夕暮れの茜色がすっかり失われ、夜の深い闇が窓を覆い尽くしていた。
訔は簡易ベッドの端に腰掛け、虚ろな目で己の拳を見つめていた。
響が神妙な面持ちで近づき、訔の喉元へ医療用・音響共振センサーの端子を当てる。センサーから伸びたコードは、彼女が持つポータブル診断モニターへと接続されていた。
響は息を呑み、静かに頷く。
『声を出してみて』
紙に手早く書いたインクはすぐに消えてしまうため、響は指文字と口動きで指示を出した。
訔はゆっくりと息を吸い込み、喉に力を込めて声を張り上げようとする。
「…………」
音が出ない。空気の吐き出される微かな摩擦音すら存在しない。
訔は眉間にシワを寄せ、もう一度、胸の奥から絞り出すように息を放った。
「…………」
結果は同じだった。いくら口を開き、声を吐き出そうと試みても、世界には完全なる無音だけが落とされる。
響が手元で操作するモニター画面には、異様な数値がリアルタイムで並んでいた。
=====
【音声機能解析結果】
・声帯振動:正常(220Hz)
・呼気流速:正常
・音声出力:0.0dB
=====
陸がモニターを覗き込み、乱暴に頭をかいた。
陸は大きく口を動かし、ジェスチャーを交えて響へ問う。
『喉が壊れたわけじゃないんだろ?』
響は静かに首を振った。そして、手元の端末の画面を一瞬だけ訔たちに見せるように指差し、口動きで返した。
『ええ……声帯そのものは完璧に動いてるわ。でも、“音として外へ出る瞬間”だけ、身体に付着した【黙】のフォント粒子に相殺されて、消去されてる……』
つまり、訔の肉体そのものに、サイレンス・ジャークの打ち込んだ呪縛が残存していた。
宗一が重々しい足取りで近づき、メガネの奥の目を光らせた。
『奴は……訔の声そのものに【黙】の刻印を刻み込んだ……ということか』
訔は静かに自分の喉へ手を当てた。指先に触れる喉仏は、確かに震えている。自分の内側では叫びが確かに響いているのだ。しかし、それが皮膚を一歩越えた瞬間、漆黒の沈黙へと塗りつぶされていく。
響は診断端末を置くと、表情を強張らせて訔の前に立った。
そして、両手を大きなバツの形にして、訔の目を真っ直ぐに見つめる。
『今日はもう、戦わないで』
口動きとジェスチャーによる明確な拒絶。
しかし、訔は即座に首を横に振った。瞳には焦燥と決意が入り混じっていた。
響が重ねて手で制する。
『ダメ。変身もできない体で出たら、今度こそ殺されるわ!』
訔は作業台の上に残されていたボールペンを握り締め、手元のレポート用紙へ手首を走らせた。インクが乗る。消去されるまでの数秒間だけ浮かび上がる黒い文字。
『まだ奴がいる』
響はその文字を指差し、感情を爆発させるように首を振った。
『だからって……!』
訔は響の制止を無視し、畳みかけるように次の文字を叩きつけた。
『俺が止める』
文字が黒い粉末となって消え去っていく。
それを見た響は、感情を抑えきれなくなり、訔の手から乱暴にボールペンと用紙を奪い取った。そして、用紙いっぱいに巨大な字で、怒りと悲しみを込めて書き殴った。
『変身できないでしょう!』
インクが紙に染み込み、そして数秒かけて滑らかに消消していく。
研究室に、痛々しいほどの沈黙が降り積もった。
訔は何も言い返せなかった。変身できない。それが動かしようのない事実だった。ドライバーは起動せず、声は届かず、手足は傷ついている。訔の表情が苦痛に硬直する。
その時だった。
作業台の上に転がされていた【咬】のライドワードが
――――カチッ
誰の手も触れていないにもかかわらず、自発的に微小な音を立てて震えた。
全員の視線が一斉に机の上へと集中する。
宗一が目を見開いた。
『……反応した……?』
響も信じられないものを見る目で、消えかけた文字が残る紙とライドワードを交互に見つめた。
『声を出してないのに……? 訔は一言も喋っていないのよ……!?』
訔は震える手で、デスクの上の【咬】を見つめた。
漆黒の装甲の奥、暗く沈んでいたパープルの発光ラインが、まるで心臓の鼓動と途切れぬ波長を合わせるかのように、微かに脈打っていた。
声帯の振動ではない。
空気の振動でもない。
訔の脳裏に、かつてライオットが冷酷に吐き捨てた言葉の断片が、鮮烈な記憶としてフラッシュバックする。
『バイトドライバーが喰らうものは、音ではない。意思だ』
都心の一角を侵食した沈黙の空間は、衰えるどころか、さらに深く重い沈黙となって街を縛り続けていた。
奪われたのは、空気の振動である「音声」だけではない。
固定電話や携帯電話の通話。紙や電子画面上の「文字」。さらにはSNSや電子メッセージのデータ通信にいたるまで、人間が情報を他者へ伝達するためのあらゆる媒体が、【黙】のフォント粒子によって逐一消去されていく。
言葉を奪われた住民たちは混乱の極みにあった。どこへ逃げればいいのか、誰が無事で誰が救助を必要としているのか、状況の把握すら叶わない。避難誘導の放送も届かず、パニックとなった群衆が狭い路地で入り乱れ、避難は難航を極めていた。
その絶対の絶望の只中にあった、都立明和高校。
暗闇が迫る校舎内で、奏たちは前回の記憶を頼りに動き続けていた。
避難経路の踊り場で、奏は生徒たちの手を一人ひとり強く握り締める。声はない。けれど、手から伝わる温もりと、目を見つめて力強く頷く仕草。非常口を指差す不器用な指先。
それだけの簡単なジェスチャーで、パニックを起こしかけていた生徒たちの瞳に正気が戻り、静かな避難の輪が広がっていく。
奏は教室へ駆け込み、黒板に向かってチョークを走らせた。必死の思いで『避難経路:裏門へ』と巨大な地図を描き出す。しかし――描き終えた先から、白いチョークの粉末は黒い粒子へと変わり、空気中へ雲散霧消していった。
文字は消える。伝達のための記号は、この領域では存在を許されない。
奏は悔しさに唇を噛んだ。だが、彼女は諦めなかった。黒板消しでチョークの跡を消し去ると、視線を教室の隅、備品棚に置かれた養生テープへと向けた。
奏は黄色い養生テープを手に取り、廊下へ飛び出した。床にしゃがみ込み、テープをペタリと貼り付ける。そして、その先を斜めに交差させ、床の上に巨大な「矢印(→)」を作り上げた。
数秒。十数秒。
【黙】の領域は、テープの矢印を消去しなかった。
「文字」や「言語」としての意味は打ち消されても、空間に刻まれた「形」と、そこに含まれる直感的な「誘導の意味」は消えずに残ったのだ。
矢印に気づいた生徒たちが、次々とその方向に沿って足を進め始める。
人間は、言葉だけで繋がっているのではない。行動で。姿で。想いが込められた「形」で。言語という文明の道具を削ぎ落とされた時、人間本来が持つ泥臭くも力強い意思伝達の力が、暗闇の校舎の中で確かに結実していた。
*
キャンピングカーを走らせ、明和高校の敷地内へ駆け込んできた訔、響、陸の三人。依然として、訔の肉体にはサイレンス・ジャークの沈黙がまとわりついていた。喉を押さえても、声は出ない。
いつもの戦闘なら、訔が戦況を瞬時に判断し、仲間へ的確な指示を飛ばしていた。そんな当たり前の言葉が、今の訔の口からは一音たりとも発せられない。
自分の無力さに一瞬、胸が押し潰されそうになる訔。
だが、訔は立ち止まらなかった。
彼は陸の正面に立ち、その真っ直ぐな瞳を捉えた。そして、混乱する校庭の避難民を指差し、続けて校門の出口を力強く指し示した。
陸は一瞬だけ、訔の顔を凝視した。
そこに言葉はなかった。声の指示もなかった。しかし、訔の目の中に宿る「頼んだぞ」という絶対の信頼。
陸の口元が、ニッと不敵に吊り上がった。
『……了解』
陸は短く答え、言葉のいらない親指を立ててみせると、迷いなく避難民の誘導へと駆け出していった。
訔もまた、小さく深く頷いた。
傍らでそのやり取りを見つめていた響は、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
言葉がなくても、彼らの絆はビクともしていなかった。
しかし――訔自身の胸の内は、焦燥に苛まれていた。
仲間との意思疎通はできている。だが、肝心のサイレンス・ジャークと対峙した時、自分は変身できるのか。もし変身プロセスが再び途絶すれば、自分は今度こそ命を落とし、この街は永久の沈黙に沈む。
その時だった。
『……あ』
校舎の影から生徒たちを誘導し終えた奏が、走ってきた。
奏の視線が、立ち尽くす訔の姿に留まる。サイレンス・ジャークの恐ろしい波動から、生身で自分を庇って倒れた青年の姿。奏は訔へ近づき、彼の痛々しく傷ついた喉元と、包帯の巻かれた首筋を見つめた。
奏は胸元で小さな手振りを作り、控えめに口を開いた。
『……声……出ないんですか?』
訔は静かに奏を見つめ、隠すことなく一度だけ頷いた。
奏の瞳に、いたたまれなさと申し訳なさが広がる。自分を助けたせいで、彼もまた言葉を奪われてしまったのだと悟ったからだ。
奏は震える声で尋ねた。
『……怖くないんですか?』
戦う術を失い、声も奪われ、いつ死ぬかも分からない恐怖。不器用で、ずっと喋ることが怖かった自分には、彼の背負う恐怖の大きさが痛いほど伝わってきた。
訔は奏の問いに一瞬、視線を落として躊躇した。
そして嘘をつくことなく、正直にもう一度、深く頷いた。
怖い。恐ろしい。変身できる保障もないまま絶望的な敵へ立ち向かうのは、死の淵を覗き込むような恐怖だった。
奏は意外そうな顔で目を見開いた。無敵の英雄のように見えた青年が、自分と同じように恐怖を感じているという事実に驚いたのだ。
訔は奏の視線を真っ直ぐに見返し、自分の胸元を指差した。
そして、握りしめた右の拳を自分の胸へ叩きつける。
最後に、強烈な意志を込めて、サイレンス・ジャークが待つ街の中心――前方角を鋭く指し示した。
言葉のない、彼の宣言。
奏は首を傾げ、訔のジェスチャーが持つ意味を頭の中で一生懸命に噛み砕いた。
『怖いけど……行くんですか?』
訔は迷いなく、力強く頷いてみせた。
そこに一切の躊躇はなかった。怖くても、声が出なくても、守るべきものがあるから前へ進む。それが彼の選んだ道だった。
奏は言葉を失い、それから……ほんの少しだけ、悲しげに、けれど温かく微笑んだ。
『……変なの』
静寂に包まれた校庭で、少女の小さな囁きと笑みだけが、訔の背中を優しく、力強く押し出していた。
突如として、大気が爆発的に波打った。
漆黒の重圧が空を覆い、都市のど真ん中にサイレンス・ジャークが姿を現す。
その佇まいは、数時間前とは一線を画していた。怪人の背後に、重なり合うように展開される数本の巨大な黒いリング状のフィールド。
リングが脈動するたび、周囲の空間へ禍々しい波紋が伝播していく。
それは、単に「音」や「文字」を消去するだけの沈黙ではなかった。
リングの内側に閉じ込められた光景の中で、恐るべき現象が起き始める。
逃げ惑う人々が、すぐ隣を走る家族に向かって必死に手を伸ばす。しかし、伸ばした手は空を切り、互いの視線が交わることはない。声が出ないからではない。文字が書けないからでもない。
そこに「人間が存在し、救いを求めている」という事実そのもの――すなわち周囲からの「認識」すらもが、薄く、淡く、世界から摩耗して消え去ろうとしていたのだ。
視認しているはずなのに、意識に残らない。目の前に人が倒れていても、認識が滑り落ちて通り過ぎてしまう。
追いついた響が、手に持った解析端末の急激なエラー表示を見て青ざめた。
『まずいわ……! 奴の【黙】が“音”や“文字”から……“存在の認識”にまで拡張してる……!』
隣で拳を握りしめていた陸が、眉をひそめて叫ぶ。
『どういうことだよ! 見えてんのに気づかねえってのか!?』
『このまま領域が広がれば、誰かがどれだけ傷つき、助けを求めても、誰にも気づかれなくなる……! 存在そのものが世界から透明化されて孤立するのよ!』
究極の孤立。
他者と繋がる術をすべて削ぎ落とし、誰の記憶にも留まらないまま闇に消えていく。それこそが、サイレンス・ジャークという怪人がもたらす絶望の真の姿だった。
*
サイレンス・ジャークが、滑らかな漆黒の顔面を訔たちへ向けた。
口のない顔面から、膨大な絶望の概念がダイレクトに脳内へ叩きつけられる。
『誰にも届かなければ、傷つくこともない』
訔は傷だらけの身体を押し殺し、強く拳を握りしめた。
『声を捨てろ』
『言葉を捨てろ』
『他人など必要ない』
サイレンスは、地面を一切弾くことなく無音のまま訔へ一歩近づいた。
『貴様も分かったはずだ』
『声を発しても、届かない。どれほど叫んでも、世界は貴様を拒絶する』
『ならば――沈黙こそが救いだ』
訔は、ゆっくりと首を横に振った。
呼吸を整え、胸元にバイトドライバーを装着する。
激痛に耐えながら、ポケットから取り出した【咬】のライドワードをドライバーの装填口へ叩きつけた。
しかし――
《――》
音声出力、ゼロ。
ドライバーの巨大な顎も、固く閉ざされたまま微動だにしない。
遠くで見守る響の顔が歪む。
『やっぱり……! 声帯の振動も、音響波形も存在しない状態じゃ、変身システムが起動しない……!』
訔は溢れ出る汗を拭うこともせず、もう一度、真上からライドワードを押し込んだ。声の出ない口を大きく開け、全身の魂を叫びに変えて告げる。
――『変身』
反応なし。
無情な沈黙だけが、二人の間に横たわっていた。
サイレンスが右手を無造作に振るう。
『無意味だ』
発生した無音の衝撃波が訔の胸を直撃した。
生身の肉体が激しく弾き飛ばされ、アスファルトの地上を何十メートルも転がっていく。
それはもはや「戦闘」と呼べる代物ではなかった。
立ち上がろうとする訔へ、サイレンスの無慈悲な攻撃が容赦なく叩き込まれる。
背中を蹴り飛ばされ、壁へ激突し、血を吐きながら崩れ落ちる訔。その凄惨な光景を、遠くから白石奏が見つめていた。小さな唇を震わせ、胸を締め付けられる思いで手を握りしめている。
響も耐えかねて飛び出そうとしたが、陸が必死にその肩を掴んで制止していた。陸の歯噛みする口元からも、うっすらと血が滲んでいる。
しかし――どんなに骨が悲鳴を上げようと、訔は両手を地面につき、泥と血に塗れながら何度でも立ち上がった。
サイレンスの動きが止まる。怪人は理解不能といった様子で、黒い意思を投げかけた。
『なぜ立つ?』
訔は掠れた視線のまま、自分の胸元へ指を突き立てた。
『何を伝えたい』
訔は唇を動かした。
音はない。空気の震えもない。
――『止める』
サイレンスの漆黒の文字が冷たく浮き上がる。
『聞こえない』
訔は膝の震えを押さえ、一歩、踏み出した。口をさらに大きく開ける。
――『止める』
『聞こえない』
サイレンスが言い放つと同時に、訔は全身の血を沸騰させるかのように、その胸の深淵から湧き上がる衝動をすべて口動きへ乗せた。
――『俺が止める」
音はない。声帯は一音たりとも振動していない。
けれど――
その瞬間、訔の鬼気迫る表情と、一切の迷いを排した瞳の輝きを見た白石奏の胸に、彼の言葉が直接届いた。
響の胸にも
陸の胸にも
研究室で画面を見つめる宗一の胸にも
誰の耳にも音は届いていない。文字としても書き残されていない。
にもかかわらず、その場にいる全員に、彼の「意思」が完璧に、そして寸分の狂いもなく伝わっていた。
同時刻、宗一はデスクに突っ伏すようにして、古文書の羊皮紙にしがみついていた。
先日発見されたあの一文――『言なくとも、意は響く』。
彼は震える手で特殊波長照射器の照射角度をミリ単位で調整し、その前後の擦り切れた欠損部分へ集中的に光を当てた。青白い紫外光のなか、沈黙を守っていた風化塗料が、まるで呼吸を再開するように鮮やかに浮かび上がってくる。
『声は器なり』
『文字は形なり』
『されど言の根は、心の震えに宿る』
宗一は息を飲んだ。メガネの奥の瞳が、歓喜と衝撃に揺れる。
『……そういうことか……! バイトドライバーの本質は、音響変換機などではない……! 人間の精神……『意思の震え』そのものをエネルギーへ変換する触媒だった……!』
宗一はキーボードを叩き、この解読データを現場の響の通信端末へ緊急送信した。
――しかし
【黙】の領域に侵入したデータは、画面に表示された瞬間にノイズとなり、黒い粒子へと分解されていく。
文字としてのデータ伝達は不成立。
だが、響はその消え去るコンマ数秒の間、端末の隅に一瞬だけ躍り出た波形データを確かに関知していた。
そこに刻まれていた解析文字。
【HEART / INTENT / RESONANCE】
響の頭の中で、すべてのパズルのピースが完璧に噛み合った。
『訔……!』
響は叫ぼうとした。しかし、彼女の声もまた、喉から出た瞬間に【黙】のフォントによってかき消される。届かない。どんなに叫んでも、声という媒体では彼に届かない。
響はどうしたか。
彼女は手にした高精度の解析端末を、躊躇なく地面へ投げ捨てた。文明の道具を捨て、彼女は自らの両手を強く胸の前で交差させた。そして、傷だらけで倒れそうになっている訔を真っ直ぐに見つめた。
両手で拳を握りしめ、言葉の代わりに、ゆっくりと、深く頷いてみせる。
『解ってる。あんたの意思は、届いてる』
隣に立つ陸もまた、一切の迷いを捨てた笑顔で、訔に向かって強く親指を立ててみせた。
『いけ、訔!』
奏もまた、自分の胸にそっと手を当て、祈るように訔を見つめた。
『声がなくても、伝わる』
誰も声に出していない。言葉にも書いていない。けれど、訔には彼らの「心の震え」が、皮膚を突き抜けて直接魂へ雪崩れ込んでくるのが分かった。
訔は静かに目を閉じた。
胸の奥底。
――――ドクン
【黙】の領域によって、あらゆる音覚は遮断されている。だが己の命が打つ鼓動の感触、その「事実」までは、如何なる怪人の力であっても消去し得ない。
閉ざされた闇の中で、訔の脳裏に、これまで自分が命を懸けて救ってきた人々の姿が溢れ出した。
絶望の淵から救い出した、加藤
SNSの暴走に囚われていた青年
哀しき運命に抗った、水城兄弟
そして、今自分を信じて背中を押してくれる響、陸、宗一。
蘇るのは、彼らの「音声」ではない。
助かった時に見せた涙。握り締められた手。差し伸べられた行動。言葉を超えた一瞬の表情の記憶。
訔は悟った。
(俺は……)
(声という音を使って戦ってたんじゃない……)
(声に乗せて……『意思』を伝えようとしていたんだ……!)
その瞬間――
訔の手に握られた【咬】のライドワードが、暴風のようなフォント光を放って激しく脈動した。
――――カチッ!
胸元のバイトドライバーの金属顎が、意思の波形に共鳴し、重厚な駆動音を立てて開き放たれる。
サイレンス・ジャークが、初めて明確な動揺を見せて後退った。
『何故だ……声も、音も死滅したこの領域で……何故動く……!?』
訔は目を開いた。そこにはもう、焦りも躊躇もなかった。
【咬】のライドワードをドライバーの装填口へ叩きつける。電子音声は鳴らない。起動アナウンスも存在しない。ただ、ドライバー中央の巨大な金属顎が、獲物を噛み砕かんと咆哮するように全開となった。
訔はサイレンス・ジャークを鋭い眼光で見据え、声のない口をはっきりと動かした。
「変身」
瞬間
――――ドクン!!
訔の胸の中央から、目に見えるほどの鮮やかな紫色のエネルギー波紋が爆発的に広がった。それは音波ではない。彼の生命と意思が紡ぎ出した、絶対の共振波形。
ガァァァン――――!!
完全なる沈黙の世界に、重金属が激突するたった一音の咆哮が轟いた。ドライバーの巨大な顎が、強固に噛み合わさる。
溢れ出す紫色のフォントエネルギーが訔の肉体を包み込み、光が収束すると同時に、そこにはパールホワイトの重厚な装甲と、ヴァイオレットに輝く顎骨のバイザーを戴く戦士が立っていた。
仮面ライダーバイト――無音変身の成功。
通常の変身時に鳴り響くシステム音声すら一切存在しない。静寂のなか、ただ一人の戦士が、揺るぎない意思を纏って地に足をつけた。
サイレンス・ジャークが、信じられないものを見るように唸った。
『馬鹿な……音のない変身など……あり得ん……!』
バイトは静かに構えを取った。
そして、己の胸を人差し指で強く指し、そのまま指先をサイレンス・ジャークへと向けた。
「言葉は、ここにある」
言葉なき一連の動作が、そう告げていた。
サイレンス・ジャークが両手を掲げ、全方位へ【黙】の消音・消去波動を連続放射する。
空間を歪ませる黒い衝撃波がバイトの全身を叩く。
しかし効かない。
現在のバイトは、外部の音響現象を変換しているのではない。己の内奥に存在する「意思の熱量」そのものを直接フォントエネルギーへ変換し、装甲を維持している。外部の音が奪われようと、彼の心が折れない限り、この甲冑は破られないのだ。
バイトは黒い波動を強行突破し、一直線にサイレンスへ肉薄する。
だが、その様子を見守っていた響が、手元の視覚モニターの異常なエネルギー変動に気づいて顔を強張らせた。
(ダメ……完全な代替システムじゃない……! 訔自身の精神力と生命力を直接フォント化して削ってるんだわ……!)
長時間この状態で戦い続ければ、訔の精神そのものが枯渇して崩壊する。短期決戦。一刻の猶予も許されない。
バイトはサイレンスの放つ漆黒の爪の連撃を生身同然の衝撃で受け止めながら、泥臭く踏み込んだ。カウンターの右拳を、サイレンスの胸部へ突き立てる。
サイレンスの体が大きく体勢を崩す。
バイトは間髪入れず、ベルトのホルダーから一つのライドワードを抜き取った。それはかつて仲間との絆によって浄化されたライドワード【信】。
遠くで見守る響が目を見開く。
『【信】のライドワード……!?』
【信】は単独で攻撃力を生み出すワードではない。他者との「信頼」や「共振」が存在して初めて、その真価を発揮する特殊なフォント。バイトは一瞬だけ振り返り、響、陸、奏、そして研究室でモニター越しに見つめる宗一へと視線を送った。
仲間たちが、示し合わせたように一斉に頷く。誰一人として、バイトの勝利を疑う者はいない。
その絶対の信頼を受け取った瞬間、【信】のライドワードが眩いエメラルドブルーの光を放ち始めた。
バイトは【信】を物理的に叩き落とすようにスロットインさせた。
《信じる》
二つのワードが共鳴する。
新たなフォームへチェンジするわけではない。だが、【信】から溢れ出すエメラルドの光波が、バイトの不安定だった無音共振を完璧に補強し、絶対の安定性をもたらす補助回路として駆動し始めた。
サイレンス・ジャークは、バイトから溢れ出す圧倒的な光の圧力に押し戻されながら、狂乱の概念を叩きつけた。
『何故だ……何故言葉もなく、他人の意思が……貴様へ届く……!?』
バイトは、静かに拳を固く握りしめた。声は出ない。けれど、バイザーの奥の瞳を燃やし、はっきりと口動きだけで答えを返した。
「信じてるからだ」
サイレンス・ジャークの肉体が、どす黒い怨念の波動を放ちながら膨れ上がった。
怪人の背後に広がる黒いリング状の領域が、急速に一箇所へと収縮していく。それは、自らの存在能力を極限まで圧縮して生成された、球体状の絶対沈黙領域。
空間から音が消えた。文字としての情報が消えた。
さらには、光の反射そのものすら領域の黒に呑み込まれ、遮断されていく。
視界を埋め尽くすのは、完全な黒。
空間の内部に閉ざされたバイトの姿すら、漆黒の深淵の彼方へと消え去った。
暗闇の中で、バイト――訔は静かに両目を閉じた。
肉眼で敵を捉えるのではない。
耳で敵の音を聞くのでもない。
【信】のライドワードが放つ柔らかなエメラルドブルーの残光を感じながら、訔は領域の深層へ向けて己の感覚を研ぎ澄ませた。
【黙】の領域の奥底。
怪人の怨念の根底にあるもの。
そこに広がっていたのは、圧倒的な「孤独」と、底なしの「恐怖」だった。
――誰かと話せば、傷つく。
――言葉を交わすから、裏切られ、心が壊れる。
それは、サイレンス・ジャーク自身が抱える、歪みきったトラウマの叫びだった。
訔は理解した。
この怪人は、他者の声を奪いたかったのではない。誰よりも言葉の刃に傷つき、言葉の凶暴さに怯えていたからこそ、世界から「言葉」という存在そのものを消し去ろうとしていたのだと。
バイトは、絶対の暗闇の中で静かに身構えた。
右手が胸元のバイトドライバーのレバーへ伸びる。
必殺動作。
レバーを二度、力強く引き抜く。
通常であれば、空間に響き渡るはずの重厚なシステム音声。
しかし今回は何一つ鳴らない。
ただ、ドライバー中央の巨大な金属顎が、無言のまま静かに、そして強固に、
――――ガチン
――――ガチン
と二度の駆動音を噛み合わせた。
訔の胸の奥から湧き上がる純粋な「理解」と「決意」の意思が、濃密な紫色のフォントエネルギーへと変換され、バイトの右脚へと一気に収縮・充填されていく。
バイトは漆黒の闇を切り裂き、天高く跳躍した。空間を切り裂く、一撃必殺の無音セッションエンド。キックは吸い込まれるように、絶対沈黙領域の中心に佇むサイレンス・ジャークの胸部へ直撃した。
その瞬間、漆黒の空間に、巨大な【咬】の文字が紫色の閃光となって強烈に浮かび上がった。
サイレンス・ジャークの頑強な装甲が、全周囲から亀裂を立てて崩壊していく。【黙】の領域が霧散し、街に夕暮れの柔らかな光と、風の音が戻ってきた。崩れ落ちるサイレンスの胸部。
その時、怪人の無機質だった顔面――口が存在しなかった位置に、一本の小さな亀裂が走った。
その亀裂から、漏れ出すように「声」が響いた。
機械音でも、ノイズでもない、震えるような一人の人間の声。
「……怖かった……」
バイトのバイザーの奥で、訔の瞳がハッと大きく見開かれた。
サイレンス・ジャークは、自らの身体が粒子となって崩れ去っていく中で、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「言葉で……また傷つくのが……怖かったんだ……」
バイトは何も言わなかった。
ただ、静かに、優しく、消えゆく怪人の胸元へ向かって右手を差し伸べた。
その手は届かなかったが、差し伸べられた「温もり」の意思は、確かに怪人の最後の瞬間に寄り添っていた。
サイレンス・ジャークの身体が、眩い光の粒子となって砕け散る。
【黙】の原典文字の大部分が分解・消失した。しかし、ライドワードの本体たる「黒い核」は完全には消滅せず、漆黒のノイズとなって地表を滑り、闇の彼方へと逃走していった。
その一方で
空中から一つ、浄化され、新たに再構築されたライドワードが静かに落下してきた。
その色は、透明感のある深遠な濃紺と、美しいシルバーの装飾。
バイトは差し伸ばした手で、その【黙】のライドワードをしっかりと受け止めた。
*
戦いが終わり、研究室へ戻った一同。
響は端末に新しい【黙】のライドワードをセットし、その内部波形を慎重に解析していた。
陸が身乗り出すようにして画面を覗き込む。
「消音能力自体は残ってんのか。またやべえワードを手に入れたんじゃねえだろうな?」
響は画面に躍る波形を見つめ、静かに首を横に振った。
「違うわ。見て……この波形」
画面には、緩やかで美しい調律波形が描かれていた。
「攻撃的な“相手を強引に黙らせる”ための波動じゃないわ……。これは、自分周囲の音を一時的に無音化して……『相手の声だけを静かに聞く』ための能力に変化してる」
作業台の前に立つ宗一が、古書から目を離さずに重々しく言葉を重ねた。
「沈黙とは、本来……何も伝えないことだけを意味するものではない。相手の言葉に真摯に耳を傾けるために……自ら口を閉じることでもあるのだよ」
訔は手の中にある、濃紺の【黙】のライドワードを静かに見つめた。
*
翌日の都立明和高校。
街を覆っていた【黙】の現象は完全に解除され、校舎にはいつもの賑やかな日常が戻っていた。
放課後の放送室。
機材の赤ランプが点灯し、マイクの前に白石奏が座っていた。
奏は深呼吸をし、ゆっくりとマイクへ向かって声を吹き込む。
「今日の昼の放送です……」
少しだけ、間が空く。奏の表情に、迷いはない。
「今日は……無理に喋らなくてもいいと思います」
校内スピーカーを通じて、彼女の静かで穏やかな声が校舎全体へと広がっていく。
「ただ……もし誰かが話したそうにしていたら……ちょっとだけ、耳を傾けて、聞いてあげてください」
校庭のベンチ。
昨日、パニックの中で誰とも話せず、一人で孤立していた男子生徒が座っていた。
そこへ、別の生徒が何も言わずに歩み寄り、隣へ静かに腰掛けた。
余計な言葉は交わさない。
けれど、二人は顔を見合わせて小さく微笑み、一緒にパンを食べ始めた。
言葉を超えた小さなぬくもりが、そこに生まれていた。
同時刻、訔の喉の呪縛も完全に解けていた。
ただし、激しい共振の反動で、その声はまだ少しばかり掠れていた。
響が心配そうに温かいお茶を差し出す。
「声……出る?」
訔はお茶を受け取り、ゆっくりと息を吐いた。
「……ああ」
陸が後ろからパチンと手を叩いて笑う。
「おー! 復活! やっぱ声が出ねえ訔は調子狂うからな!」
訔はお茶を一口飲むと、隣に立つ響の目を真っ直ぐに見つめた。
「音羽」
「……え? 何?」
「……ありがとう」
響は首を傾げた。
「何がよ? 私、昨日何も喋ってないわよ?」
訔は掠れた声で、いたずらっぽく小さく笑ってみせた。
「声は聞こえなかったけど……届いてた。全部伝わったよ」
響の顔が、一瞬で耳まで真っ赤に染まった。
「……な、何よそれ……バカじゃないの!」
響は照れ隠しに勢いよくそっぽを向き、バタバタと自分のデスクへ戻っていった。陸が「あはは! 照れてやんの!」と笑い転げる。
そんな賑やかなやり取りの傍らで、宗一だけが眉間に深いシワを寄せ、デスクの古書を食い入るように見つめていた。
古代の【咬】の使い手――その戦士の末路が記されたページの余白に、新たな文字が浮き上がっていたのだ。
『咬む者、声を越えた時――』
宗一の手が小さく震える。それに続く、不吉な次の文字。
『器は、第二の顎を求める』
宗一は息を呑み、掠れた声で呟いた。
「第二の……顎……?」
立入禁止区域に存在する、政府管轄の極秘研究施設。
真っ白な壁と無機質なガラスで覆われた研究室の中で、数台の巨大モニターが青白い光を放っていた。
モニターに映し出されていたのは、昨日バイトが起こした「無音変身」の詳細なエネルギー測定データと、音無訔の鮮明な顔写真。
それを見つめる、白い白衣を着た一人の青年の後ろ姿があった。
青年のデスクの上には、バイトドライバーとは対照的な、緻密な人工回路が組み込まれた澄んだクリスタル状のデバイスが置かれていた。
そして、その隣にあるライドワードに刻まれた文字。
【正】
青年は画面のデータを指先でスクロールしながら、静かに呟いた。
「声も構文も介さず、不確定な『意思』だけで変身を成立させる……」
青年の声には、一切の感情が含まれていなかった。冷たく、計算し尽くされた刃のような響き。
「不確定すぎる」
青年はモニターの訔の顔を冷ややかに見つめた。
「そんな曖昧なものを“言葉”と呼ぶから……人は誤解し、傷つき、間違えるのだ」
デスクの端には、新世代の変身構造を示す詳細な設計図面が広げられていた。
そこに記されたシステム名――『
青年の顔はまだ画面に映らない。
ただ、彼の手がデスクの上の【正】のライドワードを静かに持ち上げた。
「ならば」
青年の冷徹な言葉が、白い空間に寂しく響き渡った。
「最初から、決して間違えることのない『正しき言葉』を作ればいい」