「えっ」
あかねの鋭い指摘に、かなは虚を突かれたような顔をした。
「あー、その、私、アイドル活動は腰掛けというか……なんというか……」
途端に歯切れが悪くなり、隣に座る『B小町』のプロデューサーでもあるアクアをチラチラと見上げる。しかしそのアクアは、かなの助けを求める視線を完全に無視するように、何時もの無表情でウーロン茶のグラスに口をつけていた。
途端に、あかねの整った眉毛がキュッと吊り上がった。
「かなちゃん、そういう中途半端なのはよくないと思う。私、『有馬かな』がアイドルやってるのって解釈違いっていうか、正直今も完全には納得してないけど」
「そうなのっ!?」
「……お前、厄介オタクか?」
かなとアクアが、初めて明かされたあかねの『推しに対する解釈』に素の驚きを示す。
「でも、JIFに出るために血を吐くようなレッスンを頑張って、センターの重圧に苦しんでたかなちゃんを見て、〝本気で、真剣にやってるなら応援しよう〟って心から思ったの。だから、やるならちゃんと真剣にやって。そうじゃないなら、アイドルなんて辞めちゃって」
「あんた、この前カフェで言ってたことと違くない!?」
「そうだけど、そうじゃないの!」
「どう違うのよ!」
「むーっ!!」
感情的になり、ヒートアップして顔を赤くするあかね。
「どうどう」
隣のハルトが、猛るあかねの肩を抱き寄せて宥める。そして、不満そうに唇を尖らせているかなに真剣な目を向けた。
「俺もあかねの意見に全面的に同意するわけじゃないが、アイドルも真面目にやったほうがいいと思うぞ、有馬」
「……別に、真面目にやってないわけじゃないけど」
「もちろん、お前がお前なりに真剣に取り組んでるのは知ってる。俺が言いたいのは、『B小町』の一員として、中途半端な結果を世間に残すなってことだ」
「どういうことよ」
まだかなを睨みつけているあかねの頭をワシャワシャと撫でてあやしつつ、ハルトはあえて深刻ぶったトーンで続ける。
「未来の大女優、有馬かなの輝かしい経歴に傷を残す気か?」
「はっ!?」
カッと、かなの目が見開かれた。
「未来の……大女優……」
かながハルトの言葉を復唱する。その瞬間、彼女の大きな瞳が、その甘く魅力的な響きのワードに、キラキラと星を散らしたように光り輝いた。
「ま、まあ? 確かに、未来の大・女・優である有馬かなの完璧な経歴を、変に汚すわけにはいかないわよね? アンタたちがそこまで私に言うなら、もうちょっと『B小町』に力を入れて頑張るのもやぶさかじゃないというか……」
一瞬でご機嫌になったかなが、さっきよりもずっと反りっ返るほど胸を張り、有頂天になって髪をファサッと払う。その頬には、喜びで僅かに紅が差していた。
(うわっ、チョロっ)
ハルトが、自分の放ったおべっかの圧倒的な効果に内心でほくそ笑む。
(チョロかわ……)
あかねが、『推し』のあまりのチョロさに一瞬で怒りを忘れ、機嫌を直す。
(コイツ、チョロいな……)
アクアが隣で、あまりの煽てやすさに今後の防犯上の心配を覚えた。
「次、アクア。お前はどうだ?」
ハルトが話を振る。
「……俺か? というか、ハルト、お前、わかって聞いてるんだろうな」
「モチのロンよ。これは宿題の途中報告だよ」
「何が宿題だよ、まったく……」
あかねはその二人の短いやりとりを聞いて、ピンときた。
ハルトは先日、アクアに対してある言葉を投げかけていた。
『自分は本当はどう生きたいのか。復讐の末に死にたいのか、それとも仲間やルビーちゃんと一緒に、陽の当たる場所で役者として、あるいは別の道を生きたいのか……それを決めるんだ。他ならぬお前自身がな』
ハルトは今、あの問いに対するアクアの『答え』を求めているのだと、あかねは察した。
アクアは、中身の少なくなったグラスの氷を見つめ、静かに言葉を切り出した。
「抱負って言っても、特にないよ。今の俺には、やるべきことがあるからな。ただ……」
「ただ?」
「医者に……外科医になりたかったことを、思い出した」
そうアクアがこぼした瞬間。
テーブルの空気が、ピシッと音を立てて凍りついた。
いつも朗らかなハルトや、ぽやぽやとしたあかね、そしてあかねから密かにアクアの『母親が刺殺された過去』を聞かされたかなも同様だった。
母親の凄惨な死を目の当たりにした少年の夢として、『人を救う外科医』というのは、あまりにも重く、リアリティがあり過ぎる悲痛な願いに聞こえたからだ。
「……お前らの思ってるような理由じゃないぞ」
目の前の二人の表情――幸い、隣のかなの顔が蒼白になっていることには気づいていない――を見て、アクアは重苦しい勘違いを察し、深いため息をついた。
「そういうんじゃなくて、もっと昔からの夢というか、目標だったんだ」
「もっと昔って?」
あかねが首を傾げる。アクアが少し考えたあと、真顔で口を開いた。
「……一歳とか、かな」
「外科医になりたいって一歳児がいるかよ」
「ここにいるが」
ハルトの至極もっともなツッコミに、アクアが不満げに返す。そのシュールなやり取りに、張り詰めていた空気が一気に弛緩した。
「まーあっ、アクアってば、昔っからこまっしゃくれたおこちゃまだったから、納得かしらね!」
再起動したかなが、誰にマウントを取っているのか、誇らしげに幼馴染アピールを開始する。すると、アクアの青い瞳がスッと細まり、氷のような光を宿した。
「お前にだけは言われたくないぞ、有馬。映画の撮影現場で初めて会った時の、あのお前の横柄な態度、俺は一生覚えてるからな」
「うっ!?」
かなが言葉に詰まる。
「そうだよ!」
アクアの証言に身に覚えがありすぎるあかねが、ここぞとばかりに追撃を開始する。
「私も、かなちゃんとオーディションで初めて会ったときのこと、絶対に忘れないよ! 私はただお友達になりたかっただけなのに、ひっどいこと言われて泣かされたんだから!」
「あかね、お前もか」
「うん。かなちゃん、昔から本当に性格悪いんだもの」
「分かる。コイツ性格悪いよな」
「性格悪いは余計よ!!」
尖りきっていた子役時代の『有馬かな』の被害者の会として、完全に意気投合するアクアとあかね。それを見ていたハルトが、とどめを刺しにかかる。
「俺が現場で会った時も、相当に高慢ちきで鼻持ちならない女だったな。……さて、そんな未来の大女優・有馬かなさんとの出会い際、アクアくんはどう思いましたか?」
マイクを向けるような仕草をするハルトに、アクアは淡々と答えた。
「……憎たらしくて、殺したいくらいだったな」
「ぐはっ!?」
片思いしている最愛の相手から、実は最悪なバッドコミュニケーションをかましていた事実を突きつけられ、かなが白目を剥いて仰向けにぶっ倒れた。
「うわ、エグ」
「お前が言わせたんだろ」
「いや、そこまでストレートに言うとは思わないじゃん。流石に引くわ」
「ちょっとはお灸を据えといたほうがいいだろ。最近コイツ、やけに調子に乗ってるしな」
「またまたー。そんなこと言ってー、アクアってば有馬をイジるの愉しんでるだろ?」
「……まあな」
などと、倒れたかなを放置してハルトとアクアが和やかに話をしていると。
「ちょっとごめん! 隣、いいかな!?」
メルトがグラスを片手に、女性陣の集まるテーブルから逃げ出すようにしてやってきた。
「なになに、何の話してんの? ……って、うわ死人が出てるっ!?」
畳に転がるかなを見て、メルトが悲鳴を上げる。
「あ、メルトくん。今はね、みんなで来年の抱負の話してたんだよ」
あかねが笑顔で答える。
「いや、来年の抱負でどうして有馬が倒れてるんだよ……」
「いろいろあってな。まあ、座れよ」
ハルトが空いているスペースを手で示す。
「俺もいいか、日野」
さらに、ウーロンハイのジョッキを片手に持ち、少し頬を赤くして出来上がった様子の姫川もフラリと現れた。二十歳を迎えている彼は、すでにかなりのピッチでアルコールを摂取しているようだ。
「ええ、どうぞどうぞ」
メルトと姫川も加わり、卓の周りが一気に男臭く、賑やかになる。
あかねがふとアクアの方を見ると、彼は姫川とは目を合わさないよう、ごく自然に視線をグラスの氷へと反らしていた。腹違いの兄弟というあまりにも重く微妙な間柄が発覚した後、どう接するべきか、アクア自身も未だに距離感を決めあぐねているようだった。
「で、何の話なんだ?」
姫川が座布団にあぐらをかきながら問うと、ハルトが答えた。
「来年の抱負を聞いてるんですよ。せっかくだし、二人のも聞かせてもらおうかな。まずはメルトから」
「ええっ、俺? 来年の抱負かぁ……」
メルトは少し照れたように頭を掻いた。
「もっと、純粋に芝居の勉強がしたい、かな。周りの熱量に当てられて、もっと上手くなりたいって思ったんだ。まあ、まずはこの舞台の残りの公演を全力でやりきってから、だけどさ」
「ほぉ~、イイじゃん。役者の鑑だな」
ハルトが感心したように言う。
「うん、いいね! すてきだと思う!」
あかねはパァッと花が咲いたように相好を崩し、拍手をした。二人に純粋に賞賛され、メルトは耳まで赤くして「いや、そんなたいしたことじゃ……」と照れくさそうに俯いた。
「姫川さんは?」
「俺か? そうだな……」
姫川はウーロンハイを一口飲み、少し宙を見つめた。
「そろそろ、免許が欲しい」
「免許?」
「そう。車の免許」
眼鏡のレンズを光らせ、姫川が本気かどうかわからない、ひどくフラットなトーンで答えた。
「前から取ろう取ろうとは思ってたんだが、教習所に通うのがなかなか億劫でな。でも、今年二十歳になったし、頃合いだろ。自分の車も欲しいしな」
「きゅ、急に現実的な目標が……」
「ま、まあ、そういうのもアリなんじゃね?」
あかねとハルトが、姫川の天然とも言える等身大な抱負にリアクションに困り、愛想笑いを浮かべる。
「そろそろハルト、お前の抱負を聞かせろよ」
アクアがハルトへ矛先を向けた。
「そうよ! アンタ、さっきから高みの見物決め込んでるんじゃないわよ!」
いつの間にか復活していたかなが、ここぞとばかりにアクアに同意を示す。少し涙目になっていることを、あかねは武士の情けとして優しく無視してあげた。
「俺の抱負は、〝さらなる成長と挑戦〟。これだな」
ハルトが、ロクロを回すような手つきで堂々と言い放つ。
「何よ、普通すぎてつまんないわね。どこのIT企業の社長よ」
「普通で悪いか。来年の三月にはアルバムも発売されて、正式にシンガーソングライターとして表立った活動を開始するんでな。まあ、俺のやることは今までとそう変わらないけど、忙しくなるのは間違いないだろうぜ」
文句たらたらのかなに、済まし顔で返すハルト。
聞こえのいい、いかにもプロデューサーらしい言葉を並べているが。言ってしまえば『何も具体的な考えがない』ことに、隣にいる恋人のあかねだけが気がついていた。(いつもハルトくんは、自分の直感と感性に任せた出たとこ勝負の人だもんね……)と、あかねは内心でクスクスと笑った。
「最後はあかねね。アンタはどうなの?」
かながあかねに水を向ける。全員の視線が、天才役者へと集まった。
「私は、来年は学業優先で、少しお仕事をセーブしようと思ってて」
「えっ」
かなが驚きの声を上げた。
「アンタ、東ブレの評価でこれからドカッとオファーが来る大事な時期じゃない。休むなんてもったいなくない?」
「それはそうかもだけど……私たち、来年には高校三年生になるでしょ? 大学受験のこともあるし。高校生活最後の一年、今しかできない普通の生活をいっぱい体験して、それを今後のお芝居の引き出しに活かせたらなって思ってるの」
「だ、大学、受験……進学……」
同い年、同級生のかなが愕然とし、持っていたグラスを落としそうになって言葉を失っている。子役時代から芸能界にどっぷり浸かっていた彼女にとって、進学などという選択肢は考えもしなかっただろうことは明らかだ。
アクアが口を開く。
「ハルト、お前も大学に進むつもりなのか?」
「ああ。どこに進学するかまではまだ決めてねーけど、あかねと同じ大学に行くのは間違いないな」
ハルトは事もなげに言い切り、ニカッと笑った。
「夢のキャンパスライフってやつを謳歌する予定だ」
「いや、ハルトはそっちがメインでしょ絶対。不純な動機すぎる」
メルトがジト目で的確なツッコミを入れる。
「わかっちゃうか〜。あかねとの甘い大学生活が楽しみだぜ」
「もう、ハルトくん、気が早いよ。まだどこ受けるかも決めてないのに」
あかねが照れてハルトの腕をポカポカと叩き、再び二人の周囲にピンク色のオーラが漂い始める。
突然目の前で繰り広げられた『普通の学生カップル』のイチャつきに、場の空気が完全に弛緩し、そして崩壊した。
「「「「リア充爆発しろ」」」」
アクア、かな、メルト、そして姫川の四人は、見事に声を合わせて揶揄した。
それ以上深く追求することなく、底知れぬほどげんなりとした様子で互いの顔を見合わせると、彼らは深く、深いため息を夜の居酒屋に吐き出すのだった。