帝都大学・言語考古学研究室は、異様な緊迫感に包まれていた。
中央の作業台の上。宗一が引き出しの奥から取り出した、あの黄ばんだ古代石版の写真を訔、響、陸の三人が息をのんで取り囲んでいた。
鮮明に拡大された写真の中央。
風化しつつもはっきりと刻み込まれているのは、禍々しくも力強い一文字――【咬】
そしてその文字の真下に描かれていたのは、異形の甲冑を身に纏い、胸部にバイトドライバーと酷似した「巨顎」の装置を装着した古代の戦士の姿だった。
「俺より前に……バイトドライバーを使った人間がいた……?」
訔の声が掠れる。自分の胸元にあるドライバーの重みが、急激に増したかのような錯覚。
宗一はゆっくりと頭を振り、メガネのフチを指で押し上げた。
「正確には、“同系統の器”だ」
「同系統……?」
陸が写真を覗き込み、眉間に深いシワを寄せる。
「おいおい、冗談だろ? このドライバーって、教授たちが遺跡から掘り出して現代の技術で解析・組み上げたシステムなんじゃなかったのかよ」
響は無言で端末を操作し、写真のデジタル解析スキャンを実行した。石版の表面に刻まれた微細な金属結晶の構造、そして幾何学的なラインがホログラムとして空間に浮かび上がる。
「構造がほぼ一致してる……でもおかしいわ」
響の指先が震えていた。
「何がだ、音羽?」
「この石版が採取された層の年代測定……三千年以上前よ。現代の技術どころじゃない。言葉がまだ純粋な音響エネルギーとして世界に満ちていた文明初期の遺物……」
つまり――仮面ライダーバイトと同等の力を持つ「咬む戦士」は、三千年以上も昔から存在していた。
宗一は重々しい手つきで、作業台の上に広げられた別の古代文献を指で撫でた。そこに記された音響古代文字を、静かに読み上げていく。
『咬む者、言を呑み、悪しき響きを封ず』
人間の発する狂った言葉、ジャークという災厄をその顎で咬み砕き、言葉の秩序を守る存在。それはまさに、今、訔が背負っている戦いそのものだった。
しかし――その次の一文に差し掛かった瞬間。
宗一の声が、ぴたりと途絶えた。
研究室の空気が、さらに一段低く冷え込む。
「……続きは?」
訔が問う。だが、宗一は固まったように動かない。その目は古書の余白に刻まれた、掠れた血文字のような記述に釘付けになっていた。
「……」
「教授」
訔の強い促しに、宗一は苦痛に顔を歪め、苦絞するように続きを読んだ。
『……されど咬む者、最後には己が言を失う』
「……え?」
響が息を呑んだ。
「……言を、失う……?」
「どういうことだ……? 喋れなくなるってことか? それとも……」
陸が宗一に詰め寄ろうとしたその時、訔は無意識に自分の喉へと手を触れていた。
(俺が……言葉を失う……?)
言葉を噛み砕くために、言葉を捨てる。それが【咬】の力を振るう者に課せられた、逃れられぬ代償だというのか。絶望的な事実が提示された、まさにその瞬間だった。
キィィィィィン――!!
突然、研究室中の音響スピーカーやホログラム端末から、鼓膜を突き破るような強烈な高周波のノイズが鳴り響いた。
「くっ……!?」
陸と響が耳を押さえてうずくまる。
「ライドワードの反応!? でもこの波形……今までのどれとも違う!」
響が悲鳴を上げながらモニターへ飛びつく。画面の波形データが毒々しい黒色に塗りつぶされていく。
直後――。
すべての「音」が、世界から唐突に消え去った。
音響システムの警告音も。
回っていた空調の機械音も。
響が端末のキーボードを叩く打鍵音も。
床を蹴る足音すらも。
無。
完全なる、絶対の静寂。
「……!?」
陸が口を大きく開け、何かを必死に叫んでいる。首の筋を立て、表情を歪ませていることから、彼が全力で大声を上げているのは明白だった。
しかし何も聞こえない。彼の声帯が振動している感覚すら、空気へ伝わる手応えが一切存在しなかった。
響が青ざめた顔で自分の喉を押さえ、何度も唇を動かす。だが、吐き出される空気の音すら存在しない。
訔もまた、息を吸い込み、声を絞り出そうとした。
(教授! 音羽! 陸!)
自分の頭の中には、はっきりと言葉が存在している。声を出している感覚もある。
なのに、世界そのものが「音」という現象を拒絶していた。
カツン、という靴音すらなく、訔は研究室の窓辺へ駆け寄った。
窓の外――帝都大学の広大なキャンパス、そしてその向こうに広がる都市の街並み。
夜の街を覆うように、夜空の暗闇よりもなお深い「黒い音響波紋」が、同心円状にどこまでもどこまでも広がっていた。
走る車のエンジン音、信号機の電子音、遠くの喧騒。
街のあらゆる「音」が、黒い波紋に呑み込まれる端から死滅していく。
音を失った街で、人々がパニックを起こして逃げ惑う姿が窓越しに見える。だが、彼らがいくら悲鳴を上げようと、その叫びが誰かの耳に届くことは二度となかった。
*
都市の夜景を一望する、高層ビルの屋上。
吹き荒れる風の音すら存在しない無音の頂に、一頭の怪人が佇んでいた。
口に該当する部位が完全に金属の装甲で塞がれた、漆黒の身の丈。
原典ジャーク四幹部が一角――サイレンス・ジャーク。
その右手の掌には、不気味な光を放つ黒い文字が浮かび上がっていた。
【黙】
怪人はゆっくりと手を掲げ、眼下に広がる静寂の街を見下ろす。
口のない顔面。一切の声を持たない怪人。
だが、その完全な無音の空間の中に、まるで映画の字幕のように、空間を切り裂く黒い音響フォントの文字だけが、静かに、そして凶悪に浮かび上がった。
『喋らなければ――誰も傷つかない。』
浮遊する文字は、静寂の街全体へとさらなる「沈黙の呪い」を撒き散らしていく。
言葉があるから、人は傷つく。
言葉があるから、人は偽り、人を裏切る。
ならば、世界から全ての音と言葉を奪い去ればいい。
【黙】の領域が、帝都を漆黒の沈黙へと塗りつぶしていった。
――数時間前。
都立明和高校。光が柔らかく差し込む昼休みの校舎。
雑然とした放送室のデスクで、
普段の教室では目立たず、クラスメイトから話しかけられても短く頷くのが精一杯の控えめな少女。しかし、機材の緑色のランプが点灯し、静寂の中にマイクの電源が入ると、彼女の佇まいはわずかに変わる。
「……みなさん、こんにちは。今日のお昼の校内放送です」
マイクを通して聞こえる奏の声は、驚くほど穏やかで、澄んでいた。
教室のスピーカーから流れるその声に、喧騒の中の生徒たちがふと耳を傾ける。
「最近、朝晩は少し寒くなってきましたね。体調を崩さないように気をつけてください」
奏は手元の原稿を握りしめ、少しだけ照れくさそうに言葉を紡ぐ。
「……毎日学校に来ていると、誰かと話すのが少し億劫になる日もあると思います。無理して誰かと話さなくてもいいけれど……」
ほんの少しの沈黙の後、彼女は微かに微笑みながらマイクへ語りかけた。
「もしクラスで、一人でいる人がいたら……“おはよう”くらい、声をかけてみてください。それだけで、少しだけ今日が良い日になるかもしれません」
同じ頃。3年B組の廊下。
放送室からの声を何気なく聞いていた男子生徒が、自分の弁当箱を持ったまま足を止めた。
視線の先には、教室の隅の席で一人静かにパンをかじっている転校生の同級生。
男子生徒は一瞬迷うような素振りを見せた後、頭をかきながらその席へと歩み寄った。
「……なあ、良かったら一緒に食べる?」
声をかけられた生徒が、驚いたように顔を上げる。そして嬉しそうに頷いた。
放送室の奏は、自分の吐き出した言葉が誰かの背中を押し、小さな温もりを生んだことなど知る由もない。
ただ、マイクに向かって「伝える」ことだけが、不器用な彼女にとっての世界との唯一の繋がりだった。
放送終了を告げるチャイムが鳴り、機材のスイッチを切る。
「おつかれー、白石」
後から放送室に入ってきた同部員の女子生徒たちが、笑いながら声をかけてきた。
「白石ってさ、放送のマイクの前だとめっちゃ滑らかに喋るよね。普段の教室でも、それくらい話せばいいのに」
悪意のない、軽いからかい。
だが、奏は胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚え、うつむいて視線を落とした。
「……話したくても、何て言えばいいか……分からない時もあるから……」
絞り出すような奏の呟きに、机に腰掛けた別の部員の男子生徒が、からっとした調子で言った。
「うーん、でもさ、黙ってちゃ何も分かんないよ? 思ってることは口に出さなきゃ伝わらないって」
「……」
奏は何も答えられなかった。
「言葉にする」ということが、自分にとってどれほど怖く、難しいことか。伝えたい思いが強ければ強いほど、適切な言葉が見つからずに喉の奥で詰まってしまう。
黙ってしまうのは、伝えることを諦めたからではないのに。
言葉を失った少女の切ない沈黙が、誰もいない放課後の放送室に虚しく落ちていった。
――現在。
唐突に訪れた「無音現象」が、明和高校の校舎を丸ごと呑み込んでいた。
5限目の5組の教室。
壇上に立つ数学の教師が、必死の形相で口を大きく動かしている。
しかし、どれほど喉を震わせても、空気は一切の音を紡ぎ出さない。教室には、静寂だけが冷たく重く横たわっていた。
不気味な事態に耐えかねた一人の男子生徒が、震える手でスマートフォンを取り出した。
画面を開き、メッセージアプリで『声が出ない』と打ち込む。
そして送信ボタンをタップした、その瞬間――。
送信欄に表示されたはずの文字が、まるで溶け去るように画面の上から不自然に消滅した。
履歴すら残らない。何度打ち直しても、文字を入力したそばから液晶から色が抜け、透明になって消えていく。
「……!?」
教師が青ざめ、慌てて黒板に向き直った。
チョークを握り締め、白い粉を飛び散らせながら巨大な字で『避難』と書きつける。
だが――書き終えた数秒後。黒板に付着していたチョークの粉末が、怪しい黒い光を放つ微粒子となって剥がれ落ち、空気中へと霧散していった。
黒板には、何も書かれていなかったかのような漆黒の平面だけが残される。
生徒たちの間に、恐怖による狂乱が広がった。
声を上げようとしても、喉から音が生まれない。
スマートフォンで助けを呼ぼうとしても、デジタルデータとしての文字すら消去される。
筆談すら許されない。黒板も、ノートに書いた鉛筆の芯の跡すらも、数秒で黒い粒子となって消失していく。
電話も、通信も、手紙も、発声も。
人類が数千年の歴史の中で築き上げてきた「伝える」という行為そのものが、世界から削ぎ落とされ始めていた。
混乱し、出口へ向かって押し寄せる生徒たち。誰かが転び、助けを求めて手を伸ばすが、その叫びは誰の耳にも届かない。互いの意図を汲み取る術を完全に奪われた教室は、底なしの孤立とパニックの坩堝へと叩き落されていた。
*
帝都大学・言語考古学研究室。
ここもまた、完全な無音の檻と化していた。
音響システムは完全に沈黙し、外の喧騒すら届かない。
響は青ざめた顔でホワイトボードへと駆け寄り、水性マーカーを握りしめた。
手首を激しく動かし、現状の異常事態と対策を黒いインクで書き連ねていく。
『音の消失だけではない 文字データも消去されている』
しかし――響がペンを走らせている端から、ホワイトボードの黒いインクが薄れ始めていた。
まるで時間が逆再生されているかのように、書いた文字が滑らかな表面から消えていく。最後には、ただの掠れた影すら残らず消滅した。
響の手からマーカーがぽろりとこぼれ落ちる。床に落ちる音すら、世界には存在しない。
(そんな……単なる音波の遮断や、音を消す能力じゃない……!)
響は驚愕に目を見開いた。
サイレンス・ジャークの持つ【黙】の領域。
それが奪い去っているのは、空気の振動である「音」だけではない。
人間が他者に意思を渡すための「伝達可能な情報」そのものを、概念ごと消去しているのだ。
声が届かないだけなら筆談ができる。文字が書けないならデータで送れる。だが、それら全ての伝達手段を無効化された時、人間は他者と一切の意思疎通を行えない「完全な個」として隔離される。
響は咄嗟に訔の腕を強く掴んだ。
訔がハッとして響を見つめる。
響は消えゆく意識と戦うように、手元の特殊解析端末の画面を訔の目の前へ突きつけた。ノイズと消滅の波に洗われながらも、液晶の隅にわずか一秒だけ表示された解析データ。
=====
SILENCE FIELD
情報伝達率:12%
【黙】の侵食領域:拡大中
=====
画面の数値は、リアルタイムで「10%」「8%」と急速に減少を続けていた。
情報伝達率がゼロになった時、この街にいるすべての人間は、自分の考えを誰一人として誰にも伝えることができなくなる。
陸が足早に窓辺へ駆け寄り、外の景色を見下ろした。
眼下に広がる帝都の街並み。
走っていたはずの車は激突して立ち往生し、交差点では人々が声なき悲鳴を上げて逃げ惑い、崩れ落ちている。動いているはずの人間たちが、音と伝える術を失ったことで、まるで「静止画」のフィルムの中に閉じ込められたかのように見えた。
言葉の絶滅。それが、【黙】のたらす真の絶望だった。
訔は握りしめた拳にぐっと力を込めた。胸の奥で、自分を呼ぶ「言葉」の痛みが激しく疼いていた。
*
無音に包まれた帝都の街を、ライドワーダーとキャンピングカーが駆け抜ける。
エンジンの回転音も、タイヤが濡れたアスファルトを咬む摩擦音すら存在しない。排気音の代わりに広がるのは、あらゆる存在の気配を抹消するような不気味な静寂だけだった。
走行しながら、響が左手でハンドサインを送る。
無線通信も、インカムの音声機能も完全に沈黙している今、言葉に頼った連携は不可能だった。
響は人差し指と中指の二本を立て、右方向を指し示す。
『右の裏通りから回り込む』
並走する陸が、力強く親指を立てて応える。
『了解した』
それを見届けた訔もまた、短く一度だけ頷く。
言葉が奪われても、積み重ねてきた時間が彼らの意思疎通を支えていた。指先のわずかな動き、視線の交差、それだけで互いの意図を汲み取り合う。言葉のない世界の中で、小さな「伝達」の灯火が確かに灯っていた。
城南地区の中心交差点。
壊滅的な無音空間の核角に、怪人――サイレンス・ジャークは佇んでいた。
怪人は暴れなかった。
建造物を破壊することもなく、逃げ惑う人々に危害を加えることもない。
ただ、漆黒の脚で、ゆっくりと、淡々と街を歩いているだけだった。
しかし
――彼が足を踏み入れ、通過した地域から、人間社会のあらゆるコミュニケーションが次々と死滅していった。
路傍で転んで泣いている幼い子供。必死に口を大きく開け、涙を流しながら母親の名を叫んでいる。だが、その喉からはかすかな吐息の音すら漏れない。母親もまた、我が子を抱きしめながら口を動かすが、安撫の言葉は届かない。
激突事故の現場では、救急隊員が意識を失いかけた負傷者へ懸命に指示を出そうとしていた。しかし、隊員の口動きを負傷者は読み取れず、パニックに陥って暴れてしまう。
交差点の電子掲示板や信号機の文字表示までもが、怪人の接近とともに怪しい黒い粒子となって空中に雲散霧消していった。
伝える術を失った人々が衝突し、パニックがパニックを呼び、街中で二次事故が相次いで発生する。怪人は指一歩動かすことなく、ただ「歩く」という行為だけで都市機能を根底から解体していた。
「……ッ!」
ライドワーダーを乗り捨てた訔は、拳を強く握りしめた。静かな狂気。これまでのどのジャークよりも凶悪で、抗いようのない絶滅の光景。
訔は迷いなくサイレンス・ジャークへ向かって歩を進めた。胸元にバイトドライバーを装着し、ポケットから【咬】のライドワードを取り出す。ドライバーの装填口へ、力任せに【咬】を突き立てる。
《――》
何も鳴らない。
いつもなら戦場を震わせる重厚な起動音も、電子的な変身待機音も、一切響かなかった。
訔は気迫を込め、喉を打ち震わせて叫んだ。
「変身!」
――無音。
ドライバーの胸部に配置された巨大な顎のギミックが、一瞬だけピクリと動いた。だが、そのまま完全に噛み合うことなく、力なく半開きのまま停止した。
遠くで見守る響が、絶望に目を見開く。
「変身ッ!!」
訔はもう一度、自らの喉が千切れんばかりの声で叫んだ。だが、ドライバーは沈黙を守ったまま、微動だにしない。サイレンス・ジャークが、初めて足を止め、ゆっくりと首を捻って訔を見た。
その顔面には、目を疑う光景があった。
鼻も、口も存在しない。滑らかな漆黒の装甲で塗りつぶされた、完全な「無」の顔面。
そして――訔の頭の中に直接、声ではない「意味の概念」がダイレクトに打ち込まれた。
『声がなければ、貴様は何者だ?』
「……!」
訔の身体が硬直する。
サイレンスが、右手を静かに天へと掲げた。
その掌に刻まれた【黙】の文字が、漆黒の光を放つ。
周囲の空間から、残留していたわずかな振動波形すらも完全に消失した。音響波形、ゼロ。
バイトドライバーが完全に機能を停止する。
響の研究室での分析通り、バイトドライバーというシステムは、装着者である音無訔の呼吸、心拍、そして声帯の振動――それら全身の「音響エネルギー」を原動力としてフォント波形へ共振・変換し、甲冑を形成していた。その根源である「音」を【黙】の領域によって完璧に奪われた今、変身プロセスそのものが物理的に成立し得なかったのだ。
サイレンス・ジャークが、ゆっくりと訔へ歩み寄ってくる。
それは戦闘という呼称すら生ぬるい、一方的な蹂躙の始まりだった。
「ハァッ!」
変身できない訔は、生身のまま全身の体重を乗せて拳を放った。
だが、サイレンスはその拳を、まるで落ち葉でも払うかのように掌一つで軽々と受け止めた。
怪人が腕を軽く振るっただけで、強烈な衝撃波が発生し、訔の身体は弾き飛ばされた。アスファルトの地上を激しく転がり、背中を街路樹へ強打する。
「ぐっ……ガハッ……!」
吐血する訔。声は出ない。激痛の悲鳴すら、喉の奥で消し飛ばされる。
離れた場所から、陸が叫びながら飛び出してきた。
『訔ッ!!』
車載端末のキーボードを死に物狂いで叩き、サイレンスの【黙】の波形を相殺する打ち消しフォントの生成を試みていた。だが――液晶画面に表示されたプログラムコードの文字までもが、次々と黒い粒子となって画面上から蒸発していく。
解析も、反撃も、SOSすらも叶わない。
サイレンスは倒れ伏す訔の前に立ち下がり、上空から冷たく見下ろした。
彼の胸の中へ、直接語りかけてくる黒い意思の字幕。
『言葉があるから、嘘が生まれる』
サイレンスが脚を振り上げ、訔の脇腹を無慈悲に蹴り上げた。
ゴキリ、と鈍い骨折の感覚が訔の肉体を苛む。吹き飛ぶ肉体。
『言葉があるから、裏切りが生まれる』
追撃。サイレンスは瞬瞬間に移動し、空中にある訔の背中を、鉄槌のような拳で叩き落とした。訔の身体が地上へ叩きつけられ、道路に浅いクレーターが穿たれる。全身の関節が悲鳴を上げ、意識が遠のいていく。
『言葉があるから、傷つく』
訔は血に染まった顔を上げようとするが、腕に力が入らない。地面を這い、ただ虚ろな目で怪人を見上げるのが精一杯だった。
サイレンス・ジャークがゆっくりと右手を掲げる。
掌の【黙】が、世界すべての音を呑み込むかのように、禍々しい漆黒の輝きを増していく。
『ならば――』
頭の中に響く、冷酷な宣告。
『何も語らなければいい』
サイレンス・ジャークの右手に刻まれた【黙】の領域は、都市の沈黙をさらに深く、そして広大に食い荒らしていった。
黒い音響波紋が同心円状に広がり、ついに城南地区の約一区画全体が「完全無言領域」へと変貌を遂げる。
その領域の中心に呑み込まれた、都立明和高校。
暗雲に包まれた校舎の二階、放送室。
奏は、機材の赤いランプが虚しく明滅するマイクの前で、震える手でデスクの縁を握りしめていた。
口を大きく開け、喉を振るわせ、必死にマイクへ向かって声を届けようとする。
――お願い、声に出て。みんなに聞こえて。
しかし、吐き出される息の音すら生まれない。スピーカーから流れるはずの彼女の穏やかな声は、存在そのものを世界から抹消されていた。
奏の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
教室では上手く話せない。何と言えばいいのか分からず、黙り込んでしまう。けれど、この放送室のマイクの前だけが、不器用な彼女にとって「誰かと繋がれる唯一の場所」だった。自分の言葉で、誰かの心を少しだけ温めることができる、かけがえのない空間だった。
それすらも――奪われた。
奏は震える身体を押さえながら、放送室のドアを開け、静寂の廊下へと足を踏み出した。
目に入ってきたのは、地獄のような光景だった。声が出ず、スマホの文字も消え、完全にパニックに陥った生徒たちが押し合いへし合い逃げ惑っている。その混乱の中で、一人の女子生徒が転倒し、足をくじいて床にうずくまっていた。
『……っ! ……っ!』
顔を歪め、涙を流しながら助けを求める女子生徒。しかし、どれほど口を大きく開けて叫ぼうと、騒然とする人波の中でその「声なき悲鳴」に気づく者は誰もいなかった。見落とされ、蹴られそうになりながら、彼女は恐怖に震えている。
奏は足がすくんだ。
怖い。恐ろしい。
普段の自分なら、こんな時どう声をかけていいのか分からず、立ち尽くすことしかできないはずだった。
『黙ってちゃ何も分からないよ』
いつか同級生に言われた言葉が、頭の中で鋭くフラッシュバックする。
……本当に、そうなのかな。
言葉がなければ、何も伝えられないのかな。
奏の瞳に、小さな、しかし消えることのない強い意志の光が宿った。
彼女は放送室から飛び出した。倒れている女子生徒の元へ全力で駆け寄る。
言葉はない。声も出ない。
奏は迷わず女子生徒の脇に手を差し入れ、自分の肩を貸して力任せに立ち上がらせた。驚く女子生徒の目をまっすぐに見つめ、強く頷いてみせる。
そして、空いた右手で非常階段の方向を指さした。
『あっちへ逃げよう』
さらに、近くをパニック状態で走り去ろうとしていた別の男子生徒の袖を強く引っ張り、手招きをする。戸惑う男子生徒の手を、奏はぎゅっと握りしめた。
言葉がなくても、手の温もりは伝わる。目を見つめれば、意図は届く。
一人。
二人。
三人。
奏を中心にして、声を失った生徒たちが次々と手を繋ぎ合い、互いを支え合いながら、静かだが確実な意思の輪となって避難を開始した。
その光景を、崩落した街頭の陰、瓦礫の中に倒れていた音無訔が見つめていた。
肋骨は折れ、全身の関節が痛みに鳴動している。声もなく、文字もなく、完全な絶滅の静寂に包まれた世界。変身すら奪われ、ただ殺されるのを待つだけだと思っていた。
だが――。
目の前で、声を失った少女が、誰の手も借りずに人々を繋いでいる。声はない。文字もない。それでも、意思は死んでいない。思いは、確かに伝わっている。
奏が、不安そうに震える幼い子供の目線に合わせてかがみ込み、優しく微笑みかけてみせる。子供が涙を拭い、力強く頷く。
訔の瞳が、力強く動いた。
(……言葉がなくても)
脳裏に響く、自分自身の魂の問いかけ。
(言葉が……声がなくても、人は伝えられるのか……!?)
しかし――。
その光景を、空中から冷酷に見下ろす影があった。
サイレンス・ジャーク。
自身の展開した「完全なる沈黙」の領域において、言葉を奪われながらも意思を通わせ、絶望に抗い続ける少女の存在。怪人にとって、それは己の存在意義を根底から否定する、極めて不愉快な「異物」だった。
サイレンスの胸部の装甲が怪しく歪む。
右手の【黙】から、人間を内部から破壊する漆黒の音響死滅波動が放たれた。
ターゲットは、生徒たちの先頭に立つ奏。
波動が空気を削り取り、無音のまま奏の背中へと迫る。
『――っ!?』
直感的に察知した奏が振り返った時には、すでに死の波動は目前に迫っていた。
その時――。
『――ッ!!』
声にならない、魂の咆哮。
瓦礫を弾き飛ばし、血みどろの訔が飛び込んできた。訔は生身の身体で奏を抱きかかえ、その背中でサイレンスの波動を真っ向から受け止めた。
背甲が砕けるような凄まじい衝撃。訔と奏の身体が宙を舞い、アスファルトの地上へ激しく叩きつけられた。
『……う……っ!』
奏をかばい、下敷きになった訔の口から鮮血が吹き飛ぶ。奏は目を見開いて訔を見つめた。自分を救ってくれた見知らぬ青年。その背中はボロボロに傷ついていたが、その瞳は驚くほど静かに燃えていた。
サイレンス・ジャークが、ゆっくりと地上へ降り立った。
無音の足取りで訔の前へ歩み寄る。怪人の漆黒の顔面から、直に脳へと概念が打ち込まれる。
『何故庇う?』
声も出せず、戦う術すら失った無力な人間が、なぜ他者のために命を捨てるのか。怪人には理解できなかった。
訔は血を吐き出しながら、ゆっくりと地面を突き、立ち上がった。膝がガクガクと震えている。視界も血で赤く染まっている。それでも、彼はサイレンスから目を逸らさなかった。
訔は唇を動かす。音は出ない。空気の振動すら生まれない。
しかし、サイレンスはその繊細な唇の動きを正確に読唇した。
『助けたいからだ』
サイレンスの黒い文字が、嘲笑うように浮かび上がる。
『聞こえない』
音にならない言葉など、存在しないのと同じだ。サイレンスは訔の意思を破棄するように冷たく言い放つ。
訔は倒れそうになる身体を耐え、もう一度、サイレンスの目をまっすぐに見つめて唇を動かした。
『それでも伝える』
一音、一音。
声にならなくても、魂の振動をそのまま相手の網膜へと叩きつけるような、圧倒的な意志の提示。
サイレンス・ジャークの動きが――ほんの一瞬、ピタリと止まった。
声のない言葉に、一瞬の「隙」が生じた。
訔はその隙を見逃さず、震える右手で腰のバイトドライバーを握りしめた。ポケットから落ちていた【咬】のライドワードを拾い上げ、装填口へと叩きつける。
声は出ない。喉は破裂し、空気は一切の振動を拒絶している。
それでも――訔は、いつもの変身動作を寸分違わず完璧に遂行した。
拳を握り、ドライバーのレバーを引き抜き、口だけで告げる。
『変身』
その瞬間だった。
ガチッ――!!
完全な無音世界の中に。
一切の音が死滅した【黙】の領域の中に。
バイトドライバーの胸部の金属顎が、確かに、力強く噛み合う一瞬の駆動音を響かせた。
『……!?』
遠くで倒れていた響が、信じられないものを見たように目を見開く。
サイレンス・ジャークもまた、驚愕に身を翻してドライバーを見つめた。
音エネルギーが存在しない世界で、訔の「伝えたい」という純粋な意志の波形が、物理法則を突き破ってドライバーのギアをほんのわずかに動かしたのだ。
しかし
変身には、至らなかった。
ギギギ……と音を立てたドライバーの顎は、あまりにも巨大な【黙】の領域の圧力を受け、それ以上閉じることなく動力を失い、プツンと停止した。
カクン、と膝をつく訔。血の気が引き、彼の身体からすべての力が抜け落ちていく。
サイレンス・ジャークの驚愕は、すぐさま冷酷な殺意へと上書きされた。
『無駄だ』
サイレンスの腕が旋回し、全重みを乗せた強烈な一撃が訔の胸部を撃ち抜いた。
訔の身体が吹き飛び、建物の壁面を突き破って倒壊する瓦礫の中へと打ち捨てられる。その衝撃で、腰からバイトドライバーが外れ、アスファルトの上へ空しく転がった。装填されていた【咬】のライドワードも手元から離れ、カラカラと音を立てることなく地面を滑っていく。
完全敗北。
変身を解かれ、武器を奪われ、訔は瓦礫の中でピクリとも動かなくなった。
サイレンス・ジャークは、止めを刺すことすら怠惰であるかのように、倒れた訔を一瞥した。
『声なき者に“戦士”など存在しない』
字幕のような冷酷な黒い文字を残し、サイレンス・ジャークの姿は漆黒のノイズとなって夜の闇の中へ消えていった。
しかし
彼が去った後も、街全体を覆う【黙】の無音領域は解かれることなく、絶望的な静寂として残り続けていた。
崩れ落ちた街の中で、ただ風の音すら響かない死の世界が、静かに広がっていた。
*
窓の外の空は濁った茜色に染まり始めていたが、研究室の内部は相変わらず冷たく重い静寂に支配されていた。街の一部を呑み込んだ【黙】の領域は未だ解除されず、この大学構内にも死のような無音が横たわっている。
簡易ベッドの上で、訔は上半身に包帯を巻かれた状態で横たわっていた。
サイレンス・ジャークから受けた強烈な打撃により、肋骨のヒビと全身の打撲は深刻だったが、響が施した応急手当によって命に別状はなかった。
響は青ざめた顔でメモ帳に向かい、手袋をはめた手でペンを走らせる。
『体調はどう? 痛むところはある?』
しかし――ペン先が紙を離れた瞬間に、黒いインクの軌跡は微粒子となって空中へ霧散し、白紙へと戻ってしまった。文字による伝達すら許さない【黙】の呪縛。
響は口唇を噛み締め、悔しそうにペンを机へ投げ出した。
それを見た陸は、ホワイトボードや紙を使うことを最初から諦め、訔のベッドの脇へ歩み寄った。
陸は大きく両腕を広げ、自分の胸を強く叩いてみせる。そして、眉を下げて顔を覗き込み、右手の親指と人差し指で輪を作り、首を傾げた。
『大丈夫か? 生きてるか?』
その滑稽なほど必死なジェスチャーに、訔の頬がわずかに緩んだ。訔は苦笑いを浮かべながら、ゆっくりと右腕を上げ、力強く親指を立ててみせた。
『心配ない、生きてる』
響もその二人のやり取りを見て、重苦しかった表情をわずかにほころばせ、呆れたように小さく息を吐いて笑った。
言葉が封じられた世界の中で、彼らの間には確かに温度のあるコミュニケーションが存在していた。
宗一は、訔の胸から外れ、傷だらけになったバイトドライバーを静かに見つめていた。
「……」
声は出ない。宗一もまた口を固く結んだまま、古書の棚へと向かった。
彼が取り出したのは、例の「最初の【咬】の戦士」が記された羊皮紙の古代文献だった。
宗一は文献を作業台の上に広げ、訔と陸、響を手招きする。
訔は包帯を押さえながらベッドから起き上がり、ゆっくりと作業台へ近づいた。
古書のページに描かれているのは、胸に巨顎の装置を装着した古代の戦士――「最初のバイト」の姿。だが、以前見た時とは異なる点があった。
宗一が指し示したのは、戦士の足元と周囲の余白部分だった。そこには、無数の人々が互いに手を繋ぎ合い、円を描くように戦士を取り囲んでいる緻密な壁画が描かれていた。
さらに、その壁画の周囲には、これまで風化して判読不能とされていた微細な古代文字の羅列が存在していた。
響は咄嗟に特殊波長照射器ことブラックライトを手に取り、古書の表面へ紫外光を照射した。青白い光線が羊皮紙を照らし出すと、風化していたインクの金属成分が反応し、隠されていた幾何学的な古代文字がクッキリと浮かび上がった。
宗一の指が、歓喜と驚愕で激しく震える。
訔はその文字の形状を注視し、脳内で音響古代文字の解読パターンを交差させた。
そして、そこに刻まれた真実の意味を読み取った。
『言なくとも、意は響く』
言葉がなくとも、意思は世界に響き渡る。
訔の瞳が、カッと大きく見開かれた。
あの戦場で、白石奏が見せた行動。
声を出さず、文字も書けず、ただ手を取り合い、目を見つめ合うことで人々を導いたあの姿。
そして、声にならない叫びでドライバーの顎を動かした自分自身の感覚。
バイトドライバーが駆動するための真のエネルギー。それは「声帯の振動」や「言葉そのもの」などという表面的な音響現象ではなかったのだ。
*
人っ子一人いない、静まり返った都心の巨大交差点。
街灯の光だけが虚しく照らす完全な無音空間の中央に、サイレンス・ジャークがポツリと佇んでいた。
そこへ、空間の歪みから滑り出すようにファルスが現れた。彼女の身に纏う異形のドレスが揺れる。驚くべきことに、ファルスだけは【黙】の絶対無言領域の中にありながら、何の影響も受けずに朗らかな声で喋ることができた。
「殺さなかったのね、音無訔を」
サイレンス・ジャークは答えない。口のない顔面をただ冷たくファルスへ向けるだけだ。
ファルスはクスリと可憐に微笑んだ。
「あなた、本当に喋らないわね。……でも、面白いものが見られたわ」
彼女は一歩、サイレンスへ近づく。
「バイトドライバーが、あの一瞬だけ……確実に動いたわ」
サイレンスの漆黒の複眼が、鋭く光を増した。
「おかしいと思わない? 彼の声帯振動はゼロ。周囲の音響波形もゼロ。あなたが完璧に音を死滅させた空間で……どうして【咬】が反応したのかしら?」
ファルスの問いかけが静寂の中に落ちたその時――
ビルの屋上の影、暗闇の奥から重厚な足音が響いた。
姿を現したのは、原典ジャークの威厳を纏う男――ライオット。
「当然だ」
ライオットの低い声が静寂を切り裂く。
ファルスが振り返り、首を傾げた。
「……どういう意味?」
ライオットは嘲笑うように細い息を吐き出し、深く冷たい声で告げた。
「バイトドライバーが制御するものを……貴様らはまだ“音”や“言葉”だと思っているのか?」
一瞬。
深層遺跡の光景が、強烈なフラッシュバックとなって空間を駆け抜ける。無数に転がる未知のライドワード。空間を埋め尽くす巨大な顎の祭壇。そして、手を繋ぐ人々の中に立つ、古代の【咬】の戦士の姿。
ライオットは腕を組み、静かに、だが絶対の確信を持って言い放った。
「あれが制御するのは――“言葉”ではない」
数秒の間。
「その奥にある、人間の――“意思”だ」
ベッドの上で浅い眠りについていた訔が、突然ガバッと目を開けた。
夢の中で見た、あの古代の壁画。手を繋ぎ合う人々のぬくもりと、胸の奥で燃え上がる熱い衝動。
訔は起き上がり、自分の喉へ手を当てて声を出そうとした。
「…………」
音は出ない。喉の震えすら存在しない。サイレンス・ジャークの侵食により、訔自身もまた、完全に声という機能を失っていた。
喉を強く押さえ、苦悶の表情を浮かべる訔。その異変に気づいた響と陸が、慌ててベッドへと駆け寄ってきた。響が心配そうに訔の顔を覗き込み、陸がその肩を強く抱きしめる。
訔は二人を代わる代わる見つめた。声が出ない。絶望的な状況。言葉による慰めなど何一つ作れない。
だが――訔は二人に向かって、声の出ない口をゆっくりと、明確に動かして告げた。
『大丈夫だ』
音はない。
けれど、その表情、目力、そして全身から溢れ出る圧倒的な信頼の意思が、真っ直ぐに二人の胸へと飛び込んでいった。
響は訔の唇を読唇し、溢れ出そうになる涙を必死に堪えながら、強く強く頷いた。
陸もまた、黙って訔の肩を二度、強く叩いた。
伝わっている。声がなくても、言葉が消えても、自分たちの意思は繋がっている。
訔は視線を巡らせ、作業台の上に置かれた【咬】のライドワードを見つめた。
ゆっくりと手を伸ばし、傷ついた黒いライドワードを力強く握りしめる。
その瞬間――。
カチッ……!
完全な無音の研究室の中で。訔の手に握られた【咬】のライドワードが、彼の内に秘められた絶大なる「意思」に反応し、小さく、だが確かな起動音を響かせた。
パーツの隙間から、眩いばかりの紫色のフォント光が漏れ出す。
訔の瞳に、絶望を切り裂く不屈の光が宿った。