十二月三十一日。大晦日。
東京郊外にある、黒川家。
大晦日の朝から、家の中は慌ただしい活気に満ちていた。
日中、あかねはお気に入りのエプロンを締め、母の葵とともにキッチンに立ち、お節料理の準備に追われていた。コンロの上では、根菜に味が染み込む甘辛い煮しめの匂いと、ふっくらと炊き上がる艶やかな黒豆の香りが漂っている。あかねは真剣な顔で栗きんとんを練りながら、母の熟練の手さばきを目に焼き付けていた。
一方のハルトは、動きやすいスウェット姿に着替え、父の理とともに大掃除の続きを担当していた。高い場所の窓拭きや、換気扇の油汚れの除去など、力仕事を中心にテキパキとこなしていく。理が「ハルト君、手際がいいな」と感心すると、ハルトは「一人暮らしが長かったんで、掃除は嫌いじゃないんですよ」と爽やかに笑い、すっかり黒川家の男手として馴染んでいた。
そうして夕暮れ時。
冬のつるべ落としの夕日が沈み、外の空気がキンと冷え切った頃、ようやく全ての年の瀬の準備が整った。
夕飯時。インターホンが鳴り、予約していた地元の老舗寿司屋から、店屋物の出前が届いた。
「今夜は一年の締めくくりだから、奮発して特上のお寿司よ」
葵が、風呂敷に包まれた重そうな漆塗りの寿司桶を抱えてダイニングに現れる。
「お寿司! 特上……!」
その言葉を聞いた瞬間。あかねの大きな浅葱色の瞳が、見開かれたままキラキラと星のように輝き出した。声のトーンが、普段の落ち着いたものから一オクターブ跳ね上がり、嬉々とした歓喜の色が漏れ出る。
「お母さん、私が持つよ!」
あかねはそそくさと小走りで母に駆け寄ると、大事な宝物でも受け取るように寿司桶を受け取り、ダイニングテーブルのど真ん中に慎重に設置した。
席について夕刊の新聞を読んでいた父の理が、いかにも子供のようにはしゃぐ娘の姿を見て、優しく笑いかける。
「あかねは本当に、昔から寿司が好きだね」
「あっ……」
父の何気ないひと言に、あかねはハッと正気に戻った。
同じく席に座って、急須を片手にお茶を準備していたハルトの方をチラリと盗み見る。ハルトは、お茶を注ぐ手をピタリと止め、わずかに目を見開いて驚いた顔をしていた。
「えっ、そうなんですか。あかねが魚料理全般が好きなのは知ってましたけど、実はお寿司が大好物だったなんて……」
しまった、とあかねは内心で激しく動揺した。
自分の大好物がお寿司であること。それは、これまでハルトには絶対にバレないように、ひた隠しにしていた『乙女の秘密』だったのだ。
「おい、あかね。お前、寿司がそんなに好きなら、どうして俺にそうと言ってくれなかったんだよ。言ってくれれば、いくらでも美味い店に連れて行って食べさせてやったのに」
ハルトが、少し不満そうに、しかし優しさを滲ませた声で言う。
「だ、だって……!」
あかねは顔を真っ赤にして俯き、エプロンの裾をモジモジと指で弄くった。
「だって……お寿司って、すごく高いじゃない……。高校生なのに、彼氏に『こんな高いもの食べたい』だなんておねだりするの、はしたないし、図々しいと思って……恥ずかしくて、言い出せなかったの……」
ボソボソと、消え入りそうな声で供述するあかね。ハルトは一瞬呆気に取られ、それから息を吐いた。
「……ばーか。俺とお前の仲で、今更そんな遠慮すんなって。美味い寿司屋に連れて行くくらいの甲斐性はある」
ハルトはあかねの頭にポンと手を置き、ニカッと笑った。
「年が明けたら、今度、銀座の回らない高い寿司屋に連れてってやるよ。腹いっぱい食わせてやるから」
「ほ、ほんと!? ……でも、私、近所の回るお寿司も、楽しくて大好きなんだよ?」
あかねが上目遣いで遠慮がちに言うと、ハルトはあっけらかんと言い放った。
「じゃあ、どっちも行けばいいじゃん」
あまりにも男前なハルトの提案に、あかねは嬉しさと恥ずかしさで、もう顔から火が出そうだった。
「はいはい。あなたたち、仲良しなのはとってもいいことだけど、お寿司が乾いちゃう前に晩ご飯食べちゃいましょうね」
二人の甘いやり取りを微笑ましく見ていた葵が、パンパンと手を叩いて場を仕切る。
「そうだな。母さんの言うとおりだ。あかねも座りなさい」
理が新聞を畳みながら同意を示す。
「「はーい」」
あかねとハルトが並んで席につく。
それぞれの前に、葵お手製の柚子の香りが上品に漂うお吸い物が置かれた。そして、テーブルの中央。大きな漆塗りの寿司桶の蓋が開けられる。
ふわりと広がる酢飯の香りと、四人前の特上寿司らしく、大トロ、ウニ、イクラ、数の子といった色とりどりで艶やかな海の幸が、所狭しと美しく並べられていた。
「おおっ……」
ハルトも感嘆の声を漏らす。
「いただきます」
家長である理の厳かなひと言を合図に、本年最後となる、賑やかな大晦日の夕飯が始まった。
「はむ……」
あかねは、一番大好きな中トロを箸でつまみ、そっと口へと運んだ。舌の上でとろける脂の甘みと、完璧なバランスの酢飯。
「……んん〜! おいひぃい〜……」
もはや恥じらいを捨て、完全に開き直ったあかね。彼女は、これ以上ないほど幸せそうに表情を蕩けさせながら、愛する家族と恋人に囲まれ、久々の大好物を心ゆくまで堪能したのだった。
☆ ★ ☆
食後の団欒の時間。
リビングに隣接する和室には、冬の風物詩である大きな炬燵が出されていた。みかんの乗った籠と、温かい緑茶の入った急須が置かれた炬燵を囲み、四人はのんびりとテレビ画面を眺めている。
テレビの正面にあたる位置に理がどっしりと座り、その右手側に葵。そして左手側には、あかねとハルトが肩が触れ合うほどの距離で身を寄せ合って座っていた。炬燵布団の下では、こっそりと二人の足先が触れ合っている。
画面には、大晦日恒例の『紅白歌合戦』が映し出されている。
きらびやかなセットの中で、あかねでも名前を知っている有名な女性アイドルグループが、一糸乱れぬ華やかなパフォーマンスを披露していた。
カメラに向かってとびきりの笑顔を振りまく彼女たちの姿に、あかねはふと、自分と同年代の友達や仲間たちの姿を重ね合わせていた。
「いつか……かなちゃんたちも、このステージに立つのかな」
画面の眩しさに目を細めながら、あかねがぽつりと呟いた。
「かもな」
ハルトが湯呑みを傾けながら応じる。
「結局、アイがいた旧『B小町』は解散までに出れなかったが、あいつらなら、もしかしたらもしかするかもしれない。ルビーのあの求心力と、有馬の地力があればな」
「うん、そうだといいね」
ハルトの楽観的でありながらも説得力のある観測に、あかねは自然と笑顔を浮かべた。
かなが本来の居場所である役者の道を一旦横に置き、アイドルを続けることに思うところがないと言えば嘘になる。だが、『ジャパンアイドルフェス(JIF)』に向けて血を吐くようなレッスンに付き合い、彼女たちの本気に触れたことで、あかねの考えは少し変わっていた。
根っからの役者バカである『有馬かな』が、最終的に役者の仕事を辞めるわけがない。今、彼女がアイドルという表現に真剣に取り組んでいるのなら、『推し』であるかなが幸せで輝いているのなら、それでいいと心から思えるようになっていた。
「レコ大もそうだけど、往年の権威はなくなったとはいえ、この番組も日本のアーティストにとっては一種のマイルストーンだからな」
ハルトがテレビ画面を指差しながら解説する。
「最終的には、事務所の力や業界のパワーバランスが物を言う世界とはいえ、音楽をやる人間にとって目指すべき場所の一つであることは間違いない」
その言葉を聞き、あかねの脳裏にふと、ある考えが閃いた。
「もしかすると……ハルトくんなら、来年には出場できちゃったりして」
「おいおい」
ハルトが苦笑して肩をすくめた。
「いくらなんでも買いかぶり過ぎだって。俺はまだ、表舞台でのデビューアルバムすら発売してないんだぜ? それに、舞台が終わった後、音楽活動に本腰を入れるかどうかもまだはっきりと決めてないしな」
「えぇーっ? そんなことないと思うけどなぁ……。ハルトくんの曲、あんなにバズってるのに」
あかねは不思議そうに首を傾げた。
あかねの中では、目の前にいる大好きな恋人である『ハルト』と、正体不明の天才コンポーザー『ソレイユ』、あるいは大人気配信者でありシンガーソングライターの『日野ハルト』という存在が、未だに完全にイコールで結びついていなかった。彼がどれほど世間に影響力を持つ途方もない存在なのか、あかねは彼を「一人の彼氏」として見すぎるあまり、客観的な評価が抜け落ちてしまうのだ。
ぼうっとテレビ画面を見ていた葵が、娘たちの会話が一段落したと見たのか、穏やかな声で問い掛けた。
「ねえ、あかね。さっきから言ってる『かなちゃん』って、あの有馬かなちゃんのこと?」
「そうだよ、お母さん。今ね、かなちゃんはアイドルやってて。『B小町』って言うんだよ、かなちゃんの所属してるグループ」
「へぇ……有馬かなちゃんがねぇ……。あら、でも『B小町』って、なんだか聞いたことある名前ね」
「ああ、私も『B小町』には聞き覚えがあるな」
理が妻の言葉に考える素振りを見せる。
「十年くらい前に活躍していた、有名なアイドルグループの名前だろう。確か、センターの子が……」
「そっか。お父さんとお母さんって、前の『B小町』が活躍していた頃を知ってるんだ……」
あかねは少しだけ目を伏せた。
無敵のアイドル『アイ』の死と、それに伴う旧『B小町』の解散。そして、今こうしてアクアやルビーたちがその名を受け継いでいること。すべてを知っているあかねにとって、両親の口からその名が出ることは、何となく不思議で、そして少しだけ胸が痛む出来事のように思えた。
「有馬かなちゃんといえば……あかね、小さい頃、ずっとあの子のドラマが大好きだったわよね、あなた」
「えっ」
葵の唐突な言葉に、あかねの肩がビクッと跳ねた。
「そうだな、母さん。あかねが三つくらいだったか? 毎日、録画した有馬くんのドラマを見たがって、一日中テレビの前から動かないくらい夢中だったね」
理も目を細めて懐かしそうに頷く。
「えっ!? ちょ、ちょっと、お父さん、お母さん!?」
思いもよらない両親の暴露に、あかねの表情がピキリと凍りついた。
「ふぅん……?」
隣に座っているハルトが、スッと目を細めた。
「なんか、俺の聞いてた話と違うな?」
低く、面白がるような声が耳元に届く。
「あっ、ち、違うの!」
あかねは慌ててハルトの方を向き、両手を振って必死に弁明した。
「か、かなちゃんのドラマを見てたのは本当だけど! 私が本格的にお芝居に興味を持って、役者を志したきっかけの作品が『モルモのやくそく』なのは本当で……嘘じゃないもん!」
「ああ、そうだわ!」
あかねの焦りなど全く意に介さず、葵がポンッと手を叩いた。
「あかねの小さい頃の可愛いお写真、ハルトさんに見せようと思って、アルバムを棚から出して用意しておいたのよ。今持ってくるわね」
「え“えっ!? ちょ、ちょっとお母さん! やめて!」
潰れたカエルのような裏返った声を上げ、炬燵から立ち上がろうとする母を止めようと、あかねは慌てて腰を浮かせた。
しかし、その時。
ガシッ、と。ハルトの大きな手が、あかねの華奢な肩を力強く掴んだ。
「あっ」
そのまま、ストンと容赦なく元の座布団に引き戻される。
まるで逃げられないように、肩を抱き寄せられる形で固定されてしまった。普段の優しいスキンシップとは違う、強引で逃げ場のないホールドに、いつもとは別の意味であかねの心臓の鼓動がドクン、と速くなる。
「いいですね、葵さん。俺、あかねの昔の写真、ぜひ見てみたいです」
ハルトは極上のスマイルを葵に向けた。
「ハルトくん……!?」
抗議の視線を向けるあかねの耳元に、ハルトが顔を寄せ、意地悪く囁く。
「お前の昔の写真なんて、俺が興味あるに決まってんだろ」
「だ、だけどっ! 恥ずかしいのとかあるし!」
「いやぁ〜、楽しみだなぁ。いったいどんなお宝写真が出てくるんだろうなぁ!」
ハルトのドSなスイッチが完全にオンになっている。
「くぅっ……」
肩をガッチリとホールドされ、もはや逃亡を諦めたあかねは、真っ赤になった顔を両手で覆い隠した。
(覚えててね、ハルトくん……。いつか絶対に、仕返ししてやるんだから……!)
炬燵の中で、あかねは密かに復讐を誓うのだった。
☆ ★ ☆
両親とハルトから、アルバムをめくりながら散々に辱めを受けたあかね。特に、赤ん坊の頃の丸々とした湯浴みの写真や、幼稚園のお遊戯会で泣きべそをかいている写真などを見られた時は、顔から火が出るほど恥ずかしく、最後は泣きそうになっていた。
拷問のような時間が終わり、あかねはエネルギーを使い果たしてグッタリと炬燵の上に突っ伏していた。
夜も更け、まったりとした静かな空気が和室を包む中、急須から温かいお茶を注ぎ足したハルトが、ふと真面目な口調で切り出した。
「ああ、そうだ、理さん。ちょっと一つ、聞いてみたいことがあるんですけど、いいですか」
「なんだい?」
理が湯呑みを置き、向き直る。
「例えばの話なんですが……」
ハルトはわずかに視線を落とし、慎重に言葉を選んだ。
「別れた恋人にストーカーをけしかけて、結果的に殺させた。そして、実行犯であるストーカーはその後、自殺したとします。……この場合、背後でけしかけた人間を法的に裁くことはできるんでしょうか?」
「は、ハルトくんっ!?」
炬燵に突っ伏していたあかねが、バネ仕掛けのように勢いよく飛び起きた。
それは、どう考えても星野アイの事件の構図そのものだった。あまりにも直接的な質問に、思わず声が出てしまったのだ。
理は、その物騒な問いかけに、警察官としての鋭い視線をハルトに向け、深く眉をしかめた。
「……大晦日にしては、随分と物騒な話だね。現実の事件の話じゃないんだろう?」
「もちろん、フィクションですよ」
何食わぬ顔をしたハルトは動じることなく、爽やかな表情でサラッと言ってのけた。
「俺とあかねが今ハマっている、海外のサスペンスドラマの話なんです。主人公の探偵は、黒幕が誰なのかまでは突き止めているんですが、それをどうやって証明するのかがわからなくて。警察なら、こういう事件をどう扱うのかと思いまして。な、あかね?」
「えっ? あ、うん! そうなの、お父さん!」
突然話を振られたあかねは、動揺を必死に隠して話を合わせた。
「それで、二人であれこれ考えてたんだけど……お父さんの意見も聞いてみたくて」
「なるほど。海外のドラマなら法律も違うだろうが、日本の場合ということでいいかな?」
「はい。お願いします」
理は小さく頷くと、腕を組み、僅かに考えた後、重い口を開いた。
「まず、実行犯が死亡しているからといって、唆した人間の罪まで消えるわけじゃない。殺人教唆で罪に問うことは、法律上は可能だよ」
「……では、逮捕することも?」
「証拠があればね。ただ、君の話だと、そこが一番難しいだろう」
湯呑みに手を伸ばした理は、唇を湿らすように温くなった緑茶を啜る。
「例えば、黒幕がストーカーに被害者の住所を教えていたとしよう。それ自体は重要な手掛かりになり得る。だが、それだけで殺人を教唆したとは言えないんだ」
「殺すように指示した証拠が必要、ということですか?」
「必ずしも、直接そう言った証拠が必要なわけじゃない。遠回しな言葉で唆すこともあるし、複数の状況証拠から判断できる場合もある。ただ、黒幕が何を意図していたのか、実行犯がどういう経緯で犯行に及んだのかは、きちんと裏付けなければならない」
「……なるほど」
「まして、実行犯はすでに亡くなっているんだろう? 本人から話を聞くことはできない。二人のやり取りを示す記録や、事情を知る第三者の証言でも残っていれば別だが……」
理が言葉を切る。刑事として、管理官として法律と向き合ってきた専門家として慎重に言葉を選んでいるようだった。
「何年も前の事件で、そうした証拠が何も見つかっていないとなると、相当に厳しいだろうね」
「……状況から見て、黒幕が犯人だと確信できても、ですか?」
「警察官の確信だけでは、人を罪に問うことはできないよ」
理の答えは明快だ。
「もちろん、逮捕できるかどうかと、裁判で有罪にできるかどうかは別の話だ。ただ、どちらにしても、疑いを裏付ける客観的な根拠が必要になる。いくら怪しい人物でも、それがなければ難しい」
「……そうですか」
「もっとも、不可能だと決めつけるのも早計だ。新しい証拠が出てくれば、捜査が進展することだってある。完全犯罪かどうかなんて、簡単に断言できるものじゃないからね」
そう言って、理は少しだけ表情を和らげた。
「まあ、ドラマの探偵がすでに黒幕を特定しているなら、あとはどうやって証拠を見つけるか、という話になるのかな」
「なるほど……。主人公にとっては、かなり難しい問題ですね」
「そうだね。犯人がわかっていることと、その罪を証明できることは違う。現実の捜査でも、そこが難しいところなんだ」
「……ありがとうございます。とても参考になりました」
ハルトは静かに頭を下げる。
(やはり、そう簡単にはいかないか)
予想していた答えではあった。それでも、警察官である理の口から聞くと、改めてその難しさを実感させられる。
実行犯はすでに死亡し、事件からも年月が経っている。カミキヒカルという男がアイの死に関与したと考える理由はあっても、それを法廷で証明できるだけの材料は、今のところ何もない。
ハルトはちらり、と隣に座るあかねに視線を向けた。
あかねは、父の話を聞きながら、カミキヒカルという男の底知れぬ狡猾さと、法で裁くことの絶望的な難しさを改めて痛感していた。
しかし、その瞳に諦めの色はなかった。ハルトの山吹色の瞳を真っ直ぐに見返し、力強く、静かに頷く。
法で裁くための証拠が見つからないのなら、どうするのか。
二人は言葉を交わさなかった。
それでも、まだ別の方法を探さなければならないという思いだけは、確かに共有していた。
☆ ★ ☆
年明け、一月二日。火曜日。午前中。
元旦を黒川家でのんびりと過ごし、美味しいお節を食べてすっかりリフレッシュしたあかねとハルトは、実家から歩いて行ける距離にある、こじんまりとした神社へとやってきていた。
舞台『東京ブレイド』の再開は明日、一月三日から。今日は劇場での設備やセット、衣装、小道具の最終点検とメンテナンスに当てられており、明日は連休明けのため、午前中からキャスト陣の抜き稽古が実施される予定だ。
そのため、今年は無理して都心の有名な大きな神社へ遠出などはせず、あかねが幼少期から毎年欠かさず初詣に訪れていた、地域の氏神様で初詣を行うことになったのだ。
ごく小規模な神社とはいえ、古くから地域に根付いていること、また一月二日ということもあり、境内は近隣の家族連れなどの参拝客でそれなりに賑わっていた。
冷たい冬の風が、神社の木々の枝を揺らしている。
「今年も、ハルトくんに晴れ着見せたかったなぁ……」
手水舎で手を清めながら、あかねが少し残念そうにぽつりとこぼした。
「まあ、今年は舞台もあるし、いいじゃん。また来年、ゆっくり見せてくれよ」
ハルトがハンカチであかねの手を拭きながら、優しく微笑む。
「うん……」
今年は去年と違い、あかねの地元での初詣ということもあって、わざわざ晴れ着をレンタルすることはしなかった。二人とも、少し気合いを入れた普段のデートをする時程度の、防寒を重視したお洒落着だった。
「あ、そうだ。インスタに載せる写真、撮っていい?」
「おう、いいぞ」
あかねはスマートフォンを取り出すと、神社の特徴的な建物や、他の参拝客の顔が写り込んで場所を特定されないよう、背景の角度に細心の注意を払いながらインカメラを構えた。
「じゃ、撮るよー」
ハルトと頬を寄せ合い、自撮りをする。
撮った画像を念入りに確認し、色味の加工やスタンプの配置にもこだわり抜くと、あかねは満足そうに微笑んで投稿の予約設定を行った。その一連の作業を、ハルトが生暖かく、どこか保護者のような目で見守っている。
元々は、『今ガチ』で知り合い、今も親交が続いている鷲見ゆきから「あかねもSNSやった方がいいよ!」と勧められて始めた『インスタグラム』だったが、マメな性格のあかねは、思いの外この写真投稿アプリにハマっていた。
もちろん、身バレに気をつけた投稿時間帯を心掛けたり、自宅の場所やごくプライベートな情報は決して流出させないよう、細心の注意を払っている。その辺りのリスク管理は、職業柄ネットリテラシーが高いハルトから、口酸っぱくキツく言い含められていたからだ。
「うわ、マジか」
「どうしたの、ハルトくん」
隣でスマホを眺めていたハルトが声を上げる。あかねが手を止め、何事かと覗き込む。
「冬コミ……この前あったコミケで、『波旬』と『鞘姫』のカップル本が流行ってたらしい。ネットニュースになってる」
「えっ……『波旬』と『鞘姫』って、悪役とヒロインだよね? それってもしかして……」
「明らかに俺らの舞台の影響なんだろうな。入稿が間に合わないからって、『東ブレ』のサークルがこぞってコピー本で販売してたんだとさ」
「コピー本って?」
「印刷会社に委託しないで、コピー機とかプリンターを使って自分たちで印刷と製本した同人誌のこと」
「へぇ~、そんなのもあるんだね。でも、私たちの舞台がそれだけみんなに受け入れられたってことなんじゃないかな。私は嬉しいけど」
「それはまあ、な」
歯切れが悪いハルト。その内心に、小さな懸念が浮かび上がる。
(世間のウケがいいのはともかく、
「ハルトくん?」
「ああ、いや、なんでもないよ」
自分の顔を覗き込むあかねのぽやぽやとした顔を見て和んだハルトは、浮かんだ考えを杞憂として胸にしまい込むことにした。
「じゃあ、お参りしようか」
「うん!」
本殿の前に並び、賽銭箱に硬貨を投げ入れる。二拝二拍手一拝。二人は静かに目を閉じ、新年の祈りを捧げた。
参拝を済ませた二人は、人混みを少し外れた、境内の端の方にあるこじんまりとしたお守りの授与所へと足を向けた。
周囲を背の高い木立に囲まれ、冬の陽光がキラキラとした木漏れ日となって落ちるその場所には、なぜか不思議なほど、他の参拝客の姿はなかった。風の音すら遠のいたような、奇妙な静けさがあった。
「お守り、色んな種類があるね。ハルトくんは何か買う?」
ずらりと並んだ色鮮やかなお守りを見ながら、あかねが尋ねる。
「そうだな。今年一年、無事に平穏に過ごせるように、厄除けでも買っていくか……」
「えっ、ウソ!? ヤバッ! マジで!? 生『HARU』じゃん!!」
ふいに。
その神聖で静謐な空気を根底からぶち壊すような、やたらとテンションの高い甲高い声が響き渡った。
バンッ! と音を立てて、授与所の木製のカウンターから身を乗り出してきたのは、一人の『巫女』だった。
年の頃は、あかねたちと同じ高校生くらいだろうか。
真っ白な小袖と緋袴という、伝統的で神聖な巫女装束に身を包んでいるものの、その出で立ちはどこか強烈に異質だった。
肩口で切り揃えられた今風のミディアムヘアは、色素が完全に抜け落ちたような透き通る純白。そして、切れ長の鋭い瞳は、燃えるような鮮やかな紅色をしている。
「ヤバッ! あーし、超絶大ファンなんですけど! てかマジ尊いー、無理、死ぬ!」
「えっ? あ、ども……」
急なギャル語と、猛烈なテンションの圧に押され、流石のハルトも一瞬面食らって後ずさった。
あかねも目をパチクリとさせて固まっている。ハルトの顔が割れて街中で声をかけられること自体は珍しくないが、由緒正しい神社の巫女が、しかも勤務中にここまであけすけに食いついてくるのは完全に予想外だった。
「いつも配信見てまぁす! 昨日の即興ダンス動画もマジ最高でした! あーし、『HARU』のことは子役の頃からずっと追っかけててー!」
「そ、それはどうも。ありがとう」
「ヤバッ、ファンサ神すぎ! あ、今日カノジョさんと一緒なんスね? お似合いっスよ、マジリスペクト! ……あ、マジ図々しくてサーセンって感じなんですけどぉ、これにサインとかもらえちゃったりします?」
そう言って白髪のギャル巫女は、カウンターの下から用意周到に取り出した、真っ白な御朱印帳と太字のマジックペンをグイッと突き出してきた。
(神聖な御朱印帳に、個人のサインなんか書いていいものか……?)
ハルトは一瞬躊躇したが、持ち主である巫女本人が良いと言っているなら構わないだろうと判断した。
「ああ、いいよ。宛名はどうする?」
「『
「オオガミ。漢字は? 大いなる神、とか?」
「カタカナでいいッス! あーし、カタカナの『オオガミ』なんで!」
(変わった名前だな。大神、とかか……?)
内心で首を傾げながらも、ハルトは慣れた手つきでサラサラと『HARU』のサインと宛名を書き入れ、彼女に返した。
「はい、これでいいかな」
「ヤバッ、家宝にする! マジ感謝ッス!」
キャーキャーと騒ぎながら御朱印帳を抱きしめる『オオガミ』を他所に、ハルトはふと視線をずらした。
白髪のギャル巫女の少し後ろ。授与所の建物の暗がりに、もう一人、さらに幼い少女がひっそりと控えていることに気がついた。
真冬の神社の境内にありながら、なぜか季節感の全くない黒のワンピース姿。カラスの濡れ羽色のように真っ黒な瞳で、一切の感情を読み取らせない無表情のまま、ジッとこちらを見つめている。
「あっ!
「いらない」
「えぇーっ!?」
白と緋色の巫女装束を着た、けたたましい白髪のギャル。そして、漆黒のワンピースを着た、静寂を纏う黒髪の少女。
そのあまりにも異質すぎるコントラストは、まるで光り輝く『太陽』と、静かな闇夜の『月』が並んで存在しているかのようだった。
「あー、それじゃあ、俺たちはこれで」
これ以上関わると面倒なことになると、本能的なアラートが鳴った。長居は無用だと判断したハルトが、あかねの手を引いて踵を返す。
足早にその場を離れようとしたその時、背後からよく通る声が掛けられた。
「――その調子で、みんなの幸せを守ってあげてね」
「えっ?」
先ほどのギャル語とは打って変わった、どこか慈愛に満ちた、年齢不詳の響きを持つ声。
ハルトがハッとして立ち止まり振り返ると、そこにはすでに、先ほどのギャル巫女『オオガミ』や、黒いワンピースの少女の姿はなかった。
開け放たれた授与所の奥には、ただ静寂だけが広がっている。
「居ない……?」
「どうしたの、ハルトくん?」
突然立ち止まったハルトを、あかねが不思議そうに見上げる。
「あ、ああ……ごめん、何でもない。帰るか、あかね」
「うん」
何か狐につままれたような感覚を覚えつつも、ハルトは繋いだあかねの手に少しだけ力を込め、神社を後にする。
再び振り返ることはしなかった。
だが、歩き出す二人の背中に降り注ぐ冬の太陽の光が、なぜだか、ひどく暖かく、優しく感じられた。