白一色の無機質な壁とガラスに覆われた空間には、機械の発する微かな冷却音だけが漂っていた。
室内を満たす壁面モニター群には、先日の【黙】の領域における仮面ライダーバイトの戦闘映像が、無音のまま幾度となくループ再生されている。
映像が巻き戻り、スロー再生される。
画面の中の音無訔が、血と泥に塗れながらドライバーを握りしめる。
喉は破れ、音波は一切発生していない。
それにもかかわらず、ドライバーの巨大な金属顎が噛み合い、ヴァイオレットのフォント波紋が全身を包み込んでいく――あの「無音変身」の瞬間。
モニターの傍らに表示された高精度解析ウィンドウの数値が、赤く点滅していた。
=====
【SYSTEM DIAGNOSTICS】
VOICE INPUT:0.0dB
PHONETIC SIGNAL:0%
INTENT RESONANCE:MEASUREMENT ERROR (OVERFLOW)
TRANSFORMATION:SUCCESS
=====
白衣を纏った青年
「音声入力ゼロの状態で、バイトドライバーは変身プロセスを完遂しています」
傍らに控えていた眼鏡の女性研究員が、記録端末を胸に抱えながら報告する。
「完遂じゃない」
律の低く平坦な声が、研究室の空気を氷のように凍りつかせた。
「え……?」
「偶然成功しただけだ」
律は視線すら向けずに言い放ち、静止した映像のバイタルデータを拡大表示した。
「心拍数、毎分180超え。呼吸不全。脳波の過剰共振。フォント波形出力の異常振幅。……すべて規定値を大きく外れている」
画面を指差す律の指先には、寸分の狂いもない正確さと、一切の感情を排した冷徹さがあった。
「こんな暴走の延長線上にあるものを、我々は『システム』とは呼ばない」
不満を隠せないように、別の男性研究員が前に進み出た。
「しかし正木主任、結果として彼はサイレンス・ジャークを撃破し、絶対沈黙領域を消滅させました。現場の被害も最小限に抑えられて――」
律はゆっくりと振り返り、その研究員の言葉を遮った。
「結果が正しければ、過程は間違っていてもいい?」
研究員が言葉を詰まらせ、思わず息を呑む。
律の瞳には、一切の揺らぎも、妥協も存在しなかった。まるで整然と立ち並ぶコードの羅列そのものが、人間の姿を取って立っているかのようだった。
「……そういう考え方が、事故を起こすんだ」
静かな声で紡がれたその一言には、抗いがたい妙な重みが宿っていた。
研究員たちは不気味なほどの威圧感に押され、それ以上口を開くことができなかった。
律はキーボードを叩き、メインモニターの画面を切り替えた。
画面に映し出されたのは、数ヶ月前の機密記録映像。
山奥の古代遺跡の深部。音無訔が初めてバイトドライバーを発見し、そこに刻まれた古代碑文に触れた瞬間のログ。
『古代碑文の解読エラーに伴い、フォントエネルギーの封印が瓦解。大量の未精製ライドワードが全世界へ飛散・流出』
赤く点滅する警告文を見つめながら、律の薄い唇が冷酷に歪んだ。
「音無訔」
モニターに表示された、青年の顔写真。
「たった一度の“読み間違い”で、これだけの被害を生んだ男」
律はゆっくりと自席のデスクへと歩み寄った。
金属製のデスクの中央には、二つの物体が整然と配置されていた。
一つは、人工的に削り出された完璧な結晶体――澄み渡るクリアホワイトに輝く【正】のライドワード。そしてもう一つは、バイトドライバーの持つ有機的な生々しさを完璧に削ぎ落とした、銀白色と漆黒のソリッドな装甲で構成された無機質な変身ベルト。
サイドパネルに刻まれた、洗練されたフォントの銘板。
律は迷いなく手を伸ばし、デスク上の【正】のライドワードを指先で拾い上げた。
一切の歪みも傷もない結晶が、研究室の白い蛍光灯を反射して冷たく輝く。
「言葉に、曖昧な解釈の余地なんて必要ない」
律は持ち上げたライドワードを、目の前のモニターに映る音無訔の顔写真へと重ね合わせた。
「正しい意味を」
ライドワードのクリスタル越しに、訔の姿が歪みなく透過する。
「正しい形式で」
律の瞳の奥で、氷のように冷たい意思の光が宿る。
「正しく伝える」
一拍の静寂。
「……それだけでいい」
律が振り返った背後。
研究室のメインモニター全体に、政府最高幹部会の認可を示す巨大なプロジェクトコードが描かれた。
律の握りしめた【正】のライドワードが、不協和音の一切存在しない、静まり返った完璧な白光を放ち始めていた。
SESSION.12【縛】
窓から差し込む午後の柔らかな光の中、響はデスクに置かれた新たなライドワード――濃紺とシルバーの静謐な輝きを放つ【黙】を、専用の解析デバイスに接続していた。
「やっぱり面白いわね」
液晶画面をのぞき込みながら、響が小さく笑みをこぼす。
プロップの修理作業の手を止めた陸が、不思議そうに頭をかいた。
「何がだよ?」
「サイレンス・ジャークが使っていた時は、“他人を無理やり黙らせる”ための暴力的な能力だった」
響がキーボードを叩き、【黙】の出力をわずかに起動させる。
微かな可聴波形が走り――次の瞬間、研究室内に響いていたサーバーの冷却ファンやエアコンの駆動音だけが、まるで魔法のようにスッと消え去った。
しかし、驚いた陸の声は一切遮られることなく、クリアに空間に響いている。
「うわっ、機械の音が消えた……!? でも俺の声は普通に聞こえんな!」
「そう。浄化された後は違うの。自分から発生する余計な雑音やノイズだけを消去して、相手の音や声をより拾いやすくする」
奥のデスクで古い文献をめくっていた宗一が、メガネの枠を押し上げながら静かに頷いた。
「なるほど……相手の話に耳を傾けるための沈黙、か」
訔は手元に戻ってきた【黙】のライドワードをじっと見つめ、ぽつりと呟いた。
「同じ文字でも、使う心や意味によって形を変える……一つじゃないんだな」
その時――
「だから危険なんだ」
冷ややかな、聞き覚えのない男の声が研究室に滑り込んできた。
全員が一斉に振り返る。
研究室の入口に立っていたのは、寸分の狂いもなく整えられた白衣を纏った若い男だった。一切の感情を削ぎ落とした氷のような瞳が、室内の面々を順番に見分している。
響の表情が、一瞬で固まった。
「……正木?」
陸が怪しむように眉をひそめる。
「知り合いか、音羽?」
「大学時代の……研究仲間よ」
「“元”だ」
律は即座に訂正した。
律は響には目もくれず、真っ直ぐに訔の前へと歩み寄る。
「音無訔だな」
「……そうですが」
律は胸ポケットから銀色のIC身分証を取り出し、訔の眼前に提示した。
【
正木 律
さらに律は、抱えていた黒いレザーファイルの書類を、ドサリと机の上に滑らせた。
「本日付で、この研究室による対ジャーク活動は、すべて我が【音律統制機構】の管理下へ移行する」
「はぁ!?」
陸が思わず大声を上げた。律は一切動じることなく、淡々と要件を口にする。
「バイトドライバー、回収済みライドワード全種。および関連するすべての古代文献これらすべてを、音律統制機構が接収する」
訔が静かな、しかし力強い眼光で律を見つめ返した。
「断ったら?」
「君に拒否権はない」
響が弾かれたように書類をひったくり、目を通す。そこには政府および文部科学省の正式な公印が捺されていた。
律は冷ややかな視線を訔へ向けた。
「そもそも、これが当然の処置だろう」
訔の胸を射抜くような言葉が放たれる。
「言語災害を発生させた当事者が、その災害への対処まで独断で行っている……。これが異常事態だと、自分では思わないのか?」
訔の表情が、劇的に硬直した。
あの遺跡で自分が引き起こしてしまった「誤読」という決定的な罪。その罪の重さを、初対面の男に寸分の狂いもなく真正面から突かれたのだ。
陸が思わず踏み出し、律の胸ぐらに掴みかからん勢いで叫ぶ。
「おい! お前、言い方ってもんが――」
「……事実だ」
訔が静かに陸の腕を制した。
「訔……」
響が心配そうに名を呼ぶが、訔は深く息を吐き、静かに首を振った。
「俺が起こした事故だ。……彼の言う通り、事実だ」
律の薄い唇が、冷たく歪む。
「少なくとも、自分の立場についての自覚はあるらしい」
響が激しい敵意を込めて律を睨みつけた。
「相変わらずね、正木」
「君も相変わらずだな、音羽」
律は微かに眉をひそめ、冷徹に言い放つ。
「“人間の言葉には揺らぎや曖昧さがあるから面白い”……だったか? あの下らない論文の題名を、私はまだ覚えている」
「覚えてたの?」
「間違った理論ほど、反面教師として記憶に残るものだ」
響は心底不快そうに顔を歪め、吐き捨てるように呟いた。
「……ほんっと、昔から大嫌い」
「光栄だな。私にとっても、君の論理的破綻は吐き気を催すレベルだ」
二人の間にバチバチと火花が散る。その殺伐としたやり取りを見て、陸がボソッと呟いた。
「仲悪っ……っていうか、なんか妙に距離近くねえか?」
その時、研究室の緊急警報アザートが甲高い警告音を打ち鳴らした。
メインモニターに真っ赤な文字で【JARK EMERGENCY】の表示が躍る。
宗一が即座にキーボードを叩き、解析画面を立ち上げた。
「新たなライドワードが出現した……! 場所は中央区の地下駐車場!」
画面に浮かび上がる、禍々しい漆黒の原典文字。
【縛】
「……バインド」
宗一が呟くと、律の表情が僅かに動いた。
律は胸元の身分証を整え、冷徹な瞳で訔を見据えた。
「ちょうどいい」
律は背を向け、研究室の出口へと歩き出す。
「音無訔。君のやり方が本当に正しいのか――」
ドアの縁に手をかけ、律が振り返る。
「現場で、私の正義と照らし合わせて確認させてもらう」
*
中央区・大規模オフィス街。
普段ならば無数の人々や車の往来で喧騒に包まれているはずのビジネス街は、奇妙なほど静まり返っていた。
アスファルトの上に、整然とした長蛇の列が形成されている。
スーツ姿の会社員、制服を着た学生、買い物袋を下げた老人――本来ならまったく交わらないはずの様々な人々が、まるで精密に制御されたロボットのように一列に並んで歩いていた。
横断歩道の信号が青に変わった瞬間。
何百人もの足音が寸分のズレもなく重なり、全員が同時に一歩を踏み出す。
やがて信号が赤に変わると、誰一人として視線を交わすこともなく、全員が同時にその場で直立不動の姿勢となって停止する。
駆けつけた訔たちの目に飛び込んできたのは、その狂気的な光景だった。
息を呑む陸が、列をなす人々に駆け寄ろうとして足を止める。
人々の首元やうなじには、皮膚に直接彫り込まれたかのように、漆黒の文字が禍々しく浮かび上がっていた。
【縛】
その時、街頭の巨大ビジョンが一斉にノイズを走らせ、白底に黒のゴシック体で簡潔なテキストを映し出した。
『ルールを守れ』
人々の背筋が、カチリと同時に伸びる。
『列を乱すな』
乱れていた隊列の端が、一瞬でミリ単位の狂いもなく一直線に整列し直される。
『指示に従え』
数百人の人間が、示し合わせたように一斉に深く頭を下げた。
訔が激しい憤りを込めて拳を握りしめる。
「……操られてる」
「違う」
静かな否定の声。隣に立つ律が、視線すら動かさずに冷酷に言い放つ。
「操られているのではない。提示された命令文を『絶対の公理』として脳神経系に直接認識させられている」
響が眉をひそめて律を睨みつけた。
「言葉が違うだけで、結果としては同じことでしょ!?」
「言語の解析としては決定的に違う」
律は胸ポケットから取り出したタブレット端末の画面を高速でフリックしながら、淡々と論理を展開する。
「洗脳や精神操作なら脳の認知領域を破壊する必要があるが、これは
陸が頭を抱えて叫んだ。
「ああもう! めんどくせえ能書き垂れてる場合かよ!?」
オフィス街の広場の中央。
無数の太い黒い鎖が地表を這い、高層ビルの壁面へ向かって複雑に絡み合っていた。
その鎖の集束点に佇んでいたのは、黒い法衣を纏った異形の怪人――バインド・ジャーク。
全身に「規則」「命令」「禁止」を連想させる直線的な重装甲を纏い、顔面の中央、本来なら口が存在する位置には、武骨で巨大な南京錠が鎮座している。怪人が手に握りしめた重厚な鎖の環一つ一つには、細かな法条文のような微小文字がびっしりと刻み込まれていた。
バインド・ジャークが、南京錠の奥から重苦しい金属摩擦音のような声を響かせる。
「止まれ」
走ろうとしていた訔、陸、響の足が、まるでコンクリートで固められたかのようにピタリと地上へ縫い付けられた。
「なっ……!?」
陸が全身に力を込めるが、指先一つ動かない。
響も必死に踏み張ろうとするが、筋肉の収縮そのものが拒絶されている感覚に顔を歪める。
「体が……動かない……!?」
律だけが表情一つ変えず、束縛された状態のまま手元の解析端末の数値を凝視していた。
バインド・ジャークが、冷酷に鎖を打ち鳴らす。
「跪け」
不可視の巨大な重力が頭上から叩きつけられたかのように、訔、陸、響の膝が強制的にアスファルトへ叩きつけられた。
律もまた膝を突く。しかし、彼の冷徹な瞳からは一切の焦りが削ぎ落とされていた。
「……なるほど。発声された命令文をフォントエネルギーに変換し、対象の体圧および神経系へダイレクトにコンパイルしているのか」
「ちょっと正木! 分析してる場合なの!?」
膝をついたまま叫ぶ響に対し、律は事もなげに答えた。
「正確に分析・定義しなければ、どのような事象であれ対処のしようがない。感情論で身体は動かない」
その横で、訔は歯を食いしばりながら、血が滲むほど固く右拳を握りしめていた。
激しい反動に耐えながら、腰のバイトドライバーへ【咬】のライドワードを叩き込む。
「変身ッ!」
《
《
爆発する紫のフォントの波紋。装甲が訔の身体を包み込み、バイトが立ち上がる。変身の衝撃によって一時的に命令の縛りを弾き飛ばしたバイトは、低い姿勢から一直線にバインド・ジャークへと飛びかかった。
だがバインド・ジャークは動じることなく、南京錠の口を開いた。
「殴るな」
バインドの前に肉薄したバイトの右拳が、怪人の鼻先数センチの空間で完全に静止した。
どれほど腕に力を込めようと、拳はそれ以上1ミリも前へ進まない。
「避けるな」
バインドが手に持った太い鎖を無造作に振り抜く。
回避の動作を取ろうとしたバイトの脚が硬直した。
束縛されたバイトの胸部に重厚な鎖が直撃し、火花を散らして盛大に吹き飛ばされる。
「立つな」
受身を取って立ち上がろうとしたバイトの全身に、再び目に見えない鉄の鎖が巻き付き、地面へと強打された。
バインド・ジャークの恐るべき能力。
それは「己が発した言葉を、その空間における絶対のルールとして強制固定する」という、極限の統制能力だった。
地表に叩きつけられ、立ち上がることすら禁じられたバイト。
圧倒的な構文の支配を前に、打つ手がないように思われた。
その時――跪いたままの律が、淡々とした声で呟いた。
「文法構造が単純すぎるな」
響が驚愕して律を見る。
「何……?」
「あの怪人の能力特性だ。発せられる命令は『一文につき、一つの述語動作』しか規定できていない」
律はバインド・ジャークの動きと、空間に展開されるフォント波形を冷静に指し示した。
「奴は、同時に複数の条件や広義の意味を重複して固定することができないんだ」
バインド・ジャークが、再びバイトへ向けて鎖を構え、南京錠を鳴らした。
「動くな」
バイトの全身の筋肉が完全にロックされる。指先一本、首の角度一つすら動かすことができない。
バインドが嘲笑うように鎖を振り上げ、バイトの頭部へ叩き落とそうとしたその瞬間――
律の鋭い一閃のような声が響いた。
「今だ、音無訔!」
バイトは全身の能動的な運動を一切遮断されていた。
しかしバイトの左手が、ベルトのホルダーに収められていたライドワード【流】へ触れる。
言葉による命令ではなく、純粋な意思の力で【流】の属性を解放。
バイトは自らの体を動かそうとはしなかった。
代わりに、自分が倒れている足元のアスファルトへ向けて、爆発的な水流フォントを一気に放出したのだ。
激しい水圧と濁流が地表を駆け抜ける。バイトの身体は、自らの筋肉で動くことなく、激しい水流の勢いによって滑るように地表を滑走した。バインド・ジャークの南京錠が、驚愕に歪む。
「……!?」
滑走するバイトの背後で、律が冷酷に解説を言い放つ。
「『動くな』という命令は、対象本人の能動的な運動のみを禁止している。水流などの外力によって物理的に『移動させられる』ことまでは定義されていない!」
定義の穴を突いた完璧な回避と接近。
水流に乗ってバインド・ジャークの足元へ滑り込んだバイトは、そのままの勢いで右足のフォントエネルギーを解放し、下段からのすくい蹴りを怪人の顎元へ叩き込んだ。
巨大な南京錠が砕け散らんばかりの衝撃音とともに、バインド・ジャークの巨体が空中へ高く吹き飛ばされた。
遠くで見守っていた陸が、目を見開いて叫ぶ。
「す、スゲえ……!! 一瞬で敵の言葉の穴を見抜きやがった……!」
響もまた、不快感を露わにしつつも、律の恐ろしいまでの観察眼と論理的思考の速さに息を呑んでいた。
律は膝についた砂を静かに払いながら立ち上がり、吹き飛ぶ怪人を冷ややかな瞳で見下ろした。
「正しい言葉を使わないから、容易く破綻する。……言葉の限界とは、そういうものだ」
すくい蹴りによって大きく吹き飛ばされたバインド・ジャークは、受け身も取らずに高層ビルの壁面へと激突した。重厚な法衣の装甲から黒い煙と激しい火花が吹き出す。
しかし、怪人はダメージに歪むはずの口元の巨大な南京錠を重々しく開くと、低く不気味な笑い声を漏らした。
「……見事だ」
南京錠の奥に灯る赤黒い眼光が、バイトではなく、その後方に佇む律へと向けられる。
「やはり……お前は私と同類だな、人間」
律の眉が、微かに跳ね上がった。
「何……?」
「曖昧さを不快に思い、意味を明確に定め、不完全な群れを正しき規則の元へと従わせる……」
バインド・ジャークが鎖をジャラリと打ち鳴らし、一歩前へ踏み出す。
「お前が求めている秩序と、私の描く統制……何が違うというのだ?」
律の完璧だった無表情が、初めて僅かな不快感によって揺らいだ。その瞳に鋭い冷気が宿る。
「……黙れ」
バインド・ジャークは取り合わず、せせら笑うように南京錠をカタカタと揺らした。
「なぜ否定する? 言葉の揺らぎを正し、間違った者を正しい道へ戻す……それこそが、お前の心底望む世界だろう?」
「……私は人間を操ろうなどとしていない」
律の低く押し殺した声。バインド・ジャークはその隙を逃さず、冷酷に問いを突きつけた。
「操ることと、正しい構文で行動を制限することの一体どこに違いがある?」
律の唇が固く結ばれた。
寸分の狂いもない論理を武器としてきた男が、怪人からの投げかけに対して一瞬、明確な解答を返せない。
次の瞬間――バインド・ジャークの南京錠が凶暴に開いた。
「ならば、この不確定要素から排除する!」
バインドの手から放たれた数本の太い黒い鎖が、思考を巡らせていた律の胸元へ向けて、音を立てて一直線に突き刺さろうと飛来した!
ガキィィィン!!
激しい金属音が響き渡り、火花が夜の闇を切り裂いた。
直前で飛び込んできたバイトが、自らの腕を盾にして律の前へと割り込み、鎖の直撃を食い止めていた。
「音無……!」
律が目を見開く。
しかし、バイトの腕に巻き付いた鎖は、まるで生き物のように蠢きながら、胸部のメイン装甲へと一気に這い上がっていった。鎖が灼熱の鉄のように赤く発光し、バイトの装甲へ禍々しい文字を深く焼き刻んでいく。
【縛】
バインド・ジャークが重々しく宣告した。
「罪人」
ガチリ、と脳内で何かが噛み合わさる重厚な衝撃音。
瞬間。訔の脳裏に、津波のような記憶の濁流が雪崩れ込んできた。
あの薄暗い古代遺跡。
自分のたった一度の「誤読」によって解き放たれた、無数のライドワード。
世界中へ飛び散る悪意。
ジャーク化し、苦しむ人々。
崩壊する街、人々の悲鳴、絶望の叫び――。
あの日から今日に至るまで、訔の心の奥底で片時も離れず、激しく渦巻き続けていた決定的なトラウマと罪悪感。
バインド・ジャークの南京錠から、呪いのような言葉が紡がれる。
「お前は罪人だ」
バイトの全身から、力が急速に抜け落ちていく。
【咬】のバイザーの光が明滅し、構えていた拳が重力に負けてダラリと下がる。
「お前が全てを壊した。お前がこの惨劇の起点だ」
「……あ……ぐ……」
バイザーの奥で、訔は荒い息を吐きながら絶望の深淵へと引きずり込まれていく。
「だから――お前には、死ぬまで傷つき、自分を犠牲にして戦い続ける義務がある」
それは、訔自身がずっと自分自身に言い聞かせてきた「自己犠牲」の免罪符だった。
バインド・ジャークの能力は、訔のその脆弱な精神の隙間を突き、彼の罪悪感を「抗えない事実の
胸部に深く刻まれた【縛】の文字が、漆黒のフォント波形となってバイトの全身の機能を汚染していく。
限界を迎えたドライバーが強制停止の警告音を鳴らし、バイトの装甲が粒子となって崩壊した。
変身を解除された訔は、力なく膝から崩れ落ち、冷たいアスファルトの上へ突伏した。
胸を押さえ、荒い息を吐きながら地面を見つめる訔。
その眼光からは光が消え、深い絶望の色だけが宿っていた。
その横に、静かに歩み寄る靴音。
律は突伏する訔を冷たく見下ろし、言い放った。
「立て、音無訔」
「……っ……俺は……」
訔の声は途切れ、言葉にならない。
律は手元の解析端末から目を離さず、淡々とした、しかし寸分の狂いもない正確なトーンで言葉を重ねた。
「君が自分を罪人だと思うなら、それは好きにすればいい」
律の言葉に、後方の響と陸が「正木!?」と息を呑む。だが律は構わず続けた。
「だが――『自分は罪人だから、死ぬまで自分を犠牲にして戦わなければならない』という結論は、論理的に全く繋がっていない」
訔の体が、微かに震えた。ゆっくりと顔を上げ、泥に汚れた目で律を見上げる。
律は無感情な瞳で訔を見返した。
「事実と、君自身の勝手な感情的解釈を混同するな」
律の指先が、訔の胸元を正確に指し示す。
「『過去に事故を起こした』。これは動かしようのない客観的事実だ。だが『だから自分を犠牲にする』。……これは、君が勝手に繋ぎ合わせた無意味な別の文章に過ぎない」
「正木……」
「身勝手な論理飛躍で勝手に意味を繋げるな。……文法的に間違っている」
冷酷で、一切の情を挟まない正木律の言葉。
しかし――その「徹底的に正確で、感情を交えない言葉」こそが、怪人の定めた【縛】の定義に囚われていた訔の思考の呪縛を、見事に打ち砕いてみせたのだった。
訔の瞳に、再び強い光が宿る。
過去の罪を消すことはできない。だが、だからといって自分を呪い、犠牲にする理由にはならない。
訔はゆっくりと立ち上がり、右手のホルダーから一つのライドワードを引き抜いた。
スパーダワード――【切】。
「……そうだな。俺は……勝手に決めつけてただけだ」
訔は腰のバイトドライバーへ【切】のライドワードを装填した。
《切る》
《
《
爆発する閃光。スパーダワードへと再変身を果たす。右腕に形成された、鋭利な刃の形状をなすフォントブレード。バイトは迷いなく、己の胸部に刻まれた【縛】の鎖へ向けて、その刃を力強く振り下ろした。
胸部を覆っていた禍々しい漆黒の【縛】の文字が、閃光とともに一刀両断され、粉々に砕け散った。
バインド・ジャークの南京錠が驚愕に跳ね上がる。
「な……!? 絶対の定義から逃れるというのか!?」
バイトは拳を構え、力強い一歩を踏み出した。
「定義から逃れるんじゃない!」
バイザーの奥で、訔の鋭い瞳が燃え上がる。
「他人に……身勝手に決めつけられた意味を――」
右腕のブレードに、爆発的な銀のフォントエネルギーが充填されていく。
「切るだけだ!!」
バイトは地を蹴り、残像を残すほどの超高速でバインド・ジャークへと肉薄した。鋭利な【切】の一閃が空間を切り裂く。バインド・ジャークが展開する防御の鎖が、次々と紙切れのように切断され、舞い散っていく。
「ぐあああっ!?」
激しい剣撃のラッシュが怪人の重装甲を打ち砕く。追い詰められたバインド・ジャークはビルの壁面へ追い詰められ、完全に体勢を崩した。あと一撃。バイトがフォントブレードを引き絞り、怪人の胸元へ突き立てようとしたその瞬間――
バインド・ジャークの南京錠が狂気的に歪み、手に持っていた残りの黒い鎖を一斉に地面へと突き刺した。
地表を走る漆黒のノイズ波紋。
それは、先ほどまで「命令」によって整列させられていた、周囲の無数の一般人たちの足元へと瞬く間に接続された。
バイトの剣先が、怪人の喉元数センチでピタリと止まる。
バインド・ジャークが嗤った。
「攻撃してみろ……。私の装甲に伝わる衝撃は、この鎖を通じて、全てあの人間たちの肉体へそのまま流れるぞ……!」
バイトが息を呑み、周囲を見渡す。
人々の首元に巻き付いた鎖が赤く発光し、怪人と生命線が完全に同調させられている。
ここで怪人にトドメを刺せば、連動して数十人もの無辜の市民が致命傷を負う。
「くっ……!」
バイトの手から力が抜け、剣先が下がってしまう。
「攻撃できない……」
バインド・ジャークは高らかに笑った。
「これは命令ではない。お前たちの不完全な道徳が生み出す、抗えない『事実』だ!」
人質を取られ、完全に動きを封じられたバイト。
その甘い躊躇いの一部始終を、後方から見ていた律が、心底冷ややかな声で吐き捨てた。
「……どこまでも、甘い」
人質を取られ、完璧に動きを封じられたバイト。
その前で高らかに嘲笑うバインド・ジャークを他所に、律は静かな足取りで、鎖に繋がれた一般人たちの群れへ視線を巡らせていた。
怪人の手元から伸びる黒い鎖。
それは単に人々の肉体を拘束しているだけではなかった。
鎖の接続点――人々の胸元や額に、漆黒のフォントとなって浮かび上がる無数の「文字」。
【会社員】
【母親】
【優等生】
社会的な役割を示す言葉。それらに混ざり、人々の抑圧された自卑や悪意を反映するかのように、さらに禍々しい文字が滲み出していく。
【役立たず】
【失敗作】
【迷惑】
人間に対して一方的に貼り付けられた、身勝手な社会のレッテル。
律の鋭い瞳が、その文字の集合体と鎖のフォント波形を完璧にトレースする。
「音無」
律の淡々とした声。
踏みとどまっていたバイトが、バイザー越しにハッと振り返る。
「鎖そのものを切ろうとするな。……『文字』を切れ」
「文字……?」
「あの鎖は、怪人が一方的に貼り付けた『
律は指先で人々を指し示し、冷酷に、しかし完璧な解法を提示した。
「鎖という物理的エネルギーを破砕すれば衝撃が流れるが、奴が固定している“定義”だけを切り離せば、同化反応は即座に瓦解する」
バイトのバイザーの奥で、訔の瞳が大きく見開かれた。
直感的な解釈。
スパーダワード。それは物理的なものを切り裂く刃ではない。悪意によって固定された「意味」と「連鎖」を断ち切るための文字でもある。
「わかった……!」
バイトは右腕のフォントブレードからバイトクランチに武装を持ち替え、深く腰を落とした。バイトクランチのエネルギーが、鋭利な一閃となって刃に収縮していく。
バイトは地を滑るように駆け抜けた。ターゲットは人々の肉体でも、怪人の鎖でもない。空中に浮遊する、禍々しいレッテルの文字そのもの。
【役立たず】の文字が一刀両断され、光の粒子となって砕け散る。瞬時にその人物から黒い鎖が外れ、本来の意識を取り戻してその場にへたり込んだ。
「何……!?」
バインド・ジャークが激昂の声を上げる。
バイトの刃は止まらない。残像を描くほどの連続斬撃。
【失敗作】が砕ける
【迷惑】が粉々に霧散する
固定されていた意味を切り離された鎖が、バキバキと音を立てて次々と自壊し、人々が自由を取り戻していく。
バインド・ジャークは動揺を隠せないまま、巨大な南京錠を狂おしく打ち鳴らした。
「馬鹿な……! 人間などという曖昧な存在は、他者から定義されなければ己の立ち位置すら確立できないのだぞ! 定義されることこそが救いなのだ!」
最後の一人の定義を切り離し、人質を完璧に解放したバイトが、ゆっくりと振り返る。
「定義は必要だ」
バイトの静かな言葉に、バインド・ジャークの動きがピタリと止まる。
バイトはチラリと、後方で冷ややかに佇む正木律へ視線を向けた。
「でも――その意味は、たった一つじゃない」
律の整った表情が、僅かに動いた。
「人間は……一文字だけで決められるほど、単純な存在じゃない!」
バイトがバイトクランチのレバーを力強くスライドさせる。
《切る》《切る》《切りまくる》
《
《
バイトクランチのブレードから放たれたのは、シルバーのフォント光沢を纏った、巨大な三日月型の概念斬撃。閃光が夜のオフィス街を真昼のように照らし出し、バインド・ジャークの巨体を一直線に一刀両断した。
激しい爆風とフォント波形が吹き荒れる。
しかし――怪人は完全に撃破されてはいなかった。
爆煙の奥で、原典文字【縛】が漆黒のフォントの渦を形成し、傷ついたバインド・ジャークの体を覆い隠していく。怪人は胸の南京錠を軋ませながら、次元の歪みの中へと後退していった。
去り際、バインド・ジャークの冷酷な眼光が律へと注がれる。
「お前は……いずれ理解するはずだ……」
怪人の怨念のこもった声が、夜の静寂に溶けていく。
「お前が求めている……完璧な構文の世界こそが……私の世界なのだと……!」
黒いノイズとともに、バインド・ジャークは漆黒の闇の彼方へと完全撤退した。
バイトの装甲が紫の粒子となって霧散し、変身を解除した訔が荒い息を吐きながらその場に立ち尽くした。
律は一度も眉を動かすことなく、歩み寄ってくる。
「非効率な戦い方だ」
律の第一声。
「『文字を切れ』という指示を理解し実行するまでに、3.2秒のタイムラグがあった。論理的思考の速度が遅すぎる」
訔は苦笑いを浮かべ、呼吸を整えながら律を見つめた。
「助けられた。……ありがとう」
「礼を言われる筋合いはない。私は敵の構造的欠陥を言語化して説明しただけだ」
「それでもだ。あんたの言葉がなかったら、俺はあの怪人の言葉に潰されてた」
律は無表情のまま、返答を拒絶するように視線を逸らした。
訔はまっすぐに右手を差し出す。
「正木律。……改めて、よろしく」
律はその差し出された手を、まるで未知の汚染物質でも見るかのような冷徹な目で見つめた。
握り返す気配は微塵もない。
「……勘違いするな」
律の低く平坦な声。
「私は、君たちに協力するためにここへ来たのではない」
律の視線が、訔の腰に装着されたバイトドライバーへと落ちる。
「むしろ、今日の戦闘を見て確信した」
「何をだ?」
「そのシステムは、あまりにも危険すぎる」
律は訔の手元にある【切】のライドワードを指差した。
「使う人間の主観や解釈、感情の揺らぎによって、能力の出力も『意味』も容易に変化してしまう。……兵器としても、災害対策システムとしても致命的な欠陥品だ」
訔は差し出した手をゆっくりと下ろし、静かに呟いた。
「……言葉、だからな」
「だから問題なのだと言っている」
二人の視線が、夜風の中で静かに、そして激しく激突した。
歩み寄ることのない、決定的な理念の断層。
*
帝都大学・言語考古学研究室。
分析作業を終え、荷物をまとめて研究室を出ようとする律の背中に、残っていた響が声をかけた。
「……昔より、拍車がかかって酷くなったわね」
律は足を止め、振り返ることなく答える。
「君は相変わらずだな、音羽」
「……それ、褒めてるの?」
「まさか」
淡々と返す律。その時、響の目が律が手に提げている黒いアタッシュケースの、わずかに開いた隙間に留まった。
ケースの奥から覗く、金属質の輝き。
完璧に計算されたソリッドな銀白色の曲面ライン。
「……それ、何?」
律の動きがピタリと止まった。
響が眉をひそめ、一歩踏み出す。
「ベルト……? 正木、あなた……何をしようとしてるの?」
律は無言のまま、ケースのファスナーを冷酷な手つきで完璧に閉め切った。
「君には関係のないことだ」
それだけを残し、律は一度も振り返ることなく、暗い廊下の奥へと去っていった。
響はその固い背中を、拭いきれない不安と不審感を込めて見送るしかなかった。
深夜。政府直属特殊研究施設――第04実験棟。
照明が落とされ、青白いモニターの光だけが浮かび上がる無機質な空間。
白衣を脱ぎ捨てた正木律が、一人静かに佇んでいた。
律はデスクから銀白色の装置を取り出し、自らの腰へと静かに装着した。
カチリ。
静寂に響く、冷たい金属の噛み合い音。
《シンタックスドライバー》
そして、右手にはクリアホワイトに澄み渡る、人工ライドワード。
【正】
律の目の前のメインモニターに、システムとの同期率を示す緑色のテキストが高速で流れていく。
=====
【SYSTEM SYNCHRONIZATION】
USER:RITSU MASAKI
DEVICE:SYNTAX DRIVER
PROTOCOL:[CORRECT]
SYNCHRONIZATION RATE:99.98%
=====
律は【正】の結晶を眼前へ持ち上げ、冷徹な瞳で自らの映り込みを見つめた。
「バイトのような……曖昧で不確定な要素など、世界にはいらない」
《
律は躊躇なく、【正】のプロトコルワードをシンタックスドライバーのスロットへと押し込んだ。
《
バイトドライバーとは違う無機質な、しかし一切のノイズを含まない完璧な機械音声が響き渡る。
スロットから溢れ出すのは、過剰な感情や揺らぎを一切排除した、美しくも冷酷な純白の光。
その光が、正木律の身体を完璧な構文として包み込み始めていく。
*
崩落した廃ビルの屋上で、漆黒のフォントを纏う二つの影が佇んでいた。
ライオットと、ファルス。
その中央に、傷ついた原典の文字【縛】を蠢かせながら、バインド・ジャークが撤退してきた。
ファルスが妖しい笑みを浮かべ、闇の中で目を細める。
「ふふ……面白そうな子が首を突っ込んできたわね」
バインド・ジャークの南京錠が、忌々しげに軋んだ。
「あの男……正木律は、いずれ必ず私と同じ境地へと至る……。奴の求める構文の世界は、我が領域と何ら変わりはない……」
しかし――重厚な装甲を誇るライオットが、低く鼻で笑った。
「いや」
ライオットの凶暴な眼光が、夜空を見上げる。
「奴は……ジャークにはならん」
ファルスが首を傾げた。
「どうしてですか? あの冷徹さ、ジャークの原典に極めて近いのではないですか?」
ライオットは獰猛な笑みを深く刻み込んだ。
「奴は――自分が絶対に正しいと、本気で信じ込んでいる」